それでも、私は幸せです~二番目にすらなれない妖精姫の結婚~

柵空いとま

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  その優しい言葉が引き金となった。
 温かい鼓動が一度だけ響いた。だけど、胸の奥から広がる黒い泥が次第にそれを覆い隠す。

『シエラの魔力って、すごく暖かくて心地いいんだな』

 遠い昔の、あの方の言葉が蘇り、耳の中に響く。
 記憶に、心にある爪痕から血が再び滲む気配を感じる。
 それに呑み込まれないために、唇と左手に力を入れて、鋭い痛みに耐える。

(いけないよ、シエラ・アルブル。今はそんなことに溺れてはいけないわ)

「……旦那様、よろしければこの栞を貰ってくれませんか?」

 投げやりになった自覚がある。
 苦しくなった胸を誤魔化し、逃げるために提案した。申し訳なさと同時に、一種の、諦めに似たような気持ちが漂う。
 どうせいらないと答えるだろう、と。

「俺が?」
「はい」
「……いいのか?」
「えっ」

 思いがけない返事に、つい声が出た。
 運良く、どうやら彼の耳には届かなかったみたい。気を取り直すために、こほんと軽く咳払いをする。

「はい、もちろんです」

 私が差し出した栞を手に取ると、彼は僅かに首をかしげる。

「この花は……」
「ガーベラです。綺麗ですね」
「……ああ」

 彼が目を細め、僅かに笑みを浮かべた。

 彼の反応に、急に恥ずかしくなった。むず痒くて、居たたまれない。
 逃げるために、体の向きを正そうとしたその時。

「感謝する」

 先ほどの柔らかい雰囲気が嘘かのように散った。
 その感謝の言葉は立派な騎士の礼と共に紡がれたから。

 それを見て、胸に刺さったままの針が疼く。
 ありがとう。
 そのおかげで、我に返ったよ。

「……気に入ってくれたら、何よりです」

 精一杯の笑顔を作った。
 それに対して、彼はもう一度礼をした。

 その礼は私たちの距離間と関係性をそのまま表した。
 彼はどこかで、私を「妻」としてではなく「仕える」相手として扱っている。

 今みたいに手が届くぐらいの距離を保つ。私から話しかけることがあっても、彼からは必要以上の言葉を発さない。
 私を見つめる視線には熱など漂わず、あるのは凪いだ瞳だけだった。

(名前だって)

 以前、一度だけ彼に「シエラ嬢」と呼ばれた。
 仮にだとしても、私たちは夫婦だ。その呼び方は相応しくないと思い、勇気を出して提案した。
 
 その提案に、彼は頷いてくれた。だけど、同時に、彼の口から一度も私の名前が紡がれたことはなかった。

 たかが名前、されど名前。

 大袈裟だと分かっていても、一度芽生えた気持ちはそう簡単に消えてくれない。今でも静かに胸の底に潜んでいる。
 そこからじわじわと顔を覗かせる感情と視線が合わせないように意識を本に戻した。

 彼も、私も。誰も口を閉じたまま、時間だけが過ぎ去る。

 結局、あの日読んだ本の内容が一欠けらも頭に入らなかった。

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