黒い空

希京

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命日

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考志をあの手この手で寝かしつけて、百音が報告に来る。
「今日は疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
脇息にもたれながら静がねぎらいの言葉をかけた。

「は、ではお先に失礼いたします」
深く頭を下げて、そっと下がっていく。

「殿さまのお渡り、遅いですね」
外の気配に気を配りながら律がそわそわしていた。

「お忙しいんでしょう。もう少し待ってみて来なかったら先に休ませてもらおう」

「様子を見て参りましょうか」
もしほかの女と密会しているかもと律は思っているらしい。
「あまり邪推しないで、お酒でも飲まない?」

静が指差す先には出産祝いでもらった酒が棚に並んでいる。

苦笑いしながら律は小皿を取り出した。

政所ではアルノが数人の使用人と書類整理に追われていた。
朝廷、特に陰陽寮に忍ばせている密偵からの報告に気になるものがあり、意見交換していた。

兄に相談したいが、今夜は旧本宅に籠もっている。

その時衣ずれの音が近づいてきた。

「よろしいでしょうか」

灰色の侍女がひとり、柱の影に控えて声をかけてくる。

「どうした?」

「門に来客が。私達で応答してよろしいでしょうか」

「こんな夜中に非常識な奴だな。誰だ?」

「陰陽寮の官吏と名乗る者。通していいのか私どもでは判断できかねます」
いつもは兄が別宅に近い入口から招いている。

「正門から来たのか?」

侍女がうなづく。

「俺が行く。いい時に来たかもな。直接聞いてみよう」
手にしていた書類を持ち上げて使用人たちに同意を求める。

アルノは剣を持ち、侍女が持つ明かりを頼りに暗い簀子を歩いていった。
車宿に侍女を待たせて、剣の鞘を力強く握りしめて、外をうかがうように門を開いた。

「今日が何の日か知ってるだろう、晴明」

少しずつ開く門の向こうに、白い直衣姿が見えてくる。

「あなたは何も感じませんか」
単刀直入に切り込んでくる言葉の意味がわからない。

「兄の気持ちならわかってるつもりだよ?」

「その感情がいつもより強く感じる。それが異形のものたちを活発にさせている」
よく見ると足元が黒い霧のようなものがうごめいていた。

「止める自信があるならついて来い」
アルノが踵を返して灰色の侍女をすり抜けて走る。

旧本宅はいつものように静まり返っていた。
妻戸を開ける前に、追いついた晴明に問いかける。

「お前の上司たちがこの家を攻撃する策を練っているらしいな」

「毎回言っているだけで本気でやる気のある奴なんかいませんよ。会議なんて儀式と同じ」
「兄を殺しにきたのか、それとも助けにきたのか、どっちだ」
「少なくともあなたの野心の手助けをするつもりでこんな寒い夜にわざわざ来ません」

アルノは一瞬苦笑いをしたが、すぐに厳しい顔に戻り、少しだけ妻戸を開けて中を覗く。

小さい光の玉のわずかな明かり、いつもの黒い狩衣姿で長椅子に座るクルトが酒を飲んでいる姿が見えた。
アルノと晴明が目を合わせて、首をかしげる。

「…あなたは生まれ変わってくれなかったね」

広くて無人の部屋で、アルノは見えない誰かに話しかけている。
だいぶ酔っているのか、座っているのにふらふらして椅子から落ちそうだった。

「待つのは疲れた」

誰を、それを不思議に思うほどふたりは鈍感ではない。

「俺が血を吸えばもっと生きていられたのに。何の思想か信念かわからないが俺よりそっちを選んだね」

わずかな明かりに、鋭い視線を対にある椅子に向けている。

『姉さんがいるのか?』
アルノの問いに晴明は首をふって否定する。
『ひとり言にしては迫力ありすぎないか』

「次は女の子が生まれるかな…。でももう、待つのは疲れた」

足元の黒い霧はどんどん増えて、獣の顔に見えるものもいた。

「あなたが裏切ったから悪いんだ!!」

ガシャン!と音をたてて酒瓶を足元に叩きつけた。

怒りが美しい顔をさらに綺麗に見せる。だが今はそんな呑気なことを考えている時ではない。

「クルト!」

全ての力を自分に向けた時、アルノと晴明が突入した。
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