鳥籠の詩姫

橘 嬌

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鳥籠の詩姫

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 もし今の空の天候を例えるのなら、雨上がりの曇り空。そして今日は夜明けが二度訪れたのではないかと僕に錯覚させるほどの美しい空模様だった。僕は今、とある稀有な女性作家に会う為に心躍らせながら彼女の自宅を目指し、海岸線に並ぶ国道に沿って車を走らせていた。

 雨上がりの清々しい深い紺色の空。灰色とコバルトブルーのコントラストの空模様に加え、頭が冴えわたるような冷たい風が強く吹いていた。それは美しく、まるで夜明けの東雲のようにも類似して爽やかで、流れゆく灰色と黒雲の混じり合った雲の隙間から、まるで世界の夜明けを想像させるような細い光のカーテンがあふれているような美しい午後だった。

 まだ昼すぎだというのに今日の天候は芸術的な風景のように思えた。国道を車で走りながら気分に煽られ少しアクセルを踏み込むと、心地よく窓を開けて車を飛ばしている為、頬にさらに冷たい風を強く受けた。緩やかなカーブを大きく曲がったところで嫌でも瞳に映り込んでくる穏やかな海が視界に映る。太陽の光に煌めくような海の波が光の反射でダイヤモンドの輝きの粒のようにゆらゆら煌めいていた。深い暗雲立ち込めるような空だが、今にも二度目の朝日が輝こうとしているのではないかとさえ錯覚させる煌めき立つ太陽の光と潮風を受け、奇跡的に誰もいない海岸沿いのアスファルトと海を背景に、車を鋭く走らせながら、僕は一人の女性作家に想いを巡らせていた。

 作家の名前は……せつ蒼井あおい せつ

 とある出版社に努める僕は彼女の小説に触れたとき、彼女は十年に一人の逸材ともいえる幻想的な小説家ではないかと錯覚した。

 ……全身の感覚が冴えわたり、つき刺さるような、この寒空の空気感が今だけはありがたかった。幻想的な彼女との出会いを今日迎えることが出来る、そんな熱い感動にも似た高揚感を抑え、頭を冷やし感慨浸る時にこの冷たい風は最適だ……。

 投稿型のコンテストに応募されてきた彼女の作品を読んだ時、僕はせつの書く世界に釘付けになった。実際彼女の作品はコンテストから除外されたのだが、僕はその時から彼女の作品に惹かれていた。なぜなら落ちたのは彼女の作品が至らないわけではなく、彼女の描く小説は芸術的で、今の世には、むしろ早すぎたものだと言えると僕は感じたからだ。

 出版業界で生きている僕の仕事は難義だ。売れる作家、小説家としての才能のある作家を発掘し、探し出す事。勿論おいそれとそれを見極める事というのは簡単な事ではなかった。

 だが僕の中にはひとつの疑問があった。はたして売れる作家と才能ある作家とは同一線上にあるものなのか? という事だ。そもそも僕は才能あふれる作家だから売れる、という二つの意味を指すこの定義に対して疑問をもっていた。

 僕は売れる作家とは、時に時代背景や流行、時の流れの中で変わる価値観や人間のモノの感じ方や世界という大きな脈動感の渦の中で大きく揺れ、常に移り変わる可能性があると考えていた。では才能あふれる作家とは何か。要はそれらに左右されない普遍的なテーマや人の心を惹きつけるカリスマを作品の中で発揮できる作家の事なのだろう。勿論両方の才を持っているなら言う事はないだろう。

    だが出版社に努めながら口が裂けても上司には言えない、あるまじき思考であるが、僕にとって売れる作家、という視点での作家探しについてはあまり拘りがなく、興味がわかないものであった。

 それよりも僕の目に映った、本当に美しい作品を描く作家が僕の手で世界に輝き羽ばたいてくれるのならばそれでいい、僕の目で、彼らの素晴らしい才能を見染め、この混沌として行き先を見失っているような今の世の中に、目を覚まさせるべく、それを突き付けてやるのだ。その崇高な僕だけの美学とも創作欲ともよべる哲学的な欲望、そんなエゴ的な我儘とも呼べる出版意欲。それが僕のこの仕事に就いた理由であった。

 彼女の作品を読んでから、僕はずっと彼女の書く世界感に惹かれていた。才能ある小説家を探せというのなら彼女の事だ。出来る事ならば僕の手でずっと彼女の小説を世に出してやりたいと思っていた。

だが今思い返せば、僕は彼女の描く作品に、いや、作品を通して彼女自身に既に恋心にも似た想いすら、あの人に見透かされていたのかもしれない。

 才能ある作家を探し、期待の新人作家をデビューさせるようにと、会社に後押しされながらもノルマを課せられていた出版社の新米社員の人間であった僕は、流行にのるような売れる作家よりも、彼女の小説を本にして、この右も左にも迷走している混沌とした世界に彼女の作品を羽ばたかせてみようと思っていた。

 そしてそんな稀有な小説を描く彼女に、遂に今日、この日に出会えるという事実に魂が震え、奇跡的にも何故今まで、切にもっと早くに巡り会えなかったのだろう、という歯がゆさと軽い後悔にも似た感情を抑え、自分自身が熱く感傷に浸る時、まるで頭を冷やす事が目的であるかのように愛車を駆りたてて、冷たい風を受けながら興奮に高揚した心を静め彼女の家を目指していた。

 流行る気持ちを前に国道が長い直線に入ると、空の様子はさらに輝きを増した。深い紺色の雲から差し込んでくる光のカーテンのようなまばゆい光が、まるでオーロラのように輝き、幅を広げ始めてきたようだ。太陽の光と紺色の雲と海に挟まれたこの世界。青い輝きと光の絵の具を絶妙に混ぜたような雲から差す光に煌めきたった静かな海の波が、美しい絶妙な世界感を生み出した。なんともいえない、冴えわたるような清々しい美しい世界。こんな感覚に浸った時間、僕の世界は独特の感覚に酔いしれ頭が冴えわたり、この肌で感じる世界の妄想に、この詩的な世界に溺れてしまうほどの錯覚に陥ってしまうものだ。

 海岸沿いの国道で車を走らせる事一時間。そろそろ彼女の住処に近づく頃だ。実はこの出版について彼女を長い間口説いてきたものの、さんざん渋られてきたものだが、会社で彼女の作品について出版の都合をこぎつける事が出来、それを告げるとようやく今日彼女とアポイントを取る事が出来た。雨上がりの空が青い世界を紡いでもう二十分ほど車を走らせた辺り、僕は彼女が電話で説明してくれた風景にようやく辿り着いた。

 国道をひたすら走り続け、緩やかなカーブを曲がったところで、滑らかな砂浜と海が見える、林の入り口の側に佇んだ一軒家を見つけた。彼女が言っていた通り、日の光の差す林に囲まれた眺めの良い静かな木造の一軒家だ。冴えわたる澄んだ空気と、とても静かな佇まいで気持ちの良い場所だった。まるで緩やかな広々とした砂浜と海岸が一望できるオーシャンビューの美しく佇む家、そう呼ぶにふさわしい感じの場所だった。霧がかる海岸沿いの道は青い世界を紡いでいた。

 僕は彼女に指示されていた通りに車をガレージの横に停めた。家の標識には、ローマ字のイニシャルで、AOIの文字、あおい、と名前がついていた。間違いない。ここが蒼井 切の住処に違いない。僕は車を降りると小さな庭に色とりどりのハーブが咲く小道を抜け、明るく開けている玄関にむかった。レターボックスに乗っている白い風見鳥がカラカラと風に吹かれて回っていた。そんな僕をその付近に野良猫としてうろついているのだろう。茶色と白のふくよかに太った猫が呑気に僕を見送ってくれた。

 木製のお洒落な玄関の前まで来ると呼び鈴が掲げられていた。

 やがて僕は流行る心を落ち着けて、ポケットから取り出した手鏡で髪を整えると、一つ咳払いし、一呼吸おいた後に落ち着いて玄関の呼び鈴をゆっくりと手をかけた。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、暫くして「はーい」と少しハスキーがかった明るい声がして、一人の女性が玄関の扉を開けた。彼女は白いTシャツとスリムなデニムのジーンズ姿。比較的カジュアルでラフな格好のまま僕の前に姿を見せて現れた。細い指先に煙草を挟み、玄関の扉を片手で押し出すように開けてきた。年齢は三十前後くらいだろうか。だが繊細でキメの細かいソバージュの長い黒髪。凛とした唇に切れ長の睫毛。目元の美人ぼくろが似合う細い瞳が知的で印象的な女性だった。スタイルは長身で細身。なるほど作家らしい、先程の声の印象からして、明るくて飾った様子もなく自然体。知的で好感の持てる美人。それが僕の彼女に対する第一印象であった。

「どうも初めまして、先週連絡させて頂きました、耽劇出版の瀬上せがみ はるかと申します。蒼井 切さん……ですね?」

「あー、あなたが連絡をくれた出版社の人ね? 私はひびき蒼井あおい ひびきです。ごめんなさい。私は切ではないの。まぁ、詳しい話は部屋の中で、どうぞ入って」

 彼女は煙草を持った自分の右肘を支えて人懐こい軽い笑顔をみせながら、僕をリビングへと招き入れてくれた。

「いつも電話でいいお話をくれていたのに毎回歯切れの悪い返事ばかりしてしまっていてごめんなさいね。……ただ返答するにはちょっとしたワケがあってね」

 彼女はそそくさとリビングに僕を案内する間にも、蒼井 切について僕に語りかけてきた。

「実は蒼井 切という作家は現実には存在しない作家なの。解りやすく言えば切はあたしの頭の中に住む架空の作家なのよ]

 ひびきと名乗った彼女は僕にそう告げた。

「あなたの頭の中に存在する……作家ですか? では事実上、あの投稿作品は、あなたが書いた小説という事ですね?」

「そうね。そう言う事になるかな……ああ、でもあなたに先に謝らなければならないわ、今言った通り切は存在しない作家なの、確かに執筆したのはあたしに違いないのだけれども、蒼井 切の小説は、彼女の作品自体は、もともとあたしの作風とはてんで違うのよ」

「どういうことです? 執筆したのがあなたであるならば、作風が違っても、蒼井 切というのは、あなたのペンネームという事で構わないと思うのですが。作風の違いが気になるなら名前を変えて複数のペンネームを持つ作家も多くいますしね」

「それがそうも簡単な話じゃないのよ。これが」
そう言って彼女はテーブルの上に紅茶を入れてくれた。

「……蒼井 切という作家はね、あたしの頭の中に棲むだけでなく、あたしの夢にまで出てくる少女でね、投稿した小説は、彼女が夢の中であたしに依頼してきた事なのよ、自分の変わりに小説を書いてくれってさ」

 蒼井 響と名乗る女性はそう僕に語った。

 彼女の話はこうだ。夢の中で彼女に語り掛けてくる、蒼井 切という少女は耳が聞こえない、声を出すことが出来ない、そういう障害を持っている少女なのだという。だが彼女が言うには、蒼井 切は僕らと同じ時間を共有し、この世界のどこかで暮らしている、現実にこの世に存在する少女なのではないかと考えているという。ある日、耳の聞こえない世界で生きる彼女の想いと叫び声を響は夢の中で不思議な思念のような歌として聞き取ることが出来、その時から彼女に頼まれて彼女の小説を代筆し始めたのだという。

「だからね、あの作品は私が書いたけど、切の作品であってあたしのものではないの」

「なるほど」

 ああ。そういう設定にしたいのならばそれでもかまわない。なるほど。つまり彼女はそういうタイプの人間なのだろう。時に夢見がちな小説家とはこういった風代わりな事を言い出す輩もいる。実をいうと僕は過去にも似たような作家に複数人会った経験があった。だから今更驚く事はなかった。作家とは稀に夢見がちな人間である場合があるからだ。いや、個人的にはそれくらいの方が実に面白いとさえ思うものだ。

 だが彼女について今まで会ってきた作家達と一つだけ確実に違う事があった。それは彼女が頑なに蒼井 切の小説を自分の作品でないと線引きし、拒む事については新鮮で、ひとえに興味深く面白い事だった。なぜなら今まで会ったこの手の作家はさんざん妄想を語った後に最終的には自分が書いた優れた作品だと自慢げに主張するところに落ち着くものだったからだ。

 彼女に関しては、ここに存在しない蒼井 切という作家に小説を書くよう頼まれて、彼女に代わって単に代筆しているというスタンスなのである。

「……あなたはその、蒼井 切の小説を、彼女に頼まれて、他にも何度か書かれた事があるのですか?」

 とりあえず僕は彼女の話の流れに乗る事にした。
「ええ、あるわよ。いくつかね、読む?」

 そう言って彼女は蒼井 切の作品集とも呼べる原稿を僕の前に差し出してきた。

「あ。因みにこれが私の小説、是非、読み比べてみて、作風の違いが面白い程解ると思うわ」

 何故か彼女は胸を張って答えた。

「拝読させて頂きます。少々お時間頂けますか、仕事柄、速読は特技なのですが、それでも少しお時間を頂くことになるでしょう」

「いいわ。その間、私も自分の作品の執筆をしているから、そこのソファーに腰かけてゆっくりお読みになってね、コーヒーはご自由に、納得がいったら声をかけて頂戴」

 そう言って彼女はリビングに僕を残して、奥の扉を開けて消えた。

 彼女が僕を通してくれた、このリビングルームは青い壁紙に囲まれたような二十畳ほどの広さがあった。南側にそびえる床から天井まで伸びるような大きな窓は太陽の日の光を十分に部屋に注いでくれているようで気持ちのいい読書には最適だと思った。今僕が座っているお洒落だが小さめのテーブルの他には白く長いソファや本棚。細長い見たことのない観葉植物がインテリアとして飾られていた。北側に扉が一つと西側に茶室か和室だろうか、割と小さめの襖の部屋が隣接している場所だった。

 ……僕は蒼井 切と蒼井 響、その両方の小説を読み比べてみた。作品は原稿用紙ベース。どちらの小説も筆跡は全く同じだった……なるほど。彼女が蒼井 切の小説を執筆した、という事実については間違いなさそうだ。

 そこには彼女の言う通り、蒼井 切の言葉で綴られた独特な世界の物語が描かれていた。それは切の体験談にも似たような小説であった。耳の聞こえない彼女が現実の中で創造していた音、声、感情、想い、それは蒼井 切が響に伝えた、蒼井 切の生きているリアルの世界なのだろうか、それはまるで目の前の出来事のように現実味のある切の詩のような幻想的で不思議な小説だった。以前投稿されてきた彼女の小説を読んだことのある僕には、それがすぐに蒼井 切の作品であると理解できた。
 
 二時間ほどの時間をおいて、僕は彼女と再びテーブルについた。
彼女は紅茶とサンドイッチをつくって持ってきてくれた。

「結論から言いますね。響さん、どうでしょう、今後も蒼井 切の小説を書いてくださいませんか?」

 僕は彼女の入れてくれた紅茶に口をつけながら彼女に提案した。

「やっぱり彼女の小説はそんなに才能があるんだ。というかあたしの小説じゃあだめなの?」

「……ごめんなさい。言いにくいのですが、残念ながら響さんの小説ではだめです」
僕は苦笑交じりに、彼女にそう告げた。

「何よ、ハッキリと言ってくれるわね……でも。同じ人間が書いているのに、切の小説を書いている時は確かにあたし自身も自分が書いたものとはとても信じられないくらい発想が斬新で日常の暮らしとは全く一線を違えているものね。だから余計にあたし自身が書いている分、何だかちょっと惜しいような悔しいような気もするけど」

「あの、一つご提案なのですが、切さんの作品はやはり蒼井 響として出版する体ではいけないのでしょうか? お話を聞く限り、蒼井 切という作家は響さんの頭の中に棲む作家、夢で語り掛けてくる作家なのでしょうが、残念な事に実体がない。それに実際は響さんが執筆された訳ですから、現実的には誰の目から見ても、同じ著者が書いている作品という事でよいかと思うのですが……」

 僕はなるべく彼女の気を害さないようにオブラートな提案をした。

「ああ駄目よ、それだけは、絶対にできない事だわ、それは私の作家としてのプライドが許さないわね、アレはあたしの作品じゃないもの」

 ……どうやらあくまでも蒼井 響と蒼井 切は別の人格の作家であり、切の作品は自分の作品ではなく、彼女のモノと考えているらしい。

 ……でもこの人の思考、面白くて好きなんだよな。それにとっても好感のもてる美人でもあるしな。
なんだか、少し意地悪したくなってきたな。よし。

「……わかりました。ではあくまで蒼井 切という作家の作品という事で、出版を考えましょう。唯、売れて有名になった場合、例えば芥川賞とか大きな賞を取った場合、やや厄介な問題が出てきますけどね」

「厄介な問題?」

「……はい、そうなると事実上、肝心な作家本人が存在していないわけですからね。授賞したとしたら、せっかくもらったその賞自体、実際貰えるものなのかどうか怪しいですね、……ああ勿体ない事に」

「あ、芥川賞ですって、じゃ、じゃあ……もったいないからその時はあたしがゴーストライターを誰かに頼んでいましたって事で、後であたしが著者になったりしてもいいのかしら。えへへ」

「ええっ⁉ ……ですからその気があるのなら最初から蒼井 切という別のペンネーム立てで響さんが出版すれば済む話じゃあないですか。そのほうが現実的だし何より合理的だ」

「あら嫌よ、それはあたしの作家としてのプライドが納得いかないもの。できれば自分の作品で賞を取りたいもの」

「ええっ!? ……響さんて結構、頑固なんですね」

 だが僕はとりあえず、蒼井 響という作家の人となりは理解できたと思った。この人は美人で変な面白い人だ……。でも一人の作家としては、ある意味では誠実な人なんだろうなと思った。だがそれから話す内に僕達はお互い、冗談を交えながら蒼井 切という作家についてしだいに意識するようになっていった。

「まぁ。冗談はともかく、確かにそういう問題はあるというわけね……流石にそんな大きな賞がとれるとはおもわないけれども」

「はは、少し僕が意地悪言いましたね。まぁ。まだ出版までは長い。焦る事はないので、一度、響さんの中の切さんと相談なさっておいてください」

 僕は笑顔で彼女に言った。 

「ふふ。わかったわ」

「では本題にはいりましょう。一本、彼女の小説を今まで通り、代筆されて書いてください。そうですね、丸っきりの長編、せっかくだから蒼井 切の新作がいい。今回はその作品を元に、出版の方向で考えさせて頂きます。但し条件があります。必ず最後まで作品を書き上げてください。最終的にはその内容したいで考えたいと思います。その旨を切さんにもお伝えてください」

 それは蒼井 切の新作、あるいは蒼井 響の新作となるかもしれない一本だ。

「きゃあ! デビューできるのね!解かりました。やってみます」

 そう言って、蒼井 響はまるで自分の事のように喜び、丁寧に僕に頭を下げた。

 いや、デビューさせるのはあなたの作品じゃないんですが…。


* * *


 それから二週間ほどして僕は、作家、蒼井 切の小説がどれくらい進捗しているかを確認する為に、彼女の元を訪れる事になった。蒼井 切の声を夢の中で聴き彼女に代わり小説を代筆しているという蒼井 響……。彼女の元に。

「……多分今、序盤くらいなのかな、切の小説は、彼女の作品を書いてる間は私自身にもどれくらいすすんでいるのか進行状況の先が読めないのよ、読む?」

「はい。勿論」

 小説のタイトルは、鳥籠の詩姫といった。

 彼女の話が本当の事で、著者となる蒼井 切から物語を聞き、代筆をしているという事なら、そうなのだろう。物語には起承転結があり、その結末は作家本人にしか解らないのだから。彼女の話にはブレがないところが全く面白い。

「ところでこれは興味本位で聞くのですが、切さんはどのように響さんにコンタクトをとってくるんですか? 響さんはどのように小説の内容を、彼女から聞いているのです?」

「彼女と語り合えるのは夢と頭の中だけなのよ……日常の生活の中ででも頭の中に彼女の思念が聞こえてくる感覚があるの。そうね。切は、彼女は耳が聞こえないし、しゃべる事もできないと前に伝えているのだからそりゃあ不思議と思うでしょうね、それに私は彼女を感じる事しかできないのだけれども、不思議な事に彼女は歌を歌っているような感じなの。それが声なき歌というか、感覚というか、風に揺蕩う綺麗な波長みたいなイメージの音ね、それは不思議な音よ」

「音? 彼女は歌を歌うのですか?」

「ええ。でもそれはまるで声にならない声。彼女の独特の音よ。けれども彼女の歌、彼女の音が美しい言葉を紡いでいるのを感じるの、彼女が歌う時、その表情、世界感、色、それが不思議と、いろいろな言の葉として、そうね……私の場合、不思議と言語感覚として変換されて私に伝わってくる感覚があるのよ、声なき歌があたしに現実の彼女が生きているリアルな状況を、彼女の想いの声を、いろいろ伝えて、言葉として音が教えてくれるような感じかしら、あなただって普通に音に色や形があるものと感じるものでしょう? それと同じようなものよ」

「ちょっとまって下さい、響さんは音に色や形があるものと、……そう自分の感覚で認識する事ができているのですか?」

「あらそんなの普通じゃない。変な人ね」

 ……これは……もしかして共感覚?  僕はある言葉を頭に思い浮かべていた。

「……」

「響さん、共感覚、シナスタジアって言葉をご存じですか?」

「…きょ、共感覚?」

「そうです。うん。共感覚といいますね。世界的にはかなり広義にいろいろな報告がある分野なのですが……」

「例えば、文字を見た時に、文字を色彩として同時に感覚認識していたり、ある漢字を見た時に、それが数字のように脳に変換されて認識されていたり、音が意識の中で色や形あるものとしての感覚で認識されていたり、人が何かに触れているのを見て、自分もあたかも何かを触れている感覚を共有したり、平たく言えば一つの事を感じる時に、同時の別の五感も連動して認識できる感覚の事です。もしかしたら、響さんはそういった繊細な優れた感覚を持っているのかもしれませんね……だから通常感じる事のできない、彼女の声にならないほどの音ともとれる歌声を、響さんだけは聞き取ることができ、言葉として感じることが出来た。それを共鳴する事が出来た。彼女の世界だけの中で創造された音、その彼女の思いに含まれた、叫びともいえるようなその歌が、響さんだけには言葉として読み取ることが出来た……そんな響さんにだからこそ、彼女はあなたに小説を託した……もし響さんの話が本当だとしたら、そう捉えられたらいいのではないでしょうか」

「まぁ。あなたって……なんだか結構ロマンチストなところがあるのね」

 そう言って彼女は穏やかに微笑んだ。

「いや、正直なところ僕も響さん程の共感覚的な感性を持ってる人に出会ったのは初めてです、というかこれ程のものは実際、共感覚というだけでは説明できないかもしれません…。しかも僕は響さんの体験に似ている話の事例を本の知識で知っていただけのものです。ただ実際は科学的にも証明されているんですよ。ある一つの感覚に対して、別の五感の一部も同時に感じとれる。感じ取る内容は人それぞれさまざま違うみたいですがそんな感性を持っている方は多くいるそうなのです」

「そう。これは共感覚……共感覚というものなのね? 覚えておくわ」

 ……蒼井 響は、切の小説を代筆する。

 蒼井 切が響に書かせている小説、彼女が訴えている現実は願いであり、願望に近いものだった。そして僕は蒼井響の書く、切という少女に惹かれていた。いやもしかしたら僕は、切の存在に、彼女に恋心すら抱き初めているのかもしれない。

 蒼井 切という作家が書いた小説はこうだ。いや、これは彼女自身の物語だ。

 切は産まれた時より耳が聞こえない、話すことが出来ない無垢な少女であった。
ハンデを背負って生きている為、齢一八歳にして学校にも通えずに、限られた世界の中で暮らすことになる。

 彼女を世の中と分断し、高校に通わせなかったのは彼女の母親だった。
 
 切は少女のようでもあり、時にもの憂げな切れ長の瞳と、凛とした端正な顔立ちが目立ち大人の女性のように見える事もあり、大人びてとても美しかった。

 だが中学の時、その切のハンデを逆手に取り、教員が性的な悪戯を度々連続して繰り返していた事が発覚した。教員だけではない、生徒までもがその加害者であった。彼女の母親は社会を憎み、憎悪し、その美しい身に産まれた不幸な娘を哀れんだ。汚れたこの世の中から美しく哀れな自分の娘を守るため、彼女は世界を二つに分け、切と社会に壁を隔てる事にしたのだという。

 まず切は自分の身の上を響にそう夢の中で歌として伝えてきたのだという。

 ……そして蒼井 切の美しい物語はこのくだりからはじまる。

 世界を二つに分けられた彼女の母親から与えられた世界、その鳥かごの中のような世界は、世の中から閉鎖され孤立した世界。そして彼女はその檻ともいえる彼女の世界の中から夢を見るようになる。……正確には夢を見続ける事しかできなかったのだろう。

 産まれた時より耳が聞こえない彼女の世界では、彼女の音の認識は自分の感覚とイメージで創り上げる以外の何物のものでしかなく、それは彼女の視覚を通して、彼女だけの世界の中で独創的なイメージの音として彼女の中で形成されていた……産まれた時よりそれは長い時をかけて……。

 それが切の声であり、音だった。

 彼女は歌が好きであった。勿論声帯にハンデを持つ彼女に上手く声は出ない。無理に声を発しようとするものなら、か細い悲鳴のような、かすれた嗚咽のような音にしかならない上に、喉を傷める事さえある筈であった。

 それでも彼女は歌う事をあきらめなかった
彼女は母親の守る鳥かごの中で、彼女だけの音を奏でる、彼女だけの音で歌を歌う。

 やがてその歌声は不思議な波長を生み、風に溶け込み、人々の心に不思議な音として届く、彼女の中の世界だけで想像された不思議な音……それは彼女にとっては歌声だった。

 彼女の声は不思議な力を宿していた。風に流れたその音を聴いた人の心は彼女の歌に癒され、心が不思議と満たされていく……彼女はそんな美しい音を奏でる事が出来た。

 彼女は声なき声で歌を歌う。精一杯、自分の存在を世界に、大気に溶け込ませるかのように。

 そして彼女の歌声はある一人の女性の耳に届いた、蒼井 響という作家の頭の中に。

 だが、いつもと違う感覚が切を襲った。共感覚を持つ響は音を言の葉として、切の声を聞き取る事ができた。それに驚いた切は響に語りかける。響は切に返答した。切の歌声ともとれる不思議な音を通して、やがて二人は意識を交信するような仲になった。切の描く小説は、そんな響との繋がりから始まった。

 切は響と意識を交信する時、響の目を通して彼女の世界を視ることが出来たという。
やがて二人の意識と身体の感覚はシンクロする。切は響の身体を通して現実的ないろいろな事を体験をしていくようになる……。

 序盤の物語はここで終わっていた。

「響さん、切さんとシンクロまでする事ができるんですか?」

「いいえ、そこまではできません。これは彼女の小説の中の話ですから、多分切の願望に近いのではないでしょうか。鳥かごの中で暮らしているような彼女は外の世界を視たい、体験したいとか、そんな思いが込められているような気がしています。そういえばよく感じる事がありました。彼女は自由な私の事が羨ましいと」

「僕には一体どこまでが現実で、どこまでが小説なのかわからなくなってきましたよ、それを体験されている当の本人を前にしているので尚更です」

 僕は狐につままれたような感覚に囚われながら、これから小説の中で響を通じて、切がどんな体験をして行く事になるのか知りたい衝動に駆られていた。正直僕はここから先の蒼井 切の小説が、とても楽しみでならなかった。

「では、次は一月後に、どうか彼女によろしく」

 僕は彼女、蒼井 響に挨拶すると車を走らせた。

 一体、今彼女に起こっている不思議な出来事は何なのだろうか。共感覚はたしかにこの世に普通に存在する事だ。だがこれほど鮮明に人と人が繋がるほどの意思疎通が可能なレヴェルでの共感覚など存在する事などあるものなのだろうか……。いや、これを共感覚という一言でまとめることはきっとできないのだろう。

 切は……彼女は、蒼井 切とは一体何者なのだろう。響が言うようにこの世界のどこか別の場所で彼女が生きているとしたら、一体彼女はどこで暮らしているのだろう。

 その日、僕は蒼井 切という作家に会ってみたいと妄想していた。


* * *


 それから三週間ほどたったある日、朝一番の突然の電話に僕は飛び起きた。
電話は蒼井 響、彼女からだった。

「もしもし? どうしたんですか? こんなに朝早くから」
「遥さん? 彼女の様子が、ああ切の歌の感じがおかしいの、すぐに来て頂戴」

「ええ、切さんが? 一体何があったんですか?」
「うまく言えないけれども、ここ最近、なんだか彼女の様子がおかしいのよ」
「わかりました、すぐ伺います、響さんの体調は大丈夫ですか?」

「大丈夫、兎に角、早く着て頂戴」

 僕は大急ぎで車を飛ばして彼女の家に向かっていた。

* * *

「恋?」
「恋」
 僕はポカンと空にその文字を一度書いた。

「そう。どうやら切は恋をしたみたいなのよ」
 響は困ったような、悩むような素振りを僕にみせた。

「ここ最近ね、切の様子が、彼女の歌声になんていうか、歯切れの悪い高揚感みたいなものや、いろとりどりの色がみえるのよ。赤やピンクや紫やとにかく華やかに花が咲くイメージよ」

「それが恋だと」
「ええ。間違いないと思う」
「いやびっくりしましたよ。僕は切さんが何か体調でも崩したのかと思ってしまいました」

「笑い事じゃないのよ、全く呑気ね」
「いや、恋愛は素敵な体験ですよ、いいじゃありませんか」

「とりあえず、読んでくれる?」
 そう言うと彼女は執筆した蒼井 切の作品を僕に手渡してきた。

 鳥籠の詩姫 第二章

 前回までの話では、彼女の歌によって切が響と繋がるところまでの物語が描かれていた。
彼女の物語は響の目を通じて色々な体験をしていく事になる。

 切は新しい身体を手に入れたような、別の人間に生まれ変わったような不思議な感覚に溢れていた。彼女が歌を奏で響と繋がる時、切は響の目を通じて響の見ている世界を体感することが出来た。鳥かごの中から自由に解放された新鮮な生き生きとした感覚が彼女を包み込んでいた。

 切は響が見ている海を眺め潮風を感じた。響が歩く街並みをまるで外の世界を初めて羽ばたく自由な鳥のように感じることが出来た。響が書く小説を一緒に読み、響と一緒に映画を観て共に感傷に浸る。たまには食事の時間も響に合わせ、まるで大切な友達と会食し、親友のようにお互いに相談事を打ち明け、時には楽しく歓談しながら響との時間を共有して過ごした。全く別の場所に存在する二人。お互いに楽しく時間を共有するような不思議な交信……。そんな暮らしが二人にとってはとても大切な時間になっていった。

 やがて切にとって響の存在は、親友でもあり、外の世界を唯一感じることが出来る、自分の身体の媒体のような存在になっていた。

 僕はここで本を一旦閉じ、彼女に向き直った。
 
「……ちょっといいですか? 切さんって小説の内容を響さんに伝えてくる時、二十四時間、自分の好きな時に自由に響さんに交信する事ができるんですか?」

「いいえ、こちらの意識を閉ざして受け取らない時は、今は、お互い都合が悪いんだな、と遠慮しているの。解りやすく例えるなら電話みたいなものかしら……それよりも一つ問題がでてきたの。この小説は切の、彼女の小説の中のフィクションだと考えていたんだけれども、どうやら切は本当にあたしの目を通して世界を視れていたみたいなの、その先にそれが解る話が書かれているわ。というか問題はそこでね、それで急遽あなたを呼んだのよ」

「……先?」

 僕は彼女に言われた通りページを少し飛ばして読んでみた。
 
そこには彼女の、切の気持ちが彼女の視点と表現で繊細に細かく描かれていた。

 七月二十日、あたしは響の、彼女の視界を通じて一人の男性を視ていた。彼はあたしより年上で、とても優しい声で響に話かけていた。どうやらあたしが響に変わりに書いてもらっている小説を、蒼井 切の小説をあたしの声を世に伝えてくれるのだという。響はタイプじゃないみたいだけれども、あたしの目から見た彼は輝いて見えていた。とても素敵な人だった。

「あなたよ」

 彼の事を考えるだけで不思議と胸が暖かくなる。最近は暫くすると彼の事ばかり頭に、ぼーっと、浮かんでくる。……一目見た時からだった。何なのだろう、この感覚。初めての事なので良く解らない。……一度でいい。彼と話したい。会話を交わしてみたい。

「あなたの事よ」

「……これって」

「まぁ。そう言う事……ああ困ったわ。こんな事この先、どう書けばいい訳これ? なんかあなた達の間に入ってさ」

「うわぁ、嬉しいな。出来る事なら僕も切さんと話がしたい」

「…はぁ。そよね。そりゃこうなるわよね」

「でも切さんの歌は彼女独特の音で、それを言葉として読み解けるのは共感覚を持つ響さんだけなんですよね? それに僕には彼女と繋がれるコンタクトの方法が全く解らない」

「だからあたしが伝えるしかないのよ。貴方の事を、あたしの視界を通じて切の目から見えるものが今回の小説の彼女の視点なんでしょう? 彼女が今書いている作品自体がドキュメンタリーに近いものだし執筆に必要な要素なのも間違いないでしょうしね。なんだかこのまま話を進めるととっても不思議な恋愛モノになりそうだけれども?」

「なんだか作品を通しての恋文になりそうですね」

「正直、切が本当に私の見ているものまでが視えるとは私も思っていなかったわ」

「……」

「書いてください。彼女が見ているモノ、感じている事、思っている事、考えている事をありのままに、僕はこの先の彼女の物語が見てみたい」

 なんて甘く切ない…不可思議な夢物語であろうか。
 そうして蒼井 切と僕の物語はこの瞬間から始まった。


* * *


 切は響の目を通して本当に僕に一目惚れしたのだろうか? 事実は蒼井 響自身が書いている唯のフィクション小説なのではないだろうか……。

 現実的に起こりえないような事実が目の前にあると、人はなかなかそれを素直に受け入れる事ができないものだ。

    だがそれからも響は執筆を続け、僕は彼女の小説を心待ちに楽しみに待つようになっていた。

 ……鳥籠の詩姫 第3章

 彼女の物語は中盤に差し掛かっていた。
切と響は相変わらず楽しそうに同じ時を共有した。

 砂浜を飛行機のように手を広げて走る響の目を通して、切は海を駆け巡った。

   潮風を頬に受け……二人は海が大好きだった。響の家の前にある青い海の砂浜で、二人はよく時を過ごす事が多かった。

 響は鳥かごの中の切の為に様々な世界を彼女に見せる。

    まるで親鳥が雛を育てるかのように。
切が望むありのままに…… 。

 切は響に問う。
   あたしの声を世界に届けてくれるあの人に会えるのはいつかな?

    それは蒼井 切の純粋な言葉。
    来週の水曜日。あたしの目を通して彼に会えばいいわ。
    響は優しく囁き切の想いを叶える。

 そして水曜日に、青い海の砂浜で僕は彼女の瞳を見つめる。響の瞳の奥からきっと僕をじっと見つめている切……。

 それはきっと純真で美しい無垢な少女。
淡い思いを秘めてじっと独り鳥籠の中で夢を見ていた少女……。

 彼女は今何を想い僕を見つめているのだろう。彼女は世界に何を叫ぼうとしているのだろう。

「ちょ、ちょっと、遥さん、あんまり顔を近づけてあたしの目を見つめないでよ、あたしが恥ずかしくなるじゃない」 

「ああ。響さん動かないで、今チラッと瞳の奥に彼女の姿が見えた気がする」
「えっ⁉ 本当?」

「……嘘です。やっぱり何もみえないや」

「……切は恥ずかしがりやだからね。ああ待って、切があなたに何か言ってるわ」

「……」
「……えっとなに何? は?」
「キスしてほしい? ……いや無理無理、無理だから」

「ええ僕は大丈夫ですよ」

「いや……無理だから、これあたしの身体なんで」
 
 そんな美しい海岸の砂浜で微笑ましい冗談を交えながら会話する響と切。
そんな僕達三人の触れ合いはまるで奇妙な三角関係のようなものにも思えたのだが心地よい微笑ましい気持ちに包まれていた。

 その時より切と僕は、響の瞳を通してお互いを意識するようになった。

 響が切の気持ちを小説に紡ぎ、
僕は切の小説を恋文のように読んだ。

 そして晴れた日には僕と響は自転車に二人乗り、切を乗せて、この世界を駆け巡る……。
切は小説の中で、まるで青春を謳歌しているかのように世界を見つめていた。

「響さんって切の姿は見えないんですか?」

「あたしには切の歌声しか聞こえないの。彼女が思う事、感じる事、心の声しか読み取る事しかできないのよ」

「僕は切の姿が見てみたい。きっと美人なんだろうな」

「……」

「ストレートの長い黒髪の子よ。鼻筋も高くてすっと通ってる。目鼻立ちの整った美人だわ。そうね、美しい日本人形でも想像してみればいいわ。今時にお洒落に興味は持ってるわね。彼女は猫が好きなの」

「やっぱり見えてるんじゃないですか」

「しかたないでしょ、切は恥ずかしがり屋なのよ。内緒にしてよね」

 ……僕達三人は不思議な関係のまま、幻想的に淡く甘い時を幸せに過ごしていた。

 そして蒼井 響の紡ぐ小説の中で、切は恋文とも、告白ともいえる、彼女自身の気持ちを、彼女自身の僕との恋の話を小説として紡いでいった。そんな彼女の小説を読み続けながら、僕は本当に彼女に溺れ恋に落ちるような錯覚にさえ浸っていた……。

 鳥籠の中で恋を知らぬ、切の淡い恋心を描く響。

 僕と切は彼女の紡ぐ小説の中で淡い恋に溺れる。

 やがて僕達は、小説の中で近い将来、現実での出会いを約束し、お互いに気持ちを通わせ合った。
 
 切は鳥籠の中から飛び出したい……もうそんな気持ちにさえなっているのかもしれない。

 だが事件は起こる。切と響と僕、そんな時間を過ごして暫くしてから、彼女の作品を代筆していた蒼井 響が突然、蒼井 切の小説を書く事を辞めたいと言い出したのだ。

「一体どうしたんですか? 切さんと喧嘩でもしたんですか? それとも嫉妬ですか?」

「何でもない……何でもないわ。唯、疲れたの。切とあなたの間に中間に入って振り回されるのがね」

「……」

 僕は顎に手をあてて、しばらくの時間、瞳を閉じて考えた後、ここのところずっと彼女に対して胸に秘めていた疑念とその考えを口にした。

「ねぇ響さん……そろそろ本当の事を話しませんか? 蒼井 切はあなたの頭の中に棲む少女で夢に出てくる少女、あなたの頭の中にしか届かない声、共感覚を持つあなた以外には聞き取る事ができない音、そうでしたね? 出版の経験のある僕の冷静な意見を言わせて頂けるのなら、それはつまり、蒼井 切という少女は全てあなたの想像の中にだけ存在するという事なんです……。とどのつまり蒼井 切という少女は存在しないという事なんです」

「……遥さん。正直に答えて。あたしの描いた小説はどうだった?」

「ええ。とても素敵な作品だ。蒼井 切の小説は最高に素敵な小説です。この僕を巻き込んでの現実すら巻き込んで書いたリアルタイムの小説、それは間違いないのですから」

「……そう。ありがとう。……でも、どうやらあなたにはもう隠し通せそうにないわね。私も観念して本当の事をあなたに話す事にするわね。蒼井 切の小説は半分は本当で半分はフィクションなの」

「フィクションの部分はね、物語の部分だけ。私が脚色したシナリオの部分がそう。だから切があなたに恋をしているというのは、最初は私が小説として書いた嘘だった。でも彼女が鳥かごの中で恋に恋い焦がれて夢を見ていた事実は本当なのよ。だから切の想いを小説として紡ぐうちに、きっと切はその思いが溢れてしまったのだと思ったわ。私はあなたの言うように共感覚を持っていて、彼女の歌を言葉として聞き取る事が出来る。だから彼女の気持ちが溢れてくるのが凄く分かったわ。だから脚色したアタシの描く小説の通りに切が本当に彼女の世界の鳥籠を壊して恋に目覚めてしまうようで怖かった。切の歌声は聞こえるの。彼女は存在する……でもきっと彼女は、彼女の母親の事を恨んでいるんでしょうね、今まで恋もろくに経験させずにずっと鳥かごの中のように部屋に閉じ込められていたんですものね。ずっと閉じ込められて生きていくなんて、守られているとはいえ……本当の自由ではないもの」

「……」

「……うーん、そうでしょうか」

「えっ?」

「果たして彼女は自分の母親を恨んでいるでしょうか?」

「……あなたの小説の中で、あなたと一つになっている時の切さんは、とても輝いていた。これは小説ですが、これは切さんの願望でもあり、これはあなたの願望でもあったのではないですか? 彼女がこんな風に人に寄り添う事を大切にできるのも、あなたを通じて外の世界を感じてみようと彼女が思ったのも、きっとその人が信用に足りる素敵な人間だからだったからだと思うんです。それが解っていた彼女だからこそ、希望を捨てずに鳥かごの中からでも自由に歌を歌っていたのではないでしょうか」

「……」

「ねぇ。遥さん、もし蒼井 切という彼女が現実に存在していて、今私達と同じ時間、世界のどこかに存在しているとしたら……あなたは会いたいと思うかしら?」

「……どうでしょう。でももし本当に存在しているとしたら、僕は今度こそ一目で彼女に恋をしてしまいそうです」

そう言って僕は彼女に微笑んだ。

「……いるのよ」

「えっ?」

「蒼井 切はいるのよ」

「あたしがあなたに言ったのは、蒼井 切という作家が存在しないとだけ、言ったの……蒼井 切という私の娘は……彼女はここに居るのよ」

「……な」

 それは聞き間違いではないだろうか?
……娘? 蒼井 響は、彼女は今、私の娘と言ったのか? 僕はさすがに驚いた。

「そんなバカな……」

 ぼくの脳内で錯誤した現実が一気に混乱した。
しかし実際、僕はひとつの答えを導き出していた。

「……そうか。いや、そういう事か、ああ。……そう言う事か」

 ……僕はそれを理解した。
今までの点と点が、腺となり、それはまるでパズルのピースがはまったかのように僕の中で物語が符号した。

 蒼井 響に、蒼井 切。

 ……蒼井 切の世界を二つに隔てたのは彼女の母親だった。

 人と人の絆ともいえる繋がりをも紡ぐほどの、超越した共感覚……。共感覚?

 いや……彼女の共感覚の本当の正体は、娘の気持ちを汲み取る事が出来た、彼女の母親としての想いから生まれた愛情から感じ取れた想像なのではなかったか。

 どうやら僕は初めから彼女の言葉の意味をとり違え、物語を読み違えていたようだ。
いや。僕は聡明な彼女の小説に惹かれ、彼女の世界にまんまと取り込まれていたようだ。

 そして今僕はようやく、その真実に気が付くことが出来た。

 彼女が言っていた、夢の中で聞こえるという切の歌声……それは彼女が眠っている意識の中で見た夢の事ではなく、実の娘が思い描き切望していた現実の夢の事ではなかったか。

 切が鳥籠の中から夢見ていた恋を響は小説として紡いでいた。だが切が響の小説に自分自身を重ねるように溺れ浸るようになり、小説を書き紡ぐ響は自分が娘を鳥籠に閉じ込めてしまった事への罪悪感と切の想いと叫びに耐えられなくなってしまったのではないのか……。

 彼女はリビングの和室の襖を静かに開けた。
目の前に小柄な美しい少女が佇み、母親に手を伸ばしていた。

 ……長い黒髪。切れ長の睫毛に大人びた瞳。鼻筋が高く通った。目鼻立の整った美人。美しい日本人形のような少女がそこに居た。

 ……切。蒼井 切。
僕が小説で創造していた通りの彼女。美しい少女。

 僕は愛する娘を抱いて静かに瞳を閉じる綺麗な横顔の蒼井 響を静かに見つめた。


「ねぇ……遥さん、あなたには、蒼井 切という作家を守り、この先、彼女を守り見届ける覚悟はある? 耳も聞こえない、話もできない、唯、そこに夢だけを見続けている娘を、最後まで責任もって側に添い続けていてくれる覚悟はある?」

 僕はいつの間にか不安そうに母親にすがる彼女と同じ美しい顔立ちの切を、母親と同じように静かに風の中で優しく見つめていた。

「……」

「……あなたがこの先も彼女の想いを描き続けるのなら、僕はその覚悟に寄り添い最後まで付きあいましょう」

 僕は無垢な切の吸い込まれるように澄んだ瞳の奥を見つめた。

その言葉を聞いた響は、はっとしたように目を見開いた。

僕の目を無垢に見つめ、不思議そうにはにかみ微笑む切。

 ……清々しい風が流れた。海からの風にこの世界が触れた。
その風に歌声をのせるように切が詩を奏でる。

 それは声にならない、かすれた綺麗な声、いや音だった。切なくも儚い、凛とした悲しい声にならない嗚咽とも悲鳴ともいえない、お世辞にも美しいとはいえない声、だが綺麗な声……それが彼女の娘、蒼井切の本当の声だった。

 蒼井 響は……彼女は、自分の手で鳥籠の中に娘を閉じ込めてしまった。自分の娘が見ていたささやかな夢を、彼女の想いを本当は現実の中で叶えてやりたかったのだろう。独り娘を守り、罪悪感に苦しみながら……。だから娘に対する愛情とも呼べる想いを小説に変えて、蒼井 切の声を世界中に響かせ捲きたかったのだろう……。

 それは彼女の母親としての罪と魂の呵責……。

 娘の気持ちを汲み取れる彼女の愛情という感性、それを、共感覚という才能に比喩し、娘の存在を天才作家として僕に誤認させた。

 ……彼女が描く共感覚は詩的で天才的。

 響が切の歌を詩に変えて……。

僕はこれからも彼女に騙されるフリをし続ける。天才作家、蒼井 切の存在を意識して……。

だが娘の声にならない歌から言葉を紡ぎ、音を詩に変える美しい天才的な共感覚。

……そんな美しい小説があってもいい。

切の声にならない美しい歌声を、僕は世界中にばら撒くだろう。

もしこの先、仮に他の共感覚者がこの小説は彼女の歌なのだと、彼女の描く詩で騙す事ができたとしたら本望だ。

ただ、それだけの為に……。

僕は、彼女の声にならない美しい歌声を、
この混沌とした世の中に、そっと静かに、世界にばら撒き続ける事にした……。
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みんなの感想(1件)

城 依見
2021.04.28 城 依見

ラストまで一気に引き込まれてしまう作品です。
途中でこれは解離性同一性障害の
一種かと思わせるのだが、ひとつひねられていることで
神秘性が深まる。三回読んでしまいました。
本当に彼が真実を見ているのか、それとも?
美しい作品に巡り合いました。

解除

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