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第二十六話 もしもバイオリンが弾けたなら

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 バイオリンを習うことにした。

 家の近くの雑居ビルに音楽教室が入っているらしく、その一階の掲示板にいろいろと広告が出ているのである。

 仕事の行き帰りにはビルの前を必ず通る。なので自然と広告に目がいくのだ。次第に興味がわいてきた。

 広告によるとエレクトーン、ピアノ、ギターやバイオリンなどメジャーなものから、テルミンやブブセラまで様々な楽器を習うことができるようだ。

 広告の真ん中にはデカデカとこう書いてある。

「体験レッスン無料!」

 ただより安いものは無いとは言え、私の最も愛するワードは「無料」なのである。仕事が終わってからはどうせ暇なのだし、無料ならばと早速予約をしておいた。

 楽器はバイオリンを選択した。理由は単純で、なんか格好いいからである。私は自分がスポットライトを浴びて颯爽と演奏している姿を思い浮かべ、ニタニタした。
 目指せ! 葉◯瀬太郎!

 葉加瀬◯郎レベルの演奏は100パーセント無理だろうが、気分だけでも葉加◯太郎になりたいのだ。

 始めるにあたってメル◯リで中古のバイオリンを譲ってもらった。ところがケチったせいか本体も弓もボロボロだった。まぁ送料込みで1,980円だとこんなものだろう。

 そして満員御礼の客席からの拍手喝采を浴びながら投げキッスを連投するというイメージトレーニングを繰り返しているうちに、ついに無料体験の日がやって来た。

 私はいそいそとバイオリンケースを抱え、傍から見るとバイオリニストに見えるかなぁとニンマリしながら教室へと向かった。

 雑居ビルの三階の扉を開けてすぐの部屋は待合室で、レッスン待ちらしき数人の子どもとその保護者らがペチャクチャとおしゃべりをしていた。

 受付のねぇちゃんに声をかける。
「あの、六時半から予約している者ですが」
 すると彼女は「はい、無料体験の方ですね! うかがっております、 少々お待ちください!」と大声を出した。
「無料」の部分が何となく恥ずかしかったので隅っこの椅子に退散してスマホをいじっていると、やがて側の扉が開いて名前を呼ばれた。

 招き入れられた部屋は六畳ほどの広さで、鎮座しているグランドピアノが圧倒的な存在感を放っている。

 バイオリン講師は四十代くらいの背の高い綺麗な女の人だった。

 自己紹介の後、先生は私のバイオリンケースをあけて目を見開いた。
「何をどうしたらこんなズタボロになるんですか?!」
 そこまでひどい状態なのか。私は急に恥ずかしくなった。なので、
「死んだ祖母の形見で……」
と陰りのある表情を意識して答えておいた。祖母からは形見として古い大正琴を貰っていた(もちろん弾けない)ので、完全な嘘ではない。

 楽器は教室で借りることが出来ると言うのでそうすることにした。

 先生はまず演奏の準備方法やバイオリンの手入れの仕方を教えてくれ、やっとバイオリンの持ち方に入る。

 顎と肩で楽器を挟まなければならない。顎が痛い。

 顎をプルプルさせていると、突然天井の蛍光灯が消えた。点滅もせずいきなり消えた。

「受付の女の子に替えてもらいますねー」
先生はそう言って部屋を出て行き、受付のねぇちゃんを伴って戻ってきた。ねぇちゃんは手に蛍光灯と脚立を持っている。そして器用に蛍光灯を交換した。

 その間、先生と私はその様子をただぼーっと見ていた。

 すると交換が終わったところで無料体験の時間がちょうど終了してしまった。少し中途半端な心境になったが、無料なので仕方がない。

 中途半端なままは嫌であるしせっかくここまで来たのだから、受講手続きを行って翌月から通うことにした。





 レッスン初日。

 先生は「最終的にはこんな風に弾けますよー」と、お手本の演奏をしてくれた。

 やはり生で聞くプロの演奏は魂を揺さぶるものがある。私は曲を弾けるようになるまで頑張るぞと決意を新たにした。

 再びバイオリンの構えを教わり、弓の動かし方に移ろうとしたその時だ。

 いきなり蛍光灯が消えた。またである。

「あらら。電気消えちゃった」
先生はのんきなものである。
「先月も切れませんでしたっけ?」
「この前のはもう一本の方ですねぇ」

 なんてタイミングなのだろうか。先生は受付のねぇちゃんを呼びにいった。

 そして蛍光灯の交換と共にレッスン終了時間が来た。
「じゃ、時間が来たのでまた来週ですねー」
「えっ……!」

 私は蛍光灯の交換に費やされた時間分は当然延長するものだと思っていた。しかしナチュラルに帰宅を促された。小心者の私は何も言えず、教室を後にした。





 レッスン二日目。

 今度こそ弓の正しい動かし方を教わりたいものだ。

 ところがレッスン時間が半分ほど過ぎた時、今度はピアノの側の壁に貼られた壁紙がペラリと大きく剥がれたのである。

「あっ、壁紙が……! この建物も結構古いですからねぇ。受付の子、連れて来ますね」
またしても先生は教室を出て行った。

 先生と受付のねぇちゃんが試行錯誤して壁紙を元に戻している間、私は無意識に時間を数えていた。

 バイオリンの受講料は月三回で11,000円、一回のレッスンは三十分である。つまり、一回あたりの受講料は約3,667円。一分あたり約122円。一秒あたり実に約2円 ‼︎

 2円……4円……6円……8円……

 うぅっ……私が血反吐を吐きながら働いて得た金が……

 壁紙の修繕はなかなか終わらない。

 200円……202円……

「こっちを画鋲で留めてみたらどうかな?」
「そうですね。ちょっと画鋲持って来ます!」

 750円……752円……

 私は無駄になってゆく金額を数え続けた。上にも書いたが、気の小さい私は苦情も何も言えないのである。結局はそのままレッスン時間は終わった。

 約1500円がドブに捨てられたのだ。これは私の三日分の食費に相当する大金である。





 レッスン三日目。

 今回はなんと先生が腹痛でトイレに行ったまま、15分も戻って来なかった。





 私は音楽教室を辞めた。

 元々が三日坊主である私のバイオリン熱もすっかり冷め、メ◯カリで入手した古いバイオリンは、祖母の大正琴と一緒に押入れの肥やしと成り果てている。
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