1 / 8
愛を取り戻したかった男の話
1
しおりを挟む
彼は慎重に車を走らせていた。砂利道はひどく車体が揺れ、彼の隣でうつむく体をも揺らす。
不自然なほど上下する首にぎょっとし、必然的に車は速度を落としていったが、幸いなことに後続車はなかった。
うだるような暑さの中、広がる平野と青空を映しながら、彼は蝉の鳴き声だけを耳に目的地へと向かう。
彼がその場所のことを耳にしたのはいつのことだったか。都市伝説のひとつとして聞いたようにも思われるが、はっきりとは覚えていない。ただ、そこはまさに楽園であり、失ったものを再び取り戻せる場所だということだけは記憶に焼き付いている。
――失ったもの、それは生涯を共にするはずだった伴侶。
二人の新居へ続く道には、途中、長い階段があった。
その日、重い荷物を手に彼女は階段を上がり、そして足を滑らせた。打ちどころが悪かったこと、あまり人の通る場所ではなかったこと、それぞれの要因が彼女を彼の手から永遠に奪い去る。
彼が彼女を見つけたときにはすべてが遅かった。散乱した荷物と、奇妙にねじ曲がった身体。そしてコンクリートに染み付いた、見慣れない濁った色。
何をすればいいのかわからなかった。救急車を呼べばよかったのだろうか。それとも警察を呼べばよかったのだろうか。既に息のない人間の今後をどこに伝えればいいのか、混乱する彼には判断がつかなかった。何が起きたのか理解できないまま、彼は彼女を自宅に留めておくことに決めた。もしかしたらただ意識を失っているだけかもしれない。汗ばむ手に伝わる冷たい体温を無視した淡い期待を抱いて。
――がくん、と車が大きく揺れた。どうやら何かに乗り上げてしまったらしい。
彼はひとつ舌打ちを漏らして外に出た。
ドアを開けた途端、空調の利いた車内からは考えられないほどの熱気が彼を襲う。微かに漂う甘い香りと強い日差し、そして騒がしい蝉の声に顔をしかめながら、彼は乗り上げてしまったものを確認した。
子供の大きさほどある木の板――否、それは看板だった。
今の出来事が原因か、大きく割れてしまっている。
罪悪感よりも苛立ちを覚えつつ、向かおうとしていた先に目をやると、そう遠くはない場所に家屋が見えた。
人のいる道を離れて数時間、やっと彼は目的地に辿り着いたのだった。
聞いた話が本当かどうか不安を感じながら、彼は助手席のドアを開く。
目を見開いたままの彼女と目が合った。
血の気の失せた頬に指を滑らせて、それから強張った身体を抱え上げる。硬直した体は本当に運びにくい。
腕の中の彼女を見下ろすと、落ちくぼみ、瞳孔が分らなくなるほど濁った目が何かを訴えかけてきているように見えた。
その光のない視線を受け止めきれず、彼は彼女の瞼を閉ざそうとした。が、硬直しきった瞼は彼の指に従うことを拒み、結局彼が彼女の視線から逃れることはかなわなかった。
甘い香りがする。近くに花の色は見えないし、咲き誇るような時期ではないとも思うが、依然として彼は微かな香りを感じていた。
それは人の住む方向へ歩みを進める度に強くなるような気がして。
疑問を感じつつも、彼女の重みで痺れていく腕がそれを後回しに考えるよう訴えていた。
彼の向かう先から一人、彼と同じかそれより少し年上に見える女性が歩いてくる。
この先が本当に彼の望みを叶える場所ならば、ここで彼が何を手にしていようと見過ごされるだろう。しかしそうでなければ。
一瞬の緊張、だが近付く女性に彼は自分と同じ姿を見る。
互いの顔が確認できるほど近付いたとき、女性の方から彼に声をかけてきた。
不自然なほど上下する首にぎょっとし、必然的に車は速度を落としていったが、幸いなことに後続車はなかった。
うだるような暑さの中、広がる平野と青空を映しながら、彼は蝉の鳴き声だけを耳に目的地へと向かう。
彼がその場所のことを耳にしたのはいつのことだったか。都市伝説のひとつとして聞いたようにも思われるが、はっきりとは覚えていない。ただ、そこはまさに楽園であり、失ったものを再び取り戻せる場所だということだけは記憶に焼き付いている。
――失ったもの、それは生涯を共にするはずだった伴侶。
二人の新居へ続く道には、途中、長い階段があった。
その日、重い荷物を手に彼女は階段を上がり、そして足を滑らせた。打ちどころが悪かったこと、あまり人の通る場所ではなかったこと、それぞれの要因が彼女を彼の手から永遠に奪い去る。
彼が彼女を見つけたときにはすべてが遅かった。散乱した荷物と、奇妙にねじ曲がった身体。そしてコンクリートに染み付いた、見慣れない濁った色。
何をすればいいのかわからなかった。救急車を呼べばよかったのだろうか。それとも警察を呼べばよかったのだろうか。既に息のない人間の今後をどこに伝えればいいのか、混乱する彼には判断がつかなかった。何が起きたのか理解できないまま、彼は彼女を自宅に留めておくことに決めた。もしかしたらただ意識を失っているだけかもしれない。汗ばむ手に伝わる冷たい体温を無視した淡い期待を抱いて。
――がくん、と車が大きく揺れた。どうやら何かに乗り上げてしまったらしい。
彼はひとつ舌打ちを漏らして外に出た。
ドアを開けた途端、空調の利いた車内からは考えられないほどの熱気が彼を襲う。微かに漂う甘い香りと強い日差し、そして騒がしい蝉の声に顔をしかめながら、彼は乗り上げてしまったものを確認した。
子供の大きさほどある木の板――否、それは看板だった。
今の出来事が原因か、大きく割れてしまっている。
罪悪感よりも苛立ちを覚えつつ、向かおうとしていた先に目をやると、そう遠くはない場所に家屋が見えた。
人のいる道を離れて数時間、やっと彼は目的地に辿り着いたのだった。
聞いた話が本当かどうか不安を感じながら、彼は助手席のドアを開く。
目を見開いたままの彼女と目が合った。
血の気の失せた頬に指を滑らせて、それから強張った身体を抱え上げる。硬直した体は本当に運びにくい。
腕の中の彼女を見下ろすと、落ちくぼみ、瞳孔が分らなくなるほど濁った目が何かを訴えかけてきているように見えた。
その光のない視線を受け止めきれず、彼は彼女の瞼を閉ざそうとした。が、硬直しきった瞼は彼の指に従うことを拒み、結局彼が彼女の視線から逃れることはかなわなかった。
甘い香りがする。近くに花の色は見えないし、咲き誇るような時期ではないとも思うが、依然として彼は微かな香りを感じていた。
それは人の住む方向へ歩みを進める度に強くなるような気がして。
疑問を感じつつも、彼女の重みで痺れていく腕がそれを後回しに考えるよう訴えていた。
彼の向かう先から一人、彼と同じかそれより少し年上に見える女性が歩いてくる。
この先が本当に彼の望みを叶える場所ならば、ここで彼が何を手にしていようと見過ごされるだろう。しかしそうでなければ。
一瞬の緊張、だが近付く女性に彼は自分と同じ姿を見る。
互いの顔が確認できるほど近付いたとき、女性の方から彼に声をかけてきた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる