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第1章 始まりの街『グリィト』
閑話3 『異世界』で目覚める、セリエーヌ
朧気な意識が、次第に浮上してきた。
虚ろなまま目蓋を開けると、滲んだ視界が広がっていた。
そして、ゆっくりと彼女は声を絞り出した。
「ぅ……あ、……こ、こは、どこ……?」
遅れて、自分の体は机に突っ伏している体勢にあることを理解する。
痙攣したように震える腕。
目一杯に力を込め、ようやく起き上がった。
視界も、だんだんと明確に外界の像を結び始める。
そこで、周囲の異様さに絶句した。
辺り一面、見たこともない物体であふれていたからだ。
中でも、自らの目の前の机に鎮座する、薄型の金属製の謎の箱に視線を落とす。
「これ、は……魔道具……? 見たこと、ない、形……」
その箱の表面には、様々な数字や文字があった。
それらの文字や数字は、その箱の下に連結している無数の突起に描かれた文字と部分的に一致していた。
「なんなん、だろう……コレ……」
そう呟くと同時、ウィンドウ画面が表示される。
―――――――――――――――――――
【パソコン】:パーソナルコンピューターの略称。汎用的な機能性と広い拡張性を有する小型電子計算機。個人利用からビジネス利用まで用途は多岐に渡り、日本社会で生活する上では必須アイテムの一つ。
―――――――――――――――――――
彼女は、ぱちくりと瞬きをした。
「パソコン……パーソナルコンピューター……!? な、なにそれ!?」
慌ててキョロキョロと周囲を見回も、辺りは無人だった。
だが、いま目の前にある謎の機械――パソコンなるものがどの机にも配置されている。自分の前にあるもの以外のパソコンの画面は全て真っ暗だが。
他のパソコンは機能が停止しているのだろうか。
「ここは、どこなんだろう……私は、どうしてこんな所に――――あっ」
混乱する脳で必死に直前の記憶を手繰り寄せ、はたと気付いた。
自分が行った、『ランダム転生魔法』の存在。
非現実的で荒唐無稽に思える馬鹿げた魔法を、己が持てる全能力を駆使して本気で実行に移した、あの研鑽と苦難の日々。
――この状況、間違いない。
彼女の持つ直感が、即座に『解』を導き出した。
「私は、『ランダム転生魔法』を成功させて――――!」
その直感にカッと体が熱くなると同時、天空から女性の声が降り注いだ。
《やーっと起きましたかー!!》
「はわわっ!?」
《いやー、やってくれましたねぇ! 人の身で失われた神の魔法である『ランダム転生魔法』を再現し、それを完成させた稀代の才媛――セリエーヌ=フェルマーレさーん!?》
彼女――セリエーヌは、ビクン! と体を震わせた。
恐る恐る、問いかける。
「だ、誰、ですか……!?」
《私は女神アスティアーネです。あなたが元居た世界、アストルの神の一柱ですよ》
「女神、アスティアーネ、様……!」
セリエーヌは震える声で自身の直感の真偽を問うた。
「そ、それじゃあやっぱり私は『ランダム転生魔法』を……」
《ええ。無事成功させて、別人の肉体を乗っ取ったというわけですよ》
「えっ……乗っ取った……?」
セリエーヌは言葉を失った。
が、当の女神は軽い口調で言う。
《あら、そこまでは知らなかったんですか? 『ランダム転生魔法』は、転生先の肉体に人格が宿っていた場合、強制的にその元の人格を昇天させてしまう効果があるのですよ。表現は悪いかもですが、どこぞの誰かの魂を殺して、その肉体を乗っ取るような形になりますね》
セリエーヌは目の前が真っ暗になるような罪悪感に襲われる。
「そ、そんな……! なら、この肉体を持っていた女性は――」
《死にました》
息が止まった。
自分がしでかした事の重大さに目眩がする。
しかし、女神アスティアーネは、変わらぬ口調で続けた。
《そして、今はあなたの肉体に転生してアストルで暮らしています》
「――……えっ!?」
予想外過ぎる言葉に、セリエーヌは間抜けな声をあげてしまった。
「そ、それじゃあ、その方は私の体で生きているってことですか?」
《そうですね。ゆるふわ金髪幼女ヒャッハー! とか言って喜びまくってましたよ》
よく分からないが、楽しそうなら良かったか。
しかし、すぐにセリエーヌは大きな問題点に気付く。
「で、でも待って下さい! もし私の肉体に転生したなら、その人にはとてつもない苦痛と障害の暮らしが……!!」
《あなたの魔眼のことでしたら、私の方でその場しのぎのスキルを与えましたのでご安心を。『セリエーヌ』という女の子が持って生まれた運命に関しては干渉はできませんが……まあ、見てる限りどうにかこうにか生き延びて頑張ってるっぽいですよ》
この間も殺し屋組織をぶっ潰してましたしー、と呑気な声で女神が続ける。
セリエーヌは、その言葉が信じられずにいた。
いや、女神本人が言っているのだからきっと真実なのであろうが、自身の常識と境遇を鑑みれば土台あり得ない話をされている気分だ。
「殺し屋組織――それはきっとお父様の差し金でしょうが、それを壊滅とは、凄いですね……」
《異世界ハイになってるのかもしれませんね。ま、とにかくあなたが奪った肉体の女性もあなたの肉体を使って結構楽しんでるみたいなので、そう気負う必要もないですよ》
そう言われると、心がずっと軽くなる。
セリエーヌはほっと胸を撫で下ろした。
《ていうか、今の問題はあなたの方ですよ! 私がこうしてメッセージを送ったのは、あなたに色々と伝えなきゃいけないことがあるからです!》
「は、はい!」
セリエーヌは背筋をピシッとした。
《まずはあなたの肉体についてです。そちらは大人の女性の体ですが、不調はありますか?》
セリエーヌは立ち上がって軽く体を動かしてみる。
背がだいぶ高くなっているから少し戸惑いはあるものの、いずれ慣れるだろう。
ふと隣の席の真っ暗なPC画面に自分の姿が移った。
こういう顔なんだ、とセリエーヌは思い、自分のほっぺやおでこをペタペタと触った。
ひとしきり身体チェックを行ってから、セリエーヌは空へ返答する。
「確認しましたけど、問題なさそうです! あっ!」
喜びの感情が出かかったセリエーヌは、ハッと目を閉じて手で隠した。
そんなセリエーヌを見下ろすように、アスティアーネの声が響く。
《なら良かったです。あと、あなたの肉体は『水城愛璃』さんという方のものなので、例の『魔眼』はもうないですよ》
「あっ……そ、そう、でした」
セリエーヌの魔眼は、感情が高ぶると魔法を暴発してしまう。
これはセリエーヌが克服しようと躍起になり、ついぞ克服しきれなかった負の力だ。
《試しに、ちゃんと自分の顔を見てみたらどうですか? 多分、そこら辺のデスクを漁ったら手鏡の一つくらい入ってると思いますよ》
「そ、そうですか」
他人のデスクを勝手に漁ることに少し罪悪感を覚えつつも、セリエーヌは自席の引き出しを開けていく。
無数のファイルや書類が詰まったその引き出しの中には、折り畳み式の手鏡が一つ収まっていた。
それをパカリと開けて鏡の前に自分の顔を晒す。
その瞳は、黒かった。
「ほ、本当だ……! 赤色でも青色でもない、黒い瞳――黒一色の、目!!」
セリエーヌが生まれた時から持っていた派手なオッドアイとは無縁の、地味な黒い瞳が鏡に移る。
セリエーヌは無情の喜びと安堵に包まれ、ハッとそれを抑え込もうとした後、もう感情を抑えなくても良いんだと再認識した。
《これで分かったでしょう? もうあなたが持っていた悪しき『魔眼』とはオサラバしたって。良かったですね、もうこれからは歓喜に叫んでもわんわん泣き喚いても、どんな感情をどれだけ爆発させようが気にする必要はないんですよ》
「は、はい……!」
《ああ、あと一つ言っておきますが、この世界には魔眼どころか、魔法や魔力という存在すら皆無です。そんなこと言ってたら頭のおかしな人だと思われるので、気をつけてください》
「えっ、魔力も、魔法も、ないんですか……!?」
さすがにセリエーヌは驚いた。
魔法も魔力もなくて、この世界はどうやって文明を維持しているのか?
「いや、今はどうだっていいか……とにかく、あの魔眼と、お父様から逃れられたなら……」
セリエーヌ=フェルマーレは『天才』である。
物心ついた時から徹底的な魔法の座学と実技を叩き込まれ、『幽閉塔』に軟禁されても血の滲むような努力を続け、五歳を迎える前に死を覚悟で牢獄のような家から飛び出した。
その後は親切な『錬金術師』に匿われて命からがら生き延び、ついに六歳にして魔法大学院を首席で修了するレベルの領域に到達した。
しかし、この世界ではセリエーヌの知識も常識も通用しない。
魔法も、魔物も、ギルドも、錬金術も、ダンジョンも、神獣も、精霊も、――げに恐ろしき『公爵家』さえも、ここには存在しなかった。
その事実だけで、セリエーヌは途方もなく心が軽くなる。
《ま、ひとまず問題なさそうだったら安心しました。一応『言語翻訳』のスキルはつけているので読み書きや会話は大丈夫だと思います。あと気になるものがあれば『鑑定』というスキルで自分で調べて学習してくださいね》
「そ、それは助かります!」
《では、私はこの辺りで。たまに様子をうかがいに来るので、新しい世界で頑張ってくださいな~》
ブツン、と通信が切断されるような感覚。
セリエーヌは、女神アスティアーネが去ったのだと悟った。
「……新しい世界。ここから、私の人生をやり直せるんだ……!」
セリエーヌはワクワクしていた。
知りたいこと、学びたいこと、体験したいことが山ほどある。
思わず笑みがこぼれて今後の動きを考えていると、背後から大きな声が飛んできた。
「水城さん! こんな朝っぱらからそんなところに立って何やってんの!」
「ひゃわっ!?」
振り返ると、三十代半ばくらいの女性が立っていた。
その後ろから、数人の人たちがぞろぞろと入ってくる。
皆、同じような黒っぽい服を着ていた。
今の自分も着用しているものと似ている。
密かに鑑定してみると、この服はスーツというらしい。
「ったく、そんな馬鹿みたいなことしてるくらいなんだから、昨日頼んでおいた資料ちゃんとできてんでしょうね!?」
「えっ、あ、あの……資料、って……」
セリエーヌが返答しきる前に、女性はツカツカとこちらに寄り、デスクのパソコンを覗き見た。
そして、『水城愛璃』のデスクにあるパソコン画面に意味不明な文字の羅列しか記入されていないことを認識した女性は、キッと目尻をつりあげて詰め寄ってきた。
「ちょっとアンタ! この資料全然できてないじゃない! どうなってんのよ!!」
「え、い、いや、ええと……」
「この資料、先方に渡すの今日の十四時なのよ!? どうすんのよ! アンタ社会人としての自覚あんの!!」
物凄い剣幕で怒る女性に、セリエーヌは『幽閉塔』で経験した実父の怒号がフラッシュバックした。
動機がして、呼吸が乱れる。
吐き気がして、目眩がして、体中が締め付けられる感覚に襲われる。
「ご、ごめんなさい! 殴らないで……! 蹴らないで……! 痛いことしないでぇ……!!」
セリエーヌは崩れ落ちるように、その女性の足にすがりついた。
――二十五歳の成人女性、『水城愛璃』の肉体で。
「な、なにしてるのよ!? は、離れなさいよ!」
「ごめ、なさい……! 私、ちゃんとしますからぁ……ひっぐ、ちゃんと……お父様の、望む結果を、ぐすっ……出します、からぁ……!! だから……だからぁ……!!」
足にすがりついて大泣きする後輩に、女性はぞっとして周りに助けを求めた。
「ち、ちょっと誰か来てー!! この子、働き過ぎでおかしくなっちゃってるっ!!」
「うわぁあああああああ~~~ん!!」
こうしてセリエーヌは、右も左も分からない異世界――『日本』で新たな一歩を踏み出すのだった。
虚ろなまま目蓋を開けると、滲んだ視界が広がっていた。
そして、ゆっくりと彼女は声を絞り出した。
「ぅ……あ、……こ、こは、どこ……?」
遅れて、自分の体は机に突っ伏している体勢にあることを理解する。
痙攣したように震える腕。
目一杯に力を込め、ようやく起き上がった。
視界も、だんだんと明確に外界の像を結び始める。
そこで、周囲の異様さに絶句した。
辺り一面、見たこともない物体であふれていたからだ。
中でも、自らの目の前の机に鎮座する、薄型の金属製の謎の箱に視線を落とす。
「これ、は……魔道具……? 見たこと、ない、形……」
その箱の表面には、様々な数字や文字があった。
それらの文字や数字は、その箱の下に連結している無数の突起に描かれた文字と部分的に一致していた。
「なんなん、だろう……コレ……」
そう呟くと同時、ウィンドウ画面が表示される。
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【パソコン】:パーソナルコンピューターの略称。汎用的な機能性と広い拡張性を有する小型電子計算機。個人利用からビジネス利用まで用途は多岐に渡り、日本社会で生活する上では必須アイテムの一つ。
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彼女は、ぱちくりと瞬きをした。
「パソコン……パーソナルコンピューター……!? な、なにそれ!?」
慌ててキョロキョロと周囲を見回も、辺りは無人だった。
だが、いま目の前にある謎の機械――パソコンなるものがどの机にも配置されている。自分の前にあるもの以外のパソコンの画面は全て真っ暗だが。
他のパソコンは機能が停止しているのだろうか。
「ここは、どこなんだろう……私は、どうしてこんな所に――――あっ」
混乱する脳で必死に直前の記憶を手繰り寄せ、はたと気付いた。
自分が行った、『ランダム転生魔法』の存在。
非現実的で荒唐無稽に思える馬鹿げた魔法を、己が持てる全能力を駆使して本気で実行に移した、あの研鑽と苦難の日々。
――この状況、間違いない。
彼女の持つ直感が、即座に『解』を導き出した。
「私は、『ランダム転生魔法』を成功させて――――!」
その直感にカッと体が熱くなると同時、天空から女性の声が降り注いだ。
《やーっと起きましたかー!!》
「はわわっ!?」
《いやー、やってくれましたねぇ! 人の身で失われた神の魔法である『ランダム転生魔法』を再現し、それを完成させた稀代の才媛――セリエーヌ=フェルマーレさーん!?》
彼女――セリエーヌは、ビクン! と体を震わせた。
恐る恐る、問いかける。
「だ、誰、ですか……!?」
《私は女神アスティアーネです。あなたが元居た世界、アストルの神の一柱ですよ》
「女神、アスティアーネ、様……!」
セリエーヌは震える声で自身の直感の真偽を問うた。
「そ、それじゃあやっぱり私は『ランダム転生魔法』を……」
《ええ。無事成功させて、別人の肉体を乗っ取ったというわけですよ》
「えっ……乗っ取った……?」
セリエーヌは言葉を失った。
が、当の女神は軽い口調で言う。
《あら、そこまでは知らなかったんですか? 『ランダム転生魔法』は、転生先の肉体に人格が宿っていた場合、強制的にその元の人格を昇天させてしまう効果があるのですよ。表現は悪いかもですが、どこぞの誰かの魂を殺して、その肉体を乗っ取るような形になりますね》
セリエーヌは目の前が真っ暗になるような罪悪感に襲われる。
「そ、そんな……! なら、この肉体を持っていた女性は――」
《死にました》
息が止まった。
自分がしでかした事の重大さに目眩がする。
しかし、女神アスティアーネは、変わらぬ口調で続けた。
《そして、今はあなたの肉体に転生してアストルで暮らしています》
「――……えっ!?」
予想外過ぎる言葉に、セリエーヌは間抜けな声をあげてしまった。
「そ、それじゃあ、その方は私の体で生きているってことですか?」
《そうですね。ゆるふわ金髪幼女ヒャッハー! とか言って喜びまくってましたよ》
よく分からないが、楽しそうなら良かったか。
しかし、すぐにセリエーヌは大きな問題点に気付く。
「で、でも待って下さい! もし私の肉体に転生したなら、その人にはとてつもない苦痛と障害の暮らしが……!!」
《あなたの魔眼のことでしたら、私の方でその場しのぎのスキルを与えましたのでご安心を。『セリエーヌ』という女の子が持って生まれた運命に関しては干渉はできませんが……まあ、見てる限りどうにかこうにか生き延びて頑張ってるっぽいですよ》
この間も殺し屋組織をぶっ潰してましたしー、と呑気な声で女神が続ける。
セリエーヌは、その言葉が信じられずにいた。
いや、女神本人が言っているのだからきっと真実なのであろうが、自身の常識と境遇を鑑みれば土台あり得ない話をされている気分だ。
「殺し屋組織――それはきっとお父様の差し金でしょうが、それを壊滅とは、凄いですね……」
《異世界ハイになってるのかもしれませんね。ま、とにかくあなたが奪った肉体の女性もあなたの肉体を使って結構楽しんでるみたいなので、そう気負う必要もないですよ》
そう言われると、心がずっと軽くなる。
セリエーヌはほっと胸を撫で下ろした。
《ていうか、今の問題はあなたの方ですよ! 私がこうしてメッセージを送ったのは、あなたに色々と伝えなきゃいけないことがあるからです!》
「は、はい!」
セリエーヌは背筋をピシッとした。
《まずはあなたの肉体についてです。そちらは大人の女性の体ですが、不調はありますか?》
セリエーヌは立ち上がって軽く体を動かしてみる。
背がだいぶ高くなっているから少し戸惑いはあるものの、いずれ慣れるだろう。
ふと隣の席の真っ暗なPC画面に自分の姿が移った。
こういう顔なんだ、とセリエーヌは思い、自分のほっぺやおでこをペタペタと触った。
ひとしきり身体チェックを行ってから、セリエーヌは空へ返答する。
「確認しましたけど、問題なさそうです! あっ!」
喜びの感情が出かかったセリエーヌは、ハッと目を閉じて手で隠した。
そんなセリエーヌを見下ろすように、アスティアーネの声が響く。
《なら良かったです。あと、あなたの肉体は『水城愛璃』さんという方のものなので、例の『魔眼』はもうないですよ》
「あっ……そ、そう、でした」
セリエーヌの魔眼は、感情が高ぶると魔法を暴発してしまう。
これはセリエーヌが克服しようと躍起になり、ついぞ克服しきれなかった負の力だ。
《試しに、ちゃんと自分の顔を見てみたらどうですか? 多分、そこら辺のデスクを漁ったら手鏡の一つくらい入ってると思いますよ》
「そ、そうですか」
他人のデスクを勝手に漁ることに少し罪悪感を覚えつつも、セリエーヌは自席の引き出しを開けていく。
無数のファイルや書類が詰まったその引き出しの中には、折り畳み式の手鏡が一つ収まっていた。
それをパカリと開けて鏡の前に自分の顔を晒す。
その瞳は、黒かった。
「ほ、本当だ……! 赤色でも青色でもない、黒い瞳――黒一色の、目!!」
セリエーヌが生まれた時から持っていた派手なオッドアイとは無縁の、地味な黒い瞳が鏡に移る。
セリエーヌは無情の喜びと安堵に包まれ、ハッとそれを抑え込もうとした後、もう感情を抑えなくても良いんだと再認識した。
《これで分かったでしょう? もうあなたが持っていた悪しき『魔眼』とはオサラバしたって。良かったですね、もうこれからは歓喜に叫んでもわんわん泣き喚いても、どんな感情をどれだけ爆発させようが気にする必要はないんですよ》
「は、はい……!」
《ああ、あと一つ言っておきますが、この世界には魔眼どころか、魔法や魔力という存在すら皆無です。そんなこと言ってたら頭のおかしな人だと思われるので、気をつけてください》
「えっ、魔力も、魔法も、ないんですか……!?」
さすがにセリエーヌは驚いた。
魔法も魔力もなくて、この世界はどうやって文明を維持しているのか?
「いや、今はどうだっていいか……とにかく、あの魔眼と、お父様から逃れられたなら……」
セリエーヌ=フェルマーレは『天才』である。
物心ついた時から徹底的な魔法の座学と実技を叩き込まれ、『幽閉塔』に軟禁されても血の滲むような努力を続け、五歳を迎える前に死を覚悟で牢獄のような家から飛び出した。
その後は親切な『錬金術師』に匿われて命からがら生き延び、ついに六歳にして魔法大学院を首席で修了するレベルの領域に到達した。
しかし、この世界ではセリエーヌの知識も常識も通用しない。
魔法も、魔物も、ギルドも、錬金術も、ダンジョンも、神獣も、精霊も、――げに恐ろしき『公爵家』さえも、ここには存在しなかった。
その事実だけで、セリエーヌは途方もなく心が軽くなる。
《ま、ひとまず問題なさそうだったら安心しました。一応『言語翻訳』のスキルはつけているので読み書きや会話は大丈夫だと思います。あと気になるものがあれば『鑑定』というスキルで自分で調べて学習してくださいね》
「そ、それは助かります!」
《では、私はこの辺りで。たまに様子をうかがいに来るので、新しい世界で頑張ってくださいな~》
ブツン、と通信が切断されるような感覚。
セリエーヌは、女神アスティアーネが去ったのだと悟った。
「……新しい世界。ここから、私の人生をやり直せるんだ……!」
セリエーヌはワクワクしていた。
知りたいこと、学びたいこと、体験したいことが山ほどある。
思わず笑みがこぼれて今後の動きを考えていると、背後から大きな声が飛んできた。
「水城さん! こんな朝っぱらからそんなところに立って何やってんの!」
「ひゃわっ!?」
振り返ると、三十代半ばくらいの女性が立っていた。
その後ろから、数人の人たちがぞろぞろと入ってくる。
皆、同じような黒っぽい服を着ていた。
今の自分も着用しているものと似ている。
密かに鑑定してみると、この服はスーツというらしい。
「ったく、そんな馬鹿みたいなことしてるくらいなんだから、昨日頼んでおいた資料ちゃんとできてんでしょうね!?」
「えっ、あ、あの……資料、って……」
セリエーヌが返答しきる前に、女性はツカツカとこちらに寄り、デスクのパソコンを覗き見た。
そして、『水城愛璃』のデスクにあるパソコン画面に意味不明な文字の羅列しか記入されていないことを認識した女性は、キッと目尻をつりあげて詰め寄ってきた。
「ちょっとアンタ! この資料全然できてないじゃない! どうなってんのよ!!」
「え、い、いや、ええと……」
「この資料、先方に渡すの今日の十四時なのよ!? どうすんのよ! アンタ社会人としての自覚あんの!!」
物凄い剣幕で怒る女性に、セリエーヌは『幽閉塔』で経験した実父の怒号がフラッシュバックした。
動機がして、呼吸が乱れる。
吐き気がして、目眩がして、体中が締め付けられる感覚に襲われる。
「ご、ごめんなさい! 殴らないで……! 蹴らないで……! 痛いことしないでぇ……!!」
セリエーヌは崩れ落ちるように、その女性の足にすがりついた。
――二十五歳の成人女性、『水城愛璃』の肉体で。
「な、なにしてるのよ!? は、離れなさいよ!」
「ごめ、なさい……! 私、ちゃんとしますからぁ……ひっぐ、ちゃんと……お父様の、望む結果を、ぐすっ……出します、からぁ……!! だから……だからぁ……!!」
足にすがりついて大泣きする後輩に、女性はぞっとして周りに助けを求めた。
「ち、ちょっと誰か来てー!! この子、働き過ぎでおかしくなっちゃってるっ!!」
「うわぁあああああああ~~~ん!!」
こうしてセリエーヌは、右も左も分からない異世界――『日本』で新たな一歩を踏み出すのだった。
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R指定は念の為です。
登場人物紹介は「11、15、19章」の手前にあります。
「小説家になろう」「カクヨム」にて、同時掲載しております。
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