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リンゴすりすり
しおりを挟むお母さんは玄関で黒いハイヒールをはいてから振り返り、「じゃあ、夕方まで留守番頼んだわよ」と言った。ハルカが「うん、任せといて」とうなずくと、後ろから二歳下の弟ヒビキが出て来て「ぼくにもちゃんと頼んでよ」と口をとがらせた。
「はいはい、ヒビキもちゃんと留守番できるよね」お母さんは笑ってうなずいた。「もう年長さんじゃなくて、小学校一年生だものね。お姉ちゃんとケンカしないと約束できる?」
ヒビキが「それはお姉ちゃん次第だね」と生意気なことを言ったので、ハルカがこっそり片ひじででつつくと、ヒビキが「痛てっ、お姉ちゃんが暴力ふるったー。三年生が一年生をひじでついたー」とわざと大きな声を出した。
お母さんはため息をついて、「本当にケンカとか、しないでよね。もし夕方まで何ごともなかったら、次の日曜日は遊園地に連れてってあげるけど、ケンカしたら行かないよ」と言い、「今日はお父さんとお母さんの大学時代のお友達の結婚式だから、どうしても夕方まで帰れないのよ。判ってくれてるよね」と不安そうな顔で念押しした。「あと、ささいなことで携帯とかに電話してこないでよ。終わるまで出られないと思うから」
お母さんはせっかく化粧をしたのに、顔をしかめたせいで、ファンデーションがちょっとひび割れていた。ハルカはもちろんそのことは黙っていた。
先に外に出ていたお父さんから「おい、タクシーが来たぞ」と声がかかり、お母さんは「本当に頼むわよ、二人で力を合わせてミッションをクリアするのよ」と言い置いて、玄関ドアを開けて出て行った。
ハルカが振り返って「夕方までケンカはなしだよ、遊園地に行きたいでしょ」と言うと、ヒビキは「判ってるよ。口きかなきゃいいんでしょ」とムカつく返答をした。
ヒビキはさっそくリビングのソファに寝転んでポータブルゲームを始めた。普段ならゲームは一日一時間ということになっているけれど、今日は堂々と長時間やるつもりらしい。
まあ、そうやってゲームでもしておいてくれた方が、ケンカにならなくて済むから好都合ではある。今は午前九時過ぎで、お父さんとお母さんが帰って来るのは六時過ぎの予定だから、九時間ぐらいある。夕食はみんなで回転寿司に行くことになっているが、それも姉弟ゲンカをしないことが条件だった。守れなかったら、レトルトカレーになるからな、とお父さんから言われている。
ハルカは階段を上がって自分の部屋に入り、ベッドに寝転んで、クラスメイトのナツキちゃんから借りた少女マンガの『てのひらの恋』第一巻を読み始めた。全六巻まるごと貸してもらえたので、今日はたっぷりとこの作品世界に浸るつもりだった。
三巻まで読み終えたところで壁の時計を見ると、そろそろ昼食という時間だったので、ハルカはベッドから下りて階段を下りた。
お母さんから渡されたメモによると、お昼はダイニングのテーブルに用意してあるコンビニ弁当を食べなさい、とのことだった。昨夜の段階では、お母さんが朝のうちに子ども二人分のお弁当を作るつもりだったらしいけれど、寝坊してしまったので、お父さんが朝のうちにコンビニに買いに行ってくれたのだ。
ダイニングのテーブルにあったエコバッグの中を見ると、唐揚げやミニハンバーグなどが入ったボリューム満点のお弁当が二つあっただけでなく、おやつとしてキットカットも二箱あった。お父さんはときどき、こういう優しさを見せてくれる。
ふと見ると、ヒビキはソファの上で横向きになっていた。ポータブルゲーム機は、カーペットの上に落ちていて、電源が入ったままになっている。
「こら、ヒビキ、何やってんのよ」
するとヒビキは「うーん」とうなって、「何か……だるい」と弱々しく言った。
「ゲームばっかやってるから、頭がぼーっとなったのよ。昼ご飯だから起きなって」
「今はいい……食べたくない……」
「まじで? あんたの大好きな唐揚げとミニハンバーグが入ってるよ。赤いウインナーも好きでしょ、シュウマイとか卵焼きも」
しかしヒビキは「うん……」と力なく言うだけで、寝返りを打って背を向けた。
珍しいこともあるものだ。普段なら、大喜びでがつがつ食べるはずなのに。でも、おとなしくしてくれているのはいいことだ。ハルカは「早めに食べなさいよ」と言い置いて、弁当一つと、麦茶を入れたコップを持って二階の自分の部屋へと戻った。自分の部屋で一人だけのご飯を食る、ということを前からしてみたかったのだ。
学習机でお弁当を食べ、それからは再びベッドに寝転んで『てのひらの恋』の続きを読んだ。主人公の女子中学生が、勇気を出してあこがれていたテニス部の先輩にコクったのだけれど、あっさりフラれて撃沈。この先どうなるのか。
最後の六巻目を読み終えて壁の時計を見ると、もうすぐ午後三時という時間だった。『てのひらの恋』の主人公の女子は結局、失恋を跳ね返してテニスの練習に励んで地方大会で上位入賞し、全然気になる存在じゃなかったはずの同学年のテニス部男子と恋の予感が、みたいな終わり方だった。そのテニス部男子も猛練習の末に、主人公の女子があこがれていた先輩男子を練習試合で打ち負かす、というなかなか盛り上がる結末だった。
マンガの余韻に浸りながらおやつといこう。ハルカが階段を下りて一階のリビングに行ってみると、ヒビキはまだソファに横になっていた。テーブルを見ると、お弁当も手をつけていないようだった。
「ヒビキ、あんたずっと寝てたの? 何やってんのよっ」
言いながら近づき、ヒビキを無理矢理起こそうと腕をつかまえたとき、その身体の熱さにぎょっとなった。見ると、ヒビキは顔に汗をかいていて、呼吸も何だか苦しそうだった。
「ヒビキ、どうしたの? 大丈夫?」と声をかけたけれど、ヒビキは「う……ん……」とかすれた声を出しただけだった。片手を伸ばしてヒビキの額を触ってみる。汗で濡れていて、かなりの熱があるようだった。
どうしよう。お母さんに電話しないと。
でも、すぐに思考が止まった。ささいなことで電話をかけてきたりするなと言われているのだった。ヒビキが熱を出してると伝えたところで、お父さんもお母さんも、大切な知り合いの結婚式を途中で退席して帰って来るなんて、できるはずがない。
「ヒビキ、水飲む?」
するとヒビキは、か細い声で「……アイスを食べたい」と言った。
ハルカは「判った、ちょっと待ってて」と言い置いて冷凍庫の扉を開け、「あ……」とつぶやいた。昨夜のお風呂上がりに、残っていた最後のカップ入りバニラアイスを食べたことを思い出したのだ。ヒビキに取られないよう、冷凍ご飯が入った密閉容器の裏に隠しておいて、一人でこっそりいただいたのだ。
「ヒビキ、アイスはないよ。でもヨーグルトだったらあるよ」
するとヒビキは、ソファに横たわったまま頭を横に振った。ヒビキはカルピスなら飲むけれど、ヨーグルトは苦手で、普段から食べようとしない。
代わりに、冷えた麦茶をコップに入れて、ストローもさして持って行ったけれど、ヒビキはほんの少し口をつけただけであまり飲まず、「リンゴすりすりが欲しい」と言った。
リンゴすりすりというのは、すりおろしリンゴのことだ。ときどきヒビキはお母さんにおねだりしてそれを作ってもらい、氷を混ぜて冷たくしたものをスプーンで食べている。
冷蔵庫の中をあらためてみると、奇跡的にリンゴが一個だけ残っていた。
「ヒビキ、リンゴあったよ。お姉ちゃんがリンゴすりすり、作ってあげるから」
するとヒビキが消え入りそうな声で、「うん、ありがと」と言った。ヒビキからそんな言葉を聞いたのって、もしかしたら初めてのことかもしれない。
すりおろしリンゴは要するに、リンゴの皮をむいて、おろし器ですり下ろせばいいのだから、やり方は判っていた。ただ、問題なのは、ハルカがナイフでリンゴの皮をむいたことがない、ということだった。
大丈夫。お母さんがやっていた手順を真似すればいい。ハルカは「できる、できる。楽勝、楽勝」と自分に言い聞かせて、キッチンにまな板を置き、フルーツナイフを用意した。
リンゴを置いて、上から四等分に切る。力を入れないとナイフの刃がなかなか入らなかったけれど、いったん入るとスコンと下まで切れた。
問題はここからだ。四分の一になったリンゴの皮をむかなければならない。芯の硬い部分は、すり下ろすときに残せばいい。ハルカは、お母さんがやっていた手順を思い出しながら、皮をむき始めた。
予想以上に手間がかかった上に、皮を厚くむきすぎた部分があったけれど、何とかやるべきことは終えることができた。あとはおろし器でリンゴをすれば任務完了だ。
そう思ったときに、左手の親指の異変に気づいた。
真っ赤な血が流れて、たちまち手首から前腕へとしたたり落ちていた。ハルカは「わっ」と叫んで、あわてて左手をシンクの方に持って行き、水道水を流して左手を洗った。
危ない、危ない。リンゴに血がついてしまうところだった。それにしても、いつこんな怪我をしてしまったのか。夢中でナイフを使っていたせいで、その瞬間がいつだったのか、全く判らない。痛みも感じないぐらいに集中していたということか。
水道水で洗いながら傷口を見ると、左手親指の、人さし指と向き合っている側に切り傷ができていた。幅は一センチもないぐらいだったけれど、ぱっくり割れたところから出血していて、なかなか止まりそうにない。
ハルカは、いったん左手の親指を口にくわえて血を吸いながら、右手でキッチンペーパーを三枚引っ張り出し、それを小さくたたんで、傷口に当てた。そのままキッチンペーパーを左手の親指にまきつけて、食器棚の引き出しから出した輪ゴムで固定した。
これでよし。ハルカは、左手の親指を作業にできるだけ参加させないように注意しながら、切ったリンゴをおろし器でする作業に取りかかった。
ガラスの容器の上におろし器をおいて左手で抑え、右手でリンゴをすり下ろしてゆく。リンゴはみるみる小さくなってゆき、二個目、三個目と順調だった。
だが、気がつくと左手の親指に巻いたキッチンペーパーが真っ赤に染まって、べとべとになっていた。ハルカはあわてて、新しいキッチンペーパーをたたんで左手親指を巻き直した。思っていた以上に血が流れ出ているので、少し気分が悪くなってきた。
冷蔵庫から氷を数個出して、すり下ろしリンゴが入っているガラス容器に投入し、スプーンで混ぜた。少し時間がかかりすぎたせいで、すり下ろしリンゴはちょっと色が濃くなっていたけれど、何とかでき上がった。
再び左手親指に巻いたキッチンペーパーが赤く染まり始めていた。ハルカはラップを小さめに切って左手親指にかぶせ、その上から再び輪ゴムで止めた。これでしばらくは時間が稼げるはずだ。
「ヒビキ、冷たいリンゴすりすりできたよー」
ハルカが言いながら持って行くと、ヒビキはつらそうに顔をしかめながらも、ソファが起き上がって、座り直した。「はい」と渡すと、ヒビキはかすかに笑って、「ありがとう」とうなずき、スプーンですくって食べ始めた。
「どう、美味しい?」と聞くと、ヒビキは小さくうなずいた。
よかった。これで少しでもヒビキが元気になってくれたら。ハルカは急に疲れを感じて、カーペットの上で横になった。少し休憩したかった。
思えば、ヒビキとのケンカはいつも、本当にどうどもいいような、ささいなことが原因だった。テレビのチャンネル争いとか、歯磨きをするときの洗面台の取り合いとか、しゃべってたら唾が飛んできたとか、玄関に置いてある靴を踏まれたとか。いつもヒビキの方が悪いと思っていたけれど、二歳も違うのだから、もっと余裕を持って接してあげればよかったような気がする。
熱を出して元気がなくなったヒビキと較べたら、普段の生意気でがさつなヒビキの方がよっぽどいい。ハルカは心の中で、早くヒビキがよくなりますように、と祈った。
いつの間にか寝入ってしまっていたようだった。「ハルカ、ハルカ」と肩を揺すられて目を覚ますと、お母さんがいた。
「あ、おかえり」と言うと、お母さん顔を震わせて「左手、どうしたのっ」と叫んだ。お父さんはスマホで誰かに「娘が左手を怪我していて、出血がひどいんです。ええ……とにかく、すぐにお伺いしていいでしょうか」とうわずった声で伝えていた。
その後、ハルカはお父さんに連れられて、近くの外科病院で手当を受け、二針縫うことになった。ハルカは縫うところを見るのが怖くて顔を背けていたけれど、麻酔の注射のお陰で、痛いというより、手にはめたグローブを修理してもらっているような感覚だった。
ヒビキの方は、お母さんの車で小児科の病院に行った。風邪だと診断されて、二日後には熱も下がって元気になった。ハルカの怪我の方が治るのに時間がかかりそうだった。
その間に、ヒビキは「ハルカ」と呼んでいたのがいつしか「お姉ちゃん」に変わり、ちょっとおとなしくなった。今のところ姉弟ゲンカはしていない。
次の日曜日、約束どおり、家族で遊園地に連れて行ってもらった。ヒビキと一緒にウォータースライダーに乗った後、ソフトクリームを食べた。ヒビキが「美味しいね」と笑いかけてきたときは、あんたキャラ変しすぎだよ、とからかいたくなったけれど我慢して、「うん、美味しいね」と笑顔を返した。
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