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第45話 逗留
ステップド準男爵領は、多忙ながらも、活気に満ちた平穏の中にあった。王家へ献上する産品の生産ノルマは、確かに厳しい。だが、エルキュールが整備した生産体制と、新たに領民となった者たちの懸命な働きにより、どうにか達成の目途は立っていた。
領民の生活は、確実に豊かになっている。新設された製紙工房では、かつてサイム領の農民だった者たちが、今や誇りを持った職人として、雪のように白い紙を漉いている。食卓には、肉や魚が並ぶ日が増え、子供たちの頬は、健康的な赤みを帯びていた。
その日、エルキュールは、領内の視察を終え、自室で新たな菓子の試作に没頭していた。領内で採れる木の実と、貴重な蜂蜜を使い、前世の記憶にある「タルト」という焼き菓子を再現しようとしていたのだ。甘く、香ばしい匂いが、部屋に満ちている。これこそが、彼が守りたかった、豊かで穏やかな「スローライフ」の象徴だった。
「エルキュール様! 王都より、勅使が!」
従士の慌てた声が、その甘い香りを打ち破った。エルキュールが執務室へ向かうと、そこには、国王の印璽が押された、新たな羊皮紙の巻物が届けられていた。父ガイウスが、緊張した面持ちで、その封を解く。
「……なんと」
そこに記されていたのは、予想だにしない内容だった。
『ステップド準男爵家嫡男、エルキュール・ステップド。その類まれなる才覚を、国王陛下は高く評価しておられる。よって、今季、王都に滞在し、『王室産業顧問』として、王国の産業発展に助言を与えるべし』
それは、拒否権のない、王命だった。
◇
「罠だ」
会議室で、ヴォルフガング叔父さんが、吐き捨てるように言った。「小僧を、俺たちの目から、そして、この領地という力の源泉から引き離し、王都という鳥籠に閉じ込めておくつもりだ」
「同感だな」と、ジョン叔父さんもうなずく。
「宮廷の連中が、何を考えているか分からん。エル一人で行かせるのは、危険すぎる」
父ガイウスも、不安げな表情で息子を見つめている。だが、エルキュールは、静かに首を横に振った。
「行かなければなりません。これは、王の命令であると同時に、我々が王国の貴族として認められた、何よりの証拠です。ここで背を向ければ、我々は全てを失うでしょう」
彼の覚悟は、決まっていた。
「父上、そして叔父さんたち。僕がいない間、この領地をお任せします。生産計画は、全てこの紙に。何か問題が起きた時のための対処法も、全て書き出してあります」
エルキュールは、彼が作り上げた、膨大な量のマニュアルと計画書を、三人の前に差し出した。それは、彼がいなくとも、この領地が動き続けられるように設計された、彼の知性の結晶だった。
◇
数週間後、エルキュールは、王都へと旅立った。見送りには、領民のほとんどが出てきた。元ステップド領民も、元サイム領民も、今は皆、同じ「ステップド準男爵領」の民として、彼らの若き指導者の身を案じ、その無事を祈
っていた。
「エル様、お気をつけて!」
「必ず、お戻りください!」
その声援を背に、エルキュールは、小さな、しかし護衛としては最精鋭の部下たちと、数人の若き文官だけを連れて、王都へと向かった。
馬車の窓から、遠ざかっていく故郷の姿を見つめる。前回、王都へ向かった時とは、全く違う感情が、彼の胸に去来していた。あの時は、必死の交渉に向かう、挑戦者だった。だが、今は違う。王国の政治という、巨大な舞台に、一人のプレイヤーとして、召喚されたのだ。
その先に待つのが、栄光か、あるいは破滅か。それは、まだ誰にも分からなかった。
領民の生活は、確実に豊かになっている。新設された製紙工房では、かつてサイム領の農民だった者たちが、今や誇りを持った職人として、雪のように白い紙を漉いている。食卓には、肉や魚が並ぶ日が増え、子供たちの頬は、健康的な赤みを帯びていた。
その日、エルキュールは、領内の視察を終え、自室で新たな菓子の試作に没頭していた。領内で採れる木の実と、貴重な蜂蜜を使い、前世の記憶にある「タルト」という焼き菓子を再現しようとしていたのだ。甘く、香ばしい匂いが、部屋に満ちている。これこそが、彼が守りたかった、豊かで穏やかな「スローライフ」の象徴だった。
「エルキュール様! 王都より、勅使が!」
従士の慌てた声が、その甘い香りを打ち破った。エルキュールが執務室へ向かうと、そこには、国王の印璽が押された、新たな羊皮紙の巻物が届けられていた。父ガイウスが、緊張した面持ちで、その封を解く。
「……なんと」
そこに記されていたのは、予想だにしない内容だった。
『ステップド準男爵家嫡男、エルキュール・ステップド。その類まれなる才覚を、国王陛下は高く評価しておられる。よって、今季、王都に滞在し、『王室産業顧問』として、王国の産業発展に助言を与えるべし』
それは、拒否権のない、王命だった。
◇
「罠だ」
会議室で、ヴォルフガング叔父さんが、吐き捨てるように言った。「小僧を、俺たちの目から、そして、この領地という力の源泉から引き離し、王都という鳥籠に閉じ込めておくつもりだ」
「同感だな」と、ジョン叔父さんもうなずく。
「宮廷の連中が、何を考えているか分からん。エル一人で行かせるのは、危険すぎる」
父ガイウスも、不安げな表情で息子を見つめている。だが、エルキュールは、静かに首を横に振った。
「行かなければなりません。これは、王の命令であると同時に、我々が王国の貴族として認められた、何よりの証拠です。ここで背を向ければ、我々は全てを失うでしょう」
彼の覚悟は、決まっていた。
「父上、そして叔父さんたち。僕がいない間、この領地をお任せします。生産計画は、全てこの紙に。何か問題が起きた時のための対処法も、全て書き出してあります」
エルキュールは、彼が作り上げた、膨大な量のマニュアルと計画書を、三人の前に差し出した。それは、彼がいなくとも、この領地が動き続けられるように設計された、彼の知性の結晶だった。
◇
数週間後、エルキュールは、王都へと旅立った。見送りには、領民のほとんどが出てきた。元ステップド領民も、元サイム領民も、今は皆、同じ「ステップド準男爵領」の民として、彼らの若き指導者の身を案じ、その無事を祈
っていた。
「エル様、お気をつけて!」
「必ず、お戻りください!」
その声援を背に、エルキュールは、小さな、しかし護衛としては最精鋭の部下たちと、数人の若き文官だけを連れて、王都へと向かった。
馬車の窓から、遠ざかっていく故郷の姿を見つめる。前回、王都へ向かった時とは、全く違う感情が、彼の胸に去来していた。あの時は、必死の交渉に向かう、挑戦者だった。だが、今は違う。王国の政治という、巨大な舞台に、一人のプレイヤーとして、召喚されたのだ。
その先に待つのが、栄光か、あるいは破滅か。それは、まだ誰にも分からなかった。
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