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第36話:下水道の闇
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鼻を突く腐臭と、肌にまとわりつくような湿気。 王都の華やかな大通りから一本入った裏路地、そのさらに地下数百メートルに広がる下水道で、男は泥水に膝まで浸かっていた。
「……クソッ、なんでこの俺が……」
男――かつて「光の勇者」と持て囃されたアルスは、錆びついた鉄の棒で排水溝に詰まったヘドロを掻き出しながら、呪詛のように呟いた。 数週間前までの煌びやかな鎧姿は見る影もない。今の彼は、ボロ布のような作業着を纏い、全身を汚泥に塗れさせていた。 右袖はだらりと垂れ下がり、中身がない。あのドラゴンブレスで焼失した右腕は、高位の治癒魔法でも戻らなかったのだ。
「おい、そこ! 手が止まってるぞ! 日が暮れるまでにノルマ終わらせろよ!」
地上から監督役の男の罵声が飛んでくる。 以前のアルスなら、そんな口を利いた人間に剣を向けていただろう。だが今の彼に、そんな気概は残っていない。 聖剣を失った違約金、治療費、そして装備の弁済。莫大な借金が、彼の首を物理的にも社会的にも絞め上げていた。
「わ、わかってるよ……!」
力なく返事をし、左手一本で懸命に作業を続ける。 仲間は去った。名声は地に落ちた。 残ったのは、空っぽの左手と、胸の奥でどす黒く燃え続ける「憎悪」だけだ。
(ジン……ジン……ッ!)
脳裏に浮かぶのは、自分を見下ろす黒髪の軍師の顔。 あいつが自分を捨てたせいでこうなった。あいつが俺の運を奪ったせいでこうなった。あいつが、あいつが、あいつが……。 その歪んだ思考だけが、今のアルスを突き動かす唯一の燃料だった。
その日の深夜。 与えられた粗末な寝床で、アルスが腐ったパンを齧っていると、二人の男が近づいてきた。 一人は太った商人で、もう一人は全身を黒衣で覆った護衛らしき男だ。
「やあやあ、元勇者様。お勤めご苦労様ですなぁ」
商人が下卑た笑みを浮かべて擦り寄ってくる。 この下水道の作業員を管理している闇ギルドの構成員だ。
「……何の用だ。今日の分の利息は払ったはずだぞ」
「ええ、ええ。ですがねぇ、元金が減らないことには、あなたは一生ここで泥遊びですよ? そこでだ。あなたに『特別な仕事』を紹介して差し上げようかと思いましてね」
商人は声を潜め、アルスの耳元で囁いた。
「王都の地下深く、古代の遺跡層で『ある物』が見つかりましてね。それを回収してきていただきたいのです」
「遺跡探索か? 片腕の俺にできるわけがないだろう」
アルスは鼻で笑った。 だが、商人の次の言葉が、彼の動きを止めた。
「ただの回収ではありません。その『ある物』とは……使い手の魂を食らい、強大な力を与えるという『呪われた魔剣』なのです」
「……魔剣?」
「はい。あまりに呪いが強すぎて、触れた者は次々と発狂するか干からびて死んでしまいましてね。そこで、かつて聖剣に選ばれたほどの『勇者の器』を持つあなたなら、あるいは適合するのではないかと」
商人はニタリと笑った。 要するに、ただの使い捨ての実験台だ。 普通の人間では耐えられない呪いのアイテムを、元勇者という頑丈な素材で試そうとしているに過ぎない。
「成功すれば、借金は全額帳消し。それどころか、その魔剣の力で失った右腕以上の『力』が手に入るかもしれませんよ?」
力。 その単語が、アルスの乾いた心に火をつけた。 今の自分には何もない。金も、名誉も、そしてジンに復讐するための力も。 このまま泥水の中で死ぬか、それとも命をチップにして、悪魔のテーブルに乗るか。
「……いいだろう」
アルスは立ち上がった。 その瞳には、かつての正義の輝きなど欠片もない。あるのは、復讐のためなら魂さえ売り渡すという、狂気じみた執念だけだった。
「俺自身を売る。その魔剣、俺が使ってやる」
「賢明なご判断です。では、こちらへ」
商人が道を開ける。 アルスは暗い通路の奥、さらに深い地下へと続く階段へと足を踏み出した。 そこは光の届かない場所。英雄が堕ちるべき、最期の場所。
(待っていろ、ジン。必ず……必ずお前を引きずり下ろしてやる……!)
闇に飲み込まれていく元勇者の背中は、何よりも恐ろしい「怪物」の誕生を予感させた。
「……クソッ、なんでこの俺が……」
男――かつて「光の勇者」と持て囃されたアルスは、錆びついた鉄の棒で排水溝に詰まったヘドロを掻き出しながら、呪詛のように呟いた。 数週間前までの煌びやかな鎧姿は見る影もない。今の彼は、ボロ布のような作業着を纏い、全身を汚泥に塗れさせていた。 右袖はだらりと垂れ下がり、中身がない。あのドラゴンブレスで焼失した右腕は、高位の治癒魔法でも戻らなかったのだ。
「おい、そこ! 手が止まってるぞ! 日が暮れるまでにノルマ終わらせろよ!」
地上から監督役の男の罵声が飛んでくる。 以前のアルスなら、そんな口を利いた人間に剣を向けていただろう。だが今の彼に、そんな気概は残っていない。 聖剣を失った違約金、治療費、そして装備の弁済。莫大な借金が、彼の首を物理的にも社会的にも絞め上げていた。
「わ、わかってるよ……!」
力なく返事をし、左手一本で懸命に作業を続ける。 仲間は去った。名声は地に落ちた。 残ったのは、空っぽの左手と、胸の奥でどす黒く燃え続ける「憎悪」だけだ。
(ジン……ジン……ッ!)
脳裏に浮かぶのは、自分を見下ろす黒髪の軍師の顔。 あいつが自分を捨てたせいでこうなった。あいつが俺の運を奪ったせいでこうなった。あいつが、あいつが、あいつが……。 その歪んだ思考だけが、今のアルスを突き動かす唯一の燃料だった。
その日の深夜。 与えられた粗末な寝床で、アルスが腐ったパンを齧っていると、二人の男が近づいてきた。 一人は太った商人で、もう一人は全身を黒衣で覆った護衛らしき男だ。
「やあやあ、元勇者様。お勤めご苦労様ですなぁ」
商人が下卑た笑みを浮かべて擦り寄ってくる。 この下水道の作業員を管理している闇ギルドの構成員だ。
「……何の用だ。今日の分の利息は払ったはずだぞ」
「ええ、ええ。ですがねぇ、元金が減らないことには、あなたは一生ここで泥遊びですよ? そこでだ。あなたに『特別な仕事』を紹介して差し上げようかと思いましてね」
商人は声を潜め、アルスの耳元で囁いた。
「王都の地下深く、古代の遺跡層で『ある物』が見つかりましてね。それを回収してきていただきたいのです」
「遺跡探索か? 片腕の俺にできるわけがないだろう」
アルスは鼻で笑った。 だが、商人の次の言葉が、彼の動きを止めた。
「ただの回収ではありません。その『ある物』とは……使い手の魂を食らい、強大な力を与えるという『呪われた魔剣』なのです」
「……魔剣?」
「はい。あまりに呪いが強すぎて、触れた者は次々と発狂するか干からびて死んでしまいましてね。そこで、かつて聖剣に選ばれたほどの『勇者の器』を持つあなたなら、あるいは適合するのではないかと」
商人はニタリと笑った。 要するに、ただの使い捨ての実験台だ。 普通の人間では耐えられない呪いのアイテムを、元勇者という頑丈な素材で試そうとしているに過ぎない。
「成功すれば、借金は全額帳消し。それどころか、その魔剣の力で失った右腕以上の『力』が手に入るかもしれませんよ?」
力。 その単語が、アルスの乾いた心に火をつけた。 今の自分には何もない。金も、名誉も、そしてジンに復讐するための力も。 このまま泥水の中で死ぬか、それとも命をチップにして、悪魔のテーブルに乗るか。
「……いいだろう」
アルスは立ち上がった。 その瞳には、かつての正義の輝きなど欠片もない。あるのは、復讐のためなら魂さえ売り渡すという、狂気じみた執念だけだった。
「俺自身を売る。その魔剣、俺が使ってやる」
「賢明なご判断です。では、こちらへ」
商人が道を開ける。 アルスは暗い通路の奥、さらに深い地下へと続く階段へと足を踏み出した。 そこは光の届かない場所。英雄が堕ちるべき、最期の場所。
(待っていろ、ジン。必ず……必ずお前を引きずり下ろしてやる……!)
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