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第88話:帰るべき場所へ
『天空の塔』を後にした俺たちは、最後の楔がある王都を目指して、雲海を抜けて地上へと降りていた。 ヴォルグの馬車は順調に飛行を続け、眼下には懐かしい平原が広がっている。
「……やっと、戻れるんですね」
リリが窓の外を見つめて呟く。 その横顔はどこか儚げで、夕日に透けてしまいそうだった。
「ああ。長い旅だったが、これで終わりだ。王都の地下にある最後の楔を折れば、天理の干渉は消える。お前を縛る鎖も、完全に断ち切れるはずだ」
俺はリリの肩を抱いた。 リリは俺の方を向き、ふわりと微笑んだ。
「はい。……楽しみですね、ジン様」
彼女は俺の手に自分の手を重ねた。 その時だ。
ゾクリ。
俺の背筋に、奇妙な悪寒が走った。 殺気ではない。もっと根本的な、喪失感のような感覚。 俺の手が、リリの手の感触を一瞬だけ「見失った」ような気がしたのだ。
「……リリ?」
俺は慌てて彼女の手を見る。 そこには、白く華奢な指がある。俺の手を握り返す力も、温もりもしっかりと感じられる。
「どうされましたか?」
「いや……なんでもない。気のせいだ」
俺は首を振った。 連戦の疲れが出ているのかもしれない。
◇
その日の夜。 一行は王都まであと一日の距離にある森で野営を張った。 いつものようにリリが夕食を作り、グレンたちが騒ぎ、ティアが何もないところで転ぶ。 平和な光景だ。
だが、一人(一匹)だけ、様子が違う者がいた。
「みゅう……」
ラクだ。 いつもならティアのドジで生まれた不運エネルギーを喜んで食べているはずなのに、今日は食欲がないのか、リリの足元にうずくまって動こうとしない。 悲しげな瞳で、じっとリリの右手を見つめている。
「どうしたの、ラクちゃん? どこか痛い?」
リリが屈み込み、右手でラクを撫でようとする。 その指先が、ラクの白い毛並みに触れた瞬間。
スッ。
リリの指が、ラクの体を「すり抜けた」。
「え……?」
リリが目を見開く。 それは物理的な透過ではなく、一瞬だけ彼女の指先が世界から「認識されなくなった」かのような、存在の希薄化だった。 すぐに実体に戻り、ラクの感触が手に伝わってきたものの、確かに今、透けたのだ。
「……っ」
リリは青ざめ、反射的に右手を隠すように胸元で握りしめた。 周囲の様子を窺う。 グレンとカエデは焚き火の番をしていて気づいておらず、ティアもスープの味見に夢中だ。ヴォルグは馬車の下に潜り込んでおり、そしてジンは――少し離れた場所で、地図を確認している。
リリは自分に言い聞かせるように、震える手を強く握った。 気のせいだ。疲れているだけだ。そう思い込もうとする。 だが、ラクだけは誤魔化せなかった。 この毛玉は「不運」の塊だ。世界の歪みに誰よりも敏感な存在なのだ。
「みゅう……(きえちゃう)」
ラクが小さな声で鳴き、リリの足に必死にしがみついた。 行かないで、と懇願するように。 その瞳から、ポロリと涙がこぼれる。
「ラクちゃん……」
リリは唇を噛み、ラクを抱き上げた。 その温もりが、今は何よりも愛おしく、そして恐ろしかった。
思い返せば、予兆はあった。 火山の洞窟で楔を折った時、指先が痺れるような感覚があった。深海の遺跡で楔を砕いた時、一瞬だけ視界が歪むようなめまいを覚えた。 そして今回、天空の塔の楔を破壊した直後、指先が透けた。
もし、この異変が「楔の破壊」と連動しているとしたら。 もし、自分が消えることが、世界を救う代償だとしたら。 それを知れば、ジンは必ず止まる。 世界を敵に回してでも、リリを守ろうとするだろう。 だが、それでは終わらない。天理の干渉は続き、いつかジンまで傷つけてしまう。
リリの心に、ある決意が芽生えた。 たとえこの身がどうなろうとも、ジンの望む未来を守り抜くこと。
「……大丈夫よ、ラクちゃん。私はどこにも行かないわ」
リリは嘘をついた。ラクに、そして自分自身に。 彼女は涙をこらえ、努めて明るい笑顔を作って振り返った。
「ジン様ー! ご飯ができましたよー!」
◇
その声に、俺が顔を上げる。 リリが手を振っている。 焚き火の光に照らされた彼女の姿は、どこか儚く揺らめいているように見えた。
「……ああ、今行く」
俺は一抹の不安を押し殺し、仲間たちの輪へと戻っていった。 最後の戦いが迫っている。 その裏で、俺たちの足元が音もなく崩れ始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
「……やっと、戻れるんですね」
リリが窓の外を見つめて呟く。 その横顔はどこか儚げで、夕日に透けてしまいそうだった。
「ああ。長い旅だったが、これで終わりだ。王都の地下にある最後の楔を折れば、天理の干渉は消える。お前を縛る鎖も、完全に断ち切れるはずだ」
俺はリリの肩を抱いた。 リリは俺の方を向き、ふわりと微笑んだ。
「はい。……楽しみですね、ジン様」
彼女は俺の手に自分の手を重ねた。 その時だ。
ゾクリ。
俺の背筋に、奇妙な悪寒が走った。 殺気ではない。もっと根本的な、喪失感のような感覚。 俺の手が、リリの手の感触を一瞬だけ「見失った」ような気がしたのだ。
「……リリ?」
俺は慌てて彼女の手を見る。 そこには、白く華奢な指がある。俺の手を握り返す力も、温もりもしっかりと感じられる。
「どうされましたか?」
「いや……なんでもない。気のせいだ」
俺は首を振った。 連戦の疲れが出ているのかもしれない。
◇
その日の夜。 一行は王都まであと一日の距離にある森で野営を張った。 いつものようにリリが夕食を作り、グレンたちが騒ぎ、ティアが何もないところで転ぶ。 平和な光景だ。
だが、一人(一匹)だけ、様子が違う者がいた。
「みゅう……」
ラクだ。 いつもならティアのドジで生まれた不運エネルギーを喜んで食べているはずなのに、今日は食欲がないのか、リリの足元にうずくまって動こうとしない。 悲しげな瞳で、じっとリリの右手を見つめている。
「どうしたの、ラクちゃん? どこか痛い?」
リリが屈み込み、右手でラクを撫でようとする。 その指先が、ラクの白い毛並みに触れた瞬間。
スッ。
リリの指が、ラクの体を「すり抜けた」。
「え……?」
リリが目を見開く。 それは物理的な透過ではなく、一瞬だけ彼女の指先が世界から「認識されなくなった」かのような、存在の希薄化だった。 すぐに実体に戻り、ラクの感触が手に伝わってきたものの、確かに今、透けたのだ。
「……っ」
リリは青ざめ、反射的に右手を隠すように胸元で握りしめた。 周囲の様子を窺う。 グレンとカエデは焚き火の番をしていて気づいておらず、ティアもスープの味見に夢中だ。ヴォルグは馬車の下に潜り込んでおり、そしてジンは――少し離れた場所で、地図を確認している。
リリは自分に言い聞かせるように、震える手を強く握った。 気のせいだ。疲れているだけだ。そう思い込もうとする。 だが、ラクだけは誤魔化せなかった。 この毛玉は「不運」の塊だ。世界の歪みに誰よりも敏感な存在なのだ。
「みゅう……(きえちゃう)」
ラクが小さな声で鳴き、リリの足に必死にしがみついた。 行かないで、と懇願するように。 その瞳から、ポロリと涙がこぼれる。
「ラクちゃん……」
リリは唇を噛み、ラクを抱き上げた。 その温もりが、今は何よりも愛おしく、そして恐ろしかった。
思い返せば、予兆はあった。 火山の洞窟で楔を折った時、指先が痺れるような感覚があった。深海の遺跡で楔を砕いた時、一瞬だけ視界が歪むようなめまいを覚えた。 そして今回、天空の塔の楔を破壊した直後、指先が透けた。
もし、この異変が「楔の破壊」と連動しているとしたら。 もし、自分が消えることが、世界を救う代償だとしたら。 それを知れば、ジンは必ず止まる。 世界を敵に回してでも、リリを守ろうとするだろう。 だが、それでは終わらない。天理の干渉は続き、いつかジンまで傷つけてしまう。
リリの心に、ある決意が芽生えた。 たとえこの身がどうなろうとも、ジンの望む未来を守り抜くこと。
「……大丈夫よ、ラクちゃん。私はどこにも行かないわ」
リリは嘘をついた。ラクに、そして自分自身に。 彼女は涙をこらえ、努めて明るい笑顔を作って振り返った。
「ジン様ー! ご飯ができましたよー!」
◇
その声に、俺が顔を上げる。 リリが手を振っている。 焚き火の光に照らされた彼女の姿は、どこか儚く揺らめいているように見えた。
「……ああ、今行く」
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