アウトシステム~「80点の楽園」か「150点の地獄」か。AIの正解を論破せよ。~

ジョウジ

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第6話:80点の檻

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 相葉 蓮(あいば れん)の戦場は、雲の上にあった。

 都市の中枢、ハイブ・タワーの四十五階。大手都市開発デベロッパー「アーク・ソリューションズ」の企画開発フロア。気圧調整されたエレベーターを降りると、そこには無菌室のような静寂が広がっていた。

 床は靴音を吸収する特殊素材。空気は森林浴と同等のマイナスイオン濃度に保たれ、微かに柑橘系の人工香料が香る。不快なものは何もない。湿度も、温度も、光量も、すべてがハルシオンによって「人間が最も効率的に作業できる数値」に固定されている。

 だが、蓮は息苦しさを感じていた。首元のネクタイが、絞首刑のロープのように気道を圧迫している気がした。

「――というわけで、相葉くんのプランAは却下だ」

 会議室の空気が、音もなく凍りついた。いや、凍りついたのではない。「最適化」されたのだ。発言の主は、テーブルの向かいに座る男、真島(まじま)。このプロジェクトの統括マネージャーであり、蓮が密かに「ミスター80点」と呼んで軽蔑している男だ。

 真島は、人好きのする穏やかな笑顔を浮かべながら、蓮が徹夜で練り上げた企画書――空中に展開された、複雑で美しい都市再開発の3Dモデル――に手を伸ばした。彼が指先を軽くスワイプする。ただそれだけで、蓮のモデルは瞬時に「真っ白な直方体」へと上書きされた。ハルシオンが推奨する、最も効率的で、最も無難な「規格品」のデータだ。蓮の創造性が、一瞬で「豆腐」のような無個性に塗りつぶされる。

「理由は分かっているね? 相葉くん」

「……リスク評価ですか? 私のプランの成功率は62%ですが、期待収益は――」

「違うよ」

 真島は、蓮の言葉を遮り、別のウィンドウを開いた。そこに表示されたのは、収益予測グラフではない。波打つ赤い折れ線グラフ――蓮の「生体ログ(バイタルデータ)」だった。

「君がこのプランを作成していた、昨夜23時から26時までのデータだ。見てごらん、この心拍数の乱れを」

 真島は、汚いものを指すように、赤いグラフのピークを指し示した。

「通常時より20%も高い。ドーパミンの分泌量も過剰だ。君は、このプランを作っている時、非常に『興奮』していたようだね」

「……仕事に熱中していただけです」

「それが『ノイズ』だと言っているんだ」

 真島は溜息をついた。本気で残念がっているような、あるいは出来の悪いペットを躾けるような溜息。

「興奮状態で作られたプランには、必ず『個人のエゴ』という不純物が混じる。それはハルシオンの調和を乱す『炎症』の元だ。我々の仕事は、都市に『熱』を生むことじゃない。市民に『安寧(フラット)』を提供することだ」

 真島は立ち上がり、蓮の肩をポンと叩いた。その手つきは、暴れる狂人を宥める看護師のように優しかった。

「君は優秀だ。だが、少し『情熱』という病気に罹っている。もっとAIを信じなさい。……楽になれるよ?」

 会議は終わった。プランB(豆腐)の採用が決定し、スタッフたちは「さすが真島さんだ」「無難で助かった」と、安堵の表情で退室していく。誰も、蓮のプランが秘めていた可能性になど見向きもしない。彼らが求めているのは「素晴らしい未来」ではなく、「トラブルのない明日」なのだ。

 蓮は一人、会議室に取り残された。白く、清潔で、無機質な空間。窓の外では、ARのクジラが優雅に空を泳いでいる。何もかもが嘘で、何もかもが軽い。

「……クソが」

 蓮は、ネクタイを乱暴に緩めた。喉が渇く。どれだけ高品質な水を飲んでも癒えない、魂の渇き。思考したい。選びたい。自分の脳髄から絞り出したアイデアで、この退屈な世界に風穴を開けたい。たとえそれが「炎症」だとしても、痛みこそが「生」の証じゃないか。

 蓮は、足元に置いていた鞄に手を伸ばした。その底に、重たい「異物」が眠っている。数日前、旧市街区のバーで、親友の海(かい)から譲り受けた黒い鉄塊。『アウトシステム(OS)』。

 指先が、冷たい金属の表面に触れた。ザラついた感触。その瞬間、蓮の背筋を電流のような戦慄が走り抜けた。

(……これを使えば)

 海は言っていた。『お前のインプラントより、もっと深く、もっと鋭く、システムの深層まで潜れる』と。

 だが、それは禁断の果実だ。このデバイスを『アルシオーネ』に接続した瞬間、蓮は「適合者」としての地位を捨て、海と同じ「異端」へと堕ちることになる。思考の負荷(ヒート)は脳を焼き、失敗の責任はすべて自分に降りかかる。真島の言う「安寧」とは対極にある、修羅の道。

「……ハハッ」

 蓮の口から、乾いた笑いが漏れた。恐怖? いや、違う。心臓が肋骨を内側から叩いている。耳の奥で、ドクン、ドクンと血液の流れる音が響く。この高揚感こそが、俺が求めていたものだ。

 蓮は、鞄から『OS』を取り出した。ずしりと重い。その質量が、蓮の手の中で確かな「現実」として主張している。彼は、その無骨なコネクタを、自身のうなじにある拡張ポートへと近づけた。

「見せてみろよ、海」

 蓮の瞳に、狂気にも似た野心の火が灯る。

「お前の言う『重力』が、俺をどこまで高く飛ばしてくれるのかを」

 カチリ。乾いた接続音が、静寂な会議室に響き渡った。

 瞬間。蓮の視界から、極彩色の空が消失した。代わりに溢れ出したのは、膨大な、あまりにも膨大な情報の奔流(ストリーム)。

「ぐ、ぅ……ッ!!」

 脳が焼けるような熱。視界の端が赤く染まる。ツー、と鼻から温かいものが垂れ、真っ白な会議テーブルに赤い染みを作った。鼻血だ。脳の処理速度に肉体が追いつけず、毛細血管が悲鳴を上げているのだ。だが、蓮はそれを拭おうともしなかった。痛みすらも、今は「生」の実感だった。

 世界が「灰色」に染まると同時に、無限の選択肢(ルート)が蓮の眼前に展開された。会議室の白い壁が、無数のグリッド線に分解され、その向こうにある「構造」が透けて見える。

 ここには、檻がない。80点の天井もない。あるのは、どこまでも広がる荒野と、自分で踏み出すべき道だけだ。

 蓮は、真島に却下された「プランA」のデータを呼び出した。削除はしない。彼は血のついた指で空中のキーボードを叩き、そのデータを、ハルシオンの監視が届かない「深層領域」へと格納した。今はまだ、眠らせておく。だが、必ずこの牙で、あの白い豆腐を噛み砕く時が来る。

「……ああ」

 蓮は、灼熱の中で恍惚と呻いた。口元が、三日月のように歪む。口腔内に広がる鉄錆の味を、蓮は舌なめずりして飲み込んだ。

「これが、自由か」

 会議室には、鼻血を流しながら笑う男の姿だけがあった。
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