アウトシステム~「80点の楽園」か「150点の地獄」か。AIの正解を論破せよ。~

ジョウジ

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第8話:オーバーヒート

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 相葉 蓮(あいば れん)の世界は、加速していた。

 ハイブ・タワーの最上層、プロジェクトルーム。密室に響くのは、呼吸音でも空調の音でもない。硬質で、無慈悲な打鍵音だけだ。

 タタタタタタタタタタ……!

 蓮の指先は、肉眼では残像しか捉えられない速度で動いている。叩いているのではない。撫でているのでもない。脳内から溢れ出る情報の奔流を、物理世界に定着させるために、キーボードというボトルネックを破壊しようとしているかのようだ。その音は、戦場における機関銃の掃射音に似ていた。

「あ、相葉チーフ! 第3セクターの資材調達、ハルシオンの承認が……!」

 部下が駆け寄ってくる。蓮の目には、その動きが水中を泳ぐ魚のように緩慢に見えた。口の動きが遅い。瞬きが遅い。情報の伝達速度が、絶望的に遅い。

「……物流ドローンの同期に、0.8秒の遅延予測が……」

「遅い」

 蓮は、部下の言葉を食い気味に遮った。視線は手元のコードから外さない。

「0.8秒? 永遠かよ。マニュアル操作に切り替えて、ルートB-4を経由させろ。信号同期を0.2秒前倒しにすれば帳尻が合う」

「えっ、ですが、それは安全マージンを……」

「安全マージンなんて無駄だ。ハルシオンの過保護な計算など捨てろ。俺の計算通りにやれば、ドローンは接触しない。――次!」

 部下は青ざめた顔で「は、はい!」と走り去った。蓮は舌打ちをした。どいつもこいつも、ノロマばかりだ。彼らの思考速度は「80点」で停止している。だから、蓮が提示する「150点」のスピードに、物理的にも精神的にも追いつけないのだ。

 ふと、蓮は顔を上げ、一面のスマートガラス越しに眼下の都市を見下ろした。夜の帳が下りたメガロポリス。無数の物流ドローンが、光の点滅となって空を行き交っている。

「……右だ」

 蓮が左手でキーを叩く。

 瞬間、窓の外を飛ぶ数百のドローンの光が、まるで蓮の指先に見えない糸で操られているかのように、一斉に軌道を変えた。

 赤いテールランプの光跡が、美しい幾何学模様を描いて夜空を切り裂く。物理法則すらも、今は蓮の思考の支配下にあった。彼は指揮者であり、この都市という巨大なオーケストラの独裁者だった。

「チッ……ぬるいんだよ」

 蓮は、うなじに接続された『アウトシステム(OS)』の熱を感じていた。熱い。脳髄が沸騰しそうだ。思考負荷に応じて、黒い鉄塊は恐ろしいほどの高熱を発している。ワイシャツの襟元は汗でぐっしょりと濡れ、皮膚が低温火傷のようにヒリヒリと痛む。だが、この痛みこそが燃料だった。

「……相葉くん、少し休憩したらどうだ?」

 昼休み。誰もいなくなったオフィスで、真島(まじま)が声をかけてきた。かつての上司。今は、蓮の革命を指をくわえて見ているだけの「古びた計算機」。

「休憩?」

 蓮は手を止めずに鼻で笑った。

「真島さん。あなたがコーヒーを飲んで『あー美味しい』と安らいでいる間に、俺はこの街の物流効率を3%改善しましたよ。その損害額を計算できますか?」

 真島は眉をひそめた。その視線は、蓮のデスクの上に置かれた「それ」に注がれていた。銀色のパウチ容器。成分調整された完全食(コンプリート・フード)。味も香りもない、ただ栄養を摂取するためだけの流動食だ。

「……君、またそれか。食事くらい、ちゃんとしたものを噛んで食べないと」

「噛む時間が無駄なんです」

 蓮はパウチを手に取り、ゼリー状の中身を一気に喉に流し込んだ。味気ない。薬品のような後味が舌に残る。だが、摂取にかかる時間はわずか10秒。消化にかかるエネルギーも最小限。食後の眠気も起きない。完璧だ。

「食事とは、栄養補給です。味覚を楽しむなんていう快楽のために、貴重な思考リソースと時間を割くなんて、非効率の極みだ」

「相葉くん。人間は機械じゃないんだぞ」

「機械以下ですよ、今のあなたたちは」

 蓮は空になったパウチをゴミ箱に投げ捨て、ギラついた目で真島を睨みつけた。

「ハルシオンに餌をもらって、言われた通りに動くだけ。……俺は違う。俺は進化しているんだ。この『熱』が、俺をより高い次元へと押し上げてくれる」

 真島は、何かを言いかけたが、蓮の異様な迫力――全身から立ち上る焦げたような臭いと、充血した眼球――に気圧されたように口を閉ざした。そして、「……壊れるぞ」とだけ言い残して、去っていった。

 壊れる? 蓮は嘲笑した。逆だ。俺は今、かつてないほど完成されている。

 夜。深夜二時を過ぎても、ハイブ・タワーの明かりは消えない。蓮は一人、光の洪水の中にいた。

 プロジェクト『ニューロン・グリッド』。旧市街区の混沌としたエネルギーを、高効率居住区の整然としたシステムに「接ぎ木」する、禁断の大手術。その設計図を描けるのは、世界でただ一人、相葉 蓮だけだ。

 その時、手元の端末が震えた。個人の通信回線。送信者は『海』。

『蓮、大丈夫か? 真島さんから聞いた。少し休みを入れた方がいい。……OSの負荷は、お前の想像以上に――』

 心配のメッセージ。かつての親友からの言葉。だが、加速した蓮の脳には、それは「0.1秒の思考遅延を生むノイズ」としか認識されなかった。文字を読む時間が惜しい。意味を理解するリソースが惜しい。

「……うるさい」

 蓮は、内容を最後まで読むこともなく、無表情で通知をスワイプして消した。ついでに、海からの通知設定を「ミュート」に切り替える。今の俺に必要なのは、ブレーキを踏む友人ではない。アクセルを踏み続ける燃料だけだ。

 ジジッ、と嫌な音がして、視界にノイズが走る。首元の接続部が激しく脈打ち、警告表示が出る。

『System Overheat. Cooling Required.』

「……チッ」

 蓮の加速した思考は、コンマ1秒でリスク計算を完了していた。このまま稼働を続ければ、あと38分でOSの冷却機能が限界を迎え、強制シャットダウンに至る。神経系への不可逆的なダメージが発生する確率、42%。

 蓮は、引き出しから無骨なスプレー缶を取り出した。電子機器の回路冷却用、工業用コールドスプレー。人体への使用は厳禁されている、マイナス40度の冷気を噴射する代物だ。

 蓮は躊躇なく、熱を持った『OS』と、自分のうなじに向けてノズルを押し付けた。

 プシューッ!!

 激しい噴射音と共に、白煙が上がる。

「ぐ、うぅ……ッ!!」

 肉が焼けるような熱と、細胞が凍りつく冷気が同時に襲いかかる。皮膚が白く変色し、霜が降りる。パキパキと皮膚が凍る音が聞こえる。だが、蓮はその激痛に顔を歪めながらも、恍惚とした笑みを浮かべていた。

 痛みが、眠気を吹き飛ばす。冷気が、沸騰した脳を強制的に鎮火させる。壊れていく肉体の感覚だけが、精神の速度を保証してくれる。

「もっとだ……もっと熱くなれ」

 蓮の瞳から、人間らしい「光」が消え失せ、代わりに冷徹な「青い炎」が宿っていく。彼はもう、適合者(人間)ではない。自らを燃料にして稼働する、一個の「システム」へと変貌しようとしていた。

 窓の外では、極彩色のARに彩られた街が、何も知らずに眠っている。その平和な寝息を、蓮は王の玉座から、蔑みと優越感を持って見下ろしていた。
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