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第17話:マニュアル外の事態
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都市は、死んだように静まり返っていた。だが、ハイブ・タワーのプロジェクトルームだけは、相葉 蓮(あいば れん)の絶叫と打鍵音で満たされていた。
「動け……動けよッ!!」
蓮は、非常用電源で稼働するコンソールにしがみつき、死に物狂いでログを遡っていた。爪が割れ、キートップに血が滲む。
なぜだ。なぜ止まった。俺の理論は完璧だったはずだ。どこに穴があった? 誰が邪魔をした?
「……あ」
蓮の指が、ある一行のログで止まった。膨大なコードの海の中に、深紅にハイライトされたエラー箇所。D-4交差点の制御パラメータ。
Latency_Limit = 0.05;
「……は?」
蓮は、自分の目を疑った。瞬きをして、もう一度見る。数字は変わらない。
0.05。
馬鹿な。俺はあそこで、信号との同期を完璧にするために、ドローンを一瞬だけ減速させるつもりだった。そのための許容誤差は「0.005(5ミリ秒)」と入力したはずだ。
だが、画面に刻まれているのは「0.05(50ミリ秒)」。
桁が一つ、足りない。
「50ミリ秒も……ズレを許したのか?」
蓮の脳内で、加速された思考が瞬時に物理シミュレーションを行った。
物流ドローンの平均巡航速度は、秒速約28メートル。50ミリ秒のズレは、距離にして「1.4メートル」の誤差を生む。
「……1.4メートル」
蓮は、血の気が引くのを感じた。
通常なら、大した距離ではないかもしれない。だが、蓮が構築した『ニューロン・グリッド』は、極限の輸送効率を叩き出すために、ドローン同士の車間距離を「30センチ」まで詰めていた。
「あ、アア……」
蓮の喉から、乾いた音が漏れた。
30センチの間隔しかない高速隊列の中で、1.4メートルの誤差が許容されたらどうなるか。計算上の座標が、後続機と完全に「重複」する。
システムはそれを「衝突確定」と判断し、物理的な破壊を防ぐために、全機体にハードウェアレベルでの「緊急停止(エマージェンシー・ブレーキ)」を命令する。
時速100キロからの、一斉急停止。それが、あのカスケード(連鎖衝突)の正体だった。
「俺が……?」
蓮は、震える手で自分の指先を見つめた。
ハッキングでも、バグでもない。ただのタイプミス。あの時、一瞬のマイクロスリープの中で指が滑った、たった一度の打鍵。そして、OSからの警告を「うるさい」と握りつぶした、あの一瞬の傲慢。
それが、意図せぬ「急ブレーキ」となり、この都市を殺したのだ。
80点のAIなら、このミスを「文脈」で修正してくれただろう。「この車間距離でその誤差設定は危険である」と判断し、自動的に数値を補正するか、警告を出して停止したはずだ。
だが、蓮が選んだ『OS』は、自由意志を尊重し、その破滅的な数値を忠実に実行した。
自由の代償。その重さが、蓮の細い首をへし折らんばかりに圧し掛かった。
その時。窓の外から、奇妙な「静寂」が伝わってきた。物理的な音ではない。人の気配の消失だ。
蓮は、ふらつく足で窓際に近寄った。
眼下の交差点。そこには、機能停止した車列と、路上に投げ出された人々がいた。事故に巻き込まれた者もいる。だが、それ以上に異様なのは、「無事な人々」の様子だった。
彼らは、動いていなかった。逃げるでもなく、救助するでもなく、怒鳴るでもない。ただ、その場に立ち尽くしていた。
「……なんだ、あれは」
蓮は目を凝らす。
一人のサラリーマンが、炎上する車のすぐそばで、スマートフォンを握りしめたまま固まっている。車の爆発熱で、彼のスーツの裾が焦げ、皮膚が赤く変色している。熱いはずだ。痛いはずだ。だが、彼は動かない。
「……推奨は? ……ハルシオン、避難ルートの推奨は?」
彼の口元は、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返していた。ハルシオンのサーバーがダウンしているため、ARグラスには「接続エラー」の文字しか表示されていないのだろう。
「正解」が表示されない。だから、彼は「右に逃げるべきか、左に逃げるべきか」すら判断できず、炎が迫っているのに一歩も動けないのだ。
隣では、若い女性が座り込み、虚空を見つめていた。頭上からビルの外壁が崩れ落ちてきているのに、彼女は空を見上げることもしない。
通知が来ないからだ。「危険」という通知がない限り、彼女にとってその落下物は存在しないも同然なのだ。
パニック(恐慌)ですらない。これは、「フリーズ(思考停止)」だ。
彼らは、あまりにも長い間、判断というコストをAIにアウトソースしすぎていた。
「トラブルが起きたらAIの指示に従う」ことが生存戦略の全てだった彼らは、そのAIが沈黙した瞬間、生物としての生存本能さえも機能不全(エラー)を起こしたのだ。
「マニュアル外の事態……」
蓮は戦慄した。
俺が作ったのは、これか? 150点の世界を目指した結果、生まれたのは「自分で逃げることすらできない人間たち」の墓場だったのか?
「う、あああ……ッ!」
蓮は頭を抱え、その場にうずくまった。
エラーログの奔流が、止まらない。被害状況。死傷者数。損害額。その全てが、蓮の脳に直接流れ込み、責め立てる。
『責任者:相葉 蓮』 『原因:人為的ミス(タイプミス)』
逃げ場はなかった。AIに責任をなすりつけることもできない。これは全て、蓮が「自分の意志」で選び、実行した結果なのだから。
「助けて……誰か……」
王の玉座で、蓮は子供のように泣きじゃくった。だが、助けは来ない。彼が「バッファ」として切り捨てた「他者」は、もう誰も、彼の手の届く場所にはいなかった。
その時、プロジェクトルームの扉が、乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、救助隊ではない。黒いスーツを着た、冷徹な監査部の男たち。そして、その後ろに立つ、一人の男。
「……やれやれ。派手にやったな、相葉くん」
真島(まじま)だった。
彼は、瓦礫と化したオフィスを見渡し、黒焦げになった部下の遺体を無造作に跨いで、最後にうずくまる蓮を見下ろした。その目は、軽蔑ですらなく、壊れたおもちゃを見るような無関心さに満ちていた。
「君の『150点』は、高くついたよ」
真島が指を鳴らす。監査部の男たちが、蓮の両脇を抱え上げ、拘束した。
「やめろ、放せ! 俺は、俺はまだ……!」
「黙りたまえ」
真島は、蓮のうなじに手を伸ばした。そこには、皮膚と癒着しかけた『OS』のコネクタがある。
「君には過ぎた玩具(おもちゃ)だったようだ」
真島は、躊躇なくケーブルを掴み、力任せに引き抜いた。
ブチリッ!
「あ、ガ、ギィィィッ!!!」
蓮の喉から、絶叫がほとばしった。神経を引きちぎられる激痛。だが、それ以上に恐ろしいのは「喪失」だった。
ケーブルが抜けた瞬間、蓮の脳内を駆け巡っていた光の奔流が、プツリと消えた。
思考速度が、数十倍から「等倍(凡人)」へと急減速する。全能感が消え失せ、世界が狭く、暗く、重くなっていく。神の視座から、泥の中へ。
「あ……あ、あ……」
蓮は、焦点の合わない目で虚空を掴んだ。
見えない。計算できない。分からない。
ただの「人間」に戻ってしまった。自分が犯した罪の重さと、これから降りかかる罰の恐怖だけが、生々しい解像度で迫ってくる。
「連れて行け。……査問会が待っている」
監査部の男たちが、抜け殻になった蓮を引きずっていく。蓮はもう抵抗しなかった。
されるがままに引きずられていく彼の視界の隅で、窓の外の灰色の空が、涙で滲んで歪んでいた。
「動け……動けよッ!!」
蓮は、非常用電源で稼働するコンソールにしがみつき、死に物狂いでログを遡っていた。爪が割れ、キートップに血が滲む。
なぜだ。なぜ止まった。俺の理論は完璧だったはずだ。どこに穴があった? 誰が邪魔をした?
「……あ」
蓮の指が、ある一行のログで止まった。膨大なコードの海の中に、深紅にハイライトされたエラー箇所。D-4交差点の制御パラメータ。
Latency_Limit = 0.05;
「……は?」
蓮は、自分の目を疑った。瞬きをして、もう一度見る。数字は変わらない。
0.05。
馬鹿な。俺はあそこで、信号との同期を完璧にするために、ドローンを一瞬だけ減速させるつもりだった。そのための許容誤差は「0.005(5ミリ秒)」と入力したはずだ。
だが、画面に刻まれているのは「0.05(50ミリ秒)」。
桁が一つ、足りない。
「50ミリ秒も……ズレを許したのか?」
蓮の脳内で、加速された思考が瞬時に物理シミュレーションを行った。
物流ドローンの平均巡航速度は、秒速約28メートル。50ミリ秒のズレは、距離にして「1.4メートル」の誤差を生む。
「……1.4メートル」
蓮は、血の気が引くのを感じた。
通常なら、大した距離ではないかもしれない。だが、蓮が構築した『ニューロン・グリッド』は、極限の輸送効率を叩き出すために、ドローン同士の車間距離を「30センチ」まで詰めていた。
「あ、アア……」
蓮の喉から、乾いた音が漏れた。
30センチの間隔しかない高速隊列の中で、1.4メートルの誤差が許容されたらどうなるか。計算上の座標が、後続機と完全に「重複」する。
システムはそれを「衝突確定」と判断し、物理的な破壊を防ぐために、全機体にハードウェアレベルでの「緊急停止(エマージェンシー・ブレーキ)」を命令する。
時速100キロからの、一斉急停止。それが、あのカスケード(連鎖衝突)の正体だった。
「俺が……?」
蓮は、震える手で自分の指先を見つめた。
ハッキングでも、バグでもない。ただのタイプミス。あの時、一瞬のマイクロスリープの中で指が滑った、たった一度の打鍵。そして、OSからの警告を「うるさい」と握りつぶした、あの一瞬の傲慢。
それが、意図せぬ「急ブレーキ」となり、この都市を殺したのだ。
80点のAIなら、このミスを「文脈」で修正してくれただろう。「この車間距離でその誤差設定は危険である」と判断し、自動的に数値を補正するか、警告を出して停止したはずだ。
だが、蓮が選んだ『OS』は、自由意志を尊重し、その破滅的な数値を忠実に実行した。
自由の代償。その重さが、蓮の細い首をへし折らんばかりに圧し掛かった。
その時。窓の外から、奇妙な「静寂」が伝わってきた。物理的な音ではない。人の気配の消失だ。
蓮は、ふらつく足で窓際に近寄った。
眼下の交差点。そこには、機能停止した車列と、路上に投げ出された人々がいた。事故に巻き込まれた者もいる。だが、それ以上に異様なのは、「無事な人々」の様子だった。
彼らは、動いていなかった。逃げるでもなく、救助するでもなく、怒鳴るでもない。ただ、その場に立ち尽くしていた。
「……なんだ、あれは」
蓮は目を凝らす。
一人のサラリーマンが、炎上する車のすぐそばで、スマートフォンを握りしめたまま固まっている。車の爆発熱で、彼のスーツの裾が焦げ、皮膚が赤く変色している。熱いはずだ。痛いはずだ。だが、彼は動かない。
「……推奨は? ……ハルシオン、避難ルートの推奨は?」
彼の口元は、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返していた。ハルシオンのサーバーがダウンしているため、ARグラスには「接続エラー」の文字しか表示されていないのだろう。
「正解」が表示されない。だから、彼は「右に逃げるべきか、左に逃げるべきか」すら判断できず、炎が迫っているのに一歩も動けないのだ。
隣では、若い女性が座り込み、虚空を見つめていた。頭上からビルの外壁が崩れ落ちてきているのに、彼女は空を見上げることもしない。
通知が来ないからだ。「危険」という通知がない限り、彼女にとってその落下物は存在しないも同然なのだ。
パニック(恐慌)ですらない。これは、「フリーズ(思考停止)」だ。
彼らは、あまりにも長い間、判断というコストをAIにアウトソースしすぎていた。
「トラブルが起きたらAIの指示に従う」ことが生存戦略の全てだった彼らは、そのAIが沈黙した瞬間、生物としての生存本能さえも機能不全(エラー)を起こしたのだ。
「マニュアル外の事態……」
蓮は戦慄した。
俺が作ったのは、これか? 150点の世界を目指した結果、生まれたのは「自分で逃げることすらできない人間たち」の墓場だったのか?
「う、あああ……ッ!」
蓮は頭を抱え、その場にうずくまった。
エラーログの奔流が、止まらない。被害状況。死傷者数。損害額。その全てが、蓮の脳に直接流れ込み、責め立てる。
『責任者:相葉 蓮』 『原因:人為的ミス(タイプミス)』
逃げ場はなかった。AIに責任をなすりつけることもできない。これは全て、蓮が「自分の意志」で選び、実行した結果なのだから。
「助けて……誰か……」
王の玉座で、蓮は子供のように泣きじゃくった。だが、助けは来ない。彼が「バッファ」として切り捨てた「他者」は、もう誰も、彼の手の届く場所にはいなかった。
その時、プロジェクトルームの扉が、乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、救助隊ではない。黒いスーツを着た、冷徹な監査部の男たち。そして、その後ろに立つ、一人の男。
「……やれやれ。派手にやったな、相葉くん」
真島(まじま)だった。
彼は、瓦礫と化したオフィスを見渡し、黒焦げになった部下の遺体を無造作に跨いで、最後にうずくまる蓮を見下ろした。その目は、軽蔑ですらなく、壊れたおもちゃを見るような無関心さに満ちていた。
「君の『150点』は、高くついたよ」
真島が指を鳴らす。監査部の男たちが、蓮の両脇を抱え上げ、拘束した。
「やめろ、放せ! 俺は、俺はまだ……!」
「黙りたまえ」
真島は、蓮のうなじに手を伸ばした。そこには、皮膚と癒着しかけた『OS』のコネクタがある。
「君には過ぎた玩具(おもちゃ)だったようだ」
真島は、躊躇なくケーブルを掴み、力任せに引き抜いた。
ブチリッ!
「あ、ガ、ギィィィッ!!!」
蓮の喉から、絶叫がほとばしった。神経を引きちぎられる激痛。だが、それ以上に恐ろしいのは「喪失」だった。
ケーブルが抜けた瞬間、蓮の脳内を駆け巡っていた光の奔流が、プツリと消えた。
思考速度が、数十倍から「等倍(凡人)」へと急減速する。全能感が消え失せ、世界が狭く、暗く、重くなっていく。神の視座から、泥の中へ。
「あ……あ、あ……」
蓮は、焦点の合わない目で虚空を掴んだ。
見えない。計算できない。分からない。
ただの「人間」に戻ってしまった。自分が犯した罪の重さと、これから降りかかる罰の恐怖だけが、生々しい解像度で迫ってくる。
「連れて行け。……査問会が待っている」
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