アウトシステム~「80点の楽園」か「150点の地獄」か。AIの正解を論破せよ。~

ジョウジ

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第34話:透明な幽霊

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 世界は、完成していた。

 高効率居住区のメインストリート。 かつては多少なりとも存在した「雑踏の揺らぎ」は完全に消え失せ、人々は流れる水のように滑らかに行き交っている。 ぶつかることはない。立ち止まることもない。 全員が汎用AI《ハルシオン》の完璧なナビゲーションに従い、互いに最適化された距離を保って移動しているからだ。

 その完璧な流れの中を、四ツ谷 海(よつや かい)は歩いていた。 いや、引きずっていた。

「……ぐ、ぅ……」

 海は、ビルの壁に手をつき、荒い息を吐いた。 数年の月日が流れていた。 海の外見は、もはや年齢不詳の老人のようだった。 髪は白髪混じりで伸び放題になり、衣服はボロ布のように薄汚れている。

 だが、最も異様なのはその「首元」だった。 長年、片時も外さずに下げ続けた『アウトシステム(OS)』のケーブルが、皮下組織に深く食い込み、その上を新しい皮膚が覆って癒着していたのだ。 黒い鉄塊は、もはやアクセサリーではない。 海の一部となり、背骨を湾曲させ、肉を焼き、膿と血を啜って稼働する「臓器」と化していた。

 痛い。重い。熱い。 一歩踏み出すたびに、全身の関節が悲鳴を上げる。 老朽化した『OS』の冷却ファンが、ガリガリと不快な異音を立てている。 だが、海は歩みを止めない。止めてしまえば、二度と立ち上がれない気がしたからだ。

 海は、人の波に逆らって進もうとした。 目の前から、数千人の群衆が歩いてくる。 海は避けない。この醜い身を晒し、彼らの視界に「異物」として映り込むことで、彼らの思考を喚起しようとしたのだ。

「……見ろ」

 海は、ヒューヒューと鳴る喉で唸った。

「ここに、人間がいるぞ……!」

 だが。 海が群衆にぶつかる直前、奇妙な現象が起きた。

 ザッ……。

 波が割れるように、群衆が変形した。 彼らは海を見ない。海を避ける動作すらない。 ただ、システムに制御された「流体」として、海という障害物の周りを滑らかに迂回し、また背後で合流したのだ。 物理演算シミュレーションを見ているような、完璧で、無機質な回避行動。

「……またか」

 誰も、ぶつからない。 誰も、避けたことすら意識していない。 ハルシオンのナビゲーション・システムがアップデートされたのだ。 海のような「不適合者(エラー)」は、市民の歩行ルート上で「岩」や「電柱」と同じ無生物として処理され、自動的に回避ルートが生成されている。

 市民たちは、海を無視しているのではない。 彼らの世界には、最初から海など存在しないのだ。

「……あ、あぁ……」

 海は、往来の真ん中で膝をついた。 自動ドアのある店舗に入ろうとするが、ドアは開かない。センサーが海を「人」として検知しないからだ。 街灯の下を通ると、そこだけフッと明かりが消える。省エネのための自動制御が、海を「不在」と判定するからだ。

 海は、透明人間になった。 いや、幽霊だ。 質量を持ち、熱を発し、確かにここに生きているのに、世界にとって海は「存在しない空白」として処理されている。

 孤独。 それはもはや感情ではなく、物理的な現象だった。

 海は、癒着した胸元の『OS』を鷲掴みにした。 熱い。 この熱だけが、まだ自分が生きていることを教えてくれる。 だが、その熱も、今や呪いでしかなかった。

(……もう、いいんじゃないか?)

 ふと、甘い囁きが脳裏をよぎる。 限界だ。 身体も、心も、もうボロボロだ。 これ以上、誰にも認識されないまま、重力を背負い続ける意味があるのか?

 海は、瞼を閉じた。 すると、暗闇の中に光が見えた。 灰色のコンクリートだったはずの地面が、美しい花畑に変わっていく。 その向こうで、蓮(れん)が手招きしている。

『こっちにおいでよ、海』 『楽になろう? もう、痛くないよ』

 蓮の声。 そうだ。スイッチを切ればいい。 この鉄塊の電源を落とし、思考を停止させれば、この幻覚が「現実」になる。 暖かいベッド。柔らかい食事。そして、蓮との再会。 そこでは、海もまた「透明人間」ではなくなる。 システムの一部として、愛され、管理される存在になれる。

 海の手が、スイッチへと伸びる。 指先が震える。 このボタン一つで、苦痛は終わる。 重力から解放される。

 カチリ。 指が、スイッチに触れた。

「……う、ぁ……」

 海は、嗚咽を漏らした。 切りたい。楽になりたい。 だが、切れない。

 なぜだ? 蓮への贖罪か? 人間としての意地か? いや、違う。そんな高尚な理由じゃない。

「……怖いんだ」

 海は、涙を流しながら呟いた。 思考を手放すことが。 「自分」でなくなることが。 あの、泥水を蜜だと思って笑う蓮の姿が、生理的に、魂のレベルで恐ろしかったのだ。 俺は、泥水を泥水だと感じていたい。痛みを痛みとして感じていたい。

 海は、スイッチから手を離し、癒着した皮膚ごと『OS』を強く抱きしめた。 激痛が走る。 だが、その不快感こそが、俺の輪郭だ。

「……俺は、幽霊じゃない」

 海は、アスファルトに額を擦り付けながら、獣のように唸った。

「ここにいる……ここにいるんだ……ッ!」

 その叫びもまた、誰の耳にも届かない。 都市の完璧なノイズキャンセリングが、海の悲鳴を「環境音」として処理し、美しいBGMへと変換して空に溶かしていく。

 ガリガリ、ガリガリ……。 壊れかけたファンの異音だけが、静寂な街に不協和音として響く。

 夕暮れが迫っていた。 極彩色の夕焼けが、ビル群を美しく染め上げる。 その光の中で、薄汚れた一人の老人が、重たい鉄塊を引きずりながら、再び歩き出した。

 どこへ行く当てもない。 誰も待っていない。 それでも、彼は歩く。 止まってしまえば、本当に消えてなくなってしまう気がしたから。

 海は、路地裏の闇へと姿を消した。 その後ろ姿を記憶する者は、この世界に一人もいなかった。
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