愛レス

たけピー

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私と契約しなさい

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  都内のどこか、大通り。雨が降りつける中、スーツ姿の男性、贅沢な服装の女性、イヤホンをつけた若者ら、多くの人々が行き交う。雨は激しくはなく、穏やかでもない。誰もが傘をさし始めるくらいの降り様だ。
 この忙しい光景を、青年は、ビルの屋上の縁から見下ろしていた。一歩踏み出せば、真っ逆さまだ。三十階ほどもあるビルの上から見た人々は、まるで蟻のようにちっぽけであった。
 …人間が、みんなちっぽけに見える。そう、自分自身も。
 青年はこの光景を十分に眺めると、満足したか、呆れたかのように、空を見上げ、目をつぶり、一度深く息を吸った。
 覚悟はできた。
 雨がさらに激しくなった。鼓動もまた早くなる。これはビルの高さに恐れおののいたためではない。自分をこの道へ追いやった不幸な運命を、改めて恐ろしく感じたためである。
 青年は再び目線を下ろすと、両手を真横に広げた。そしてなんの躊躇もなく片足を上げ、前に突き出した。
 そのときだった。青年の動きがピタリと止まった。妙な気配を感じたのだ。背中に突き刺さるような視線を感じ、恐る恐る振り返った。
 長い黒髪の若い女が、こちらを見ていた。目つきが異様に鋭く、殺気を感じる…。
 青年は一瞬はっとしたものの、その女性に対して結局何の感情も湧かなかった。どうでも良かったのだ。けれども、投げやりな気持ちから、直感的に声が漏れた。「僕を地獄に連れにきたのかい?」
 女は黙ったままだ。
 青年は落ち着いた口調で言った。「ならばとっとと連れてってくれ。もう、終わらせたい」
 青年は女に向き直った。その表情には、決意と憎しみがにじみ出ている。
 女は「ふっ」と鼻で笑うと、青年をじっと見つめて言った。「死ぬのはあなたの自由。だけど、いいのかしら?私はあなたにチャンスを与えに来たの」
 青年は女を睨んだ。「…どういう意味だ?」
 女はにやりとした。「あなたは、まだ死ぬべきじゃない。まだ使命を果たしてない。そう、あなたには使命がある」
 青年はひたすら女を睨んだ。
「知ってるのよ?あなたの母親のこと。あなた自身のこともね」女は確たる証拠を突きつけるかのような口調で言った。
 青年は驚き、目を見開いて女を見つめた。一瞬の沈黙を置いて、その顔は怒りに満ちた。そしてその気持ちに任せて叫んだ。「嘘だ!!あんたに何が分かる⁈僕はこれまで必死で生きてきた!それなのにすべて失った!もう信頼できる人間もいなくなった!だから今日限りだ!!」
 こう言い切った青年の顔は、一層険しく、怒りがむき出しになった。
  一方、女は平静を保っている。「信頼できる"人間"が、もういない?だったら、私のことは信頼できるってことね」
 青年の表情が変わった。雨で濡れた顔に、恐怖と疑問が浮かび上がった。この女は邪魔者か、それとも救世主なのか?
 女は続けた。「いいわよ。死にたいのなら、その望みを叶えさせてあげる。その前に、ちょっと手伝ってもらうけど。私と契約しなさい。あなたのことを必要としている人に、会わせてあげる。そして、幸せに死なせて、あ・げ・る」
 双方、しばらく見つめあった。女は訳ありな表情を浮かべている。青年の方は、半信半疑の視線を女に投げかけている。
 雨はもう霧雨になっていた。けれど、未だに空全体には分厚い雲が覆っている。まだまだ晴れそうにはない。



「いいか男子諸君?男というものは、辛いことばっかりだ。この女が支配している世界で、俺たちは生きてる。おれたちは異性を求めるが、いや~女は男に厳しいもんだ。なかなか上手くいかねえ。誰だって、振られたり、嫌われたり、それでヤケになったり、イヤなことばっかりだ。でもな、そういう経験を乗り越えて、強くなっていく者こそ、男って言うんだ!どんなに振られたって良い、落ち込んだって良い、おれたちは男だ!だから何度でもぶっ壊れて、何度でも立ち上がって、そして夢を叶えるんだ!よーし!まだ独りぼっちの男子諸君、おれに継いて来い!おれと一緒に、幸せになろうぜー‼」
 ………。校庭に風が吹き抜けた。しらけた空気。ひたすらな沈黙。拍手一つすら無い。
「ありゃ…?」青年は首を傾げた。
 この青年の名は、本橋望夢。高校3年生で、まさに青春の時期真っ只中だ。事実、周りにはカップルばかりだった。そんな周りを見て、彼も異性に憧れるのであった。けれども、女好きな性格ゆえにもてない。そのため恋愛経験はゼロ。
 望夢は今、自身満々のスピーチをまるで舞台で表明するかのように校庭の高台からクラスメイトの男子一同に向かって披露し終えたところだった。けれど、一人残らず彼を嘲笑った。口々に「あいつ何言ってんだ?」「頭大丈夫かよ?」と小馬鹿にしたのだった。
「お前さ、マジ哀れだよな。高3になっても彼女いないとか」その男子勢の中でも、特に厄介な人物が前に踏み出た。学年ナンバーワンのガキ大将、鬼頭剛志だ。「高校入っても童貞とかだっせ~!」
 男子一同は爆笑した。
 望夢はむっとした。「お前らはもう彼女いるだろうけど、おれみたいに、まだの奴だっているだろ」
 男子一同はそれを聞き、またしても哀れむような、馬鹿にするような目で大笑いした。
 鬼頭は望夢に近づくとその胸倉をつかんで言った。「は?勝手なことこぼしてんじゃねえよ!俺ら、もう、みんな彼女持ちだから」
「?…はい⁈」望夢の声が裏返った。「え、え⁈嘘⁈」
 男子一同大笑い。
「嘘じゃねえよ、本当だよ~」
「おめえ独り、後れてんだよ!」
「分かってるように話してんじゃねえよ!」
 そう言うと鬼頭は望夢を押し倒し、砂を蹴り飛ばした。そして男子らを引き連れ、声高々に大笑いながらその場から去った。
 望夢は顔をしかめながら上半身を起こし、「うるせぇ!彼女持ちだからって、調子に乗ってんじゃねえぞ‼」と負け惜しみに叫んだが、誰も聞いていなかった。
 望夢は制服をはたきながら立ち上がった。
 そのとき、「まったくいつになったら学ぶのかな~」
 後方から声がした。振り向くと、一人の女子生徒が立っていた。
「な~んだ、瞳か」望夢は一瞥するやどうでもいいやと言うように吐き捨てた。
 女子生徒はニコッとした。
 彼女の名前は片山瞳。望夢とは幼稚園からの付き合いで幼馴染である。彼女は先ほどのスピーチから彼が倒されるまでの一部始終を見ていた。だからその顔には、皮肉のこもった笑みを浮かべている。
「あんたさ、絶対に付き合えないよ~」
「うるせえ」
「絶対、ぜったい、ぜーーーったいに付き合えないよ~」瞳は首をすくめ、両手を握り締めて大げさに言った。
 そんな彼女を望夢は睨む。とは言っても、いつものことで、全く気にしていない。瞳の方も、対して彼のことを考えてはいないのを知っているからだ。むしろ、ただのからかい相手と言った所だ。
「もっとさ、考えたら?雑過ぎるよ、雑」
「うるせえな。女に男の気持ちなんか分かるか!」
「わかんなーい」瞳はさらっと答えた。「でも一つわかるのは、あなたには無理!モテないんだから。無理!むり!ムリ!」
 ここまで言い放って、瞳は得意顔だが、当の相手はボーッとしていた。
「ちょっと?!もしも~し?聞いてますか~?」
 望夢の顔の前で手を振ってみたけれど反応は無い。何かに見惚れているようだ。
 望夢の目は輝いていた。その目先には、かわらしい女子生徒が立っていた。
「むむ!ターゲット、ロック、オン!」
 望夢は両手の親指と人差し指で四角形を作り、狙いを定めた。続いて地面にしゃがみ、クラウチングスタートの姿勢を取る。「位置に着いて。よーい。ドン!」そして合図と共に駆け出した。
 やれやれ。瞳は首を振った。もう見慣れた光景なのだ。望夢が何をしでかすかはわかっている。…ハイエナが、無防備なウサギに襲いかかる!
「ねえ」ハイエナはウサギにいやらしい笑みを浮かべて言った。
 ウサギは振り返った。「…あ、本橋君…どうしたの?」
 ハイエナが牙をむき出す。そして躊躇なく言った。「おれと付き合って下さい!」
  これは、俺に食われろ!と言っているのと同じである。
 ウサギは当然びっくりして飛び上がった。「え…?…え、あの…ごめん。無理、無理、急過ぎる。あの…いやーー!!」
 ウサギは走り出した。ただ走っていると言うよりも、明らかに逃げている。
 ハイエナは「待ってよ~」と後を追い掛けたが、前方にあった木に気づかず激突し、後頭部から倒れた。こうしていつものように、獲物を取り逃がしたのだった。
 瞳はのろのろと歩いて倒れている野獣に涼しい顔で近寄っていった。本音は、「ざまぁ見ろ!」である。
「はあ。また駄目か」望夢はぶつけた頭を擦りながらメモ帳を取り出した。ページをめくり、今さっき告白した女子の名前に斜線を引いた。
 望夢は、『学年で付き合っても良い人リスト』のような物を作り、見た目が綺麗な人は勿論、ブサイクではない人の名前を書き留めていた。そして、片っ端から告白していった。このことは、学年の男女ほぼ全員が知っており、望夢は女ったらしとして有名だった。彼がこれまで告白した人数は数知れない。50人ゆうに超すだろう。斜線が幾つも引いてあった。
「そんなやり方じゃ、付き合えるはずないよ~」 
「うるせえな。おれは必死なんだよ!」
「いい加減諦めたら。あんたモテないんだから」瞳はベーッ!と舌を出した。
「お前みたいなブスとだって、誰も付き合いたいと思わねーよ~!」望夢は怒りに任せて反実的な悪口を言った。実際、瞳は学年でトップテンに入るほどのべっぴんなのだが。
「いい加減素直になりなさい。あんたに彼女はできない!ざーんねんでした!」瞳はズバッと言い切った。
「女を持ってこそ、男と言えるんだ!」
 望夢は手帳から目を離さず、ページをめくっていく。次のターゲットを考えているのだ。
「あっそ。ご勝手に。じゃあねぇ」瞳はうざったい笑顔を浮かべ校門へ。「たっくーん!」そこで待っていた彼氏らしい男と合流し、校門を出ていった。
「あー‼マジうぜー!」望夢はイラついて石を蹴った。転がった石はコンクリートの段差に跳ね返って自分の足に激突した。
 彼女いない歴十八年。だいぶ孤独を感じていた。満たされないもどかしさを感じる。周りの男共が大きく見える。自分の欲求を満たしてくれるものは、他でもない女。ああ、一度で良いから、女と触れ合ってみたい。望夢の想いはそれであった。
 そもそも望夢には、友達さえ少なかった。前述の通り、彼の性格は学年中に知れ渡り、付き合おうと思う者はもちろん、友達になろうとする者すらいない。さっきまで会話していた瞳だけが、唯一の友達である。けれども見ての通り、彼女に対する態度も雑多なものだ。そうなると、彼女探しは後の話ではないだろうか。
「なんでおれには彼女ができないんだー‼」
  夕方の空に向かって、彼は一声叫んだ。もちろん返事はない。遠くで真っ赤に光放つ夕焼けは、雲一つない空でじっとしていた。



 帰宅した望夢は、「お帰り」と言う母も無視して、真っ先に自分の部屋に向かうのであった。
 部屋に入るや否や、すぐさま机に向かい、置かれているノートパソコンを開く。スリープ状態のパソコンがすぐに起動し、画面が表示された。出会い系サイトだ。そしてそのプロフィール画面。そこには、

『名前:本橋 望夢
年齢:18歳
身長:167cm
特技・趣味:我慢強い(笑)』

『恋人募集中!15~18歳くらいの、顔とスタイルに自身のある女性の方は誰でも大歓迎。ご希望の方は、こちらにお名前と電話番号をお書き下さい』

 という文字。左上にはきちんと決めた髪で自信あり気な笑みを浮かべた顔写真がある。望夢は毎日このサイトをチェックし、毎日がっかりするのであった。
「今日も収穫無しか」
 そのとき、母が扉から覗いてきた。「ちょっと。ただいまぐらい言ったらどうなの?」
 母は不満顔で言った。そんな母を見ても、望夢は「別にいいだろ?部屋入る時はノックぐらいしろよ」と冷たく返すのであった。この頃、ずっとこんな態度だ。
 仕方なく母は、「はいはい。あと、今日はクロの散歩、手伝ってね」と優しくお願いした。それでも、「え~」と望夢は冷たかった。
 クロと言うのは、本橋家で飼っている黒い柴犬である。父が道端で見つけた野良犬を気に入り、持って帰ってクロと名付けたのだ。
 本橋家ではもう一匹犬を飼っている。白いトイプードルのアミだ。アミは、クロよりも前にペットショップにいたのを母が気に入って買ったのだ。このアミとクロは性格が合わず、いつも喧嘩ばかりしていた。そのためクロはいつも檻の中だ。そのせいで母はクロのことが好きになれないため、散歩は父か望夢がやっていた。言うまでもなく、ほとんどは父がやっているが。
「おい‼望夢‼」
 突然、低い怒鳴り声がした。
「⁉…お、親父⁉」
 親父が母の横にひょこっと顔を覗かせた。鋭い目付きにしわの寄った額、短いあご髭。見た感じ、地震・雷・火事・おやじの、おやじと言ったところだ。
「おめえ、母さんに対してその態度はなんだ‼何様だ‼養ってくれてる母親に向かって、よくそんな態度がとれんな‼来い!」
 望夢は戸惑った。今日は親父は仕事で居ないはずだが?
「お父さん、今日は早く帰って来てくれたの。誕生日だからね」母は笑顔で言って、階段を降りて行った。
 望夢は今日が母の誕生日であることをすっかり忘れていた。もともと覚える気すら無いのだが。
「おい‼望夢!うちの前の公園でまってるからな!もたもたすんじゃねえぞ‼」
 そう言って親父は勢いよく扉を閉め、出て行った。望夢はやれやれと頭を振った。
 望夢は親父からたびたび家の前の公園に集合をかけられる。それというのは、望夢の態度が悪いときや、成績が悪いときだ。そして厳しいトレーニングが課される。筋トレやランニング、さらに親父との本気の押し合いへし合いまで強いられる。これが望夢の父なりの罰である。
 玄関を出ると、親父が早くも公園でストレッチをしているのが見えた。勢いのある屈伸、大きな腕回し、よく反ったアキレス腱。唸り声を発しながらの張りのあるストレッチだ。全身に力がこもっているのが見て取れる。
 これからこんなでかゴリラと押し相撲だ。やれやれ…。望夢はイライラして仕方なかった。
 望夢は親父に近寄っていった。身体をバキバキという音と共に左右に大きく振った親父は、望夢が来たのを見ると、「よし!腕立て100回と腹筋100回!気抜くんじゃねぞ!!」と怒鳴った。
 望夢はしぶしぶ顔でのろのろと地面に手を付いた。
 それを見た親父は「なんだその態度は!!シャキッとせんか!!」と一喝。そして望夢を引っ張り上げると、力を込めて一発引っ叩いた。
 望夢は慣れた反射神経で即座に目をつぶり、一瞬の痛みに耐えた。次いで素早い動きで向き直って地面に付く態勢を整え、高速で腕立て伏せを始めた。20回やったところで、望夢は息が切れてドタッと地面に衝突した。
「なんだ!なんだそのざまは‼おめぇ、そんな出来損ないでいいのか⁈そんなんじゃ男とは言えねえぞ!父ちゃんがどーゆー気持ちで母ちゃんのハートつかんだと思ってんだ⁈俺がわけえ頃はよ…」
  あ~まただ。望夢はうんざりした。親父は怒ると80%の確率で自分が若い頃の話を持ち出すのだ。どのようにして妻ー望夢の母ーと出会ったのか、どのようにアピールしたのかなどなど。この話が始まると、望夢はいつも聞き流していた。真面目に聴いたときと言えば、幼稚園か小学校低学年の頃の二、三回くらいだったろう。だいたいの内容は憶えている。そのためもう聴こうとは思わない。
 親父の話に適当に相づちを打ちながら、何とか腕立て、腹筋をそれぞれ100回終わらせた。しかし、これで終わりではない。本気の押し相撲が待っている。
 外に出てからおよそ30分が経過した。公園内の街灯で、大柄な男とチビのシルエットが対決しているのが暗くも鮮明に見える。
 親父は容赦しない。望夢は何度も押し倒された。もう駄目だ。望夢は地面にうつむいた。
「しっかりせんか‼」と親父は怒鳴ったが、望夢にはもはや聞こえていなかった。いや、聴いていなかった。どうでも良かった。もうどんなに怒鳴られたって構いやしない。そうやけになっていたのだ。
「望夢ーー!!」父は怒鳴った。その声はかなり遠くまでこだました。
「こら、あなたたち!」
  母親が現れた。「あなた!またこんなに無理させて!早く戻りなさい、話があるから。望夢、クロの散歩、お願いね」
 親父はコクンと頷いた。「おい、望夢。今日はここまでだ。お前はクロを散歩させろ」
 そう言うと、親父は母と一緒に家へ戻って行った。
 後から家に入った望夢の耳には、
「いつもほどほどにしてって言ってるでしょ!」「じゃあどうしろってんだ?!あいつほうっといたらろくに育たねえぞ!!」と言い合う両親の声が聞こえてきた。
 望夢はやれやれと首を振った。これもいつものことなのだ。
 望夢はどうしようもなく、言われた通りにクロを散歩に出した。家にいても両親の口喧嘩を聞かされるだけだ。
 クロは散歩が大好きで、いつも大はしゃぎであった。スキップするように跳ねて歩いたり、他の犬に飛びついたりするのだ。一方、望夢はだるそうにリードを持って、ただ歩いているのだった。ときどきクロの態度にイラついて、強くリードを引いたり、蹴飛ばすこともあった。これもいつものことである。
 とにかく、近頃の望夢の態度はひどいものである。友達、親に対するのみならず、飼い犬に対してもきつく当たる。彼女なんてものは、到底できたものではない。



 その夜。
 ベッドの中で、望夢は決まった夢を見るのだった。どこかの野原で、女の子と手を繋いで歩いている。相手がどんな顔をしているのか分からない。いや、夢を見ている間は分かっているが、目が覚めると同時に忘れてしまうのかもしれない。どっちにしても、その相手が理想的なことに変わりなかった。
 いつもこの夢で幸せな時間を過ごすのだが、今夜は展開が違った。女の子がみるみる消え始めたのだ。周りの景色も暗くなった。
 望夢は目を覚ました。自分の部屋。ふと見ると、誰かいる。シルエットからして女性だろう。
 その人物は突然語り出した。「あなたは恋愛について誤解してる。家族のことも。理解不足よ。学ぶ必要があるわ。私が教えて上げる」
 望夢は何が何だか分からなかった。「何を?」
 相手は答えた。「愛よ」
 望夢ははっとした。"愛"?…何が起こっているのか分からなかった。その"愛"という言葉が、心にずしーんともたれかかってきたような気がした。
 けれども望夢は、まだ夢の中だと思い、「別にいっす」と適当に返事をした。
 その人物は静かに消えた。扉や窓から出ていったのではない。消えたのだ。跡形も無く。



 翌朝。登校中の望夢は、いつものように女子高生観察にふけっていた。近頃の女子高生は外見を気にしてスカートが膝より高い位置にしている子が多い。望夢には見応え抜群だ。そんな女子高生たちを観察して、望夢は妄想にふけるのであった。
 その最中、望夢は気配を感じた。不意に寒気がする。誰かに見られている…?後ろを振り返ったが、誰もいない。
 気のせいだと思い、再び歩きだそうとした。すると、また視線を感じて振り向いた。
 ようやく気がついた。後方のブロック塀の陰から、誰かがこっちを見ている…⁈
 望夢は怖くなって走り出した。とにかく走った。後ろから走って来る足音がする。どんどん追いついて来る。
 …ドン‼
「おすっ!」瞳が生きの良い挨拶とともに体当たりしてきた。
「お前か!いてーな!」
 瞳は「ふふ」と笑った。
 望夢はふと気づいた。今日の瞳の髪型はポニーテール。さっき塀からこっちを見ていた人物は、そんな髪型ではなかった気が…。あれは瞳だったのだろうか?
「どうしたの?そんなに慌てて。昨日私に言われたこと、気にしてんの?」
「は?別に気にしてなんかねえよ」相変わらず望夢はぷりぷりしていた。
 それでも瞳は笑顔を絶やさない。「そう。あたし先行くね。今日は転校生が来るから、遅刻しちゃまずいの」
「 転校生⁈」その言葉に望夢の目がキラッと光った。「どんな子⁈かわいいの⁈スタイルは⁈清純系?ギャル系?肉食?草食?まさか、方言とか話すの⁈」
 望夢は素早くノートを取り出し、メモの用意をした。いつもながらそんなことしか頭にない。
「待って!ねえ、落ち着いて。鼻血出てるから」
「え?あ!」
 瞳は望夢にポケットティッシュを渡した。「急にそんなに聞かれたって、わからないよ。まだ会ってないんだから。でも、男の子らしいの。先生が言ってた」
  望夢はティッシュを鼻に詰めながら聞いていた。それから目を閉じ、溜め息をついた。「なんだ、男かよ」
 この頃、学年の女子にはほとんど告白してしまっていたため、まさにチャンス!と思ったのに…。つまらないな、と望夢は思った。
「も~あんたってほんとそんなことしか頭にないのね。とにかくあたし行かないと。急がないとあんたも遅刻するよ!」
 瞳はそう言うと、望夢の背中をボンと押し、駆け出した。
 望夢は前につんのめった。
「このヤロー!覚えてやがれ!」



 3年C組と書かれた札がぶら下がっている教室の前に、瞳はもうスピードでやって来た。
 瞳の腕時計は8時24分を指している。予鈴の一分前だ。
「間に合ったー!」ふゅっ、と汗をハンカチで拭き取る。
 しかし、異変に気づいた。もう予鈴が鳴るというのに、教室は静かだ。いつもの騒ぎ声とは明らかに違い、さざめき程度の声しか聞こえない。不安な気持ちで後ろに掛けてある壁時計を見た。8時32分…⁈
 まさか?もう一度腕時計を見た。ちょうど、長い針が二十五分を指した。瞳ははっとした。「私の時計、…遅れてる⁈」
 自分のアホな失態に歯を食い締めた。
 しかしもう遅かった。
「片山さん、どうしたの?」後方から声がした。
 瞳はドキッとして振り向いた。担任の木下先生だ。
「木下先生、済みません、時計が遅れていて…」
「ええ、分かったわ。早く教室に入って」先生は促した。
 瞳は仕方なく教室の扉を開けた。
 クラスメイトの視線が、瞳に集まった。話し声が静まる。
「お、転校生か?」一人の男子生徒が瞳を見てふざけた。例のガキ大将鬼頭だ。「自己紹介するか?」
 鬼頭のおふざけに一同は笑った。
 瞳は「やめてよ~」と言いながらそそくさと席に着いた。
 先生が入って来ると、教室はすぐに静かになった。転校生が来るというので、誰もがそわそわするのだ。
 号令が掛かり、皆が席に着いた。その際も教室は静けさに包まれていた。
「えー、今日の予定は、清掃が昼休みにあって、午後に…」
「先生、そういう話はあと!」 鬼頭が話を遮った。「まずは、転校生だろ!」
 鬼頭の先陣によってクラス全体がそんな雰囲気になり、ざわざわし始めた。
「はいはい。じゃあ、紹介ね」木下先生が承諾すると、一同はさらに盛り上がった。
先生は扉に向かい、「いいわよ、入って」と合図した。
 クラス全体が期待と好奇心に満ちた。
 扉がゆっくり開き、一人の男子が教室に入ってきた。背丈は平均くらいで、眼鏡をかけている。一同はざわめいた。第一印象を感じとっているのだ。
 瞳から見ると、とても頭が良く、物静か、そしていかにも人見知りしそうだ。
 転校生は教壇の隣まで進んで止まり、クラス全体を眺めた。かなり鋭い目つきだ。
 一同が静まると、木下先生は紹介を始めた。
「芽傍ゆう君です。じゃあ、自己紹介してくれる?」
 木下先生が促すと、転校生は一瞬沈黙をおいてから、とても低い声で話し始めた。「芽傍ゆうです。充実した学校生活を送りたいです。よろしくお願いします」
 そう言って、転校生は丁寧にお辞儀をした。
 一同は拍手をした。けれど、転校生が入って来る前と比べ、教室は静まり返っている。転校生の雰囲気が暗い。どうも乗り気ではないのだ。
「はい、ありがとう。みんな、芽傍君は、人付き合いが上手じゃないらしいから、みんなから話しかけてあげてね」
 このとき、転校生が先生を睨んだのを、瞳は見逃さなかった。チラ見とは言えない。明らかに鋭い目つきで睨んでいた。余計なこと言いやがって、とでも言いたげな顔だった。
「何か質問とかある?」木下先生が、クラスの雰囲気を良くしようとしたのだろう、一同に尋ねた。
 すると小林という男子が手を上げた。質問はこうだった。「頭はいいんですか?」
 クラスメイト何人かが苦笑した。男子数名は質問者にブーイングを浴びせた。当然、来たばかりの転校生にこんなことを訊くのはおかしいからである。
 けれども、クラスメイトの雰囲気とは対照的に、転校生は真面目な表情で答えを考えていた。
 その様子に気づいた一同は、再び静まった。
 転校生は考え込むように質問者をじっと見つめ、答えた。「…頭がいいか…さあ。僕を頭がいいと見るか、馬鹿と見るかは、君たち次第じゃないかな」
 一度は「「「おーっ」」」と小さく感嘆した。論理的かつダークな返答に動揺を隠せない。
 木下先生は不安そうに転校生を見つめている。
 続いて、不穏な空気を感じた瞳が「はい!」と手を上げると、「はい、どうぞ」と先生は指名した。
「あの、笑ったことありますか?」
 一同は失笑した。おかしな質問だが、言えてると思ったのだ。
 転校生は今度は瞳を見据えている。やはり何かと恐ろしげである。
 木下先生は、転校生とクラス全体を交互に見ていて、戸惑っている様子だ。
  一同が静まると、転校生は言った。「…昔はよくね」
 教室中に切迫した空気が漂った。転校生の返事に、どう反応して良いのかわからないのだ。所々でざわめきが聞こえる。
 小学校のうちは、恥ずかしがり屋で内気な転校生はよくいる。けれども、ここは高校だ。今ここにいる転校生は、恥ずかしがり屋というわけでもなさそうなのに、暗すぎる。
 瞳も、不思議に思ったものの、なぜかその気持ちは警戒心や不信感ではなく、好奇心や興味心であった。早くあの転校生に話しかけてみたい、仲良くなってみたい、そう思ったのだ。瞳は幼い頃から好奇心旺盛で、積極的に周りに話しかけるタイプなのだ。
「静かに」先生が命令した。ざわつきが小さくなると、先生は転校生歓迎の閉めの言葉を言った。「え~、なんと言いましょうか?とても……ミステリアスな転校生が来ましたね。みんな、仲良くしましょうね!」
「「「はーい」」」
 一同の返事には元気がなく、まとまりがなかった。ただ一人、瞳だけが大きく頷いた。
 朝学活が終わると、クラスでは仲良しグループで集まり、例の転校生、芽傍ゆうの話をし出した。男子も女子も、彼に興味津々で、あちらこちらの視線が彼に向けれている。
 けれども当の本人はそんなことは気にもせずに、机で本を開いている。
 そんな転校生に、瞳は近づいて声をかけた。「ねえねえ!あたし、片山瞳。よろしくね!」
 瞳の満面の笑みに対する芽傍の表情の暗さはこの上ない。芽傍は瞳を一瞥すると、すぐさま顔を下げた。
「ねえ、なにか言ってみてよ?」瞳はさらに迫ったが、芽傍は無言で本と向き合っている。
「ねえ、なに読んでるの?」瞳は彼の肩越しに乗り出し、本を覗き込もうとした。
 その途端、芽傍は目にも止まらぬ速さでその本を机にしまい、その勢いのまま席を立ち、教室の後ろを横切って廊下へ向かった。
 教室中の視線が芽傍へ集まり、彼が教室の外へ出ると、瞳へと向けられた。
 瞳は気まずくなり、芽傍の後を追って廊下に出た。そして芽傍の後を追った。
 瞳は追いつくと、「ごめんね」と謝った。
 芽傍は相変わらず口を聞かない。
「ねえ、ごめんね。怒ってる?今度からもうしないから。ね?」ここまで無視されても瞳は諦めない。笑顔を保ち、なんとか話そうとする。
 階段に差し掛かったところで、芽傍は足を止めた。そして、じーっと瞳を見つめた。
 止まった!瞳の気持ちは一分の恐怖と九分の期待に変貌した。何かしゃべってくれるのか⁈
 期待通り、ついに芽傍は口を開いた。「…何が望みだ?」
 一瞬の沈黙をおいて、瞳は首を傾げた。
 瞳が黙っていると、芽傍はさらに尋ねた。「何を企んでるんだ?」
 瞳はようやく意識を取り戻したかのように、はっとして答えた。「なあに?特に理由なんてないけど…ただ、話してみたくて」持ち前の笑顔でそう答えた。
 けれども芽傍は口調を変えることなくこう言った。「僕はそんなことは望んでない」
 それだけ言って、芽傍は階段を降り始めた。
 瞳はポカンとしてしまった。今までこんなに変わった子に出会ったのは初めてだ。フレンドメーカーの瞳にはかなりの強敵に思えた。と同時に、彼女の興味をかなりかき立てる存在でもある。
 瞳は階段を急いで降り、追いついて問い続けた。「そんな冷たいこと言わないで、ね?せっかくなんだから、話して仲良くなろうよ!」
 再び芽傍は止まった。瞳は、自分の言葉が通じたのか⁈と思い、嬉しく思った。
 しかしそれは違った。芽傍は瞳の後ろにある何かに気を取られている。その視線を追うと、そこにはけしからん男子が一名いたのだった。



 望夢は笑顔だ。悦に入っている。周りのことなど視界に入っていない。
 望夢がいるのは女子更衣室の扉の前。その扉を少し開けて隙間を作り、双眼鏡で中をのぞいている。開始したのは朝学活が終わってすぐだった。号令の合図でお辞儀もせずに教室を一番に飛び出し、ここ、一階の女子更衣室の前にやってきた。一時限目から保健体育のクラスの女子たちが着替えているのを観察しているのだ。「いいね、イイねー」などと言いながら。
 そんな望夢に、何者かの手がつかみかかり、思いっきり投げ飛ばされた。
「ぐはっ!」望夢は背中を強く打った。
 いって~と背中をさすりながら上半身を起こすと、壁時計が見えた。「八時四十一分?よっしゃ!三分ものぞいてたぜ!新記録!」
「なに言ってんのよ!ほら。鼻血」瞳は望夢に手を差し出して立たせ、ポケットティッシュを渡した。
 望夢はポケットティッシュを奪い、鼻につめた。そしてお礼とは裏腹に「なんだ。お前かよ」といつもの冷たい反応をした。
「なによ!あんたさ、いい加減にしなさいよ。本当に嫌われるよ。先生からも」
 瞳のしかり方は厳しいが優しい。だから望夢は聞こうとしない。それでも瞳はいつも望夢のことを叱るのであった。
「うちの転校生なんかさ、すっごくクールで紳士なの。あんたと違って。ねえ、芽傍くん?」
 瞳は振り返ったが、本人はいなかった。後ろの廊下のカーブ、左の水道、前の廊下の突き当たりへと首を回した。けれども見当たらなかった。足音ひとつたてずに、消えてしまったのだ。
「……もー!あんたのせいでいなくなっちゃったじゃない!」瞳は望夢を責めた。
「は?オレのせい?なんでだよ?」ゆったり女子更衣室を覗いていただけなのに。
「ちょっと来て!」瞳は望夢の腕をつかむと、回れ右して廊下のカーブへと引っ張っていった。手にはかなり力がこもっている。
「ちょ、ちょっ!なんだよ⁈」
 望夢は振り払おうとしたが、瞳の真剣な表情から抵抗する気になれず、いやいや着いていくしかなかった。
 瞳は無意識に望夢をつかんで引っ張っていた。なぜか転校生に会わせたいのだ。なぜかは自分でも分からない。女の感というやつだろうか。
 廊下のカーブを曲がると、玄関があり、下駄箱が並んでいる。瞳はそのあたりにも目を配った。望夢も仕方なく、転校生の姿は知らずとも、それらしき人物を一緒に捜して目を配った。
 そこに転校生は居なかった。けれど、その先に居た。玄関を出た先に芽傍は居た。コンクリート張りの地面の上に立って、空を見上げている。何かに見とれているのか、もしくは考え込んでいるらしく、ぼんやりとした表情だ。
 望夢は瞳に引っ張られて外のコンクリートの上に出た。空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。瞳が隣に来ても、芽側は顔を上げたまま空を眺めている。
「芽傍くん?」
 芽傍は宙に向けていた顔をゆっくり下げ、瞳を見た。続いて望夢を見た。
 瞳の手から解放された望夢は芽傍を見つめ返した。
 二人はむっとした表情で見つめ合っている。どう考えても相性が悪い二人の間に、気まずい空気が流れた。
 瞳はこの沈黙を破ろうとして言った。「こいつはあたしの友達、望夢。きっと仲良くなれるよ」
 二人はその言葉には無反応で、なおも見つめ合った。
 先に言葉を発したのは望夢だった。
「お前…彼女いんのか?」
「……」瞳は呆れた。初対面の男子に対してもこの第一声とは。
 芽傍は答えない。ただ望夢を見つめていた。
「どうなんだよ?」と望夢は答えを促した。
 ようやく芽傍も口を開いた。「…君、やめといたら?」
「…は?」望夢は疑問符を投げた。
「君みたいな人は、女と付き合わない方が良いんじゃないか?」
 雷鳴がゴロゴロと遠くで唸った。
 望夢の腹の底では、じわじわとムカムカするものが込み上げてきた。瞳は何がなんだか分からない。“まずい”という言葉が心の中で連呼した。
 とうとう望夢は切れた。「なに?てめえ何様のつもりだ?」
 芽傍は彼を恐れる様子が全く無く、返事もせぬまま玄関に向かった。
「おい!待ちやがれ!」
「ちょっと!やめなよ」瞳は望夢をつかみ止めた。
 望夢は瞳を振り払って芽傍の後を追い、政治家に講義する市民のように意見を表明した。「付き合う権利は誰にだってあるだろ!」
 望夢が言い放つと、芽傍は振り向かないまま低い声で言った。「そうとも。僕は君に権利が無いと言っているんじゃない。今の君はその権利に則って女と付き合う資格は無いんじゃないかと言っているんだ」
 望夢は芽傍を鋭く睨んだ。
「それに、君は権利がどうだのと言えるほど、恋愛において熟知しいるのか?」
 ここで望夢の怒りは絶頂に達した。拳を握り締め、今にも殴りかかりそうだ。
 芽傍は振り向いたが、表情は変わらない。そして今度は矛先を瞳に向けた。「君は、どうしてこんなヤツと友達なんだい?」
「え?」瞳は顔をしかめた。
「どうせ、味方が欲しいだけなんだろ?」
  とうとう瞳も我慢できなくなり、二人の間に割って入った。「やめて!二人とも、喧嘩はやめて!芽側くん、そんなこと言わないで。せっかく友達になれたんだから。望夢も。ね?」
「え?おれ⁈」
 瞳が振ると、望夢は否定の目を向けた。
 芽傍はこれまでに無いほど鋭い目つきで二人を見た。
 今度は何を言い出すのか?二人は身構えた。
「…友達?……簡単に友達とか言ってんじゃねえよ‼」
 雷鳴が響いた。続いて、学校のチャイムが鳴った。芽傍の声は憎しみに満ちているように力強かった。二人はただ驚くしかなかった。
 芽傍は瞳を睨み、続いて望夢を睨んだ。望夢は睨み返した。
  芽傍は踵を返すと玄関に向かった。
  望夢と瞳は立ち尽くし、その後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
「何なんだ?あいつ?」望夢は低い声でつぶやいた。
 瞳は首を傾げた。



 転校生の噂はすぐに広まるものだ。芽傍ゆうのような、一風変わった存在は特に。入学初日にして、もはや学年で彼の存在を知らない者はいない。独特のクールさと近づきにくさで一段と注目度が高いのだ。
 昼休み。
 三年C組の教室で、瞳はクラスのあちらこちらで大勢が芽傍のことを話しているのを聞いた。その全てを聞き取れたわけではないが、大抵の内容は、クールだとか、少し恐いとかだ。
 瞳は考えていた。望夢は芽傍に彼女がいるのかと訊いていたが、確かにそれは気になるところだ。おそらくいないだろうが。
 そんなことを考えていると、男子が5人、のっそりと芽傍の方へ歩み寄って行く姿が見受けられた。鬼頭らだ。
 クラスのあちこちから響く生徒の声のボリュームがいっきに下がり、物音一つしなくなった。
 芽傍は周りを気にせず、席に着いて本を読んでいる。
 一同が芽傍と鬼頭に注目した。
 鬼頭らは芽傍の席を取り囲んだ。全員、腕を組むか、ポケットに手を突っ込むかの姿勢をとっている。これから何やらしでかそうとアピールしているようだ。
 芽傍は本は閉じずに顔を上げ、鬼頭らを見た。
 ようやく鬼頭が口を開いた。
「芽傍ゆうくん?三年C組へようこそ」
 鬼頭の言い方には皮肉がこもっていた。他の男子も皮肉っぽい笑みを彼に向ける。
 芽傍は無言だ。いつもの鋭い目つきで鬼頭を睨んでいる。
「歓迎の証として、お前に度胸試ししてやろう。俺らの言うことができたら、俺らの仲間に入れてやる」
 芽傍は表情を変えない。
「職員室行って、木下の机から、なんか盗ってこい」
 他の男子も「そうだ、盗ってこい」「できなきゃクズだな」と挑発した。
「どうだ?乗るか?」鬼頭は促した。
 5秒程の沈黙の後に、芽傍は単刀直入に答えた。「…断る」
 クラスに緊張が走った。
 鬼頭は芽傍に顔を近づけ、声をひそめて言った。
「じゃ、お前は負け組決定だな」
 男子一同は笑った。
  しかし芽傍は強い。「それだけか?」鋭い口調でそう尋ね、男子らを驚かせたのだ。
「あ?」鬼頭は顔をしかめた。
 芽傍は付け加えた。「たかがそんな条件を突きつけてくるだけか?しかもそれを承諾しないだけで負け組なのか?」
 クラスはしんとした。芽傍の言っていることはもっともだ。けれどもそんな理屈が鬼頭らに通用しないのは言うまでもない。
 鬼頭はガンッと拳を机に打ちつけた。同時に一同の背筋が凍る。
「あ⁈なんだ、てめぇ?」
 芽傍はなおも表情を変えない。ひたすら鬼頭を睨んでいる。「ま、君に干渉する気はないけどさ。なんにしても、僕は君たちとつるむ気はない」
 クラス一同はこのとき思った。芽傍は終わりだ。誰にも助けられない。女子一同には目をつぶる者、顔を手で覆う者までいた。男子一同は喧嘩を予感し、目を見開き感極まって待ち構えた。
 鬼頭は再びガンッ!と机に拳を振り下ろした。「なんだと⁈」
 駄目だ。もうおしまいだ。瞳も恐怖のあまり両手で口を覆った。
 だが芽傍本人は全く表情を変えず、堂々たる振る舞いだ。
 鬼頭の睨んだ顔が深くなり、今にも殴りかかりそうだ。「どういう意味だ⁈」
 芽傍は言論攻めを続けた。「君たちみたいなふしだらな連中とつるむ気はない」
 ついに鬼頭は爆発し、そばにある椅子や机をなぎ倒し、芽傍を壁に押し付け、首根っこをつかみ上げた。クラスの女子から悲鳴が上がり、男子は待ってましたとばかりに手を打ち、口々に「やれやれ!」と声を上げた。瞳は慌てて自分の席から離れた。
 しかし、驚くことに、芽傍はいまだ無表情のままだ。自分の置かれた状況が危ういとは思わないのだろうか。
 鬼頭と芽側は再び睨み合った。一同は覚悟した。けれども結局、鬼頭は殴ることはなく、こう言い放った。「お前はまだ新入りだ。今回は大目に見てやろう。いいな?今回だけだぞ‼」
 鬼頭は芽傍を掴んでいた手を離し、教室を出て行った。男子らも後に続いた。
 芽傍は、何も無かったかのように席に戻ると、再び本を開いた。
 瞳は胸を撫で下ろした。とは言っても、安心し切ってはいない。芽傍はいつ鬼頭が反撃して来てもおかしくない状況に陥ってしまったわけだし、いつまでも、誰に対してもあんな態度をとっている訳にはいかないだろう。



 風ひとつ無い夜。むしむししていて暑い。空は真っ暗で、星ひとつ無く、雲が多い。なんだかすっきりしない夜だ。
「ああ、だいたいのことは知ってる」
 瞳からその日の出来事を聞いた望夢は呟いた。隣で歩く瞳は不安そうな顔している。二人がしている話は他でもない、例の転校生、芽傍ゆうのことだ。芽傍の騒動はすでに多くの者が知っていた。
「鬼頭に楯突いたんだからな、そりゃすげえ騒ぎだぜ。鬼頭のやつ、転校生が入って来ると、いつもそいつをおちょくるんだよ」
「おちょくる?」
「ああ。『俺が長だ』的な感じでな。この状態が続けば、あいつも過去に標的にされたやつらと同じ目に会うだろうよ」望夢は期待しているかのように言った。もちろん、望夢もこんなことを言える立場ではない。
「そんな言い方はないでしょう?だったら助けて上げなきゃ」瞳はたしなめた。
 そんな瞳に、望夢は疑問と軽蔑の混ざった顔を向けた。「なんであんな変なやつの味方のすんだよ?今朝見ただろ?おれに付き合う資格無いとか、簡単に友達とか言うなとか。おかしいだろ?そう思わねえのかよ?」
 瞳は目線を上げて一瞬考えた。「…うーん、確かに変わってはいる。だけど、悪い人じゃないと思うんだ。少なくとも、あんたよりはマシよ」
「はあ⁈」望夢の顔は驚きと憤怒が足し合わさった顔に変わった。
「だって、芽傍くんさ、正しいと思う。あんたには付き合える資格が無いって言ってたけど、本当だもん」
「ふざけるな」望夢は瞳から視線を逸らし、地面の砂利を蹴り飛ばした。瞳は砂煙をジャンプでよけた。
「ほら、そーゆうすぐかっとなる性格も」
 望夢はもう瞳の言うことに耳を傾けてはいない。
「そのうち、分かる時が来るよ。芽傍くんが正しいんだってね。望夢さ、芽傍くんと友達になりなよ?」そう言う瞳の表情は、真面目ではなく、皮肉な笑みを浮かべている。
 望夢は舌打ちした。瞳を遠ざけようとするかのように、早足になっている。瞳は面白がって歩幅を揃えた。
 二人は横断歩道に差し掛かった。歩行者用の信号が赤く光っている。望夢は、それを無視して前進した。瞳が止める前に、一台の車が、クラクションを豪快に鳴らしながら走って来た。望夢は慌てて後退した。真っ白な高級車が通り過ぎていった。望夢は通り過ぎたその後ろ姿を睨んで舌打ちした。
「信号は、ちゃんと守らないとダメだよ~」瞳はまたたしなめた。
 信号が青になり、二人は歩き出した。
「あんた、このままじゃまずいよ、どんどん嫌われるよ?」瞳の口調は変わらない。なおもにやけてうざったらしい顔で望夢に向けている。
 望夢は何も答えない。
「たくー!分からずや!おりゃ!」瞳は早歩きのまま、いつものタックルを浴びせた。
「うお‼」望夢はコースアウトして生垣に突っ込んだ。
「そんじゃね」瞳は行ってしまった。
 取り残された望夢は、言い返すのも面倒くさくて、ただじっと瞳の後ろ姿を睨んでいた。



 帰宅した望夢は、いつものように真っ先に階段を上がり部屋へと向かった。
「お帰り。今日、クロの散歩、手伝って…」
 と言う母を無視して、部屋の扉を開けた。部屋に入るや否や、パソコンに飛びつき乱暴に開くと、いつもの出会い系サイトがある。自分のプロフィールだ。
 見ると、通知のアイコンが画面の右下に出ている。もしや⁈と思い、そこをクリックした。
 それを観た途端、望夢は驚愕した。

『今度、お時間あれば、お会いしていただけませんか?』

 女性からの出会い申請だったのだ。自分の目を疑って、もう一度見た。やっぱり申請が来ている。
「やったーーー‼」望夢は感極まった。やっとだ。初めてだ。ついに、女との関係が持てるのだ!
 と思ったが、大事なことに気づいた。相手はどういう人だ?顔と体型がよくなければ意味が無い。そう思って再びパソコンの画面と向き合うと、通知から、相手のプロフィールを開いた。

『名前:亜久間 愛
 年齢:18歳 
 身長:162cm
 特技・趣味:愛を広める
 一言:愛はみんなのもの!(*^^*)』

 写真もきっちり載せられていた。しかも、写っているのは顔だけではない。全身を鏡に写して撮っている。女の服装は、洒落た形状の黒い文字でLOVEと書かれた白いTシャツに、黒いジャケットを羽織っている。下半身は、真っ赤なひらひらのスカートを膝上20センチほどの高さで身につけ、色気を感じさせる。細く伸びた長い脚は黒いタイツを履いている。顔を見ると、まず高いつり目が目立つ。瞳は真っ黒だ。鼻は高い。髪は左右で跳ね上がっていて耳もしくは角を思わせる。髪全体は肩に付くくらいの長さである。口は、かなり濃い口紅を塗っているのだろう、燃えるように真っ赤だ。両耳には小さくて形は良くわからないがピアスがしてある。胸元を見ると、矢がハートを貫いたデザインのネックレスをしている。派手ではあるが、一般的に見て美人だろう。全体的にクールでオシャレな印象だ。黒と赤が好みなのだろう。
 望夢の興奮は一気に燃え上がった。女の子から誘いがあるというだけで嬉しいのに、しかもこんなにもかわいい子だとは!
 望夢はキーボードを打って相手に返事を書き始めた。望夢の心臓は、普段より早く、激しく動いていた。大袈裟な呼吸しながら、返事を書き終えた。

『お誘いどーもで~す!いつでもイイっすよ!なるべく早く会いたいなー!』

 まだ会ってもいない相手なのに、ずいぶんおちゃらけた言葉遣いで返事を送った。すると、1分も経たずに返信が来た。

『明日の午後6時、落合通りで待ってます』

 落合通り。それは、望夢の家から5分もない場所だ。彼女の家は近いのだろうか?だとしたら、条件は完璧である。
 望夢はベッドにどさっと仰向けに倒れた。長年の夢が叶い、嬉しさでいっぱいである。しばらくそのまま、にやけ顔で妄想を掻き立てていた。
 この出来事が、悪夢の始まりだとは知らずに。



「やーりましたーーー‼」
 教室に勢い良く飛び込んで来た望夢は、クラスに言い放った。クラス全体が彼に注目する。
「何をやったんだよ?痴漢でもしたのか?」と一人の男子が皮肉った。
「ちげえよ!」
 望夢はそいつに向かってにやりとし、次にクラス全体を見つめて、
「お前ら、心して聞いとけ!この度、本橋望夢は、女の子から誘いを頂きました‼パチパチパチパチ!」一人で盛り上がって拍手喝采。
 周りは一斉に「ええーー⁈」と声を漏らした。
「おい!嘘つくんじゃね!」「なんかの間違いだろ?」「夢でも見たんじゃねえのか?」 「いや、無いね。うん、無いって」
 男子も女子も、誰も望夢の主張を信じようとしない。
 望夢は勝ち誇った表情で言い返した。「マジだよ!昨日の夜、相手から誘いがあって、地元で今日の6時に会うことになったんだ!ほら、画像だってあるぜ」
 そう言って自慢気にケータイを一同に向けた。この状況は想定内で、証拠品としてのみならず、見せびらかすためにケータイに写真を入れてきたのだ。
「貸せ」男子が奪い取り、ケータイの画面を観る。「は⁈かわいい…⁈」
 他の男子らも見せろ見せろと集まって来た。見た者全員が、「うわ!かわいいー!」と叫んだ。そばに居た女子までケータイを覗き込むと、「え?なにこの子、きれー!」と呟いた。
 クラスは大騒ぎだ。一同の考えはひとつ。あの、本橋望夢、学年一の変態野郎に誘いをかける女なんて、この世のどこに居るのだろうか。そう、あり得ない。
「ウソつけ~!お前見栄張ってんじゃねえよ」
「それか騙されてんじゃねーのか?詐欺っぽくね?」
 そんな男子らに望夢は言い返した。「ウソじゃねえよ。見てろよ!すぐにリア充になってやるから!」
 望夢の自信に、一同は爆笑した。望夢は気にしなかった。それだけ自信があったのだ。いや、ただ好い気になっていただけなのだが。



 望夢の女騒動は、半日のうちに早々に学年中に広まった。何度も言うが、望夢の変態っぷりは学年でも有名であり、誰もそんなことは予期していなかったのだ。雑談となれば、ほぼ毎回、望夢の話が持ち出される。“転校生芽側”のまでも上回り、“望夢、女からの誘い”は頻出ワードランキング1位を記録した。
 食後の休み時間、望夢は気分良く廊下を歩いていると…
「望夢ー!」
 前方から声がした。瞳だ。望夢の元に足早に近づいた。そして、望夢が「何?」と訊く前に「今日女子と会うって本当⁈」と尋ねた。
「ああ!言っただろ?俺は諦めないって。そして、ついにその夢が叶ったのさ!」
 望夢はこれ以上むかつきようが無いほどのドヤ顔をした。
 瞳は口をあんぐり開けて望夢を見つめた。他の者と同様、どうも信用し難いのだ。
「それ、どんな人⁈」
「ん?めーっちゃかわいい子」
 瞳は顔をしかめた。「いや、真面目に答えて」
「マジだよ。ほんとにめーーーっちゃかわいい子!」
 瞳は顔をしかめ、疑うように訊いた。
「その子のこと、よく知らないんでしょ?」
「あ?ああ。今日会ってちゃんと話す」
「どうやって知り合ったの?出会い系?」
「そっ!」
 瞳は歩きながら宙で頬杖をつき、やや下を向いて考える仕草をした。
 望夢は顔をしかめた。「何だよ?」
 瞳は頬杖をついたまま望夢を見た。「あやしい~」
 そのときだった。二人の前に、5人の男子が立ちはだかった。鬼頭と愉快な仲間たちだ。
 二人は立ち止まり、五人を見つめた。瞳の顔に恐怖が映る。一方、望夢はいつもと違い、自身を持った表情で鬼頭を見据えている。
 鬼頭は望夢に近寄った。「おめぇ、彼女できるって、ほんとか?」
 望夢はニヤリとした。「ほんとだぜ!」
「どうしてそう言えるんだ?」
「手応えがあるんだ」
 男子らが鼻で笑った。
 鬼頭が前のめりになって望夢を見下ろした。「もしもウソだったら?」
 望夢は一瞬視線を反らし、鬼頭の目をじっと見返した。望夢は答えようとした。
 そのときだった。
「やめておけと言っただろ」何者かの声がした。
 望夢、瞳、鬼頭らは、一斉に声のする方に目を向けた。
 その場にいた誰もが驚いた。芽側ゆうが壁に背中を付け、腕を組んでこちらを見ていた。その目は、望夢に向けられている。「警告だ。やめておいた方がいいぞ」芽側は繰り返した。
 望夢の怒りメーターがグンと急上昇した。
 他の者たちは以外な展開を、ただ呆然と眺めている。
「なんだよ⁈またてめぇかよ!そっちこそいい加減にしろよ!」
 望夢は芽側に近づいた。今にも殴りかかりそうだ。瞳は望夢を抑えた。
 芽側はさらに言った。「ま、強制はしない。勝手にしろ」
 芽側は望夢を睨み、瞳を睨み、さらに鬼頭らまで睨むと、近くの階段を下りて消えた。
 望夢と鬼頭に沸き上がっていた対抗心は、もはや下がっていた。切迫した雰囲気はもう無かった。
 鬼頭は望夢に近づき、声を低くして呟いた。「ウソだったら、ただじゃ済まねえからな!」
 それだけ言って、他の男子を引き連れて去って行った。



 暗い夜道は、いつもに増して不気味だった。もともと人通りの少ない道だが、今日は誰もいない。静寂に包まれている。
 けれども、望夢は気にならなかった。これから着く場所のことしか頭に無いのだ。ついに、このときが来た。夢にも見た、女の子との待ち合わせである。
 望夢は立ち止まり、左上にある看板を見上げた。落合通り。待ち合わせの場所までたどり着いた。制服の袖をめくって腕時計を見ると、5時59分を差している。相手はこの辺りに居るはずだ。
 どこにいるのだろう?キョロキョロと辺りを見渡した。けれども女性の姿は無い。
 時計が6時ぴったりを差した。するとどこかで、カーン…カーン…と鐘か何かの音が鳴り響いた。
 鐘が鳴り止んだ。と同時に、望夢は別の何かを耳にした。
  …?………歌?…歌だ…。

私欲のままに奔走し
空虚な気持ち押し付けて
今日も自分の愚かさを知らず
異性に目の無いあなたには
真の愛はわからない
そのため私は悪魔に変わる
あなたが変わるその日まで…

 望夢はボーッとして目を細めていた。思わず右手をおでこに当てた。急に視界がぼやけたような気がする。周りの景色が回っているようだ……望夢はわけがわからなくなった。
「あの…」
 そのとき、後方から女性の高い声がした。ぎょっとして振り向くと、女性が立っていた。長髪で、赤いミニスカートを履いている。目は極度につり上がっている。そしてハートのネックレス。間違いない。例の彼女だ。サイトに18歳と書いていたから普通の若い女の子を想像していたが、背が高い上に顔立ちが大人っぽい。ぱっと見歳上に見える。そのせいもあってかなりの美人である。
「本橋望夢さん、ですよね?」女性はおずおずと尋ねた。
「はい!そうだよ、おれ!」望夢の様子が一変した。テンションは一気に上がり、満面の笑みで答えた。
 女性は笑顔になった。「初めまして。亜久間愛です」そういって丁寧にお辞儀をした。
 望夢はニヤリとした。そして、唐突に、「おれと付き合って下さい」と図々しく申し出た。ここでも彼の汚れた性格が出てしまった。
 しかし、相手は戸惑いもせず、笑顔で望夢を見つめて答えた。「良いですよ」
 望夢は息を呑んだ。「本当に?」
「はい」亜久間は笑顔で答えた。
 ……いやったー‼
 望夢は飛び上がるほど嬉しかった。とうとう、夢が叶った。これまでの苦労は無駄では無かったのだ!
「じゃあ、契約書にサインして」亜久間はそう言ってどこからか紙切れを取り出した。
「オッケー!」望夢は少女の手から紙を取るとサササッと自分の名前を一番下に書いた。
 亜久間は"契約書"に目を通すと、良しと言う顔をして、望夢の腕に抱きついてきたのだった。
 望夢は夢を見ている気分だった。こんなかわいい子抱きつかれているなんて!
 二人はしばらくくっついたまま言葉も交わさず夜道を歩いた。
 5分ほど歩いた頃だった。
「ねえ、あなたの家に寄っても良い?」
 亜久間が急にお願いしてきた。
「え?」望夢は少し驚いて訊き返した。
「あなたのご両親に会ってみたいの」
  付き合って間も無いのに、そんなことを言うなんて。けれど望夢は別に「うん、良いよ」と答えた。気にすることは何もなかった。むしろ、自分の彼女を親に見てもらえるのを嬉しく感じた。




 ここは本橋家。ごく一般の家庭で、トイプードルのアミが歩き回り、リビングでは柴犬のクロが檻に入れられている。キッチンでは、優しい表情の母親が料理をしている。
 和室のテーブルの、片側に望夢と亜久間、向かい側には望夢の父親が、穴がいくつも空いた障子を背にして座って向き合っていた。
 先に言った通り、望夢の親父は、とても厳しく、見た目もいかつい。むっと閉じた口、つり上がった眉毛、常に睨んでいるような目。こんな父親に、望夢は小さい頃から怒鳴られ、殴られて育ってきた。だからこそ、今日ここに彼女を連れて来て、立派な男に成ったことを見せつけてやろうと思ったのだ。
「親父…この人は…俺の……彼女です!」
 親父は、目を少し太くした。望夢を見て、それから隣の女を見た。
「初めまして。亜久間愛と申します。こんな遅い時間に、急にお邪魔してしまい、すみません」そう言って、彼女は頭を下げた。
 親父も、別に構いません、と言うように頭を下げた。そして、ようやく口を開いた。「そうか。彼女か。綺麗な子だな。望夢!お前にはこんな娘は贅沢過ぎんぞ!感謝すんだぞ、感謝!」
 望夢は、確かにと言うようにぎこちなく頷いた。
「駄目な息子ですが、どうかよろしくお願いします」親父はそう言ってまた頭を下げた。
 亜久間も軽くお辞儀をし、言った。「あの、望夢さんのことで、お話したいのですが。二人だけで」
 親父は亜久間をまっすぐ見つめた。
「?」望夢は少し戸惑った。二人だけで話したいとは、何のことだろう?聞いてみようとしたが、父親に、外せ、を意味する目で睨まれ、仕方なく部屋を出た。
 それから数分。望夢は考えていた。きっと彼女は、自分がどのような人物なのか、親父に聞いているのだろう。この二人の会合が上手く終われば、親父はきっと、自分を褒めてくれる。きっと、自分を男として認めてくれるだろうな。きっと、お小遣い上げてくれるだろうな。きっと……
「望夢ーーー‼」
 急に親父が怒鳴り声を上げ、部屋から飛び出し、望夢をつかみ上げた。
「はい⁈」
 望夢の問う間もなく、親父は本気で彼を殴り飛ばした。
 望夢はは吹っ飛び、後ろの壁に激突した。もし漫画の世界だったら、間違いなく壁は壊れていただろう。
「ちょっと何事⁈」母親は驚いて和室に駆けつけた。
「お…お…親父…」
「女欲しさに、やたら告白してるとは、何事だーーー‼︎」
 望夢は言い訳する前に、再び父親につかまれ、ぶっ飛ばされた。母親が止める隙もなかった。飛ばされた先は和室。そこに亜久間がいた。
「……な、何を…話したの?…」
 望夢は声を絞り出して尋ねた。
 しかし、亜久間は笑っているだけで答えない。望夢をあざ笑っていた。その表情は、なんだか不気味だった。
 何が何だか分からないまま、望夢はまたもやぶっ飛ばされた。



 その後、望夢は家から放り出された。
 望夢は夜風で傷を冷やしていた。過去に何度も殴られたが、ここまで強く殴られたのは初めてだった。
「それで、目が覚めたんじゃない?」亜久間が微笑みながら皮肉を言う。
 望夢はそんな彼女を睨んだ。「何でおれことを馬鹿にするんだ?さっきだって笑ってただろ?おれが殴られてる時ずっと。…君は何なんだ?もともとおれと付き合う気なんか無かったのか?おれがやってることを親父に告げ口するためだけに言い寄ったのか?」
 少し間を置いてから、にやりと笑って亜久間は答えた。「そうよ。あなたと付き合う気なんて無かったわ。親に告げ口するため。でもこれは手始めに過ぎないわ」
「手始め?どういう意味だ?……君は誰なんだ⁈」
「…私?」
 亜久間は間を置き、望夢をじっと見つめて答えた。「私は、愛の使者。この世の愛を監視し、取り締まっているの」
 ………?何を言っているのだろう?望夢は聞き間違えたかと思った。「…何だって?何?愛の使者⁈」
「ふふ。そんなに驚くことないでしょ?私たち、前に一度会ってるのよ」
「何⁈」望夢は考えた。言われてみれば確かに、彼女の声をどこかで聞いたことがある気がする。……まさか⁈
「君は……あの夢の⁈…」
 亜久間は頷いた。あの夜、話しかけてきた女性。夢だと思っていたが、現実だったのだ。
「……じゃあ…君はおれに、愛を教えに来たって言うのか?」
 亜久間は頷いた。
 望夢は訳がわからない。「…よくわかんねえけど、そんなのごめんだからな‼」
 亜久間の顔に邪悪な笑みが浮かんだ。「今さらもう遅いわ。もうあなたは私と契約したんだから」
「契約?…そんな覚えは無い」
「したわよ。さっきあなたがサインしたあの契約書よ」
 望夢は目を見開いた。「あ、あれは、付き合うっていう契約じゃ…」
「馬鹿ね。付き合うための契約書なんて、存在する訳無いじゃない」
   ……。
 冷たい風が吹いた。どこかで犬が吠えている。
 望夢の頭の中では、様々なことが渦巻いていた。愛の使者?に騙されて?契約した?愛を学ぶために?
 そしてようやく頭に浮かんだ返答は、ぎこちないものだった。「…当然だ」
 一瞬の沈黙。
 そして、「ふふふふふふふふ…」と亜久間の邪悪な笑い声が響いた。
 それに合わせるように、望夢の叫び声が夜の町に響き渡った。




 バサッ!
望夢は目覚め、勢い良く起き上がった。
 昨夜のことが頭を駆け回る。あれは本当の出来事だったのか?それとも悪い夢だったのか?部屋を見回す。誰もいない。そう、あの女…亜久間も。
「やっぱり夢だったんだな。愛の契約なんて…」
 望夢はほっとしてベッドから出ようとした。すると、おでこが痛んだ。手で触ってみるとズキっと痛みが走った。
 まさかと思い、ベッドから飛び出し、ベッドの脇にある鏡を見た。すると、大きな痣があった。そう、親父に殴られてできた痣が…。
 望夢ははっとした。あれは夢ではなかったのだ。そう悟ると同時に、また額の傷が痛んだ。望夢は傷を隠すようにおさえた。
 ここでもうひとつ異変に気づいた。自分の部屋に鏡なんてない………いや、よく見ると、部屋自体が違う。自分の部屋ではない。「何だここは?」
 驚いて周りを見回した。ベッドの向かい側の壁には、鉄格子が並んでいる。部屋は一面灰色で、薄汚れている。ベッド側の壁には、鉄格子がついた小さな窓が一つある。窓からは朝日が入り込んでいる。部屋に時計は無く、時間はわからない。
 望夢は気づいた。牢屋だ。自分は檻の中に居る。…まさか、刑務所⁈
 望夢は鉄格子に顔を押し付けて牢屋の外を確認した。左右とも、廊下が真っ直ぐ続いていて、他にも牢屋が並んでいる。まさに刑務所そのものだ。
「…ウソだろ⁈」望夢は焦った。はて、どうしたことか?なぜこんな所に?何か悪いことでもしたっけ?いや、全く覚えがない。
 もしかしたら刑務所ではないかもしれない、と望夢は思った。なぜかというと、法に触れていないというのが第一だが、望夢が着ているのは囚人が着るような服ではなかった。白いローブのようなものだ。だからここは刑務所ではない、としたら、ここはどこなのだろうか?そしてこの服は何なんだ?
 声を出して誰かを呼んでみようかと思ったが、呼んで来たのが警察だったらと思うと恐ろしい。なので、ベッドの上で体育座りをしてうずくまっていた。
 そのまま5分ほど考えてみた。が、やはり解決策は浮かばない。
 その代わり昨夜のことがフィードバックしてきた。

「私は、愛の使者。この世の愛を監視し、取り締まっているの」
「…何だって?何?愛の使者⁈」
「ふふ。そんなに驚くことないでしょ?私たち、前に一度会ってるのよ」
「何⁈……君は……あの夢の⁈………じゃあ…君はおれに、愛を教えに来たって言うのか?…よくわかんねえけど、そんなのごめんだからな‼」
 亜久間の顔に邪悪な笑みが浮かんだ。「今さらもう遅いわ。もうあなたは私と契約したんだから」

  ……あれは現実だったのだろうか?
  …そうだ!
  望夢はベッドを押して移動させ、その上に立って窓の外を眺めてみた。そうすればここがどこなのかわかるかもしれない。
 その光景は不思議だった。草原が広がり、木々が生えているが、雲の中のようにもやがかかっている。どこなのか検討もつかない。
 ぼんやり外の景色を眺めていると、廊下の方からスタスタと足音が聞こえてきた。望夢はドキッとして鉄格子の方に目線を移した。すると、二人の男が姿を現した。二人とも外国人で、見た感じ警察ではない。と言うか、望夢と同じ白いローブのようなものを身にまとっている。司祭だろうか?望夢はますます訳がわからなくなった。
 望夢が困惑していると、男の一人が言った。「起きてるな。これから裁判だ。着いて来い」
「………さ、さ、裁判⁈」望夢はひっくり返りそうな気持ちで訊き返した。
 二人の男はうなずいた。そして一方が牢屋の鍵を開けた。
 望夢は恐怖に凍りついたような顔で、牢屋から出ようとしない。鍵を開けた男が「出ろ!」と強く命じたので、望夢は仕方なく出た。
 かなり厄介なことになった。どこにいるのか分からないと言うのに、その上裁判だなんて。
 二人の男が歩き出し、望夢も後に着いて行った。そのとき、望夢はまた気がついた。男二人の背中には、小さな翼らしきものが付いていた…。



 言葉通り、望夢が連れて来られたのは、明らかに裁判所だ。広い空間。その中心に望夢がいて、その正面には裁判官らしき人物。その左右には半円形にずらりと陪審員が座っている。さらに、望夢を取り囲むかのように百人ほどの傍聴人が黙って座っている。それも日本人だけではない。明らかに外国人っぽい顔の人物も混ざっている。ここには色々な国の人々が集まっているようだ。
 ただ、奇妙なのは、裁判官も傍聴人も、一人残らず白いローブを身につけている。そして、背中には小さな翼が付いている。白いローブにおいては儀式着だと思えばまだ説明がつく。けれども背中の翼についてはどうしても説明がつかない。これはいったい?
 そしてさらに奇妙なのが、裁判官と陪審員だ。
 一番左端の陪審員は、なんと男女が一つの席に2人で腰掛けている。とは言え、二人の間には肘から手ほどの距離がある。二人とも見るからにティーンエイジャーだ。若いカップルが、寄り添いながらも一定の距離を保っているといった感じだろうか。
 その隣の席なんて、冗談だろうか、子供が三人座っている。三人とも会話しながらニヤニヤした表情で望夢を見ている。話のネタは望夢に違いない。
 その隣の陪審員は、男女一組で座っているが、今度は年配の男女だ。前の二人とは対照的に、互いの手まで握り合っている。きっと夫婦なのだろう。それだけで充分奇妙なのだが、さらにはなんと母親の手には乳飲み子が二人抱かれているのだ。わざわざ乳飲み子を裁判に同席させるとは、一体どんな神経をしているのだろう?
 その隣が裁判官だ。髪の毛、口髭、あご髭すべてが真っ白な老人で、かなり老けている。右手には腰掛けた自分と同じ高さほど立派な杖を握っている。年齢は80、90、いや、100歳超え?もはや不老不死なのではないかと思うほどのやつれ具合だが、神々しさがある。その老人が腰掛けている椅子も他の誰よりも豪華で、存在感が半端じゃない。ただのやつれた老人ではなく、知識と教養を充分過ぎるほどまで磨き上げた偉い長者に違いない。
 その隣の裁判官が一番まともで、優しそうなお婆さんだ。
 けれどもその隣は、何だろう?動物が座っている。それも何の動物だかわからない。ライオンのたてがみにゾウの牙、鳥のくちばし。他にも色んな生き物が混ざっている。DNA組換えで作り出された遺伝子組み換え生物だろうか?
 この奇妙な光景を見て望夢は思った。そうだ、これはドッキリなんだ!きっと、見知らぬ人に突然ドッキリを仕掛ける番組なんだ。そして自分がそのターゲット。だとしたら、テレビに出ているということになる。よし!それならばドッキリに引っかかった振りをしよう。望夢はそう決めた。
 そんなことを考えて、望夢はついついニヤニヤしてしまった。ふいに鋭い視線を感じて前の見ると、ど真ん中の裁判官と目が会ってしまった。おっと…。望夢は気まずくてぎくしゃくした。
「そなたの使者はどこかね?」その老人はゆっくりとした口調で尋ねた。
「…え⁈」混乱状態の望夢は、過度にその言葉に反応してしまった。使者とは、いったい?
  答えられずにおどおどしていると、法廷の扉がバターンと開いた。扉がギーときしんで左右同時に止まる。扉の先には女性が立っていた。やはり白いローブに小さな翼。長い黒髪で、高いつり目。細身で美しい女性だ。
 そう、あの女、亜久間愛だ。
 亜久間は無表情で望夢の斜め後ろに着いた。そしていたずらっぽい笑みを浮かべて、望夢にウィンクした。
 望夢が驚いたのは言うまでもない。ドッキリ番組に、なぜあいつが?!もしや、あの女に出会ったときから、ドッキリは始まっていたのだろだか?こいつは仕掛け人なのか?
 望夢は小声で、「おい!いったい何…」と尋ねようと試みたが…
「これより、被告人本橋望夢の裁判を開始する!」
 裁判官の開始の合図で遮られてしまった。望夢は訳がわからないまま、裁判に臨まざるを得なかった。
「では、本橋望夢連行の経緯を、使者の者、お話して頂きたい」
「はい」亜久間は返事をし、堂々たる口調で説明しだした。「このわからずやの愚か者は、自分の欲望に任せて異性に言い寄るといった行為を繰り返しました。そればかりか、以前から親の言うことは聞かず、友達に対してはまったく思いやりがなく、しかも飼い犬に対しても愛情の欠片も無いといった有様で、さすがに愛の神様にご報告しなければと思いましたのです」
「その通りだ」裁判官はうなずいた。「もっと詳しく聞かせて頂きたい」
 亜久間は望夢のやったことを一つ残らず話した。告白した人数から親に反抗した回数、犬を蹴った回数など、何から何まで事細かく説明した。
 望夢は気味が悪いこと極まりない。なぜこの女はここまで自分のことを把握しているんだ⁈ますますこの亜久間が恐しく思えてきた。
 亜久間の話を最後まで聞いた愛の神様は、あきれた表情で望夢を見た。
「このような罪深い民を野放しにしておくわけにはいかない。報告ご苦労」
 亜久間は会釈した。
 望夢はもう訳がわからない。自分がかわいい娘に告白しまくっていたことを、亜久間の手によって"愛の神様"とやらに報告されたらしい。そして"愛の神様"というのが、どうやらこの老齢の裁判官のようだ。要するに、望夢は神様と鉢合わせ中というわけだ。
 うん、やっぱり訳がわからない。
 愛の神様は続けた。「この者の罪は重い。それだけのことをして、我々の教えを聞く耳があるかどうかも危うい。まあ、形式として、他の者の意見も聞こうではないか。では、恋愛」
 恋愛と呼ばれて発言したのは一番左端の若いカップルの陪審員だった。
「まあ、若いから異性に憧れを抱く気持ちはよくわかるよ。でも、異性は大事にしないとね」「そうそう。女の子の気持ちも考えてよね」二人はお互い見合ってうんうんと頷いた。
「家族愛」と愛の神様が言うと、カップルの隣の乳飲み子を抱いた年配夫婦が発言した。
「とんでもない少年です!」「まったくですわ」「近頃は親を大事にしない若者が増えているが、また酷いのが現れた」「冒とくですわ!まったく!」交互に望夢を罵ると、声を揃えて「有罪です」と終結した。
「友情」と愛の神様が言うと、隣の子供三人組みが発言した。
「いけないんだー!」「お兄ちゃんワルい人だ!」「おしおきだねー!」
「親切」と裁判官が言うと、今度は外見上一番まともなお婆さんが発言した。「そうだねぇ~、思いやりってものが欠けているねぇ~」
「動物愛」と裁判官が言うと、今度はあの遺伝子組み換え生物が立ち上がった。「パオーン!ヒドイ!ヒドイ!ガルルルルル!イキモノ、ダイジ!シャー!」
 こうして個性溢れる意見表明は終了した。なるほど。この陪審員たちが、なぜあんな奇妙な姿なのかわかった気がする。
「では、皆の者、有罪ということで、よろしいかな?」
 愛の神様が確認を取ると、陪審員一同は頷いた。
「では、続いて判決に移る」裁判官が進展させた。「この者の罪は、恋愛における無秩序、親に対する無礼、友情の黙殺、飼い犬の虐待。よってこの者に下す判決は…」
 望夢はゴクンとつばを飲んだ。
「…何が良いかのう…?」
 決まってないんかい!望夢は心の中でツッコミをいれた。爺さん、神々しいのは見た目だけか?
「さあて、どんな判決が相応しいかのう。意見のある者はいないかね?」
 愛の神様が悩んだ様子で尋ねると、夫婦愛が先陣を切った。まずは旦那が発言した。「異性を大事にしないようでは、結婚などさせてなるまい。独身刑だ」
「それは良い案ね」妻が続いた。「でも親を大事にしないというのであれば、親子離別の刑でも良いんじゃないかしら?」
「だったらさ、」子供三人組みの友情が話に乗る。「友達だって大事にしてないんだから…ひとりぼっちの、刑?だっけ?で良くない?」「孤独刑だよ」「二人とも、どっちだっていいよ。とにかくお兄さんに友達もつ権利はないね」
 やり取りは子供でも会話内容は大人だ。
「ワンワン!」続いて未確認生物が吠えた。「イヌ!イヌ!コイツイヌ、イジメタ!ダメ!ツキビト!ツキビト!」
「憑き人の刑ですな?」愛の神様が代弁すると獣陪審員はガオー!と雄叫びを上げた。それそれ!と言っているようだ。
「恋愛はどうかね?」と愛の神様が尋ねた。
 男女一組の恋愛は、「異性についての理解が足りないよ」「基礎から学ばないとね。でなきゃモテない刑ね」とそれぞれ述べた。
「それでは、全員の意見が出揃いましたな。よろしい。では裁決を下さねば」
 望夢は妙な緊張を感じた。裁判は初めてで、これまで聞いた刑の名称はどれも知らないものばかり。ただ、どれもネーミングからどんな内容かは予想できる。現実世界ではあんな判決はあり得ない。推測するに、どうやらこれは人間を法的に裁く裁判ではなく、人間の運命を決める裁判らしい。となると、ここは本当に神様の世界なのだ。だから誰もが白のローブに背中には翼という風貌なのだ。色んな人種が混じっていることも説明がつく。
 こう考えて望夢が驚かないわけがない。これまで神様の存在なんて信じていなかったが、今自分の目の前にいるのだから。パニックだ。スキャンダルだ。頭がおかしくなりそうだ。いや、もうすでに自分の頭はおかしいのかもしれない。望夢はこれが深夜のドッキリ番組であるという微かな可能性を信じ、これから自分に下ろうとしている判決に耳を傾けた。
「これまで人間に対して幾度も裁判を行ってきたが、これほど罪を兼ねる者は久々だ。となれば、やはり今出た刑罰全てを下すしかないであろう」
 法廷がざわめいた。〈今出た刑罰全て〉となると、あの5つくらいの悲惨な罰を一変に背負うことになる。裁判官の話し具合とこの法廷の様子から、これは大ごとのようだ。
 陪審員たちはこのざわめきに乗って口々に「恩知らずめ!」「恥を知りなさい!」「おにいさんのばーか!」「キーキー!ウキキキキキ!」と罵声の嵐を望夢に浴びせた。
「待って下さい‼︎」
 力強い女性の声が響き渡り、法廷が静まった。人々の視線が、望夢の斜め後ろに集中する。声の主、亜久間愛に向けて。
「どうしたのかね、使者よ」
 裁判官が催促すると、亜久間は気合いを入れるようにすーっと息を吸い込むと、あらかじめ用意されていたいかのような長文を一気に言い放った。
「私たち、愛の番人は、これまで何億何兆もの人間の不正を目撃してきました。戦争、殺人、権力闘争、宗教戦争、魔女狩り、テロ、ハイジャック。いつの時代も悪どい心で育ったむさ苦しい人間たちの無意味な争いが起こっています。ですが、見て下さい。彼はまだほんの子供です。ええ、子供にしたって悪行が目立つのは存じています。ですが、そんな人々の不正を正するのも、私たち愛の番人の役目なのではないでしょうか?前途有望な若者の成長を見守り、ときにはサポートすることが、私たちの義務なのではないでしょうか?この者はまだまだ未熟です。今すぐ手を施せば、まだ改悛が可能です」
 望夢は亜久間の堂々たるスピーチをぽかーんとした表情で聞いていた。まだ改悛が可能って、さっき人の黒歴史を事細かに暴露してたのは誰だ?お前は原告なのか弁護士なのかどっちなんだよ⁈
「わかっておる」愛の神様は呟いた。「我々はこれまで全ての人間を見守り、必要とあらば手を差し伸べてきた。しかしだ。この者の罪を見渡せば、それら全てを改善させるのは無茶だ。恋愛、家族愛、友情、親切、動物愛、これら全てを使者を遣わして教え込もうとは」
 愛の番人たちがその通りと言うように頷く。
 しかし亜久間は引き下がらなかった。それどころか、一歩前に進み出たのである。「愛の神様、私に任せて下さい。私が彼に、全て教え込みます」
 法廷が再び湧いた。さっきよりも凄いざわめきだ。誰もが亜久間の宣告に驚きふためいている。
 愛の神様はあごを掻いた。「良いのかな?もし達成出来なければ、そなたに責任を取ってもらうぞ?」
「はい。承知しています。それに私はこの者とすでに契約済みです」そう言って亜久間はあのときの契約書を取り出して掲げた。
「ほう。そうであったか。契約済みとはな。しかしそなたには、すでに別の契約者がいたな?」
「はい。ですが構いません。すべて上手くやり通して見せます」
 愛の神様はまたあご髭を掻いた。周りの陪審員たちは、その姿をひたすら見つめ、結論を待つ。
 とうとう裁判官、愛の神様は真っ正面に向けて姿勢を正し、判決を下した。「被告人本橋望夢に判決を下す。被告人は使者より、恋愛、家族愛、友情、親切、動物愛、これら全ての教育を施されることを命じる。もし達成されなければ、被告人は再審、使者には責任を取ってもらう。どう責任を取るかは、その後の審議によるものとする。以上。これにて本橋望夢被告の裁判をお開きとする」
 裁判官はガンッ!ガンッ!っと木槌を振り下ろした。



「どういうことだ⁈説明しろ‼︎ここはどこなんだ⁈おれはどうなるんだ⁈」
 裁判官や陪審員、その他の傍聴人が法廷を後にすると、望夢は亜久間につかみかかる勢いで問い正した。
 亜久間はその様子がおかしくてクスクスと笑う。「ここはね、人間の言葉で言う"天国"よ」
 望夢は一瞬凍りついた。「て、て、天国?じゃあおれ…死んだの⁈…ぎゃあー‼」
「落ち着きなさい。あなたは死んだわけじゃないわ。"天国"って言うのは要するに、天の使者の世界よ」
「天の使者?天使のことか?」
「ええ。今はあなたの魂を天国に招いてる状態。あなたの肉体は地上で眠ってるの。目が覚めたらいつも通りよ」
「そうか、ならよかった…。…でも、これからおれをどうする気なんだ⁈」
「私の元で愛のレッスンを受けてもらうわ」
「愛の…レッスン⁇」
「そう。通称愛レス。あなたを試すためよ。あなたに恋愛をする資格があるかどうか」
 望夢は怒りと混乱で拳を握りしめた。「意味わかんねえよ!何だよ愛レスって⁈ふざけるな!そんなのごめんだからな‼︎」
「今さら手遅れよ。だって私と契約してしまったんだもの」亜久間はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 その言葉を最後に、望夢の視界がぼやけ、見ている光景が白い光に包まれた。
 なんだこれ?眩しい!
 望夢は高い所から落ちる感覚に襲われ、亜久間の笑い声に見送られながら、天界から姿を消したのだった。
 望夢は消えると、亜久間は「さあ、メモリー、アジェ、また手伝ってもらうわよ!」と言い放った。
 亜久間の前に女の姿の使者、メモリーと男の姿の使者、アジェが現れた。
「お任せください亜久間様!楽しみですね!」とメモリーが胸を弾ませた。
「どうかな?ただ仕事するだけだ」とアジェは吐き捨てるように言った。
 亜久間は大きく頷いた。「本橋望夢、私が必ず、あなたを育ててみせるからね」
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