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芽傍悲劇

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8 芽傍悲劇

 日が沈み始め、もうじき真っ暗になろうとする空。夕焼けが差し込む病室で、芽傍はベッドの上で上半身だけ起こして本を読んでいた。
 そんな静かな病室に、ガラガラガラという雑音が響いた。引き戸の向こうから顔を出したのは望夢だった。
「よっ」と望夢は軽い挨拶。
 芽傍は会釈した。
「これ」望夢は紙袋を差し出した。
 芽傍は本を置いて袋の中を見た。和菓子が入っている。「ありがとう」
「お前の好みわかんねえけど、好きかもって思って」望夢は頭を掻いた。
「和菓子は好物だ。なんにしても片山が持ってくる物よりマシだな」
「瞳?なんか変なの渡された?」
「別に。気にすんな」
「おう。あいつよく来るの?」
「もう2回来てくれた」
「ずいぶんと気遣ってんな」望夢はそれほどでも~!と笑う瞳を想像した。
「マイペースだけど、優しさは本物だな」と芽傍は珍しく褒めた。
「お?瞳のこと気に入ったか⁈」望夢はニヤニヤした。
「と言うより、見直した、だな」
「お前も相変わらずだなまったく。ところで、もうすぐ退院なんだろ?」望夢は椅子の背もたれに腕を乗せて逆向きに座った。
「ああ。明日には退院できるだろうって」
「やったな!」
「そっちはどうだ?飼い犬の件、どうなった?」今度は芽傍が尋ねた。
「無事に解決したよ。クロは救えなかったけど、親は仲直りしてくれた。あと、クロの子は飼うことにしたんだ!」
 芽傍は満足そうに笑みを浮かべた。「飼うのか。それはよかった。クロもきっと天国で喜んでるさ」
「だといいなー!ってか今、お前笑ったよな⁈」望夢は世紀の大発見でもしたかのようにびっくりした。
「そんなに驚くか?人間だからそりゃあね。昔はもっと笑ってたけど」
「どうして笑わなくなった?」
「話すと長い…」
 望夢は聞いてはいけないことを聞いたような気がした。話題を変えよう。
「ところで、お金は大丈夫なのか?入院費とか色々とかかるんだろ?」
 芽傍は首を振った。「保険に入ってたから費用はかからない。手術も受けてないし。退院すれば元の生活に戻れる」
「そっか。よかった」望夢は頷いた。「…今の生活、どうなんだ?独りでバイトして学校行って、しんどくないのか?」
「ふ。ずいぶん気にかけてくれるじゃないか?」芽傍は微かに笑った。
「え?いや!別に!ちょっと気になっただけだし!」望夢は目を逸らして見えを張った。
「そうか。別にいいが。最初はキツかったけど、もう慣れてるからな」
「家族は?仕送りとかないのか?」
「家族はいない」芽傍は真顔で明かした。
「いないって?」
「母親は、小学生になる前に家を出ていった。ついこの前、転校するまで父親と暮らしてたけど、追い出された」
 望夢は目を丸くした。転校してきたときから何か抱えているとは思っていたが、まさかここまでだったとは。予想以上に衝撃的な芽傍の過去に、望夢は興味をそそられた。
「…何があったんだ…?」
 芽傍はまっすぐ正面を見つめている。「話すと長いけど…。聞きたいか?」
 望夢は大きく頷いた。「興味あり!」



 時は約1年半前。
 とある高校のとある教室に、朝のチャイムが鳴り響いた。
「はーい席について!」女性の担任が出席簿を教卓に置いた。
「学級委員、出席を取って。あれ?いない?」
 ガラガラガラガラ!と勢いよく引き戸が開いた。
「はい!」と元気な挨拶が教室中に届き、クラスメイトたちは大笑い。
「学級委員ちこく~」「はい減点ー!」とからかう一同。
「芽傍くん、遅刻ね。出席を取って」担任は促した。「みんなよしなさい!誰だって失敗することはあるでしょ?それに松岡くん、あなたの方が遅刻は多い気がするけど?」
「ちぇっ」と一番うるさかった松岡はわざとらしい舌打ちをした。
「すいません!」
 若き芽傍ゆうは謝ると、自分の席に荷物をドサッと置いて教卓の前に立った。先生は出席簿を抱えて場所を受け渡した。
「起立。気をつけ。礼。はい出席は?学級委員の斎藤さんが休みです」ゆうは先生に告げた。
「斎藤さんね」担任は出席簿に記入した。
 ゆうはシャーペンを置くとクラスを見渡してこう語った。「連絡です。昨日の放課後、部活も用事もないにも関わらず教室に数名残っていました。何もすることがなければ、速やかに下校してください」
「その通り」担任が続けた。「教室はくつろぐ場所じゃないからね」
「でもせんせー、」と松岡。「教室で話すくらい良くないっすか?学生なんだから青春したいっす」
 それに対して賛同の声が多く上がった。
 担任は冷静に返した。「青春は教室以外でやってね。放課後に教室で騒がれると先生たちが困るから」
「わかったよ。じゃ保健室で青春しときやーす!」
 松岡のつまらない冗談は意外にウケた。
「まったく。みんなが芽傍くんみたいにちゃんとしてれば先生の手間も減るんだけどね。他に連絡ある人?いない?」
 先生は芽傍と場所を替わって業務連絡を始めた。
 ゆうが自分の机に座ると、1個後ろの席の生徒がポンッと肩を叩いた。「おっすゆう!」
「おはようジョー!」ゆうも笑顔で返した。

「そいつ、城之内、通称ジョーが、クラスで一番仲が良かった。ジョーはムードメーカーな人気者で、誰とでも仲よくなれるタイプだった」
「待てよ」望夢はいったん話を止めた。さっそく意外過ぎて戸惑ってる。お前に友達がいたのは良いとして、学級委員⁈お前が⁈」
「ああ。そんなに意外か?」
「めっちゃ意外!目立たないイメージだから、そんな先頭に立つ仕事やってたなんて!」
「たしかに、目立つのは苦手だ。学級委員になったのも推薦だった」
「推薦かー」
「立候補でなったのは、もう1人の斎藤。でも、あるときから学校に来なくなった」ゆうは声色を低くして深刻そうに言った。
「じゃあ、クラスは実質1人で受け持ってたのか?」
「そうだ。というか、もっと正確に言うなら、僕がクラスにこき使われてたんだ」
「どういうことだ?」

 学級委員の仕事と言えば主に、朝、帰りの会の進行、移動時の人数確認、声かけなど、簡単に言えばクラスをまとめるものだ。しかしゆうの場合、それらに加えて“雑用”を任されていた。
 提出物を送れて出す生徒がいれば、「芽傍、これ、先生に出しといて!」
 昼休みには、「おい芽傍、ボール取ってこい!」「片付けよろしく!」
 放課後には、「芽傍くん、今日放課後に予定があって!掃除、代わりにやっといてくれない⁈おねが~い!」
 などなど、様々な雑用を強いられた。素直で優しく、断れない性格のゆうは、すべてを拒むことなく請け負っていた。それを知っていたクラスメイトたちは遠慮なくゆうに頼み事をする。ゆうはそれだけみんなからの信頼が厚い学級委員ー

「とは言えないなまったく」望夢は苦笑いしながら言った。
「ただのパシリだった。なのに自分は頼られてるって思ってたのが恥ずかしい」芽傍はスーッと息を吐いた。
 望夢は笑った。「単純だったんだな」
「ものすごく。単純で、馬鹿なやつだった」

 そんな扱いでありながらも、ゆうの陰口を言う者は少なからずいた。人の目を気にしがちなゆうはそのことに気づいていた。
 そんなとき、ゆうは時たま担任に相談するのだった。
「先生、よく心配になるんです。自分の真面目な態度が、周りの嫌悪感を掻き立ててるんじゃないかって…」
 そう不満を吐露するゆうに、担任はにっこりしてこう言うのだった。
「真面目なのは良いことよ。みんなは真面目な芽傍くんを羨んでるだけなのよ?芽傍くんはいつだって正しいし成績も良い。だから芽傍くんが学級委員でいてくれて誇らしいわ!」
「本当ですか⁈」と喜ぶゆう。
「ええ!これからもクラスのために正しい芽傍くんでいてね!」
「はい!ありがとうございます!」
 ゆうは担任の言葉に何の疑問も持たず、真面目な自分をますます誇らしく思うのだった。

「真面目な人をひいきする先生の発言だな」望夢は腕を組んだ。
「その通りだ」肯定するゆうの目には怒りがこもっている。「何回か相談はしたけど、いつもこんなこと言ってた。真面目なのは良いこと、みんなはあなたが妬ましいだけって。そんな馬鹿なことあるはずないのに。褒めちぎられて、舞い上がってた自分が恥ずかしいね」
 ゆうは呆れたように一瞬目をつぶった。
「おれは真面目とは程遠いキャラだから、よくわかんないな。わりい」
「わからなくて当然だ。規則や先生の言うことをきっちり守る人間の方が少ない。むしろ、そういうやつこそ愚かなのかもしれない…」
 望夢は芽傍のことがかわいそうに思えてきた。望夢もあった当初は、馬鹿真面目でめんどくさいやつだと思っていたが、芽傍がそんな自分を恥じてるなんて微塵も感じなかった。
「どうして、そんなに真面目でいたんだ?変な質問だけど」
 芽傍はうーんと唸った。「きっと弱いからだ。自信がないから。自信がない人は自分で良し悪しの判断ができない。だからルールや上の立場の人に固執するんだと思う」
「なるほど。そういうことか」
「先生の言うことは正しい、先生に褒められてれば間違いない。馬鹿な僕はそう思い込んでたんだ」
 望夢は言葉が出なかった。
 ゆうは水を口にして気を取り直した。「話を戻そう」



 昼休みになると、ゆうとジョーを含むクラスの男子数名と他クラスの男子で決まってやることがあった。
「ゆう!ボールよろしく!」
「おっけー!」
 ジョーの“お願い”にゆうは答えると、ゆうは指定の場所にあるボールを取ってきて校庭に転がした。
「それじゃあ始めるぞ!」
 ジョーの合図で男子たちは一斉に散らばってフォーメーションを形成した。昼休み恒例遊戯、サッカーだ。
 ジョーは運動神経がよく、サッカーでもそれ以外でも優勢を誇った。一方、ゆうはあまり運動が得意ではなく、どう足掻いてもジョーどころか、他の男子にも勝らなかった。強いボールが蹴れないため、近くの者からパスしてもらって近くの者にパスするという簡単プレーが主流だった。それでもゆうは楽しかった。
 試合の最中、ある男子が蹴ったボールが、体育館の縁に座っていた男女めがけて飛んでいった。男女は間一髪のところで左右に離れ、ボールは体育館の壁に強烈な音をたてて激突した。
「おい!あぶねーだろ!」カップルの男がキレた。
 その男子は同じクラスの坂本だった。一緒にいたのは他クラスの彼女だ。
「うっせーな!そこにいんのが悪いんだろ⁈校庭はデートスポットじゃねーよ!」ボールを蹴った松岡が反論した。
 他の男子らもそうだそうだと喚きたてた。
「校内でイチャつくなー!」
「バチ当たりだな!」
 そこでゆうが歩み出て松岡の肩を叩いた。「おい、その言い方はないだろ!怪我させてたらどうするんだよ?」
 続いてゆうは坂本と彼女に向かって「済まなかった!」と頭を下げた。
 ジョーも一緒に頭を下げてくれた。
 そこでチャイムが鳴り響いた。昼休みは終了だ。
 男子らは悪態を吐きながら校舎に戻った。
「ちぇっ!校庭でイチャついてんのが悪いだろ絶対」
「ほんとな!校庭いるくせにボール飛んできたら文句言うとか、自業自得だろ!」
 その声はゆうの耳にも届いていた。たまたま聞いていたジョーはゆうの肩を叩いた。
「気にすることない。ゆうは正しい」
「ありがとう。間違ったことしたかどうか、よく不安になる」
「どうして?」
「結構、ぼくのこと愚痴ってる人いるじゃん?」ゆうは警戒するように周りを見た。
「そうか?気にしすぎじゃないか?自信持てよ」ジョーはゆうの肩をまた叩いた。「ゆうはいつだって正しい。さっきだってそうだ。あいつらは坂本に嫉妬してるだけだよ」
「嫉妬?ああ、付き合ってることか」
 2人は階段を上がった。
「うん。モテないやつはカップルに厳しいからな」
「おおーさすが!モテるやつは言うことも違うな!」ゆうはジョーの肘を小突いた。
 ジョーは笑った。「おいおい、よせよ!別にモテやしねぇよ」
「いやいや、ジョーはモテモテじゃん!この色男が!」とゆうはからかった。
「なんだ?羨ましいってか?」ジョーも言い返した。
「別に羨ましくはないよ!」
「ほんとかー?とか言って好きな人いるんじゃね?」
「いないんだよなー。ぼくに恋愛は向いてないよ」ゆうは諦めたように言った。
「そんなこと言うなって。ゆうはいいやつだし頭も良いから、いつか彼女できるぜ!」
「そうかな?だといいけどな…」

「ジョーとは、恋愛のこととか、そんな他愛もない話で盛り上がってた」
「お前が、恋バナか」望夢は意外過ぎて面白がった。
「今じゃ想像もできないよな」芽傍は自分自身を皮肉った。
「なんだかんだ楽しそうだけど。どこに問題があった?」
「このときは気づいてなかった。クラスで深刻な問題が起こってたことに」
「深刻な問題?」
「おいおい話す。まずは、家族のことを聞いてほしい」
 ゆうは話を続けた。



 ゆうは玄関の扉を開けた。ただいまは言わない。言ったところで誰も聞いていない。
 リビングに入ると、父親がテレビでプロレスを観ながら新聞をめくっていた。やはりお帰りなさいの言葉はない。今日の仕事は休みらしい。そもそもちゃんと働いているのか怪しいけれど…。
 ゆうは黙って鞄を置くと、喉が渇いたのでコップを出し、お茶を注いだ。椅子に腰かけようとコップを持って移動すると、床に落ちていた空き瓶を踏んで滑ってしまった。間違いなく父親が飲んで転がしたものだ。ゆうは前方にうつ伏せに倒れ、手から離れたコップは床にお茶をぶちまけた。不運にも、飛び出したお茶は父親が読む新聞の端っこを濡らしてしまった。
 ゆうが起き上がる前に親父がドカドカと歩み寄り、ゆうの首根っこを掴むと膝立ちにさせ、思いっきり顔面を殴った。ゆうは声もあげずに壁に衝突し、また床に倒れ込んだ。父親はさらにゆうを蹴り飛ばした。
「てめえ、何度言わせる⁈誰のお陰で暮らしてると思ってる⁈舐めたマネすんじゃねえ‼︎」父親はこれでもかとゆうを怒鳴り飛ばした。
 ゆうは顔を上げて、「…すみません。二度としません…」とか細い声で謝った。
 父親はまたドカドカとテレビの前に戻った。

「父親とは不仲だった。物心がつく前から暴力を受けて育ってた」芽傍はそう言うのも苦しそうだった。
「母親は?どうして出ていった?」望夢は真剣な顔で訊いた。
「わからない。でも父親から聞いたのは、育児が面倒くさくなったらしい」
「そんな…酷いな…」
 芽傍は頷いた。「…育児を好まないのは父親も同じだった。僕は、望まずして生まれてきたんだ…」
「望まず…?」
「ああ。両親は結婚してたけど、二人とも子供を作る気はなかったらしい。暇つぶし程度に付き合ってたら、あるとき僕を身ごもった。気づいたときには手遅れで、中絶できなかったらしい。それで口論になって、母親は僕を父親に押しつけて、家を出ていった。って聞いた…」芽傍の語尾はまるで力が抜けていくようだった。
「あんまりだ…そんなの…なんて母親だ!父親も!」望夢は憤りを隠せなかった。
 芽傍はまた頷いた。「僕の名前も、きっと適当につけられたんだ」
「ゆう?」
「ああ。漢字でもないし、どこにでもいそうな名前」
「なるほど…」望夢は慰める言葉が見つからなかった。
 芽傍は話を続けた。「でも、嘆いても仕方ないから、気にせず過ごしてた。家族の事さえ気にしなければ、父親を怒らせなければ、どうにか生きていける。そう思って過ごしてたんだ…」



 ゆうの帰り道はいつも1人だった。ジョーとは方向が逆だし、ジョー以外に仲の良い友達はいなかった。
 その日も、ゆうは一人下校していた。その途中、道端で女子生徒がうずくまっていた。同じ学校の制服だ。
 ゆうはその子に駆け寄った。「大丈夫ですか?」
 女子生徒は顔を上げた。「あ、芽傍くん」
「根倉さん!」
 それはクラスメイトの根倉杏菜だった。成績はまずまずだが容姿端麗で、男からは人気を博す生徒だ。
「さっきね、そこの曲がり角で自転車と出会い頭でぶつかっちゃって。ひき逃げされたの」根倉は脚を抑えながら言った。
 ぶつかった衝撃で擦りむいたのだろう、脚から血が出ている。
「酷い!絆創膏あるよ!ちょっと待って!」ゆうは鞄を漁った。
「いや!大丈夫だよ!」根倉は首を振った。
「無理しちゃ駄目だよ!あった!」
 ゆうは絆創膏を引っ張り出すと、丁寧に根倉の脚に貼ってあげた。
「ありがとう!」根倉は笑顔になった。「芽傍くんって優しいね!」
「いや、そんなことないよ…」ゆうは否定したものの、照れを隠せなかった。こんな美少女に褒められて舞い上がらない男はいない。
「そんなことある!頭もいいし!モテそう!」
「ぜんっぜんそんなことないよ!」
「そうかなー?」根倉は疑わし気に笑った。
「ないない。それより、歩ける?一人で帰れる?」ゆうは根倉に貼った絆創膏を見た。
「なになに?歩けなかったら家まで送ってくれたりするわけ?」根倉はからかった。
「ちょっ!別にそんなわけじゃないけど!」
 困るゆうを見て根倉は満足そうだった。どうやらSらしい。
「まだ痛い。でも少し休めば大丈夫!」根倉はグーポーズして元気を表した。
「そう。ならよかった」ゆうは苦笑いした。
「芽傍くん、急ぎ?」
「え?別にそんなことないよ?」早く帰ったところで良いことなんてない。
「じゃあ、よかったら、歩けるまで話し相手になってくれない?」
「え?」ゆうはびっくりした。女の子からそんなお願いをされたのは初めてだった。「…構わないよ」
「ありがと!」根倉はまた笑顔を見せた。
 それから1時間ほど、ゆうは根倉と色んなことを話した。クラスメイトのこと、小学生の頃のこと、受験のこと。そして、根倉の家庭事情を聞かせてもらった。
「ーあたしのお母さんは持病で、今入院してるの」
「そうなんだ!」
「うん。いつ退院できるかわからなくて。お父さんはもう60近くて、仕事、定年が近いの」
「じゃあ、このままだと家庭が…」
「そうなの。支えていけなくなる。だからあたし、何が何でも公務員になって、家を支えたいの!」根倉は両手で拳を作って気合いを見せた。
 ゆうは微笑んだ。「家族想いだね!すばらしいよ!」
「いやいやそんなー!それでね、あたし、推薦取りたいの!早くちゃんとした進路決めて、お父さんもお母さんも喜ばせてあげたいの!」
「推薦か!凄いね!」ゆうは感心した。
「ありがとう!でも怖いなー!落ちたらどうしよう⁈」
「根倉さんなら大丈夫!」ゆうはにっこり笑った。「優しい人や頑張ってる人は必ず報われるよ!」
「そう、だよね?応援してくれる?」
「もちろん!」
「ありがとう!じゃああたしも、芽傍くんの受験応援するね!」根倉はクイッとかわいく首を傾げた。
「ありがとう。でも、まだ目指すとこ決まってないんだよね…」
「そうなの⁈でも頭いいし、絶対良いとこ行けるよ!」
「行きたいけど、安全圏の国立でいいかな。私立は行けないから、下手に高いとこ目指して落ちたら一環の終わりだもん」
「私立、行けないの?」根倉は疑問符を投げた。
「うん。親が許してくれないよ」ゆうは小石を蹴った。
「そうなんだ。厳しいお家だね」
「厳しいっていうか…そうだね、うん」
 ゆうは空を見上げた。もう暗くなり初めていた。
「ちゃんと育ててくれる両親がいるのは幸せなことだよ。根倉さん、これからも両親のこと大切にしてね!」
「もちろん!」
 ここで根倉はゆうの両手を握った。ゆうはびっくりして頬を赤らめた。
「芽傍くんも、いつか大事にしてくれる人が現れますように!」
「ちょっと!やめてよー!」ゆうは恥ずかしさに耐え切れず根倉の手を払った。
「えへへへ!ただのおまじないだよ⁈」根倉はにっこりと笑った。
「ふふ!ねえ、まだ脚痛い?」
 ゆうに聞かれた根倉は、ゆっくりと立ってみた。
「まだちょっと痛いけど、歩ける!もう大丈夫!」
 根倉はゆうを見た。ゆうも見返した。
「ありがとう。助かったよ」根倉はニコニコしながら言った。
「どういたしまして。ぼくこそ、ありがとう。話せて楽しかった」ゆうも無意識に口角が上がっていた。
「芽傍くん、優しいからいつも頼りになるなー!うち、好きかも?」
「え?」
「ううん!じゃあ、またね!」根倉は振り返りながら手を振った。
「う、うん。また明日!」ゆうも手を振り返した。
 手を振りながらゆうは首を傾げた。今、好きって言った?自分のこと⁈
 ゆうはそれまで味わったことのない高揚感を噛み締めて家に帰った。

「恋か」望夢がその感情を見破った。
「ああ。初めてだった」芽傍は素直に認めた。
 望夢は笑った。「意外だな。お前も恋してた頃があったなんて」
「まあな」芽傍は天井を見つめた。「…でも苦い思い出だ。後悔してる」
「後悔ばっかだな!ずいぶん深そうな話だ!」
 望夢は興味津々で、続きに耳を傾けた。



 家族関係には恵まれないゆうも、この頃はだいぶ充実しており、生活に余裕があった。友達はいたし、放課後も自由だった。だからきっちり部活に所属していた。
 ゆうは美術部だった。何かを作ったり、想像したものを描くのが好きだった。そんなゆうが得意としたのはカッターを用いての紙細工だ。1枚の紙に下がきをしてそれを元にカッターで切っていく。下がきの絵を陰と陽で表すなら、カッターで切る部分が陰、紙のまま残す部分が陽だ。紙として残す部分とカッターで切る部分を上手く分けることで、見事な動物が彫られるのだ。その腕前は美術の先生からも評価されており、美術室の壁や廊下には、ゆうが紙に彫ったゾウやヘビ、サソリといった様々な動物が飾られていた。
 ある日、ゆうは次のネタに迷っており、手が止まっていた。ゾウやキリンといった定番はもちろん、タカやサメといったかっこいい系のも散々作った。ドラゴンやペガサスなど空想上のものも挑戦済だ。
「芽傍くん、どうしたの?今日は手捌きが悪いぞ?」
「あ、はい。その、どの動物にしようか迷ってるんです」ゆうは下がき用の鉛筆を握りしめて答えた。
「そうかー。もうだいぶ色んなの作ってきたもんなー。じゃあ、友達にリクエストしてもらって、その子にプレゼントしたら?」
「プレゼント?」
「そう!Present!」先生は無駄に発音良く言った。「お友達喜ぶと思うよ?なんなら好きな子にあげちゃえば?」
 そう冗談をかました先生は自分でウケて大笑い、聞いていた部員たちも冷やかすように笑った。
「ちょっ!好きな子なんていないですし!」
 と言い張るゆうだったが、心の中では推していた。いいアイデアだ。つまり、根倉さんの好きな動物を聞き出して、それをプレゼント、いや、Presentすれば、喜んでくれるに違いない…。
「芽傍くん、ニヤニヤしてどうかしたかい?」と先生。
「いえ!何でもないです!」
 ゆうは適当に絵を描いてその日の部活を終えた。
 その翌日。
 ゆうは根倉に、いつ好きな動物を聞き出そうかと見計っていた。しかしタイミングがつかめない。根倉は友達が多く、授業合間の5分休めでさえも女子に囲まれていた。さすがにその状態で話しかける度胸はゆうにはなかった。
 そのまま昼休みになった。ゆうはぼんやりと女子に囲まれる根倉の声に聞き耳を立てていた。
「あ!いけない!宿題のノート出し忘れてた!先生のとこ持っていかないと!」根倉はノートを振り回してながら言った。
「行ってきなよ?」「忘れないうちにね」周りの女子たちは促した。
「おいゆう?」
「ひぇっ⁈」根倉に気を取られていたゆうは突然声をかけてきたジョーにびっくりした。
「なんだよ、そんなに驚くことないだろ?」ジョーはケラケラと笑った。「サッカー、行くぞ?」
「あー!」
 ゆうは席から立ち上がろうとしたが、思い止まった。先生に宿題を渡すとなると、職員室まで行く。その間彼女は1人で廊下を歩く。つまり、声をかけるチャンス!
「ご、ごめん、今日は…いいや」
「ん?そうか。じゃ、明日な!」
 ジョーは他の男子を引き連れて教室から出ていった。
 ちょうどその直後、根倉はノートを持って席を立った。そして教室の前を通って扉を開けた。
 今だ‼︎
 ゆうはすかさず立ち上がると教室を出て、根倉を追った。
 3メートルくらいの距離を保って着いていくが、根倉は気づかない。ゆうは何度も声をかけようとしたが、緊張して声が出なかった。
 結局、行きは声をかけられず、根倉は職員室に入ってしまった。
 ちくしょう!ゆうは職員室の壁を殴った。こうなったら帰りだ!頑張れ自分!このチャンスを逃すな!
 すぐに根倉は職員室を出てきた。そこで、壁に拳を当てるゆうと目が合った。
「⁈」
「‼︎」
 一瞬見つめ合う二人。
「あ、芽傍くん、昨日は…」
「好きな動物は何ですか⁈」根倉が言い切る前にゆうは遮ってしまった。
「えぇ⁇」困惑する根倉。
「あ!ごめんなさい!」ゆうは慌てて頭を下げた。「…その、根倉さんって、どんな動物が好きなのか気になって…」
 根倉は一瞬キョトンとして、クスクスと笑った。ゆうは恥ずかしかった。
「あははははは!急だね!あたしはね、リスが好きだよ!」
「リス、か」
「うん!」根倉は笑顔で頷いた。「でもどうしたの急に?」
「あ、いや、」ゆうは頭をかいた。「なんて言うか、ちょっと話したくなって。昨日、楽しかったから」
 やばい!何言ってんだ自分!ゆうはめちゃくちゃ恥ずかしくなって溶けてしまいたかった。
 根倉はまたクスクスと笑った。「かわいいね芽傍くん!話したいときはいつでも話しかけていいよ!」
「ほ、ほんとに⁈」ゆうは舞い上がった。
「うん!」根倉は大きく頷いた。「芽傍くん、SNSやってる?もしやってるなら、学校じゃなくてもそっちで気軽に絡んでくれていいよ?」
「やってないんだ!というか、ケータイ自体持ってなくて…」
「そうなの⁈」
「うん。親が許してくれないから。でも連絡取る人いないし、困ってないんだよねー!」
 ゆうはごまかすように笑って頭を掻いた。
「そうなんだね!じゃあ、学校で気軽に絡んできて!」
 やったー‼︎とゆうは心の中で両手を思いっきり上げて喜びのポーズを決めた。
「ありがとう!」
「いえいえ~!じゃ!」根倉は踵を返して教室に戻っていった。

「へーーー!」望夢は意外過ぎて声を上げた。「お前も青春してたのか!てかおれ以上に甘酸っぱい恋してんなあ!」
「今となっては恥ずかしいし、後悔しかないけど…」芽傍は話内容とは釣り合わない低いトーンで言った。
「さっきから後悔後悔ばっかだな!続き続き!」望夢は身を乗り出した。



 その次の日からゆうは、部活中にリスの紙細工を作り始めた。インターネットで時間をかけて厳選し、印刷したリスの画像を元に下がきを描き、カッターを入れていく。いつも通りの作業だが、いつも以上に慎重に進めた。
 作るのはさておき、それよりも出来上がった物をどのタイミングであげるべきか悩んでいた。誕生日に誕生日プレゼントとしてあげようかと思ったが根倉の誕生日はとっくに過ぎていた。日頃の感謝を込めて、なんて渡してもそこまで頻繁にお世話になっていない。…どうしよう⁈
 5分休みも昼休みも、ゆうは常にそのことを考えていた。
「おいゆう!」
「へっ⁈」
 ジョーの問いかけにゆうはまたびっくりした。
 ジョーは方眉を上げた。「サッカー行くけど。今日はやるか?」
「あ、ああ…」ゆうは迷った。サッカーする時間を考えるのに当ててもいい気がする。
 おぼつかないゆうを見て、ジョーは眉を上げた。「最近どうした?ボーッとしてて」
「あ、いや…その…」
 ここはモテる男に相談すべきか?それに相談できる人もジョーくらいだし。恋の悩みを先生に話してもしょうがない。
「ちょっと悩みがあって。後で聞いてくれない?」
「ああ、いいぞ!とりあえずサッカー!行こうぜ!」
「おう!」
 その日の放課後。ゆうは帰る前にジョーと待ち合わせをした。
「ごめんね、時間取っちゃって」ゆうは謝った。
 これから部活のジョーはジャージ姿だ。「気にすんな!で、相談って何だ?」
「実は…その……根倉さんのことがね、好きなんだ」
「え…?マジか!」
「うん」ゆうは壁に寄りかかった。「初めて好きになった」
「おー!んー…。ほんとか?」
「うん。根倉さんからも、好きって言われた…」
「そうか…。で、悩みってのは具体的に何だ?」
「プレゼントを渡したいだけど、どうやって渡せばいいかわからなくて…」
「なんだ!そんなことか!」ジョーは面白がった。「素直に気持ち伝えて渡せばいいだろ?」
「気持ち?」
「そう!告白だよ!」
「コ・ク・ハ・ク⁈」ゆうはドキッとした。「無理だよー!絶対断られる!」
「そんなのわかんないだろ!思い切って伝えちまえ!」ジョーは肘を小突いた。
「でも、どうやって?告白なんてなおさらタイミング難しくない?」
「だから、あらかじめいつどこに来てほしいって伝えて了解を得るんだよ」
「え⁈そんなことしたら告白しようしてるのバレるんじゃない⁈」
「それでいいんだよ!そうすれば相手も告白される覚悟で来てくれる。それにそもそも、嫌いな相手には会いに来ない。相手の返事で脈ありか脈なしかも判断できる。どうだ?」
「な、る、ほ、ど。うーん…」
 ジョーはゆうの肩に手を回した。「安心しろ。オレの言う通りにすればいい」
「助けてくれる?」
「もちろん!友達なら当然だろ?」ジョーはグーの手を差し出した。
「そうだね!ありがとう!」ゆうもグーを作ってジョーの拳に打ちつけた。
 数日後、ゆうは登校前の根倉の机に置き手紙を入れた。
『今日の昼休み、3階の選択教室に来てくれない?』
 ゆうはドキドキしながら自分の席で根倉を待っていた。
 しばらくして教室に入ってきた根倉は、すぐにゆうの置き手紙に気づいた。
「え、何それ?」「手紙?」仲の良い女の子たちが興味津々で覗き込む。
 げっ!ちょっと!何で関係ないやつまで覗くんだよ!ゆうはハラハラした。
 根倉と女生徒たちは一斉にゆうを見た。ゆうはすかさず机に伏せた。
「「「キャーーー!」」」女子たちの歓声が上がる。
 ゆうは根倉が何と言ってるか聞こうとしたが、他の女子の声が混ざって聞き取れなかった。
 しかし、運命の女神はゆうに微笑んだ。
 根倉は即座に返事を書くと、立ち上がり、教室の前方を通ってゆうの席の横を通った。その際、さりげなくゆうの机に手紙を置いた。
 返事だ‼︎
 ゆうはドキドキしながらそれを大急ぎで開いた。
『楽しみにしてる♡』
 きた!ゆうはガッツポーズした。
 それを見ていた女子たちは大笑いした。ゆうは恥ずかしくて一旦教室を抜け、トイレに逃げ込んだ。
「どうだった?」数分後、登校したジョーはゆうの持つ紙をのぞきんだ。「…おー!やったな!後は段取り通りにうまくうやれ!」
「うん!頑張るよ!ジョーありがとう!本当にありがとう!」ゆうはオーケーをもらったも同然な気持ちで浮かれていた。
「いいって!ちゃーんと、オレが言った通りにやれよ?」
 そしてとうとう昼休みが訪れた。
 ゆうは緊張しながら3階の選択教室で待っていた。普段は使われていない教室で、椅子や机の余りが置かれている。ジョーが提案してくれたのだ、2人きりになるのにうってつけの場所だと。
 教室で待つふうに、ジョーは扉の向こうからグーポーズをした。近くで見守っていてくれるというのだ。
 ガラガラガラ。ゆっくり引き戸が開いた。
 ゆうははっとして扉に振り返った。
 根倉がヒョコッと顔を見せた。「お待たせ!遅れてごめんね!」根倉は教室の中央に来ると両手を合わせて誤った。
「全然!大丈夫!」ゆうは首振り人形のようにブンブン首を振った。
「それで、どうしたの?」根倉を首を傾げた。
 ゆうは背中に隠し持っていた作品を取り出した。1枚の紙が、見事にリスを形作っている。
「え⁈凄い!かわいいこれ!」根倉は小さく拍手してそれをまじまじと見た。
 ゆうは喜ぶ根倉を見て笑顔がこぼれた。「根倉さんのために作ったんだ!」
「あたしの、ため⁈」
「うん!」ゆうはリスを突き出した。「あげる!」
「わー!やったー!凄い嬉しい!ありがとう!」根倉はリスを受け取って抱きしめた。「それで好きな動物何?って聞いてたんだね⁈」
「そうなんだ」ゆうは頭をかいた。「プレゼントしたくて。頑張ったよ」
「ありがとう!でも、どうして急に?」根倉を首を傾げた。
「…実は…その…」
 ゆうは片膝をついた。
「…その…」ゆうは言葉を呑み、一気に吐き出すように言った。「会った瞬間、運命を感じました!結婚前提で付き合ってください!」
 ゆうは思いっきり頭を下げた。
「えええええ‼︎」と仰天する根倉。驚きのあまりか、その叫び声はわざとらしくも思えた。
 ゆうは頭を下げたまま根倉の叫びと、ドキドキと脈打つ自分の鼓動を聞いていた。
 少しすると、ゆうは恐る恐る頭を上げた。
「…?…あの、根倉さん…?」
 根倉は頭を下げて顔を両手で覆っていた。泣いているのか?
「根倉さん⁇」ゆうは顔を覗き込んだ。
 すると根倉はゆっくり両手を外し、顔を露わにした。口元には微かに笑みを浮かべていた。
 これは!良い反応じゃないのか⁈もうオーケー確定じゃん⁈そうだよな⁈ゆうは根倉の答えに期待して、喜ぶ構えをした。
 しかし、期待はあっさりと壊されたのだ。
「ごめん、無理だよ」根倉は素っ気なく言った。
「…え?」ゆうは訳がわからなかった。
「無理だって。友達以上にはなりたくないの」
 断りながらも、根倉は優しい笑みを浮かべていた。
「無理、なのか…」
「うん、ごめんね。これからも、友達としてよろしくね!」
「待って!」ゆうは出て行こうとする根倉を引きとめた。「どうしてなの?好きって言ってくれたよね?ねえ⁈」
 根倉は悪気なさそうにクスクスと笑った。「友達してね?それに、うちには彼氏いるの」
 ゆうはどん底に突き落とされたような、銃で射抜かれたような、とにかくもう生きている心地がしなかった。
「これからも、よろしくね」
 根倉はそう言い残すと、申し訳なさそうに踵を返して教室を出ていった。
 無様に取り残されたゆうはただ茫然と立ち尽くしていた。
 数十秒後、ジョーが教室に入ってきた。「…どうだった?」
 ジョーはわかりきっているのに尋ねた。ジョーなりの気遣いだろうとゆうは思った。
 ゆうは首を振った。「駄目だった…」
 ジョーはゆうの肩を叩いた。「恋ってのはそういうもんだ!落ち込むな!」
 ゆうは胕に落ちなかった。「…言う通りにすればうまくいくって言ったよな?なんでだ?どこで間違ったんだろ…?」
「おいゆう、絶対とは言い切れないよ。恋愛に絶対なんてない。いけそうと思ってもそうじゃないことはたくさんある。ちゃんと想いを伝えられただけ、よかった方だぞ!」ジョーはどうにか慰めようとした。
「…そっか…。そうだね…。ありがとう、ジョー」
「ナイスガッツだ!」
 二人はハイタッチした。

「はー!」望夢は驚いてそんな声が漏れた。
 芽傍は一旦黙り、正面を見つめていた。
「いけそうな雰囲気だったけど、ダメだったか」
 芽傍は頷いた。「そういう性格の女だったってことだ」
「告白の仕方が悪かったんじゃないか?高校生で結婚前提はさすがに…」
「それもあるな。全部ジョーのアドバイスに従った。騙された僕悪かったけど」
「そうか。ジョーのせいか。悪気はないだろうけど、酷いな」
 芽傍は恐い目つきで天井を睨んでいた。「ジョーのせい以前に、根倉も腹黒い女だったんだ」
「そうなのか?聞いた感じ普通そうだけど?おれが言える立場じゃないけど、そういうの良い経験になるだろ?」
「これだけならな」
「ん?」望夢は身を乗り出した。「まだあるのか?」
「ああ。もっと、根本的な問題があったんだ…うちのクラスに…」



 話は少し戻る。それはゆうが根倉に片想いするよりも前のこと。
 その日も、学級委員の斎藤は休みで、芽傍が出席•連絡を行った。その後、担任がこんな話をした。
「昨日、正門前のコンビニから電話があったの。最近会計してない商品がなくなることが多くて、監視カメラを見たら、うちの制服着た生徒が頻繁に出入りしてるから注意しといほしいって言われたみたい」
 クラスは静まり返った。
 ジョーが手を上げた。「先生、偶然じゃないでしょうか?うちの生徒が出入りしてるってだけで万引き犯扱いは違うと思います」
 他のみんなも口々にそうだそうだ!と訴えた。
「落ち着いて!わかってる。先生もみんながやったなんて思ってない。でもコンビニの店長曰く、うちの生徒の店内での様子が怪しいし、お店出るときも走って出ていくからって、疑ってるみたいなの」
 クラスはざわざわした。ゆうもうーんと唸った。
「はい!静かに!先生はみんながやったなんて思ってないから。でも、もし怪しい人を見かけたらすぐに教えて。このクラスでもそうでなくても。いい?」
 一同はぎこちなく頷いた。

「その事件の真相を知るのは、それからだいぶ先のことだった…」

 ある日の学校帰り、ゆうは正門を出た。道路を跨いだ先にコンビニが1軒経っている。それを見る度に、万引きが横行している話を思い出していた。
 ゆうはあまり考えずに通り過ぎようとした。しかし、学校の制服に身を包んだ男子がコンビニに入っていくのが目に入った。よく見るとそれは坂本だった。松岡にボールをぶつけられそうになって怒っていたあの坂本だ。坂本は周囲の目を気にするような素振りをすると、恐る恐るコンビニに入った。いかにも怪しい。
 …いや、まさか…。
 坂本はそんなことをするやつじゃない。ゆうは自分に言い聞かせた。でもどうしても気になってしまう。
 我慢できず、ゆうは回れ右するとコンビニに向かっていった。本来、学校帰りにコンビニに寄るのは禁止されている。だから坂本はそもそも校則違反なわけだ。自分はそれを注意しに行くからちゃんと理にかなっている。という口実でゆうは足を急がせた。
 入店すると、坂本はお菓子のコーナーにいた。グミの袋を手に取り、じーっと見つめている。そして周りをキョロキョロ警戒すると、鞄のジッパーをゆっくり開ける、それを入れようとゆっくり手を動かした。
 ガシッ!
「はっ‼︎」坂本は手を止めた。
 ゆうが手を掴んでいた。ゆうは“やめろ”と言うように首を振ると、グミを元の位置に戻して、坂本の手を引き、コンビニを出た。
 コンビニを出ると少し離れたとこまで坂本を引っ張ってきたゆうは問い詰めた。
「どういうことだ坂本⁈お前が万引きの常習犯か⁈」
「ち、違う!」坂本は戸惑って言い返した。「今回が初めてだ!」
「何でやった⁈」
「何でって…」坂本はうつむいた。
 ゆうは眉を上げた。
「だって…仲間になりたかったから」
 ゆうは首を傾げた。「仲間?…誰の?」
 坂本はゆうを睨みつけた。「ジョーが仕切ってるクラスの連中だよ!決まってんだろ!学級委員のくせにそんなことも知らないのかよ!」
「ジョー⁈ジョーが万引きしろって言ったのか⁈そんなの嘘だろ⁈」
「もういい!」坂本は踵を返した。
「おい待て!」ゆうは肩を掴んだ。
 坂本は振り払った。「せっかくあいつらに認めてもらえるチャンスだったのに…お前のせいだぞ!」
「おい!万引きは犯罪だぞ!こっちが悪いみたいに…」
「あいつらだって犯罪だろ!」坂本は涙目を振り向いた。
 ゆうは硬直した。
「あいつら、おれが彼女つくった途端におれの物取ったり、石投げてきたり…。彼女はそんなおれに失望して、フラれるし……」
 ゆうは突然の独白に動揺しながら、黙って聞いていた。
「…あいつらのことは注意もしないのに、万引きは犯罪だっつって止めんのか!意味わかんねーよ!教師と同じだな!」
 そう言うと坂本は全速力で走り去ってしまった。
「おい‼︎待ってくれ‼︎」
 ゆうは叫んで追いかけたが、体力の限界で撒かれてしまった。
 …万引き…仲間…ジョー…犯罪……それらの言葉がゆうの頭を駆け巡っていた。

「そのときはわかってなかったけど、自分がいかに盲目だったかを思い知らされた…」

 こんなとき、ゆうが相談するのは決まってジョーだった。しかし今回は状況が悪い。坂本の言った通り、万引きの主犯がジョーだとしたら、本人に直接尋ねても違うと言うに決まっている。
 そこで他の相談相手を選んだ。それは1人しかいない。
「先生!」朝のホームルームが始まる前、たまたま廊下ですれ違ったゆうは声をかけた。「ちょっと話したいことがあるんです」
「あら、どうしたの?」
「実は昨日、坂本が……」ゆうは見たこと、聞いたことを伝えた。
「まあ、本当なの⁈」先生は驚きのあまり口を手で覆った。
「事実はわからないですけど、もし本当なら放っておくわけにもいかないし、相談できるのが先生しかいなくて」
「そうね。ありがとう。先生も解決できるように考えてみるね!」
「よろしくお願いします」
 ゆうは丁寧に頭を下げて、クラスに戻り、自分の席で思いを巡らせていた。坂本が入ったとき、一瞬だけ目が合って気まずい空気になったが、何も言われず、ほっとした。
 そしてホームルームが始まった。いつも通り学級委員の斎藤は欠席で、ゆうが出席もろもろを進めた。
 一通り済むと、先生が話し始めた。
「今日はね、大事な話があるの」
 ゆうは背筋が凍った。…まさか、あの話じゃ…?それだけは…!
「昨日の放課後、坂本くんが万引きしようとしたみたいなの」
 クラスは静まり返った。一同の視線は坂本に注がれている。坂本は焦った様子だ。ゆうも違う意味で焦っていた。
「坂本くんは、城之内くんに言われてやったって言ったらしいけど、坂本くん、城之内くん、本当なの?」
 単刀直入にも程がある。ゆうの鼓動は最速で打たれていた。
 坂本は涙を流して話さない。ジョーは怯えているとも勇ましいとも取れる表情で先生を見つめた。
「先生、オレは言ってません。あと、どうしてこんな話を名指しでみんなの前でするんですか⁈」ジョーはクラスの代表のように言い返した。
 先生はおどおどした。「直接聞かずに解決できるとは思えないから」
「でもおかしいだろ!」ジョーは叫んだ。「みんなの晒し者にされる坂本と、罪をなすりつけられるオレの気持ちにもなれよ!」
「落ち着いて!先生はそんなつもりはないの!」
「そんなつもりがないのが問題なんだ!」
 ここで泣いていた坂本が、急に顔を上げ、「うおーーー‼︎」と唸ってゆうに殴りかかってきた。
 ゆうは仰向けに倒れ、坂本は馬乗りになって何度もゆうを殴ってきた。クラスメイトたちは二人を避けて勢いよく散ったものだから机や椅子がなぎ倒された。
「おい‼︎やめろ坂本‼︎」ジョーは止めに入った。
「坂本くん!城之内くん!やめなさい!」先生も叫んだ。その声に威勢は感じられず、弱々しかった。
 ジョーと先生は2人がかりで坂本を取り抑えた。坂本はしばらく抵抗を続けた。
「何で言った⁈よく言いやがったな‼︎」いつも弱気な坂本は、別人と化して怒り狂っていた。
 ゆうは怯え切って坂本を見つめた。
「おい!何事だ⁈」隣のクラスの先生が騒ぎを聞いて駆け込んできた。
 坂本は先生2人に取り抑えられて職員室に連行された。その間も怒鳴りながら抵抗を続けた。
「許さない‼︎許さないからな‼︎学級委員がなんだクソが‼︎」
 バタン!と扉が閉まった。
 坂本が消えた教室は、静寂に包まれた。必然的に、クラスメイトたちが作る円の中心にゆうが立ち尽くす惨状となった。みんなゆうを見ている。…お前のせいだ…。ゆうはそう言われているような気がした。
 ゆうは耐え切れず、教室を飛び出した。
「おい!ゆう!待て!」ジョーは呼び止めた。
 ゆうは走って階段の踊り場で足を止めた。
 …どうして…先生…なんであんなことを…。
 滅多に怒らないゆうだったが、このときは憤りを抑えられなかった。
「ゆう、」後ろからジョーは肩に手をかけた。
「…ごめんジョー…。こんなつもりじゃ…」
「わかってる」ジョーは肩をポンポンと叩いた。「坂本が、オレが犯人って言ったから、相談できなかったんだろ?」
 ゆうはぎこちなく頷いた。「…うん。ごめん…」
「勘弁してくれよ。オレが万引きを指示した、か。おいおいゆう、オレはたしかにクラスのほとんどと仲がいい。でもオレはみんなを仕切ってるわけじゃないしそうしたいとも思わない。ましてや万引きなんてありえない。友達にそんなことさせるわけないだろ」
「…そうだと信じてたけど、信じ切れなくて…。ごめん」
 ジョーは呆れた顔をした。「当たり前だろ!クラスメイトはみんな、大事な友達だ!お前だって!だろ?こういうときこそ信頼し合わなきゃ!」
「…ごめん。…ごめんね!」ゆうは泣いていた。ジョーを信じてやれなかったこと、こんな騒動を起こしてしまったことが悔しくて仕方なかった。
「わかればいいさ!しかし困ったな。万引きにいじめなんて。坂本、辛かっただろうな」
 ゆうは拳を握り締めた。「…ぼくのせいだ…。ぼくがクラスのことをちゃんと見てなかったから…」
「そんなことないさ。お前は学級委員としてよくやってくれてるよ」
「そんなことない」ゆうは壁を殴った。「斎藤さんなら、とっくに気づいて解決してたかもしれない…」
 あるときから休みっきりのもう1人の学級委員、斎藤。ゆう以上に真面目で正義感が強く、成績も優秀。自ら学級委員に立候補した。過去に生徒会役員もやっていて、まさにこの職に適任な人物だった。
「斎藤か…」ジョーは呟くと、思い出したように顔を上げた。「そういえば、斎藤には噂がある」
「噂?」
「ああ。ずっと休んでるのは、先生に捕まらないようにするためじゃないかって」
「捕まる?どうして斎藤さんが?」
「いじめだよ」ジョーは深刻な顔で言った。
「いじめ⁈斎藤さんが⁈」また信じられない情報でゆうは混乱した。
「斎藤にこき使われたとか、物を盗んでこいっって命令されたってやつが結構いてな。実はオレも言われたことがある」
 ゆうは困惑した。「…ジョーも言われたのか…」
「ああ。だからこればっかりは疑いようがない。登校しなくなった今でも、クラスの気の弱いやつ脅して万引きさせてるんだろうな…」ジョーは残念そうに首を振った。
「でも、坂本はなんでジョーに指示されたって言ったんだろ?」
「はっきりとはわかんないけど、それも斎藤の工作かもしれないな。バレて問い詰められたらオレのせいにしろって。クラスで誰とでも話してるオレならなすりつけやすいんじゃないか?」
「なるほど…。だとしたら非道過ぎる…」
 ゆうは斎藤が学校にいた頃の振る舞いや発言を思い返した。
『言うこと聞きなさい!』『言い訳はいけません!』『わたしがクラスをまとめます!』
「……そういえば、斎藤さん、結構口調強かったね」
「そうだな。もしかしたら、斎藤が学級委員になったのは、クラスで優位に立つためだったのかもな」
 ゆうは残念な気持ちになった。真面目なタイプのゆうは、斎藤に仲間意識をもっていた。ゆうは推薦だったとはいえ、斎藤と2人で学級委員に選ばれたときは、このクラスをきっとよくできると信じていた。それなのに…
「ジョー、ありがとう。有力な情報聞けて助かったよ」
「でもどうするつもりだ?斎藤は学校には来ないぞ?」
「考える。クラスの問題は解決してないし、放っておくわけにはいかない」
「そうだな」
 ここでチャイムが鳴った。
「おっと。教室戻ろうぜ。遅刻扱いになる。また何か困ったことあったらいつでも言ってくれ」ジョーは教室に向かって歩き出した。
 ゆうも続いた。「うん。ありがとう。それと、ごめんね…」
「もう二度とおれを疑うなよ?」ジョーはニヤリとした。「困ったときはお互いさまだ!」

「それから数日、どうしようか考えてた。でもとうとう解決策が思いつかなくて、斎藤に直接聞くしかないと思った」

 ゆうはクラスの連絡網を取り出して、受話器を耳に当て、斎藤の番号を指でなぞりながら入力した。
 プルルルル…ガチャ。
『はい。斎藤です』
 電話に出たのは本人だった。
「斎藤さん?久しぶり。芽傍だよ」
『…芽傍くん?久しぶりだね』
 斎藤の声は、最後に聞いたときよりもやや老けて聞こえたが、どうにか元気そうだった。
『ずっと休んでばっかでごめんね』
「いや。大丈夫だよ」どうして休んでるの?とは聞けなかった。
『えっと、どうしたの?急に』
「それが、ちょっと聞きたいことがあって。クラスが大変で、」
『万引きのこと?』斎藤は見透かしていた。
「⁈…そ、そうだよ!…うん。やっぱり、知ってるんだね?」
 受話器の向こうで、斎藤がすーっと息を吸うのを聞こえた。『知ってるよ。ずっと前から、知ってたよ』
「ずっと前から…」ゆうは斎藤の言い方を意味深に感じた。「最近始まったのかと思ってた」
『結構鈍感だよね、芽傍くん』と斎藤は言わずもがなの一言。
 悪気はないとは思ったが、ゆうはむかむかした。同時に、確信できた。ずっと前からこの事を知っておきながら同じ学級委員の自分に話さず、具合が悪そうでもないのに毎日欠席する斎藤。犯人に違いない。
『もしもし?芽傍くん?聞こえてる?』
「聞こえてるよ」
『それで、何の用なの?何か聞きたかったんでしょ?』
 ゆうは強行突破することにした。ここは攻めるしかない。
「ぼくが聞きたかったのは、どうしてこんなことをしたの?」
 一瞬の間をおいて、斎藤は『はっ?』とだけ返した。
「とぼけるな!どうして⁈どうしてクラスメイトに万引きなんかさせるんだ⁈しかもジョーに罪をなすりつけようとしただろ⁈」ゆうは怒りを抑えられなかった。
「どういうこと⁈どうしてそんな結論になったの⁈」斎藤は戸惑った。
「ジョーから聞いた。斎藤さんがクラスメイトを脅してたって。万引きをさせたのも斎藤に違いないって!そうなんだろ⁈白状しろ‼︎」
 受話器の向こうからは沈黙が聞こえた。
 普段怒鳴ることのないゆうは、声を張り上げて息切れしていた。
『……本当に鈍感だね、芽傍くん』斎藤は呆れたように言った。
「鈍感で悪かったね。でももうわかった。斎藤さん、君がやってることは犯罪だ!今すぐ白状してやめるんだ!」
「違うよ!」斎藤も叫んだ。
 ゆうはその声にビクッ!とした。
『まだわかってない!うちじゃない!勘違いしてるよ!』
「…え?」
 ぐすん、と斎藤が鼻をすする音がした。
『…うちじゃないよ。城之内が言ったの?友達がそう言ったから信じたんでしょ⁈』
 ゆうは黙っていた。
『…クラスメイトに万引きをさせてるのは城之内だよ。あいつがうちのクラスを牛耳ってるんだよ…』
 ゆうの背筋が凍った。何が本当で、何が嘘なのか、もうわからなかった。
『…万引きがいつから始まってたかはわからないけど、うちが気づいたのは7月。少なくともその頃からやってたよ』
 このときはすでに1月。遅くても半年前から始まっていたことになる。そして夏休みが明けた9月以降、斎藤は不登校になった。
 斎藤はまた鼻をすすった。
『主犯が城之内だと突き止めたうちは、本人に直接注意したの。今すぐやめなさい、でなきゃ先生に報告するって。自分なりに猶予を与えたつもりだった。でも万引きをやめた様子はなくて、それどころかクラスメイトほぼ全員でうちに意地悪してきたの…。トイレで水をかけられたり、靴に画鋲を入れられたり…」
 このとき斎藤は号泣していた。
 ゆうは聞きながら、坂本の話を思い出していた。坂本以外にもいじめを受けていた人がいたなんて…。
『それで、もう登校したくなくなったの。親に話したら、無理に行かなくていいって言ってくれたし。このこと、芽傍くんに話そうと思ってた。でもやめたの。城之内といい感じに付き合ってるから、話したら芽傍くんも標的にされると思って、黙ってたの』
「そうだったんだ…」ゆうは胸が痛くなった。斎藤が自分の為を思ってくれてたなんて、微塵も考えなかった。「ごめん!疑って!本当にごめん!」
『もういいよ。謝られてもどうにもならないから』斎藤は諦めた口調で言った。『うちがいじめにあってたことも、気づいてなかったんでしょどうせ?』
「…うん…ごめん…。ジョーは唯一の友達だったから…」
『友達ね…。ほんと、お人好しもいいとこだよ。鈍いから城之内にも騙されるし、パシリにされるんだよ』
「ちょっと、パシリってなんだ…」
『パシリだよ!あんたはクラスのパシリ‼︎』斎藤は声を張り上げた。『学級委員として、尊敬されてるとでも思ってた?みんながうちらの言うことを聞いてくれたこと、一度でもあった⁈』
 ゆうはクラスのことを思い返したが、斎藤の言う通りだった。クラスのみんなが学級委員である自分の言うことを聞いた試しなんてなかった。ただ、こき使われてただけだ。
『ないんでしょ⁈使い勝手がいいから、あんたクラスの雑用でしかないんだよ!』
 ゆうは言い返せなかった。ただただ、涙がこみ上げてきた。
『…ごめん。取り乱しちゃった。でも、』
 斎藤が鼻をかむ音がした。
『…でも、卒業するまで登校していたいなら、このままクラスのパシリでいた方が無難だと思う』
「えっ…?」斎藤の言葉が意外過ぎて、ゆうは疑問符を投げた。
『下手に解決しようとすると、うちみたいになる。あのクラスで過ごしたいなら、大人しく言うこと聞いて面倒は起こさないのが無難だよ』
「そう…か…」
『うん。うちらさ、人より真面目なタイプじゃん?うちらみたいな人間は、ああいう環境では受け入れられないみたい…』
 ゆうは黙っていたが、心の中では大いに同感だった。
『…まあ、うちが言いたいのはそんな感じ。他に聞きたいこと、ある?』斎藤は親切ながらも冷たい口調で尋ねた。
 その口調から、ゆうは、もう斎藤にまったく信頼されていないことを悟った。
「いや。大丈夫。ありがとう…。大事なことに気づけた気がする」
『そう。よかったね』
「うん。…ごめんね」
 とゆうはもう一度謝ったが、電話は切られ、斎藤がその言葉を聞いていたかどうかはわからなかった。
 ゆうはベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めると、思いっきり叫んだ。何度も何度も、怒りと悔しさが紛れるまで叫び続けた。しかし、いつまで経ってもわだかまりが消えることはなかった。

「辛かったな…」望夢は同情した。
 芽傍は微かに頷いた。「信じる人と疑う人を完全に間違えてた。誰よりも、自分に呆れたよ」
「そうだよな…。で、ジョーはどうした?結局あいつが黒幕だったのか?」
 芽傍は頷いた。



 斎藤から話を聞いた翌日、その日もいつも通り出席を取った。案の定、斎藤に加え、坂本も休みだった。
「よっ!ゆう!」ジョーはいつも通り挨拶してきた。
「お…おはよ」とゆうは返した。
 欠席者が増えたこと以外、いつも通りの教室だ。しかし、違った。ゆうの中では違かった。どいつもこいつも汚い人間に見えた。そんなやつらがみんな、自分を罵り、見下しているように感じてどうしようもなかった。

「ジョーのことは告発しようか迷っていたけど、もう何を信じていいかわからなかったし、このまま何事もなく卒業するには、斎藤の言った通り余計なことはしないべきかもしれないとも思い始めてた。…でも、ある事件が起きたんだ…」

 数日後の帰り、ゆうが正門を出るとき、たまたま根倉も門を抜けていた。
 ゆうは立ち止まった。このときは1月。ゆうがフラれてから3ヶ月ほど経っていた。あれ以降、根倉と話すことはなかったし、目を向けるのも近づくことも避けていた。
 参ったな。根倉とは途中まで同じ道だ。
 ゆうが躊躇して根倉の後ろ姿を見ていると、根倉は帰り道の方へ進まず、まっすぐ横断歩道を渡った。よかった、寄り道かな?とゆうがほっとしたのも束の間、なんと根倉は例のコンビニに入っていったのだ。
 ゆうは嫌な予感がした。
 もし“その気”なら、ついていって止めるべきか?いや、それじゃあ坂本のときと同じじゃないか!いやいや、でも根倉さんも無理矢理やらされてるとしたら、自分が止めてやるしかないのでは?
「まったく!」ゆうは吐き捨てながらコンビニに走った。
 店内で、根倉は周囲を気にしながら、お菓子の袋を手に取り、密かに鞄に入れようとした。そこへゆうが駆けつけた。
「根倉さん!」ゆうは小声で呼びかけてその手を掴んだ。
「やっ!」根倉は小さく叫んだ。
「こんなことしちゃ駄目だ!」ゆうは首を振りながら言った。
 根倉はゆうを一瞥すると、手を振り払おうとした。「離して!ねえ?離してよ!」
「駄目だ‼︎」ゆうは根倉からお菓子を奪おうとした。
「こら何やってる⁈」恐ろしい怒鳴り声が店内に響き渡った。
 二人がビクッとした次の瞬間、店員たちに抑えつけられた。根倉が持っていたお菓子の袋は店員が回収した。
 二人はそのまま事務所に連れて行かれた。
 さっき怒鳴ってきた男は、胸に“店長”と書かれた名札をつけていた。店長は根倉から取ったお菓子を二人の前に置いた。
「取ろうとしただろ?」店長は厳しい口調で尋ねた。
 無言でうつむく根倉。ゆうは何も言えなかった。
「答えろ!」店長はまた怒鳴った。
 根倉は目を拭った。
 ゆうは、正直に話そうと思ったが、言葉が口から出る寸前に思いとどまった。あることを思い出したのだ。根倉は推薦を受けようとしている。この不祥事がバレたら、推薦なんて取れるわけがない。。バレたのは自分のせいだ。とすると…。
 ゆうは思い切ってこう言った。
「自分が、万引きしようとしました」
 根倉は驚いてゆうを見た。
「彼女は止めようとしてくれたんです」ゆうは続けて言った。
「…どうして…」根倉が微かな声で呟くのがゆうに聞こえた。
 店長はゆうを睨みつけた。「君たち、そこの高校だな。連絡させてもらう」
 店長は受話器を取った。
 根倉は予想外の展開に動揺していた。

「それから学校にこのことを話されて、先生はショックを受けてた。親にも連絡を入れられた」
「親には何て言われた?」望夢は尋ねた。
「『お前がどうなろうと知らんが、退学になっても知らないぞ』って言われた。それだけだ」
「そう、か…」望夢は言葉に迷った。「なんてゆーか…壮絶だな」
「いや、ただ愚かなだけだ」芽傍は自分に呆れていた。
「…それから、どうなった?根倉は?ジョーは?」



 その事件の翌朝。
 ゆうが教室に入ると、クラスはしんと静まり返った。全員の視線がゆうに注がれた。ジョーもそのうちの一人だった。教室の隅で根倉も暗い表情でゆうを見つめた。もうみんなに知れ渡っていたのだ。
 ゆうはしかとしてまっすぐ自分の席に向かった。後ろのジョーが何か言ってくるかと思ったが、そんなことはなかった。何事もなかったかのように、男子と楽しそうに喋っている。
 だいぶやばい問題が蔓延るこのクラスだが、みんな知らんぷりでケラケラと楽しそうにしている。あっちもこっちも、アニメやらドラマやら世間話やらどうでもいい話題で盛り上がっている。その雑踏にゆうは思わず耳を塞いだ。その間もずっと周囲の視線を感じていた。
 ゆうは限界になって勢いよく立ち上がり、振り返った。
「ジョー!」
 お喋りに励んでいたジョーがゆっくりとゆうを見た。
「話がある!来い!」
 ゆうはジョーを廊下に連れ出した。ジョーは無言で大人しくついてきた。
 ゆうは意を決して尋ねた。「クラスの万引きの件、ジョーなんだろ⁈」
 ジョーは顔をしかめた。「おいおい、この前も言ったろ!オレがそんなことするわけ…」
「嘘つくな‼︎」ゆうの声が廊下に響いた。教室のガヤが一切聞こえなくなり、しんと静まり返った。
 無表情だったジョーはニッと口角を上げて、とうとう白状した。「やっと気づいたか。おっせーな」
 ゆうは睨みつけた。もうジョーに対する好感も信頼も消滅していた。
「どうしてクラスメイトに万引きなんかさせるんだ⁈」
「別に!理由なんてねーよ!面白いからだ!」ジョーは笑った。
「それだけか?本当にそれだけなのか⁈」
「ああ!それ以外に何もねーよ!ただのゲーム。スリルあって面白いぜ?」
 ゆうはジョーの胸ぐらを掴んだ。しかしジョーはとっさにその手を捻り、逆にゆうの動きを封じた。
「口答えすんな!友達として相手してやってんのにその態度か⁈」
 ジョーはゆうの手を離した。ゆうは壁に両手をついて姿勢を保った。「…お前は…友達なんかじゃない…」
 ジョーは鼻で笑った。「いいのか?オレと友達でいる気がないならお前は独りぼっちだぞ?」
 ゆうはゆっくりと振り向き、こう尋ねた。「…お前にとっての友達って、何なんだ…?」
「さあな?遊び相手、もしくは都合のいい存在かな?」
 ゆうはジョーを思いっきり睨んだ。「クラスの全員、そうなのか?お前が友達として接してるやつは、みんなその程度にしか思ってないのか⁈」
「あったりめーだ!別に深い感情はねーよ!うるさいやつでも静かなやつでも、賢いやつもバカなやつも、ふざけるときは一緒にふざけて必要なときは利用する。それだけだ。お前だってそうだぜ?バカ真面目で気の利いた冗談も言えない、ただ何か頼めばすぐやってくれる、そんなお人好しでつまらないお前の相手してやってるだけありがたく思いな!」
「ふざけるなー‼︎」
 ゆうは殴りかかったが、ジョーは見事に避け、腹に蹴りを入れた。ゆうは倒れ込んだ。
 ジョーはゆうを見下ろして言った。「根倉のことかばったんだってな?お前はどこまでバカなんだ⁈あいつはお前のことをどうとも思ってないんだぞ⁈ヒーローのつもりかよ⁈」
 ゆうは立ち上がろうと片膝をついた。「…根倉さんを利用したのは、許さない‼︎絶対に許さない‼︎」
 ジョーは勝ち誇ったようにニヤリとした。「勘違いもほどほどにしな。根倉は自らやりたいって言ったんだぞ」
 ゆうは固まった。そんな…!いや!これも自分を騙すための冗談に決まってる!
「お前のウソもほどほどにしたらどうだ‼︎」
 そのとき、教室の扉が開き、根倉本人が姿を現した。無表情で倒れ込むゆうを見つめている。
「根倉さん…こいつの言いなりになる必要なんかない…!」ゆうは絞り出すような声で訴えた。
 しかし根倉は首を振った。「ほんとだよ」
「⁇」ゆうは訳がわからなかった。
「ほんとだよ。ジョーの言ってる通り。うちは自分の意志でやったの」
 ゆうは衝撃のあまり目を見開いた。「‼︎……どうして、どうしてそんなことしたんだ⁈」
「むしゃくしゃしたから。ただそれだけ」根倉は素っ気なく言った。
「ほらな?根倉は自らやったんだよ!余計なことしてくれちゃっってよ!」ジョーはまた罵った。
 倒れたゆうを見下ろすジョーと根倉。ジョーは呆れた目つき、根倉は残念そうな目を向けている。
「…先生が知ったらただじゃ済まないぞ…」ゆうにとってはこれが精一杯の言い返しだった。
「あのバカ担任?あいつは気づかねーし解決できねーよ!」とジョーは嘲笑った。
 キーンコーンカーンコーン…。空気を読まずに鳴り渡る朝のチャイム。
 ゆうの脳内で、何かが切れた。ジョーのこと、根倉のこと、クラスのこと、先生のこと…。ありとあらゆることすべてが馬鹿らしく思えた。
「うちのことなんて、庇うだけ無駄だよ?ほっといてよ?」根倉は罵るというよりは、諦めたような口調で言った。
 ゆうは根倉を見上げた。「…根倉さん、何でこんなことするんだ…?お母さん、悲しむぞ…お母さんをがっかりさせていいのか⁈」
 根倉の眉間にシワが寄った。「お母さんは死んだよ…。手遅れだった…」
 ゆうは衝撃で目を見開いた。「そうか…。気の毒に…。でも、お父さんがいるだろ…お父さんのために、こんなことやめろよ…君が推薦取れるようにぼくは庇ったんだ…」
「うるさい!」根倉は急に怒鳴った。「推薦なんてもう取る気ない!自分の将来とかどうだっていい!あんたに何がわかんの⁈見守ってるような口調やめてよ!何もできないくせに!」
 ゆうはゆっくり立ち上がると、こう言った。「ぼくは、根倉さんのこと応援してたのに…!信じてたのに‼︎」
 根倉は冷たい目でゆうを一瞥すると、思いっきり突き飛ばした。ゆうは尻もちをついた。
「…応援してた?信じてた?だから何⁈ウザいんだけど!近寄づかないでほしい」
 その言い様でゆうの導火線に火がつき、一気に燃え上がった。
「うおおおお‼︎」とゆうは雄叫びを上げ、根倉を殴った。何度も何度も、繰り返し殴り続けた。
「おい‼︎何しやがる‼︎」ジョーはゆうを抑えつけた。
「やだ!やめてっ‼︎」根倉はやり返すことなくただ怯えていた。
 教室の左右の扉から生徒たちが顔を覗かせ、その攻防ぶりに釘付けだった。
 そこへ担任が駆けつけた。
「こら!よしなさい!よしなさい‼︎」
 担任は間に入ってゆうと根倉を引き離した。
 地面に泣き崩れる根倉。凄まじい形相で呼吸を荒らげるゆう。そんなゆうを抑え込むジョー。
「芽傍くん!どういうことなの⁈根倉さんに謝りなさい!女性を殴るなんて男がしていことじゃないのよ!」先生は真っ先にゆうを叱った。
 ゆうは先生のことを思いっきり睨んだ。
 そこへ騒ぎを聞きつけた先生たちが駆けつけ、ゆうは包囲された。
「職員室に来なさい!」担任は命令した。
 ゆうは「行くならこいつらも一緒だ!」と怒鳴った。
 このとき、根倉は泣いていた。そしてこう訴えた。「先生!わたし何もしてないです!急に襲ってきたんです!」
「お前、いい加減にしろ‼︎」ゆうはまた殴りかかろうとした。
 しかし男の先生たちに取り抑えられ、そのまま連行された。
 数分後、ゆうは職員室で担任の先生から尋問を受けた。
「芽傍くん、どうしてあんなことしたの?」
 ゆうは担任を睨んだ。「城之内と根倉が、ぼくを陥れた」
「どう陥れたの⁈」
「あいつらが万引きの主犯だ!ぼくは罪を着せられたんだ!」ゆうは机を叩いた。
 担任はゆうの手を叩いて机の下にしまわせた。「だとしたら、万引きは自分からやったって言ったんじゃなかったの?それはなぜ?」
 ゆうは言い返せなかった。
 担任は残念そうに首を振った。「まったく。あなたは人を殴るような人じゃないでしょ⁈どうしてなの⁈」
「…何をわかったように」ゆうは低い声で唸るように言った。
「え?」
「ぼくの何がわかるってんだ⁈クラスのこともろくに見てないくせに!万引きは犯罪とか、人を殴っちゃいけないとか、それっぽいことだけ言って、先生やってるつもりかよ!」
 先生はゆうを見つめた。「…先生として注意するのが…」
「あんたは何も見てない!誰が万引きしてるのかも、誰がいじめにあってるのかも!うちのクラスメイトにそんな人はいない、そう思い込んで解決しようとしないじゃないか!だからみんなから舐められるんだ!」
「芽傍くん、落ち着いて…」
「あんたは教師失格だ」
「こらお前!先生に対してなんてこと言うんだ!」別の先生がゆうを叱った。
 ゆうは無視し、立ち上がって回れ右した。
「芽傍くん、やめなさい」と担任が呼び止めた。「あなたは優秀な生徒よ。だから親を呼んだり停学にしたりするのは嫌なの。今すぐ城之内くんと根倉さんに謝って!あとクラスのみんなにも」
 その言葉にゆうはまた怒りを感じた。
「…親は来ないし、ぼくを停学にしても何も解決しない。斎藤や坂本みたいな人が増えるだけだ」
 それだけ言うとゆうは、職員室を出て、教室に戻った。
 その日、それ以上の惨事は起きずに授業を受けたが、誰とも話すことはなかった。

「ほえー!」望夢は驚きのあまり声が漏れた。「ずいぶん治安の悪いクラスだな。お前は悪くないのに」
「いや」ゆうは首を振った。「僕もクラスの問題に気づくのは遅かったし、人のためと思ってたことが全部仇になった。世間に対して盲目過ぎた。僕のせいでもある」
 望夢はゆうを見つめた。慰めの言葉は見つからず、話を進めることにした。
「それで、お前は停学にはならなかったのか?」
「そのときは停学にはならなかった。でも、あのクラスでは生活できなくなった」



 案の定、ゆうもクラスの敵と見なされた。
 トイレに行けば水をかけられ、鞄から物を取られ、机には落書きをされた。ジョーは他の男子と一緒になってゆうを痛めつけ、根倉とゆうは一切口を聞かなくなった。当然、先生は気づいてもいなかった。ゆうが女子生徒を殴ったという話は学校中に広がり、女子からは敬遠され、部活でも話しかけてもらえなくなった。誰も助けてくれなかった。家庭に恵まれなかったゆうにとって楽園だった学校生活は、もはや地獄と化した。
 学校ではいじめに遭い、家では親の暴力に耐える。そんな生活になった。
 ゆうは、もう何が正しくて何が間違いなのか分からなくてなっていた。いっそ、ジョーや斎藤が言った通り、黙ってお人好しでいた方がよかったのかもしれないとまで思うようにもなった。
 …ぼくが自我を振りかざしたって何にもならない…。黙って人の言うこと聞いてる方が、好かれるしに役に立てるのかも…。
 ゆうはとうとう部活にも出なくなった。これでゆうが自由に過ごせる場所は完全に無くなった。
 いじめはエスカレートし、さらなる悲劇がゆうを襲った。
 ある日の朝、登校したゆうは自分の机に行くと、机に紙が散乱していた。その正体はすぐにわかった。それは自分が作った紙細工だ。美術室の廊下の壁に飾られていた自分の作品が粉々にされていたのだ。ゆうは悔しさを顔に出さないようにしてそれをゴミ箱に捨てた。何度も手ですくって、1枚残らずゴミ箱へ放り込んだ。
 途中、ゆうは手を止めた。あるものが目に止まったのだ。紙でできた太い尻尾のようなもの。それば根倉にあげたリスの尻尾だった。ゆうに怒りが込み上げた。教室の隅を見ると、根倉は何もしていませんと言うかのように、女子と楽しそうにお喋りしていた。そんな根倉に対して、ゆうは殺意すら湧くようになった。
 そんなある日の昼休み、ゆうは教室がうるさくてトイレの個室にこもっていた。自分が入ってることさえバレなければ水がかけられることはないし、1人になるにはうってつけだった。もう昼休みはトイレの個室か図書室で過ごすのが主流になっていた。
 トイレでひたすら時間が過ぎるのを待っていると、ガヤガヤと男子数名がトイレに入ってきた。みんなお喋りに夢中で用を足す気はないらしい。せっかく静かに過ごせると思ったのに。
「まじあいつのアカウントやべーよな!」一人が言った。
「な!どうやって撮ってんだって思う!」ともう一人が答える。
「ジョーは1組の頭だからな!クラスメイトみんなの弱み何かしらひとつは握ってそう」
 ゆうは“ジョー”に反応して顔を上げた。SNSの話か。ジョーのやつ、SNSでもろくな投稿してないのか?
「面白いけど、坂本を痛めつけてるやつはさすがにやり過ぎじゃね?」
「別によくね?あいつウザいし」
「正直、斎藤とかさ、嫌いなやつが痛めつけられてるのは見てて爽快」
「わかる!斎藤あいつ、他クラスのやつにまで注意とかしやがって、まじで嫌いだった!」
「消えてくれてよかったな!ジョーのお陰じゃん」
 耳を傾けながらゆうはイライラが込み上げた。ジョーは無論、それを面白がるこいつらも腹立たしい。
「芽傍のやつ見たか?」
「ああ、最近上がってたよな」
「あいつもジョーを敵に回したんだってさ。ざまぁ!」
 それを聞いた瞬間、ゆうは個室から飛び出て、たむろする男子らを突き飛ばしながらトイレを出た。そのまままっすぐ教室に向かった。
 スマホを持っていないゆうにはSNSは未知の世界だった。見る手段がないのだ。仮にジョーの投稿を見ても不快にしかならないだろう。見る必要もない。やめろと言ったところでやめないだろうし。これ以上余計なことはしない方がいい。
 と、自分に言い聞かせはするものの、自分に関するそんな投稿があると知れば、誰しも見たくなるものだ。
 ここでゆうにある考えがよぎった。ジョーがいない間に、鞄からスマホを取り出して見てしまえばいいのでは?完全に出来心ではあったが、ゆうはどうしても決行したくなった。
 その日の放課後。
 授業が終わり、生徒が教室から出ていく中、ゆうは机に座って全員いなくなるのを待っていた。すると、邪魔が入った。
「芽傍くん、部活じゃないの?」担任は悪気まったくなしで尋ねた。
「え、あ、ええと、部活なんですけど、カッターをなくして、探してます」ゆうは机の中をガサゴソ探った。もちろんカッターはちゃんとそこにあった。
「そう。一緒に探そうか?」
「いえ、ありました!」ゆうは慌ててカッターを取り出して見せ、ズボンのポケットに入れた。
「よかった。早く行ったら?時間なくなっちゃうわよ?あなたの作品、楽しみにしてるからね」
 ゆうは色んな意味で悲しい気持ちになったが、「はい」と返事をした。
 ゆうはそそくさと教室を出て、扉のすぐ横の壁に背中を預け、教室を覗いた。残るは先生のみ。ファイル整理らしき作業をしている。いつまで教室にいるつもりだ?
 それにしても、何の抵抗もなく話しかけてきたが、先生は気にしていないのだろうか?担任として失格とまで言ったのに…。
 そんなことを考えているうちに先生は荷物を持って教室を出た。ゆうは見つからないように隠れ、先生が遠ざかってから教室に静かに入った。そして静かに扉を閉めた。
 ベランダに出て校庭を見下ろした。サッカー部のジョーはせっせとボールを蹴っている。…今がチャンスだ。
 ゆうはジョーの鞄をあさった。するとすぐにスマホが見つかった。
 ゆうは画面をタッチした。4桁のパスコード入力の画面が出て、一瞬迷ったが、試しにジョーの誕生日を入れるとすぐに開いた。チョロいやつだ。
 ゆうはメニュー画面からSNSらしきアプリを開いた。そこには、とんでもないものが散りばめられていた。
 アプリを開くとジョーのアカウント画面が出た。そこでジョーの投稿すべてを見れる。ゆうは迷わず動画の項目をタップした。
 上から1個ずつ見ていくと、知らない男子をリンチしていたり、女子の髪を切っていたりと、しょっぱなから胸糞悪い動画で溢れていた。
 ゆうは目を逸らして思いっきり下にスクロールした。もう一度画面を見るとだいぶ下の動画にたどり着くいていた。見ると、そこには斎藤が映っていた。男女にたかられ、水をかけられたり制服をハサミで切られたりしている。いつも強気で厳しい斎藤は泣き叫んでいた。
 ゆうは辛い気持ちになった。斎藤が不登校になるのも当然だ。
 今度は上にスクロールして、古い順に見ていった。すると坂本の動画も見つかった。背の高い生徒が坂本から物を奪って高くかかげ、『ほら、取って見ろよ?』と挑発している。坂本は『返せよ!』と言いながら取り返そうとするが届かず、蹴り飛ばされて地面に倒れた。言うまでもなく虐めだ。
 ゆうはまたスクロールしていった。そしてとうとう見つけた。自分が映っている動画だ。
 ゆうは再生ボタンを押した。
 場所は3階の選択教室、ゆうが根倉に告白した場所。というか、まさにそのときの映像だった。根倉と向き合うゆうが片膝をつく。そして『会った瞬間、運命を感じました!結婚前提で付き合ってください!』と述べた。あっさりフラれる姿まで収められている。
 ゆうは拳を机に打ちつけた。動画を撮っているのは城之内に違いない。告白を促したのもあいつ。最初からこのつもりでいたのだ。
 動画内で、根倉はゆうに背を向けて教室を出た。その瞬間、根倉はカメラに向かってニンマリと笑って、『ねぇ、ヤバくない⁈結婚前提とか!』。それに城之内の声が返事した。『オレが伝えた通り!あいつがオレが言った通りにまんまとやりやがった!バカ過ぎ!』
 ゆうはスマホを思いっきり床に投げつけた。許せなかった。全部仕組まれていたなんて。SNSで笑い者にするためだけに城之内は告白を促し、根倉はわざわざ選択教室まで来たのだ。
 ゆうはスマホを睨めつけ、ゆっくりと拾った。持ち上げると、画面に亀裂が入っていた。それを見て、怒りが煮えたぎるゆうはこのスマホを壊してやりたい衝動に駆られた。そうすることで解決はしない。ただ自分の鬱憤を晴らすだけ。でもそれでいいじゃないか?どうせあいつらは変わりようのない人間なんだから。せめてもの報いに、城之内のスマホを壊すくらい。あいつはもう何人も傷つけてる。それに比べれば軽過ぎる。次から次へと良からぬ思考がゆうを侵食していった。
 ゆうは無意識に歩いて教室を出ると、階段を上がって例の選択教室に入った。窓を開け、そのベランダに立ち、下を見下ろした。この高さから思いっきり落っことせば、このスマホの命は尽きること間違いなし。何も知らないジョーは、まだのびのびとボールを蹴っている。あえてあいつ目掛けて投げて、そのまま逃走してやるというのも面白いか?
 などとゆうが考えを巡らせていると、選択教室の扉が開かれた。
 ぞっとして振り返るゆう。根侵入してきたのは根倉だった。
「やめといたら?」根倉の言い方は優しいとは言えないが、丁寧だった。
 ゆうは根倉を見つめた。いつから気づかれていたのか、わからないがそれはどうでもよかった。ゆうは無視してスマホを振り上げた。
「いい加減こりたら?ジョーに歯向かっても痛い目に遭うだけだよ?」根倉は同じ口調で再度水を刺した。
 ゆうはゆっくりとスマホを下ろした。「…答えろ。万引きしたのは、本当に自分の意志だったのか?」
「ほんとだよ。話したじゃん」
 ゆうにふつふつと怒りが湧いた。「なぜ城之内に付き従う?」
「それはー、リーダー格で頼れるから?楽しいし。ジョーといれば独りぼっちにならないし、嫌いなやつみんな懲らしめてくれるし」
「…ジョーのやってること、おかしいとは思わないのか⁈」ゆうは声を張り上げた。
「別に。正しいとか間違ってるとかは気にしてないの。ただ自分がどうありたいか。それだけ。うちはジョーが好き。だからついていく。あんただってそうでしょ?真面目でお人好し。そうなりたいからなってんでしょ?だから偉そうにしないでよ」
 ゆうは言葉が出ず、根倉を睨みつけていた。
「もういいでしょ?ジョーのスマホを返して。落としたらこれまで以上に悲惨な目に遭うよ?今返せば、ジョーには黙っててあげる。万引きのとき庇ってくれたから、そのくらいはしてやるけど?」
 ゆうはスマホに目をやると、それを根倉に差し出した。根倉が受け取ろうとすると、ゆうはその手を振り上げてベランダの外にスマホを放り投げた。
「こらっ!」と根倉がキレる。「どうなっても知らないからね!」
 ゆうは根倉を見やった。「…お前のことを好きだったことを後悔してるよ…」
 根倉は顔をしかめた。「あっそ。あんたが勝手に好きになっただけでしょ?うちが悪いみたいに言わないでよ」
「そうだ。…でもせめて、好きでいさせてほしかった…」ゆうは思わず吐露した。
「意味わかんない。都合のいいこと言わないでほしいんだけど?」
「…ぼくが告白したから、嫌いになったのか?」
「は?もともと全然好きじゃなかったから」
 ゆうの中でまた何かが湧いた。「全然?…」
「ぜんっぜん!真面目で気持ち悪いとしか思ってないから!前からずっと!」
 ゆうの中で湧いていたものが、突然火を噴いて溢れ出した。ゆうは拳を握り締めて構えた。
「いいの?」根倉は察して咎めた。「うちを殴ったら、また職員室行きだよ?」
 ゆうは一瞬拳を止めたが、すぐにストップを解除して根倉の頬に突進させた。
「うっ!」根倉は短く呻いて頬を抑えた。「おい!」
 ゆうは躊躇なくもう一発殴った。
「ふざけんなよ!いい加減にしてよ!」
 ゆうは今度は根倉の腹部に拳を入れた。根倉はうずくまった。
「…お前には殴られるよりずっと痛い想いをさせられた!」とゆうは怒鳴った。
 根倉は立ち上がろうとしたがゆうはまた頬を殴って阻止した。
「いってーな‼︎」
 今度は根倉が両手で掴みかかってきた。ゆうは対抗し、二人は教室内をぐるぐる回った。置いてある机に激突する度、床を叩く机が騒音を響かせる。
 結局ゆうが根倉を突き飛ばし、根倉は頭を強打して壁にもたれかかった。
 ゆうは仁王立ちして、目で“まだやるか?”と問いた。
 しかし根倉は動かなかった。ぶつけた痛みで、しくしくと涙を流したのだ。ゆうはまったく同情しなかった。ぶつけた痛み程度で泣かれてもかわいそうとは思えなかった。
 そこへジャージ姿の城之内が駆け込んできた。手には壊れたスマホが握られている。落ちたスマホで感づいたに違いない。城之内はゆうと根倉を交互に見ると、ゆうに問い詰めた。「何をした⁈」
 身動きしなかった根倉は急に立ち上がると城之内の背中に回って肩越しにゆうを睨んだ。ゆうは二人が手を握り合っているのを見逃さなかった。
「…そういうことか。お前ら、そういう関係か」ゆうは見切ったように言った。
「だったら何だ?」城之内は根倉を庇うように体勢を整えた。「よくも杏菜を泣かせたな?」
 芽傍は「へっ!」とらしくない声を出した。「お前、根倉とつき合ってたくせに告白させたのかよ⁈なあ⁈どうなんだ⁈……なあ‼︎」
 ゆうは叫んで机を蹴り飛ばした。城之内と根倉は後ずさった。
「逆に聞くけどよ、」城之内は強気で言い返した。「やめろって言ったらすんなり聞いてたか?オレと根倉はつき合ってる、とか言ったらどうだ?諦めてたか?」
 ゆうは城之内を睨みつけた。
「違うよな?フラれてもいいから気持ち伝えたい、どうせそう思ってただろ?だから背中押してやったんじゃないか?」
「嘘をつくな‼︎」
 ゆうは椅子を城之内に向かって蹴った。城之内は根倉を引っ張ってよけた。
「お前はぼくを笑い者にしたんだ‼︎SNSで晒し上げるためにわざとやったんだ‼︎」
「つまり、オレのスマホを盗んで見たわけだな?んで壊したのか?」
「そうだよ!こいつがベランダから投げたの!」根倉が証言した。
「やってくれたな!」
 城之内は突進してきた。ゆうは身構えたが、スポーツマンの城之内を防げるわけもなく、抑え込まれて何度も殴られた。ふらついたゆうは勢いで教室の外に出て突っ伏した。城之内はなおも手加減せず、蹴りや殴りをお見舞いしてきた。
 ゆうはもう痛みも後悔も気にしなくなっていた。ただひたすら、こいつらに勝ちたい、痛めつけてやりたいという気持ちでいっぱいだった。もう手段は選ばない。自分がどうなろうと、こいつらを圧倒してやりたい…!
 ゆうは反射的に偶然持っていた武器を引き抜き、カチカチ!と刃を押し出すと、城之内のふくらはぎに思いっきり突き刺した。
「あーーー‼︎」このときゆうは、初めて城之内の叫び声を聞いた。
 脚を抱えて崩れる城之内。口元を覆って唖然とする根倉。ゆうにとっては最高の光景だった。
「おまぇ…そりゃねぇぜ…」城之内は震える声で言った。
「ジョー!大丈夫⁈」根倉は駆け寄った。
「離れろ!こいつは危険だ!」と叫んで城之内は根倉を遠ざけた。
 ゆうの握るカッターナイフには、しっかりと血が付着していた。ゆうはそれを見て思った。これを使えば、城之内に勝てる…。
 ゆうは無表情でカッターを振り回した。城之内と根倉は慌てて後退した。選択教室の前の廊下は行き止まりで、一方通行をゆうが塞いでいるため、二人は逃れられなかった。
 しかし城之内は突破口を見つけた。非常階段だ。そして閃いた。
「杏菜!選択教室を通って逃げて、先生呼んでこい!」
 城之内が目で示す選択教室の後ろの扉が招くように隙間を開けていた。
「えっ⁈おいてくなんてまずいよ!」
「この脚では逃げられない!非常階段で時間を稼ぐから、行け!」
 根倉が返事する間もなくゆうはカッターを振りかざしてきた。城之内は根倉を押しのけて非常階段への扉の鍵を開けて飛び出た。根倉は飛ばされた勢いで選択教室に入り、走って反対側の扉から抜けた。
 ゆうは根倉が逃げたことに気づいたが、城之内に集中していた。
 城之内は脚を引きずって血痕を残しながら非常階段の踊り場に立ち、階段のロックをかけようとしたが、脚に激痛が走った。
「いててて!」城之内はふくらはぎを抑えた。
 その間に狂人と化したゆうも扉を押し開け、非常階段に踏み出していた。
 城之内は痛みを堪え、出来る限り急いで階段を下りた。怪我している脚は使わずに、両手で階段の柵を握ってケンケンで頑張って降りようとした。ゆうは早歩きで城之内に押し迫ると、すかさずカッターを背中に振り下ろした。
「うああああ‼︎」背中に数センチ切り込みを入れられた城之内はたまらなかった。そのまま前方に勢いよく両手両膝をつき、四つん這いの姿勢になった。
 ゆうは今切った傷を思いっきり蹴った。城之内はさらに呻いた。城之内の苦しそうな声はそのときのゆうにとって心地いいものでしかなかった。
 城之内は何とか立ち上がって逃げようと試みたが、ゆうは容赦無く背中を殴った。城之内はよろけて階段の柵に激突し、跳ね返って下へ続く階段を転げ落ちた。
 その下は地面だった。転がってきた城之内は地面で数回転して仰向けで倒れた。まだ息はある。痛みと恐怖のせいで、とても荒い呼吸をしている。彼の転がった後には、べったりと血が付着していた。
 カタン…と、ゆうが階段を一段下り、錆びた非常階段の音を立てた。
「…なぁ…芽傍…」声を絞り出す城之内。
 カタン…。またゆうは一段下った。
「…ごめんな…からかって…」
 カタン…
「…認めるよ…悪かった…」
 カタン…
「…ふざけてたけど…度が…過ぎた…」
 カタン…
「…頼む…助…けて…」
 カタン…
「…助けて…。やり…なおそ…」
 ゆうは地面に足をつけた。
「…許してくれ…なぁ…」
 ゆうは城之内の傍らで膝を着き、胸ぐらを掴んだ。城之内は顔をゆっくりと上げてゆうを見たそして絞り出すような声でこう言った。
「…助けてくれ…頼む…。…友達、だろ?」
 …友達、だろ?…。ゆうの脳内でその言葉が繰り返された。今まで何度も聞かされてきたこいつの“友達”。ただただ、怒りしか感じなかった。…友達…ともだち…トモダチ…。ゆうの中でこれまで起こったすべてのことがぐるぐると掻き乱れ、そのすべてが怒りへと終着した。
 ゆうはこれまでの怒りを拳に込めて城之内の顔面を全力で殴った。
「キャーーー‼︎」
 ちょうど駆けつけた根倉の叫び声が校舎裏に響いた。
 城之内は動かなくなった。
 走ってくる根倉。一緒に来た担任の先生は慌ててゆうを押しのけ、城之内を揺すって声をかけた。
「城之内くん⁈城之内くん!芽傍くん、なんてことしたの⁈」
 ゆうは膝から崩れ落ちた。片手に握っていた血のついたカッターが落ち、カシャッ…と寂しく地面を鳴らした。

 ……。静まり返る病室。
 望夢は固唾を飲んで聞いていた。
「…ジョーは?城之内は……」
「生きてたよ」芽傍が落胆とも安心とも取れる口調で答えた。「しばらく入院したけど。その間に僕は退学になって、あれから城之内には会ってない」
「やっぱり退学か」
「ああ。そこで人生は終わったも同然だった」



「それからの記憶は曖昧だ。校長室に行って、何か聞かれて、親にも連絡された」

 ゆうがその事件以降、学校に行くことはなかった。病院に運ばれた城之内がゆうのしたことをすべて話したのだ。根倉も同じことを話しただろう。それらが証言となり、根倉に暴力を振るったことも相まって、ゆうの退学が決まった。
 ゆうは泣きながら家に入るや否や、父親に追い出された。
「もう帰ってくるな」
 それが父親からもらった最後の言葉だった。
 ゆうはお金も飲食物も何も持たず、この世をさまよった。空腹と疲労で徐々に世界はぼやけていき、時の流れもゆっくりになるのを感じていた。すれ違う人々は、みんな自分をすり抜けていった。まるで自分が存在しえない時空に迷い込み、少しずつ体が消えていくのを待っているような感覚だった。

「疲れも空腹も、気にしなかった。とっとと限界が来て、死んでしまえばいいと思ってた。友達だと思ってたやつも、好きだった人も、クラスメイトも、みんな傷つけた。そして何もかも失った」

 それでもゆうは、この世界から早く離れたくて、死に急いだ。
 あるとき、ゆいは橋から川に飛び降りて、抗うことなく流された。望み通り意識が遠のいていった。しかしまた意識は戻り、川岸に打ち上げられていた。
 またあるときは、どこかの工場で、天井から吊り下がったロープに首をくくりつけて身を預けた。けれどもまた意識は戻った。ゆうは地面に落ち、頭を打った衝撃でこの世界に戻された。ロープはゆうの重みに耐え切れなかったのだ。
 ゆうはさらにさまよった。雨が降り注ぐ中、とにかく高くそびえ立つビルを目指して歩き、すがる思いでその屋上に上がった。そして柵を越え、縁に立ってって、目下で入り乱れる人間たちを見下ろした。
 そのとき、寒気が走った。ふいに視線を感じたのだ。ゆっくり振り返ると、長い黒髪の若い女が、ゆうを見つめていた。

「そのときだった。亜久間に会ったのは」
 病室の窓を雨が叩いていた。あの日と同じだ。ゆうは思い起こすように窓に目を向けた。
「そこでか。んで、お前はどんな契約をしたんだ?」望夢は前々から気になっていたことをようやく尋ねた。
 ゆうは思い出すように正面を見つめ、こう答えた。「…自分でもよく覚えてない。でも、あなたはまだ死ぬ時じゃないとか、使命があるとか、生きることを促すようなことを言ってきた。やること済んだら死なせてやるとか、なんとか…。もともと死ぬつもりだったから、どうにでもなれって気持ちで承諾したんだよな…」
「そうか…。興味深いな」望夢は顎をさすった。「亜久間のことは怪しいと思わなかったのか?」
「ある意味怪しかったけど、でも、そう言う意味では、人よりも信用できた。実際、今の学校に転校できるように仕組んでくれたのは亜久間だ」
「そうだったのか!」
「ああ。僕の保護者として学校に申し出てくれた。まだ学校に対する嫌悪は抜け切ってなくて、無理矢理入れられた感じだったけど」
「亜久間らしいな」望夢はクスッと笑った。
「ここでやり直せ、そうすれば望むものがすべて手に入る、とか言われた。半信半疑だったけど、死のうにも死ねなかったし、他にどうしようもなかったから、今の仕事とアパートを見つけてギリギリの生活を送ることにした。そしたら、嫌々だったがお前と関わるように仕向けられたんだ。お前が下着泥棒に間違われたときは、亜久間が犯人を教えてくれたし、雫元るいのことも予め聞かされてた」
「なるほどな」通りで芽傍は色々知っていたわけか。「で、望みは叶ったのか?」
「いや。というか、自分が何を欲しているのかもわからない」
「そ、そうか」望夢は苦笑した。
「本橋は何を契約した?」珍しく芽傍が尋ねた。
「“愛”について教え込むとよ。半ば強引に契約させられた」
「“愛”か。妥当だな」芽傍は鼻で笑った。
「妥当って、どういう意味だ?」望夢も笑った。
 前のめりだった望夢は脱力して座る姿勢を改めた。
「亜久間の授業は、いつまで続くと思う?」と望夢。
「契約したってことは、それが完了するまでだろうな。僕たちが必要なことを学ぶまで」
「なんかいつまで経っても終わんなそうだな。半年契約とかならよかったのに」望夢は背もたれに背中を剃った。
「もうすぐだろ。本橋は会ったときから大きく変わった」
「そうか?」
「ああ。正直、驚いてる。変われる人間もいるもんだな」
 芽傍の言い方は皮肉にも聞こえたが、望夢は素直に褒め言葉として受け取った。過去にも、芽傍は何度も上から目線に思える発言をしてきてうんざりしていたが、今日の話を聞いて、そうは思えなくなった。むしろ望夢は申し訳ない気持ちになった。
「今までごめんな。色々と酷いこと言っちゃって」
 芽傍は首を振った。「気にしないでくれ。僕も色々と済まなかった…」
 このとき、芽傍の目から涙が一滴落ちた。望夢はしっかり気づいたが、芽傍が気にすると思い、見なかったことにした。
 …そろそろお開きかな?
「じゃあ、もう行くよ」望夢は立ち上がった。「あ、よかったら、連絡取れるようにしないか?意外と絡むこと多いし、必要になるかもしれない」望夢はスマホを取り出した。
「ああ。それもそうだな」芽傍は上半身を上げてスマホを手にした。
 二人はSNSで連絡が取れるように交換し合った。
「ありがとな!色々と話してくれて!」望夢は爽やかにお礼を述べた。
「こちらこそ。ありがとう」芽傍は微笑んだ。
 望夢は引き戸を開け、芽傍に顔を向けた。「また学校で!」
 芽傍は頷いた。
 引き戸が閉まり、望夢の姿は見えなくなった。
 真顔で正面を見つめる芽傍。その傍らに、亜久間がヌッと姿を現した。
「今、どんな気持ち?」
 亜久間の問いかけに、芽傍は正面を見つめたまま答えた。「…不思議な気持ちだ…。なんて言うか、あったかい…」
 亜久間はニヤリとした。芽傍はそんな彼女を見やる。
「…今になって、生きたいと思うなんて…」芽傍はまた涙を流した。
「できる限りのことはしたわ」亜久間は残念そうな顔をした。「もうすぐ契約完了よ。頑張ってね!」
 芽傍が頷くと、亜久間はスーッと姿を消した。
 静かな病室で、カチッ、カチッと時計が時間を刻む。芽傍はぼんやりと、ひたすらその音に耳をそばだてていた。
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