愛レス

たけピー

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大切な人

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 大勢の人で埋め尽くされた久米沢高校の体育館に、全校生徒が斉唱する校歌が美しく響く。壇上には“第47回卒業証書授与式”と書かれた札が掛けられている。
 優雅なピアノの音色が彩る中、生徒たちは1人ずつ壇上に上がり、卒業証書を受け取っていった。
『本橋望夢』
「はい!」大きく返事した望夢はこれまで見せたこともないような綺麗な姿勢で教壇前に進むと、一礼して校長先生から証書を受け取った。
「おめでとう」校長先生は小声で言った。
 下着泥棒の罪を着せられたとき、この校長には“お世話”になったな。今となっては懐かしい。無事に卒業できたのが不思議なのは、校長も思っていることだろう。そう思いながら望夢は座席に戻った。
 3年A組が終わり、続いてB組も全生徒に証書が配られた。いよいよ3年C組。瞳、そして、芽傍のクラスだ。
 鬼頭を含む男子が、1人ずつ証書を受け取っていく。
 ま行の読み上げなったとき、望夢は拍手しようと身構えた。しかし、その心待ちは蔑ろにされた。芽傍の名前は読み上げられなかったのだ。しれっとや行の名前が読み上げられていった。
 芽傍が亡くなったことは、学校側からアナウンスされなかった。C組の教室で木下先生の口から語られたのみだ。それでも他クラスもほとんどの人が口伝いに耳にしていた。望夢は卒業式で芽傍の名前が読み上げられ、卒業直前にして不慮の死を遂げた事実が校長から語られることを密かに期待していたが、結局公式の場で明かされることはなかった。大人の事情というやつだろう。きっと、卒業前に生徒が死んだなんて発表したら学校の名前に傷がつくとか、どうせそんなんだろうと望夢は思った。
 しかし、極論、重要なのは芽傍が亡くなった事実が共有されるか否かではなく、芽傍が最期までやるべきことをし、人生を貫徹したということだ。自分と瞳はそのことをわかっている。それでいいのだ。望夢はそう自分に言い聞かせた。
 その後、瞳も当然ながら証書をもらった。
 それから門出の言葉の斉唱や別れの歌を合唱して演出的に会場を泣かせ、卒業式は幕を閉じた。
 その後は、教室で各クラス泣いたりふざけたりして担任と別れを告げるというお約束の会をして解散。そして仲良し同士やお世話になった先生たちと写真を撮る卒業生と、憧れの先輩から制服のボタンをもらうというこれまたお約束だが謎の風習を行う後輩で校庭が溢れかえった。
「はいチーズ!」
 卒業証書の筒を持ってピースする望夢にフラッシュがたかれた。
 両親は笑顔で望夢を抱きしめた。
「卒業おめでとう!心配だったけど、無事に卒業できて良かったわ!」と母親は喜んだ。
「ほんとだぜ!正直最初は進学どころか卒業できるかも不安だったけど、よく成長したな!」と親父も強く抱きしめながら讃えた。
「いててててて‼︎親父わかったから離してくれよ‼︎」望夢はもがいた。
 そのとき、「望夢ー!写真撮ろうよ⁈」と瞳が手を振ってきた。隣には玲奈も立っている。
「おう!」望夢は駆け寄った。
 望夢、瞳、玲奈、それぞれの両親は夢中でシャッターを切った。
「あっという間だったね!」と玲奈が微笑んだ。
「だな!でも色々あって濃い1年だったぜ!」望夢は亜久間がいたずらっぽく笑う顔を思い浮かべて言った。“色々あった”原因はあいつだ。
「本当は、芽傍くんもいたはずなのに…」瞳は寂しげにささやいた。
 望夢と玲奈も口角が下がった。
「…芽傍くんがいなかったら、瞳はいなかったって思うと、複雑だね…」玲奈は目線を落とした。
「…だな…。でも、芽傍のお陰で瞳がいるじゃないか!くよくよしてたら、あいつ悲しむぞ⁈」望夢は瞳の肩を叩いた。
 瞳は小さく頷いた。「…そうだね…。芽傍くんには感謝し切れないよ…。でも…」
 瞳は泣き崩れた。望夢と玲奈は優しく手を添えた。
 写真を撮っていた親たちは「どうしたどうした⁈」「急に悲しくなっちゃった⁈」と、呑気に笑うのであった。



 思う存分校庭で戯れた三人はその後、ある場所に向かった。
 見るからに安そうな小さなアパート。その2階の一室の扉には、花束が何束かたむけられている。ゆうが住んでいた部屋だ。三人はアパートの前で立ち止まってその部屋の扉を見つめた。
「…本当に、いなくなっちゃったんだな…」望夢はしみじみと呟いた。
「…人って、いなくなるときはほんとに急にいなくなっちゃうよね…」玲奈も悲しそうに言う。
 瞳はコクンと頷いだ。「芽傍くんと旅行、行きたかったな…」
「そっか、そういえば旅行しようって話してたな」望夢は思い出した。ショックのあまり忘れかけていた。
「え…行くの…?」と玲奈は怪訝そうな顔をする。「芽傍くんがいなくなったのに、旅行なんて…」
 望夢と瞳は顔を見合わせた。
「たしかにな。ちょっと不謹慎かもな」
「だね…。中止だね…」
 望夢はまた芽傍が暮していた部屋に目をやった。「にしてもあいつ、頑張ってたよなー。家族もいなくて、一人でバイトしながらあのアパートで生計立てて」
「勉強も頑張ってたしね。なのにあんな最後…」瞳はうつむいた。
「母親が見つかって、父親の判決が決まったのが不幸中の幸いだよね…」と玲奈が添えた。
 ゆうの母親の葬儀は明日、予定通りに行われる。そして急遽、芽傍の葬儀も兼ねることになった。葬儀の料金は、芽傍が生前に稼いだお金と、望夢、瞳、玲奈のお小遣いに加え、事情を聞いた各々の両親が出し合ってくれることになった。
 ゆうの父親には、殺人と死体遺棄の容疑で禁固15年の判決が下った。ゆうが虐待を受けていたことを聞いていた望夢は、父親の罪状にそれがないことに不満だが、果たして天国のゆうはこの判決に満足しているのだろうか…?
「そういえば、西川さんは?」望夢はゆう同様に刺された西川譲のことを聞いていなかった。
「…ああ、望夢に言ってなかったね…」瞳は暗いトーンで言うと、口籠った。
 まさか譲さんも…?聞いてはいけなかったか?と望夢は思ったが、玲奈が説明してくれた。
「西川さんは無事。しばらくは入院だけど、命に別状はないって」
「そっか!それはよかった!じゃあ退院したら、安心して付き合えるんだな⁈」
 瞳は首を振った。「もう別れたよ…」
「え…」望夢は顔を曇らせた。やっぱり聞いてはいけなかったか…。
 瞳は辛い気持ちを抑えて、素直に話してくれた。「あの女、結局逆恨みだったんだって。譲は、あたしを危険に巻き込んだことに責任を感じてるの」

『…ごめんね…。危険な目に遭わせたし、瞳を守ることもできなかった。そのせいで芽傍さんが犠牲に…。彼氏失格だ。…俺には瞳と付き合う資格はない。…今までありがとう』

「…譲は最後まで良い人だった…」瞳は涙を拭った。
 望夢は同情した。「…そうだったのか。…気安く聞いてごめん…」
「ううん。いいの」
 グ~~~!
 悲嘆に満ちた空気を、望夢の腹の音が台無しにした。
「ちょっとー!今お腹鳴らす⁈」瞳は涙を引っ込め、顔をしかめた。
「す、すまねえ!」望夢は頭をかいた。
 玲奈は笑った。「ふっ!本橋くんらしいじゃん?うちもお腹空いた。何か食べよ?」
「さんせー!」
「もー!二人ったら!」瞳は呆れながら笑った。
 三人は改めてアパートを見上げた。
「…じゃあな芽傍。また会いに来るよ。今度はちゃんと花用意してな」
 三人は手を合わせると、アパートから離れた。



 葬儀は予定通り行われた。
 望夢を始め、けして多くはないが、黒服に身を包んだゆうの関係者たちが集まった。瞳とその両親、玲奈、担任の木下先生。さらに亜久間まで。
 人に混じって平然と座る亜久間を見て望夢が驚いたのは言うまでもない。
「お前、ここにいて良いのか?」
「問題ないわ。私はゆうの保護者ってことになってるから」
 望夢は思い出した。亜久間が保護者としてなんとか久米沢高校に入れてくれたとゆうが話していたことを。
 ちょうどそのとき、木下先生が亜久間のそばにきて深々と頭を下げた。亜久間は立ち上がった。
「ゆうくんを守れなくて、申し訳ありませんでした!」木下先生は泣きそうな声で謝罪した。
「いいえ!とんでもないです!大変にお世話になりました!ゆうは先生のことを、ちゃんと見てくれる良い先生だと褒めていましたよ!自信を持ってください!」亜久間はいつものような上品な話し口調ではなく、その辺にいるお母さんのような話しぶりを見事に演じた。
 二人のやり取りを見て、瞳とその両親も亜久間に頭を下げにきた。
「娘のために、本当に、申し訳ありません‼︎」瞳のお父さんは土下座して謝った。
 お母さんと瞳も続いて頭を深く下げた。
 さすがの亜久間もこの状況には「そんなにお気になさらず…!」と素で困った様子を見せた。
 何はともあれ、通夜が始まった。ゆうの顔写真と、母親の名札の前でお坊さんがお経を読み始めた頃、遅れてもう1人加わった。望夢は横目で確認すると、なんと鬼頭だった。キャラに合わない喪服を着込んで、大人しく腰かけている。
 少人数のため、焼香はあっという間だった。鬼頭も丁寧に行っていた。
 葬儀が終わり、みんなでゆうの遺体を取り囲んだ。足元から頭まで、棺桶に花がいっぱい敷き詰められた。
 まずは亜久間から別れを告げた。と言っても、無言でゆうのおでこに手を数秒添えただけだった。
 次は望夢だ。ゆうの手を握ると、「色々と世話になった。ありがとよ。ゆっくり休んでくれ…」と呟いた。
 続いて瞳は、ゆうの頬を優しくなでて、耳元で「…ごめんね。助けてくれてありがとう。大好きよ」とささやいた。
 瞳の両親は、長く合掌すると、「娘を助けてくれて、どうもありがとうございました」と感謝を伝えた。
 木下先生は、「あなたの気持ちをもっと理解してあげられたら…。ごめんなさい…」と自分を恥じた。
 鬼頭はゆうに触れることはなく、深く頭を下げると、「…色々と済まなかった…」とだけ囁いた。
 最後に全員で合掌し、棺の蓋が閉じられた。
 閉式後、望夢は鬼頭を「おい」と呼び止めた。
 鬼頭は振り返った。「よ、本橋」
「おう。まさか来るとは思ってなくて、びっくりしたぜ」
「まあな」鬼頭は頭をかいた。「自分でも、俺が来るのも場違いな気がしたけど、芽傍に良いことしてやれなかったから、最後くらいは見送ろうと思って…」
 望夢は鬼頭を見つめた。「…どうして急に?芽傍のこと嫌ってたのに…」
「俺は、気に入らないやつがいると、からかいたくて仕方なかったんだ。だから芽傍にもそうだった。馬鹿真面目で変なやつってずっと思ってた。でも、まさか死んじまうなんて思ってないからよ…」
 鬼頭は壁に額と拳を打ちつけた。
「…芽傍が勉強熱心なのも、本橋のことを助けてたのも知ってたから、良い部分もあるってのはわかってた。だけど俺は、痛めつけただけだった…。ごめんって言えなかった…」
 望夢は胸が痛くなった。ここまで反省する鬼頭は初めて見た。
 鬼頭は望夢に向き合った。「本橋、今までお前のことも何度もからかってきた!本当に済まない!」そして頭を下げた。
 望夢は首を振って微笑んだ。「気にすんな!おれなんてバカにされて当然な性格だから!」
 鬼頭は腰を曲げたまた顔を上げて望夢の目を見ると、ゆっくりと上半身を起こした。「…前から思ってたけど、お前、変わったよな?」
「え?そう⁈どこが⁈」
「なんか、女子に嫌がられることしなくなったし、周りに気を配るようになったっていうかな…?」
 望夢は嬉しかった。鬼頭からこんな言葉をもらえるなんて。
「ありがとよ!鬼頭も成長したな!」
 鬼頭はニヤリした。「まあな!んじゃ、これで仲直りか?」
「おう!」
 望夢は手を差し出した。鬼頭はその手を握った。仲直りの証だ。
「もっと早くこうなれてればな!」望夢は笑った。
「だな。俺たちが子供でいるのが長すぎたな!」鬼頭も笑った。
「大学でも頑張れよ!鬼頭!」
「お前もな!」
「望夢ー!」そのとき、瞳が呼びかけた。「みんなで食事でもしようよ!」
「おう!今行く!」と望夢は返した。
 鬼頭は瞳を見ると、目の前まで行って頭を下げた。「片山、この前はごめん!まじで反省してる!」
 瞳は首を傾げた。「え?あ、あー!あのときね?」
 望夢はそんな鬼頭を見て微笑んだ。



 その後、食事をすることになったが、亜久間は用事があると言って退き、鬼頭はさすがに堂々と参加するのははばかられたようで、丁寧に断って帰っていった。というわけで、望夢、瞳、玲奈、瞳の両親、木下先生で楽しく会食した。
 食後、望夢は片山一家に車で送ってもらい、家の前で下ろしてもらった。
「じゃあね望夢くん!」瞳のお母さんが助手席から手を振った。
「お疲れ様!」と瞳。
 お父さんも運転席で頭を下げると、車を発進させた。
 望夢が家に入ろうとすると、「お疲れ様」と聞き慣れた声がした。振り向くと、亜久間がいつもの黒いジャケットに真っ赤なスカートの姿で立っていた。
「おう。お疲れ!何か用か?」
 望夢が尋ねると、亜久間は封筒を差し出した。「これ。ゆうに渡してって言われてたの」
「ゆう⁈芽傍が⁈」
 望夢はそれを掴むと、すぐさま開いた。

『望夢へ。
 伝えられなくなる前に、文章に残しておこうと思った。まず、今まで本当にありがとう。最初は捻くれ者で、散々酷いことを言って済まなかった。正直、最初は望夢をバカなやつとしか思ってなかったけど、望夢の頑張る姿を見て、信じてもいいかもって思うようになった。色々あったけど、とても楽しかった。本当は一緒に旅行も生きたかったけど、もう時間がない。僕には気を遣わずに、3人で楽しんできてくれ。友達でいてくれてありがとう。片山によろしく。さようなら。
 芽傍ゆう』

「…芽傍…」望夢に色んな感情が渦巻いた。「…こちらこそありがとう…」
 望夢は亜久間を見た。「気になってたんだけど、芽傍を救うことはできなかったのか…?」
 亜久間はうつむいた。「そのことだけど、ちょうど話そうと思ってたの。結論から言うと、救えることもできた。ただ、ゆうの為にならなかったの」
「どういうこと?」
「私には時間を司る使いがいて、今後起こる出来事を見せてくれるの。ゆうが自ら命を断つ未来を知った私は、どうにか救おうと手を尽くした。でも、結局独りで絶命するか、生きていても一生苦しみがつきまとうかのどちらかだった。だから、その中で、ゆうにとって最も幸せな死を与えることがあの子の為になると判断したの」
「なるほどな」望夢は納得したが、腑に落ちない点もあった。「じゃあ、芽傍の親は?父親を更生することはできなかったのか?もしくは城之内とか」
 亜久間は首を振った。「もちろんそれも試みたわ。でも変えられなかった。世の中には、常に成長する人間もいれば、いつまでも成長しない人間もいる。ゆうの父親やいじめっ子は後者のタイプ。私がどう説得しようとどう脅そうと、改心しなかった」
「そんな…」望夢はゆうを不幸に陥れた人物たちを余計に憎く思った。
「ま、見た瞬間にそうだろうと思ったんだけどね。だいたいの人は、見れば成長するか否かわかるから」
「そうなのか。じゃあ、おれに契約を迫ったのは…?」
 亜久間はニヤリとした。「そういうこと。私の勘は間違ってなかった。あなたは見事に成長したわ」
「いやーそれほどでも!」望夢は照れて頭をかいた。「先生が優秀だったからな!」
「まあね!」亜久間は得意げに言った。
「あ、そうだ!」望夢はスマホを取り出した。「記念に写真撮っていいか?そういえば一度も撮ったことなかった!」
 亜久間は真顔になった。「ごめんなさい。それはできないの」
「何でだよ?今すっぴんとか?」
「いえ。てかいつもすっぴんだけどね。そうじゃなくて、撮っても意味ないわよ?」
「意味ないって?」
「写真に撮っても、どうせ消えちゃうから」
「⁇」望夢は亜久間を見つめた。
「もうあなたとの契約は完了したの」
「…っ⁈」望夢ははっとした。「契約が⁈ついに⁈」
「ええ。あなたに教えるべきことは全部教え込んだわ」
「えっ⁈ちょっと待ってくれ!」望夢は亜久間を抑えるように手を構えた。「…お別れなのか?」
「ええ。残念だけど」
 望夢は首を振った。「なあ!さよならしなくていいだろ?頼む!これからも会いにきてくれよ!」
 亜久間は寂しそうな目で望夢を見た。「それはできないわ。残念だけど、お別れして記憶も消さないといけなの」
「はっ⁈記憶を消すって⁈」望夢を前に乗り出した。
 亜久間は望夢の家の玄関前の階段に腰を下ろして語り始めた。「私たち天使は、天界から地上に降りて、人間に救いの手を差しのべるのが仕事。でも本来、天界の私たちが人間と交流するのはあってはならないことなの。だから、私たち天使のことを知り過ぎたり、一緒にいる時間が長かった場合は、その人から記憶を消さなければならないの」
 望夢は亜久間の話においていかれないように頑張って理解した。「…そうなのか…。じゃあ、これまでお前と関わったことは、全部忘れちゃうのか⁈お前と過ごした時間も、お前から教わったことも⁈」
 亜久間は首を振った。「半分は合ってる。たしかに、私がいたことは記憶から消される。でも、私が教え込んだことは忘れないわ。なぜなら、言葉で教え込まず、体に染み込ませたからね」
 亜久間は望夢の胸元を指差した。望夢は胸に手を当てた。
「私はこれまであなたに何度も過酷な試練を課してきた。嫌な夢を見せたり、事件に巻き込ませたり。辛かったのはわかってる。でも、それらはすべて、私のことを忘れても、あなたの心と体には刻み込まれるようにするためだったのよ」
 望夢は目頭が熱くなった。
 亜久間は立ち上がると、望夢の両肩に手をかけた。「望夢、今まで辛い想いをさせてごめんなさい。でもあなたは期待通り、いえ、期待以上に乗り越えてきた。もちろんまだまだ若いから、これから学ぶことも多いけど、私から教えることはもう無いわ」
 望夢の目から涙が溢れた。「…そんな…そんなの…やだよ‼︎亜久間!これからもおれのそばにいてくれ‼︎あんたがいなかったらおれ、いつまでもダメ人間のままだったよ‼︎だからお別れなんてしたくない‼︎なあ…これからもそばにいてくれよ‼︎…頼む‼︎頼むよ‼︎」
 望夢は泣きながら地面に膝を着き、亜久間の脚にすがった。亜久間はやれやれと首を振った。
「もー!みっともないわよ⁈しっかりしなさい!」亜久間は望夢の肩を掴んで立たせた。「繰り返すけど、あなたはもう立派に成長した。私がいる必要はないし、私がいなくても自分で頑張らないと!」
 望夢は涙でぐちゃぐちゃの顔で亜久間を見つめた。そして次の瞬間、本能的にこう言い放ったのだ。
「お前を愛してるんだ‼︎」
 亜久間ははっとした。
 望夢は鼻をすすった。「…おれにとって、あんたは大切な存在だ!こんなおれを助けてくれたし、いつでもそばにいてくれたし、絶対に見捨てないでくれた!おれはあんたのお陰で、“愛”ってものを知ったんだよ‼︎友達できたし、家族も飼い犬も愛せた!それに自分が愛されてるってことにも気づけた!全部、全部!亜久間のお陰なんだよ‼︎だから離れたくないんだー‼︎」
 望夢は亜久間の抱きついて肩に顔をうずませた。亜久間の肩が涙で濡れる。
 亜久間は固まっていた。身動きも、発言も、一切しなかった。
「…?」望夢は顔を上げた。「…おい⁈どうなんだよ⁈」
 亜久間は放心状態で正面を見つめていた。「……初めて」
「え⁇」
「初めてなの。人間に愛されたの」亜久間は独り言のように呟くと、ようやく望夢を見返した。「…まったく。あなたったら、本当に期待を上回るんだから。良い意味でも悪い意味でも」
 亜久間はごまかすようにふっと笑うと、望夢の額に優しくゲンコツした。
 望夢はノーリアクションで尋ねた。「じゃあ、一緒にいてくれるのか⁈」
 亜久間はまた笑った。「それはできないわ!それに望夢、忘れたの?私は女じゃないし、人間ですらないのよ?」
「あ…」そういえばそうだった。「…いや、そうだけど、でも関係ねーよ!家族でも犬でも、友達でも他人でも、誰にでも愛情は持てるもんだろ⁈あんたが教えてくれたじゃないか!」
 亜久間は笑いながら息を吐いた。「そう言われるとぐうの音も出ないわね…。まいったわ!でも、決まりは決まり。あなたから私の記憶は消さないといけないの。そ、れ、に、あなたには私よりも大切にすべき人がいるでしょ?」
「え?誰のことだ?」望夢は首を傾げた。
「すぐにわかるわ。とにかく、悪いけど私のことは忘れてもらうわよ?」
「そうか…」望夢は柵に手をつき、もたれかかった。「…じゃあ、一つだけお願いてもいいか?記憶を消すの、もうちょっと先送りにできないか?もう少し、余韻に浸りたいんだ。今までのこと、忘れる前に思い返しておきたい…」
 亜久間は頷いた。「それなら構わないわ。でも、予告もなく急に消しちゃうこともあるから、早めにね?」
「わかった」
「じゃあね。あと、ありがとう。私の気持ち、ちゃんと受け取ってくれて」亜久間はウィンクして煙のように消えた。



 望夢は一目散に自分の部屋に駆け上がると、ノートを広げ、鉛筆を掴んだ。そして鉛筆削りで先端を尖らせると、とっさに何か書き始めた。
 1時間が経過。望夢は先端が丸くなった鉛筆を置いた。ノートは半分以上黒く染まっていた。望夢の手にも黒ずみがこびりついている。望夢が書いたのはこれまでの出来事、亜久間と共に過ごした日々の記録だ。亜久間にされたこと、そこで見たもの、学んだことを思いつく限り事細かく書き留めた。
 これでよし!望夢は伸びをするとベッドにゴロンと転がってひと息ついた。すると、ズボンのポケットでクシャッと音が鳴った。亜久間から受け取った芽傍の手紙だ。
 そうだ。これ、瞳にも見せてやらないと。
 望夢はスマホで文面を撮り、瞳に送った。
 家で私服に着替え、部屋の片付けをしていた瞳はスマホの通知音を聞いてすぐに確認した。
「……芽傍くん…」
 瞳は呟くと、返信を送った。『これ、いつもらったの?』
 望夢は寝たまま返信を打った。『さっき。芽傍の保護者の女の人から渡された』
 瞳はその文章を見つめた。
『あの綺麗な人か。あの人って、芽傍くんの親戚なの?』
『わからない』望夢は適当にごまかした。
 瞳はふーんと唸って、返信した。『芽傍くんも旅行、行きたかったんだね』
『それな。意外だよな』望夢も感慨深かった。
 その後の瞳の返しに、さらに胸が痛くなった。
『死んじゃうってわかってたから、断ったんだ…』
 …望夢はどう返そうか思いつかず、しばらくその文を見つめていた…。
『そうだな』望夢はそれだけ打って送信しようとしたが、こう付け加えた。『じゃあ、3人で行こっか?』
 瞳は驚いた。『え⁈行くの⁈』
『うん。芽傍が自分に気を遣わないで3人で楽しんでこいって言ってくれてるし』
 瞳はさらにうーんと唸った。『たしかにね…』
『だろ。逆に、行くのやめたら芽傍が責任感じちゃうんじゃないか?』
 瞳は頷いた。『言えてる。じゃあ、玲奈にも伝えておくね!』
『よろしく』
 瞳はすぐに玲奈にメッセージを送ると、スマホを置いて片付けに戻った。
 本棚を整理していると、下の方から、埃を被った分厚い何かが出てきた。手に取ると、それは幼稚園の卒園アルバムだった。
「懐かしー!」瞳は思わず叫んで開いた。
 今もかわいいけど、さらにかわいかった頃の自分の姿が点在している。運動会で1位を取ったときの写真、遠足でみんなとお弁当を食べている写真、怪我をして泣いている写真。あらゆる思い出がここに詰まっている。
 パラパラとめくっていると、望夢と二人で写った写真があった。小さな望夢がたんぽぽを差し出して立っており、それに困惑する自分の姿。瞳はニヤリとした。たしかこのとき、望夢に大好きって言われて、思わず押し倒したんだっけ?みんな大笑いして、望夢泣いてたっけなー。振り返れば、色んな男に告白されたが、人生で最初に好きだと言ってくれたのは、望夢だったのかもしれない…。この頃の望夢、無邪気だったなー。
 瞳はクスッと微笑んでアルバムを閉じ、部屋の片付けに戻った。
 その間に、玲奈から返信がきた。
『芽傍くんがそう言ってくれてるなら、行ってもいいかもね』
 瞳は返事を打った。『その方が芽傍くんも喜ぶかもね!でも、望夢が男1人でかわいそう。どうする?』
『今から探す時間ないよね…。探したところで、どうせ本橋くんと一緒に出かけるような人いなそうだし』
 さらっと望夢をディスる玲奈。
『言われてみれば』と瞳は肯定するしかなかった。『望夢、1人でも大丈夫って言ってたし』
『じゃあそれでいっか。(笑)』
『そしたら、あたし旅館の予約取るね!』
『よろしく!』
『楽しくなってきたーーー‼︎』瞳はベッドに寝転びながらそう打った。



 その夜。
 ベッドの上で寝返りを打つ望夢。今、望夢はお決まりの夢を見ていた。
 望夢はのどかな草原を女の子に手を引かれ、走っていた。どこまでも広がる青い空と緑色に輝く草木。女性から花束のようなとても良い香りが漂っていて、望夢は幸せな気分になった。なんて居心地が良い場所なんだろう。
 前を走る女性がこちらにゆっくりと顔を向けてきた。これもお決まり。さあ、今回はどんな“化け物”に変身するのかな?望夢は身構えた。もう何が襲い掛かってこようと気にならなかった。自分は生きていて、夢の中にいるとわかっただけで充分だった。
 ところが、夢の展開は望夢の意表をついた。いつもなら女性が振り向くと同時に視界が暗くなって、可愛げな彼女が自分にとって厄介な誰かに変貌するはずだ。しかし今回は違った。背景は明るい草原を保っており、女性も美しいままだった。そしてもっとも驚いたのがその子の顔。…‼︎
 望夢は驚きの声を漏らすと同時に起き上がった。飛び起きるのはいつものことだが、今回は鼓動が落ち着いている。望夢は驚きが失せず、しばらく宙を見つめていた。
 …瞳。お前だったのか…!望夢が夢の中で追い続けていた少女。それは、子供の頃からずっと絡んできた幼馴染の瞳だったのだ。
 望夢は首を掻いた。不思議だ。瞳に恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。たしかにかわいいし、成績も良いし、友達想いで頼りになるけど、子供の頃からの仲だしお節介な性格のせいで異性としては惹かれなかった。
 かと言って、瞳と付き合えないわけではない。イケメンに言い寄られるほどのモテ女だ。もし付き合えるなら、自慢の彼女になるし、絶対に大事にする。
 望夢はそう思い、再びベッドに身を下ろした。もう一度寝つこうと目を閉じたが、瞳のことが頭から離れない。いつまでも瞳のことを考えてしまう。…かわいいし、成績優秀だし、優しいし、スタイル良いし、完璧じゃん?冷静に考えて、あんな美少女が自分と仲良くしてくれてることに感謝しないといけない。子供の頃からよく一緒に遊んでたし、この前だって一緒にショッピングしたし、今だって旅行の計画を立ててる。……待てよ⁈
 望夢は目を開いた。もしかしたら瞳、おれに気があるんじゃないのか⁈そうだ!そうに決まってる!小さい頃から仲良いし、向こうからお出かけに誘ってくることもよくあるし!
 そう確信した途端、望夢は自信が溢れてきた。瞳がおれの運命の相手なんだ!運命の人はずっとそばにいたんだ!あー早く瞳と付き合いたい!彼氏になりたい!いつ告白しよう⁈いや、待つ必要はない!時間は充分積み上げてきた!おれたちには友情も信頼もお互いを想う気持ちもある!すぐにこの気持ちを伝えよう!旅行のときに、サプライズで瞳に告白するんだ!喜ぶだろうなー!
 もうしばらく異性に告白していなかった望夢に、この夜、闘志がみなぎった。



 それから2日後。時刻は朝8時。
 望夢は玄関でリュックに着替えや飲み物を詰め込んだ。いつもよりちょっとオシャレな服に身を包み、首には以前瞳とショッピングしたときにお土産でもらったネックレスを下げている。異性2人と出かけるのだから、さすがにダサい格好はできない。もちろん、髭や鼻毛もきっちり処理していた。これでバッチリ!告白の準備は整った!
「望夢!」母親がリビングから出てきた。手には小さな箱を持っている。「これ持っていきなさい!怪我したときのために」
 母親が持ってきたのは絆創膏だ。まったく、自分がいくつになっても心配性だな。でもあるに越したことはないか。
「おう。ありがとう」
 望夢は受け取ってリュックに押し込んだ。
「あと、モバイルバッテリー持った?非常食は?そうだ懐中電灯も!」
「母ちゃん!心配し過ぎ!千葉に1泊2日するだけだから大丈夫だよ!」
「そんなこと言ったって、あんたしょっちゅうおかしなことに巻き込まれるでしょ?この前お友達が刺されたのもそうだし…」
「まあな…でももう大丈夫だよ!多分!」
 もう亜久間との契約は終わっているから、さすがに面倒なことは起きないはずだ。あとは、いつ記憶を消されるか待つのみ。いざ消されたら、そんな実感はないだろうけど。
 そこで親父が階段を下りてきた。
「もう出る時間か?気をつけてな!それしても、望夢が女の子と出かける日がくるなんてな!」親父はからかうように言った。
「おい、本郷もいるし、そんなんじゃないって!友達とのお出かけ!」
「でも泊まりだろ?もしかしたらあるかもしれねえから、“アレ”持ってっといた方がいいんじゃねえか?」
「ちょっとあなた!イヤらしいわよ!」母親は叱り飛ばした。
「なんだよ?男にとっちゃ絆創膏とか非常食と同じくらい大事なもんだぜ?」
「いい加減になさい!望夢、まだ子供なんだから、余計なことしちゃダメよ⁈」
 親父はまた言い返した。「何言ってんだ⁈もう高校卒業したんだから、そういう経験あってもいいじゃねえか!」
「大事なのは歳じゃありません!中身が大人かどうかです!」
 望夢は苦笑いしながら二人の言い合いを聞いていた。いつもの言い合い。お互いに自分を気にかけてくれてるからこそ対立するのはわかっている。
「とにかく、行ってくるよ!明日の夜に帰る!行ってきます!」
「「行ってらっしゃい!」」
 さっきまで言い合いなんかしてなかったかのように、二人は一緒に望夢を見送った。
 望夢は瞳の家のインターホンを鳴らした。すると、瞳のお父さんが玄関から顔を出した。
「おはよう本橋くん」
「おはようございます!」望夢は丁寧に頭を下げた。
「瞳はちょっとお化粧に時間を費やしてる。もうすぐ出るから待っててくれ」お父さんはニヤリとした。
「はい!ゆっくりでいいですって伝えてください!」
「悪いね。それから、瞳のこと、よろしくお願いします」お父さんは会釈した。
「こ、こちらこそ!」望夢は少し動揺して頭を下げた。
「しかし、ずいぶんと立派になったな望夢くん!」お父さんは望夢をまじまじと見た。
「いやー、それほどでも!」望夢は頭をかいた。
 お父さんは笑った。「じゃあもう少し待っててくれ」と言って扉を閉めた。
 ものの5分で、瞳は姿を現した。
 花柄のワンピースにデニムのジャケットと、滅多に見ない組み合わせの服装だ。髪にはパーマをかけたようで先端が跳ね上がっている。化粧にも結構時間をかけたのが見て取れる。なんというか、凄くかわいい。
「おはよう!待たせてごめんね!」瞳は大きめの肩掛け鞄を後ろに回しながら言った。
 望夢は首を振った。「全然平気!むしろ急かしちゃってたらごめん!」
「そんなことないよ!もうほぼ準備できてたから!行こう?」
「おう!」
 望夢はかなりルンルン気分で瞳の隣を歩いた。もう何度も会ってるし毎日のように一緒に登校してたのに、なぜか今日は新鮮な気分だ。
 二人は電車に乗り、池袋駅で玲奈と合流した。玲奈はジーンズに半袖の上着に小さなリュックサックといったラフな服装だ。三人は電車を乗り継ぐこと3時間、東京都を抜けて千葉県に入った。
「とうちゃーく!」瞳は元気よく電車を降りると、思いっきり空気を吸った。「ふあ~!空気がおいしい!やっぱり東京の空気とは違うね!」
 玲奈も隣で深呼吸した。「なんていうか、自然な香りがするね。汚染されてない綺麗な空気だ!」
 望夢はフラフラしながら電車を降り、柱に手をつけると、二人とは違う深呼吸をした。
「望夢、大丈夫⁈」瞳が駆け寄った。
 望夢は大丈夫と首を振った。「酔っちまった!はははは!」
 二人は望夢の具合が良くなるまで待ってくれた。女子2人を待たせてみっともないぞ自分!と望夢は責任を感じた。
 数分後、玲奈は地図を開いた。
「今いるのがここ。赤丸がついてるところが面白そうなスポット。予め決めてから行こうと思ってたけど、色々あって急遽行くことにしたから、今から決めよ?」
「おっけー!今時間は…11時か。ホテルのチェックインは何時だ?」と望夢。
「17時だよ!旅館はあたしが取ったから!サイトに載ってた温泉の画像、かなり良さげだったし!」瞳が得意げに言った。
「お!サンキュー!そりゃ楽しみだな!」
 望夢は申し訳なくなった。玲奈が観光予定地を決め、瞳が旅館を予約してくれていたことをこのとき初めて知った。自分は何もしていない。まだまだ未熟だ。
「じゃあ、どこ行く?」玲奈は地図を指差した。
 赤丸は全5か所。牧場、植物園、滝、映画の撮影地だ。
「どこ行く?」
 望夢は、旅館の予約も予定地も二人任せで、自分は何も力になっていないことに責任を感じ、選ぶ権利はないと判断した。
「二人で決めちゃって!は~まだ酔いが残ってる」
 望夢はゴクゴクと水を飲んだ。
「そう?瞳はどこがいい?」玲奈は地図を指して促した。
「うーん、じゃあ植物園がいいかな?」



 瞳の好みで、植物園に行くことにした三人は、バスに乗った。およそ20分で目的地に到着した。
 瞳と玲奈は見渡す限りの花々を見て「きれーい!」と目を輝かせ、写真を撮っていた。望夢は正直植物なんてどうでもよくて、瞳にどう気持ちを伝えるかで頭がいっぱいだった。
「あたしトイレ行ってくる」瞳は二人にそう告げて一人トイレに入っていった。
 望夢は腹を割ることにした。恥ずかしいけれど、玲奈に告白のことを話して、二人だけの時間を作ってもらおうと思ったのだ。
「なあ本郷、聞いてほしい…」
「ん?」
「実は…ー」
「ひょーー!コクハク!」予想通りテンションぶち上げの玲奈。
「しー!聞こえるだろ!」望夢は制した。「だからさ、おれと瞳が2人きりになれるように協力してもらえないかな?」
「うん!いいよ!応援する!」
 ここで瞳が戻ってきた。「お待たせー!何盛り上がってんの?何の話?」
「いやー別に…」と望夢がごまかそうとすると。
「ううん!何でもない!今度はうちトイレ行ってくるね!」と言って玲奈は立ち上がり、望夢に目配せしてトイレに入っていった。
「え、ちょっ…」今じゃなくていいよ!と望夢は言いそうになったが、それでは瞳に勘づかれて台無しだ。仕方ない。
 …望夢は困った。何て言おう?
「なあ、瞳はどんな花が好きなんだ?」と訳もなく尋ねる望夢。
 瞳は首を傾げた。「ん?あたしはー、サザンカかなー?」
「サザンカかー!綺麗だよな!」
「うん!望夢も好きなんだね!」
「お、おう!」いや、サザンカってどんな花だ?見たことねー。
 望夢はもじもじしながら辺りを見回した。すると、ちょうど真後ろにサザンカがあった。
 …これ、上げたら喜ぶかな?
 望夢はサザンカの花を一つむしり取ろうと手で掴んだ。するとそのとき、あるトラウマがよぎった。幼稚園の頃、瞳に花を差し出しながら大好きって……あーーー‼︎望夢のサザンカを掴む手がブルブルと震えた。
 目の前のユリの花に気を取られていた瞳は、震える望夢に気づくのに時間がかかった。
「ちょっと望夢!展示品の花に触っちゃダメだよ!」
「あー‼︎ごめんなさい‼︎」望夢は直ちに花から手を離すと、突発的に頭を深々と下げて謝った。
 瞳は「いや…そんなに謝んなくても…」
 女子トイレからこっそり見ていた玲奈は見かねて、「お待たせー」と出てきた。
「お帰り」と笑顔で返す瞳。
「じゃあ、行こっか?本橋くん、“調子”悪いの?平気?」玲奈はわざと意味深に尋ねた。
 望夢はありがたさよりも焦ったさを感じた。「いやー、急に腹がムカムカして頭がジンジンいてーよ」
「大丈夫?」瞳が本気で心配した。「トイレ行く?」
 望夢は余計な心配をさせては不味いと思い、首を振った。「いや、バスの酔いのせいだ。しばらく歩けば治るよ」
「そう。良かった」瞳はすんなり納得した。
 玲奈はニヤリとした。「そっか。次の場所ではスッキリできるといいね。行こ?」
 瞳と玲奈はまた楽しそうに歩き出した。望夢は自分の意気地の無さと玲奈の猪突さに歯ぎしりした。



 植物園を充分に堪能したかわいい二人とヘタレ一人は、続いて映画の撮影地に向かった。
 バスを降り、山道を歩いていくと、中腹に拓けた空間があった。円形のベンチや子ども用のアスレチックが設置されている。一番高い場所からは町が一望でき、圧巻の風景だ。
「ここここ!」玲奈はスマホの画像と高台に置かれたベンチを重ね合わせた。
「ほんとだ!」瞳が叫んだ。「あそこで、主人公がヒロインにプロポーズしたんだよね?」
「そう!だからここ、カップルには人気なスポットなんだって!ここに来れば恋が叶うって言われてるの」
「恋か…!叶えてー!」望夢が叫ぶと、その声が山彦となって響いた。
「まだしばらくは無理じゃない?へへへ!」と笑う瞳。
「なんだとー⁈」といつも通りツッコむ望夢だが、このときは本当にそんな気がして無理矢理作り笑いをした。
 玲奈も笑った。そしてここでまた行動に出た。「うち飲み物もう少ないから、自販機で買ってくる!」
「うん!いってら!」と言って瞳はスマホでスポットの写真を撮り始めた。
 玲奈は望夢に拳で“ファイト!”と告げて自販機に向かった。
 だから早いってば!望夢はまたうんざりしながら、しぶしぶ瞳に目を向けた。
 瞳はベンチの左端に腰かけ、町の風景を写真に収めている。…これは行くしかない!
 望夢はドキドキする気持ちを抑えながら、しれっとベンチの右端、瞳の隣に良い姿勢で座った。
 瞳はスマホを下ろして望夢を見やった。「?どうしたの?そんなにかしこまっちゃって?」
「え⁈あ!いや別に!」望夢は慌てて姿勢をくた。
 瞳は笑ってまた目の前の光景に目を移した。「良い眺めだよね!つい背筋が伸びちゃうのもわかるよ」
「あ、ああ…だな!」何か言おうと思ったがそれ以上言葉が思いつかなかった。
 瞳は夢中で何枚も写真を撮っている。おれも撮るか…。と思って望夢のスマホを取り出した。そして思いついた。
「なあ、瞳。あのさ…よかったら、景色バックにして写真撮らない?」そう言いながら望夢は自撮りモードに切り替えた。
 瞳はスマホを構えたまま、「いいよ!」と返事した。
 よっしゃあ!と内心喜んだ望夢だが…
「じゃあ玲奈が戻ってきたら3人で撮ろっか!」
「……。うん!そうだな!それがいいな!」そうじゃないんだよなー。
 望夢は自販機の方を見た。玲奈は何を買うか迷う振りをしながらこちらを見張っている。望夢と目が合った玲奈は、“ハートを届けろ!”とジェスチャーした。
 望夢はゴクッと唾を飲んだ。景色に夢中な瞳を上から下まで見ていった。そして、スマホを持っていない方の左手がベンチに添えられているのに気がついた。
 …よし!こうなったら!…
 望夢はゆっくりと手を伸ばして瞳の手を握ろうとした。玲奈は息を潜めてソワソワしながら見守っている。望夢は自分の中で鳴り響く鼓動に耐えながらスルスルと手を近づける。もう少しで手が触れる!っていうところで一旦ストップした。そして改めて覚悟を決めると、瞳の手に触れ、そして完全に自分の手を被せた。
「⁈」驚いてスマホを下ろす瞳。見ると、自分の手が握られている。その腕を伝って、望夢の顔を見た。「…⁇」
 見つめ合う二人。気まずさも相まって望夢の緊張はマックスだったが、ここまで来たら引き下がるわけにはいかない!
 望夢は意を決してこう言い放った。「瞳、好きだ‼︎」
「えっ⁈」さらに驚く瞳。
 その表情では喜んでいるのか嫌がっているのかわからず、望夢はもう一度言った。「…だから…好きなんだ‼︎瞳、おれと付き合ってくれないか⁈」
 見つめ合う二人。漂う沈黙。吹き荒ぶ風。見守る玲奈。
 しばらく望夢の顔を見つめていた瞳は、気まずそうに握られている手を引っ込めた。
 …?望夢は嫌な予感がした。これはもしや……
「ごめん、それは無理」予想的中だ。瞳は申し訳なさそうにうつむいた。
 がーん‼︎望夢は絶望した。「ダメ…か…」
「ごめん‼︎望夢のことは嫌いじゃないよ!でも、無理なの!付き合うのは、なんか違うの!ごめん!」
「なんか違うって、どう違うんだ⁈おれじゃダメなのか⁈」
「ダメっていうか、つまり……その…恋愛感情はないの!」
「えーーーー‼︎」望夢はムンクの叫びの顔でムンクの叫びを唱えた。
 玲奈は困った。どうしたらいい⁈出ていってフォローするべき⁈それとも邪魔しない方がいい⁈どうしよう⁈
 瞳はブンブンブンブン首を振った。「無理なのーーー‼︎」
「何でだよーーー⁈おれ、もう覗きはしてないしエロ本も読んでないし女の子に無闇にコクるのもやめたしー」
「だから良いってもんじゃないのー‼︎それが普通なのーーー‼︎」
 ダメだこりゃ!仲裁に入ろう‼︎玲奈はすっ飛んでって「お待たせーーー‼︎迷いに迷った挙句結局何も買わなかったーーー‼︎あはははは‼︎」
 つまらない話で場を和まそうとする玲奈だが、納得できずに問い詰める望夢と質問攻めで取り乱す瞳にはまったく効果がなかった。
 結局、しばらくして言い合いは止んだものの、三人無言で山道を下り、バス停に戻ることになった。バス停に着いても、望夢と瞳は距離を取って立っていた。玲奈だけが椅子に座ってバスを待った。
 時計を見た玲奈は、二人にボソッとこう告げた。「チェックインできる時間だし、今日はもう旅館行こ?二人とも疲れてそうだし、うちも疲れた…」
「そうだな」と望夢。
「だね。行こ」と瞳。
 二人は会話しなかったが、気持ちは同じだった。



 旅館に着くと、予約した瞳がチェックインの手続きをした。その間に、望夢と玲奈は荷物を部屋に置いた。
 当然だが、三人とも同じ部屋で予約を取っていた。二人きりではなく玲奈もいるとはいえ、望夢は気まずくて仕方なかった。
 望夢は荷物を置くと、立ち上がって玲奈にこう告げた。「おれ、ちょっと散歩してくるよ。もっと外の空気吸いたい。先に風呂とか食事、済ませてていいよ」
 望夢は返事を待たずに戸口に向かった。瞳が入ってくる前に出たかったのだ。
「そう。いってらっしゃい」玲奈は望夢の気持ちを察しており、止めなかった。
「おう」望夢は背中で返事すると、旅館内をぐるっと回って瞳と鉢合わせないように出入り口に向かった。
 チェックインを終えた瞳は、最短ルートで部屋に来た。
「お待たせ。あれ?望夢は?」
「散歩してくるって言って出ていったよ」玲奈は浮かない顔で答えた。
「そう…」瞳は釈然としない気持ちで荷物を置いた。「…あたしのせいなんだ…」
 玲奈は瞳を見た。「そんなことないよ。瞳は悪くない。誰だってフラれた直後はああなるよ」
「見てたの⁈」
「見てたよ!」玲奈は当然じゃんと言いたげに笑った。
 瞳は顔を曇らせた。「もう気まずくてさ、どうしたらいいかわかんないんだよねー!まさか旅行中に、しかも初日で告白してくるなんて思ってもないもん!」
「……そ、そ、そうだね!タイミングが悪いよね!」自分が急かしたなんて間違っても言えない。ごめんね本橋くん。
「どうしよう?望夢、話してくれる気なさそうだし」
 玲奈は責任を感じ、望夢を急かしたのは自分だから、せめてもの償いをしたいと思った。「瞳はどうしたいの?このまま気まずい空気で明日帰る?」
「それは嫌だな。家近いから、帰りずっと一緒だしこれからも付き合い続くし」
「だよねー。じゃあ、うちから本橋くんに話伝えるね。瞳がこの旅行を楽しみたいから、仲直りしたがってるって。本橋くんも気まずいだけで、話したくないってことはないと思うし」
「だといいな。ありがとう玲奈!」
「いいよ。三人の旅行だもん。うちも楽しみたいからできることしたいし」
 玲奈はそう言うとスマホを持ち、望夢にメッセージを送った。
 望夢からの返信はすぐに来た。
『旅館の前の広場のベンチにいる』
 近い。どうやら散歩に行くと言うだけ言ってほとんど歩いてないようだ。
「近くにいる。直接行って話してくるね!」
 玲奈は瞳にそう告げると、颯爽と旅館を出た。
 出てすぐに、ベンチにしょんぼり腰かける望夢の姿が視界に入った。玲奈はおもむろに近づいていって隣に座った。
「大丈夫?」玲奈は優しく尋ねた。
 望夢は首を下げた横に振った。
「元気出しなよ!本橋くんらしくないよ?フラれたら誰だって最初は落ち込むもんだよ!絶交じゃないだけマシ」
 望夢はゆっくりと顔を上げた。言葉が効いたか⁈と玲奈は期待したが、望夢は背もたれに寄りかかっただけで顔は暗いままだった。
 しかし、素直に話してくれた。
「…おれ、バカだったよ。瞳の彼氏になれるもんだと思い込んで舞い上がってて。でもそんなはずなかった。瞳がたまたま幼馴染で、たまたま美人なだけで、おれの恋人になる確証なんてないもんな。本当にバカだ、おれ…」
 玲奈は真剣な顔で聞いていた。「いつから瞳のこと好きだったの?」
「昨日の夜。好きかもって思った。それからずっと瞳のことばっかり考えるようになった」
「昨日⁈昨日自分の気持ちに気づいて告白しようと思ったの⁈早過ぎ…」
「だよな。今になって自分でも思ったよ。バカかっつーの!」
 望夢は地面を蹴った。望夢は自分のマヌケさに開き直り、今なら絶賛何でも打ち明けるモードに切り替わっている。
「どうして、そんなに急に告白しようと思ったの?」
 望夢はため息をついた。「つい最近まで、おれはある人、いや、人じゃない、天使だ、悪魔みたいな天使、そいつから愛について教わってたんだ!あんな女の子追いかけてばかりいたおれに、突然現れたんだよそいつは!最初はおれも疑ってかかってたけど、でもそいつが教え込んでくれたことは全部本物だった!だからおれは過去の自分を捨てて、今のおれになれたんだ!その天使からも、もう充分成長したって言われて、おれ有頂天になっててよ!思っちまったんだよ!これは運命だと!愛の天使様が、おれと瞳を結ばせるために舞い降りたんだったって!あいつはおれと瞳の愛のキューピッドなんだって、そう思い込んじゃったんだよ!あーーー‼︎」
「……」
 長々と嘘くさい話を綴る望夢に呆気に取られる玲奈。話が半分も理解できないが、まあ要するに有頂天になって瞳に告白すればイケんじゃね?って思い込んだのだろうと解釈した。
「そうだったのね…。仕方ないよ!あるある!瞳は男女構わず仲良い人にしつこいから。男子が勘違いしてもおかしくないもん。うん」
「かー…」望夢はもう力が抜けていた。「…おれは愛の天使から英才教育を受けたわけじゃなかった。出来損ないだったおれを、まともな人間にしてくれただけだった。人として、男として、やっとスタート地点に立ったってだけなんだ…」
 望夢は両手に顔を埋めた。
 玲奈はそんな望夢をかわいそうに思った。「良かったじゃん。ちゃんとそのことに気づけて。フラれるっていうのも、恋愛では大事な経験だから」
 望夢は悟ったように顔を両手から上げた。「そっか…フラれるって、こういうもんなんだな…」そして今度は空を見上げた。「おれ、何人もの女の子にコクってきたけど、あのときはこんなに辛くなかった…。ただただ欲に任せて声かけまくってただけだった。告白ってものの重さをまったく理解してなかったなー…」
 玲奈はその言葉を聞きながら、望夢の頬を雫が伝っているのに気づいた。
 望夢は目を拭った。「こんなことになるなら、告白なんてしなきゃよかったよ。そうすれば、瞳との関係を壊さずに済んだのに…」
 望夢はぐりぐりと目元を擦った。
 玲奈は同情しながらも、微笑んだ。「あるある!フラれたら、告白なんてしなきゃよかったってみんな思うもんだよ。でも今回の場合、そこまで気にする必要ないよ?瞳が仲直りしたがってるの。せっかくの旅行だし、三人で楽しみたいって。だから、部屋に戻って瞳と話さない?」
 望夢はこれでもかと目元を拭うと、赤らんだ目でぎこちなく頷いた。



「ただいま」と言って玲奈は部屋に入った。
「お帰り」瞳は待ってましたとばかりにスマホを置いた。
「いやー散歩したらスッキリしたぜ!」望夢は鬱憤をごまかすつもりで声を荒らげて入ってきた。
「お帰り望夢」瞳は優しく声をかけた。
「おう!」望夢は悠然と頷いた。
 脚の短いこたつ型のテーブルを囲んで、瞳の向かい側に望夢、二人の横目の位置に玲奈が座った。
 …おれのせいだ。全部自分のせいなのに、瞳はおれに向き合う時間を作ってくれてる。本郷も関係ないのに迷惑かかってるし。もっとしっかりしろ自分!
「望夢と話して…」と玲奈が言いかけたが。
「瞳、ごめん!」と望夢は勢いよく頭を下げた。おかげでゴツン!とテーブルにおでこを強打したが、望夢は気にせず詫びた。「おれの考えが浅かった!瞳が友達として仲良くしてくれてるのに、おれは自分の気持ちだけで動いてた!本当にごめん‼︎」
 望夢はまたテーブルに頭を打ちつけた。
 深刻な空気、かと思ったら瞳はクスクスと笑っている。玲奈もつられて笑った。望夢はおでこをテーブルにつけたままハテナマークを浮かべた。
「そんなかしこまんないで!望夢!」瞳は慰めた。「考え過ぎだよ!そこまで気にしなくていいから!」
 望夢はのったりと顔を上げた。「…でも、おれのせいでこんなめんどくさいことになってるし…」
「望夢のせいじゃないよ!フラれたらそりゃ誰だって気にするよ!ねぇ玲奈?」
 玲奈はうんうんと頷いた。
「むしろ責任あるのはあたしだよ。まさか望夢が告白してくるなんて思ってなかったから、どう言えばいいか迷っちゃって、言い方が悪くなっちゃったし」
「全然!瞳は問題ないよ!おれが素直に聞いていれば喧嘩にならなかったんだ!」
「いや、喧嘩じゃないよ!あたしが悪いんだよ。これまで告白されたときと同じ感じで返しちゃったし…」
「そっか。いやおれだよ!おれが経験不足だから!」
「はい!そこまでー!」玲奈が仲裁に入った。「このままじゃ終わらないよ!話すこと話して、喧嘩しないで仲直りしよ?」
「「だから喧嘩じゃないって‼︎」」望夢と瞳は声を合わせた。
「ごめんなさい」玲奈は縮こまった。
 望夢と瞳はまた見合った。
「とにかく、ごめん」望夢はさらに頭を下げた。
「あたしもごめん」瞳も頭を下げ、顔を上げると改めて話し始めた。「あたしね、望夢とは友達でいたいの。あ、友達って言っても、もちろんただの友達じゃなくて、大事な友達として。親友として」
「親友…」
「そう。望夢のことは嫌いじゃないの。むしろ好きだよ。でも、恋愛感情とは違うの。ただの友達以上の気持ちはあるけど、恋愛とは違うの」
「そうか…」望夢はまだもどかしさはあるものの、これ以上迷惑をかけたくはないし、自分も大人にならなければいけないと思い、自己欺瞞することにした。「…ありがとう。これからも、友達でいてくれ」
 瞳は大きく頷いた。
 玲奈はほっとした。「じゃ、これにて解決だね!よかった!」
「はー!スッキリした!」瞳も胸を撫で下ろした。
「だな」ずっと正座していた望夢は姿勢を楽にした。「てか瞳って、やっぱりコクられること多いんだな?」
「まあね。もう慣れたけど、最初のうちは振り方に困って大変だったの。下手に断ると、付きまとってくる人もいるから…」
 望夢はまた責任を感じた。付きまといはしなかったものの、自分が瞳を困らせていたことには変わりない。
「うちはよくそれで相談受けてた」玲奈はにんまりと笑った。「モテるのも大変だね」
「別にモテないけどね」瞳はニヤリとした。
 望夢は両手を枕にしてゴロンと寝そべった。「おれにはわからない話だぜ」
 三人は笑った。数分前までの不穏な空気は、もうすっかり消えていた。
「というわけで、メインの温泉、行かない?」玲奈が待ってましたとばかりに切り出した。
「おーそうだった!」「行こ行こ!」望夢も瞳も一気にテンションが上がった。



「「「え⁈混浴⁈」」」浴衣を両手で抱えた望夢、瞳、玲奈は叫んだ。
「はい」女将は泰然として答えた。「当旅館は設立時から混浴でございます」
「瞳!知らなかったの⁈」玲奈は怒り混ざりの声で尋ねた。
「あー…。ごめん!写真で決めちゃった!サイトにあった画像が綺麗だったから!それで他のとこより安かったんだ…」
 玲奈はやれやれと首を振った。しかし一番気まずいのは望夢だ。女友達2人と混浴なんて、(興奮するけど)申し訳ない。
「ただ、今晩は他に宿泊客がいませんので、人目を気にする心配はいりませんよ?ゆっくり楽しんでくださいな!」
 女将は和やか表情で一礼すると奥に引っ込んだ。
 三人は顔を見合わせた。「無理だな!」「無理だね!」「無理よね~」
 漂う気まずい空気。しかし望夢は閃いた。ここは自分が気を遣うべきときだ!
「ちょうどいい!おれ、走ってくるよ!まだ動き足りないし、汗かいた方が温泉気持ちいいだろうし!」
「いいの?」瞳は申し訳なさそうに聞いた。
「平気!後でゆっくり入るから、まずは二人でゆっくり入りな!おれは2時間くらい運動してくるよ」
 そう言いながら望夢は部屋に戻っていった。
 瞳と玲奈は顔を見合わせると、望夢の気遣いに感謝して先に温泉を満喫した。
 瞳と玲奈、次に望夢の順番で温泉を満喫すると、浴衣を着てまあまあ手の込んだ旅館の夕食を取り、布団の上でスマホゲームをしたり、テレビを観たりしてここでの時間を存分に楽しんだ。
 夜中になると、望夢は大きないびきをかいて真っ先に寝落ちた。
「望夢、寝ちゃったね」瞳は赤子のようによく眠る望夢を見つめた。
「疲れたんだろうね。明日大丈夫かな?」
「今のうちに寝ておけば大丈夫でしょ?そうだ、明日どこ行く?」
「うちも考えてたの。明日の朝、三人で決めない?」
「そうしようか。でもさ、よく考えたら、女子二人に男一人じゃん?あたしたちがもっと気遣うべきなのかも。今日あんま楽しそうじゃなかったし…」
「たしかに。言われてみれば」
 二人は一番奥の布団でいびきをたてる望夢を見た。
「じゃあさ、」玲奈はこう提案した。「本橋くんの意見を優先で行き先選ぶのはどう?うちらはどこ行っても楽しめるし。本橋くんが好きな場所なら、三人で楽しめるんじゃない?」
「そうだね!そうしよう!明日の朝、望夢に行きたい場所聞いて決めよう!」
「オッケー!」
「「おやすみ!」」
 こうして、二人も床に着いた。



 翌朝、三人は浴衣を着替えて、朝食を取ると、テーブル上で地図を開いた。
 玲奈がそれを指差して説明する。「まだ行ってないのは、ここの滝と、あと牧場。どっちがいい?」
「昨日はあたしたちが決めちゃったから、望夢が決めていいよ」瞳は打ち合わせ通り望夢に促した。
「おれー、どこでもいいよ!」と望夢は言った。二人に色々任せてしまった上に、昨日もあんな迷惑をかけてすまったから、自分には決める権利はないと思った。
「え?遠慮しないで!行きたい場所言っていいよ?」玲奈は強く催促した。
「いや、まじでどっちでもいいよ!どっちが先でも両方行く時間あるし?」
「それは、まあね」玲奈は瞳に目配せした。
 瞳は小さくを首を傾げた。
「じゃあ瞳、どっち先行く?」
「あたし⁈じゃー、滝!」
 瞳の意見で、三人は滝を目指した。移動中のバスの中、望夢の前の席に座る玲奈は隣の瞳に耳打ちした。
「本橋くん、選んでくれなかったね。どっちにも興味なかったのかな?」
「かもね。望夢は迫力あるものが好きだからね。あの中で一番それっぽいのは、滝かなって思ってそれにしたんだけど」
「なるほどね。ほとんどほのぼの系のスポットしかないから、本橋くんにとっては期待外れかも?かと言って男1人だから、うちらが決めちゃうと連れ回してるみたいだし…」
「だよねー。せめて望夢の意思を優先させてあげたいよねー。とりあえず、身勝手な行動はしないように気をつけよ!」
「そうだね」
 後ろの席で自分の名前を聞いた気がした望夢は不安になった。…期待外れ?…身勝手?…そうか、おれのことを愚痴ってるのか!……無理もないか。こんな男でごめんなさい。そもそも女子2人に男1人だもんな。ここは二人に合わせるべきだ。これ以上印象は下げられない。望夢はそう思い、イヤホンをつけてボリュームを上げた。



 望夢はまたバスに酔い、二人に介抱された。それから三人で滝を目指して歩いた。
 滝までは山道になっており、足元が不安定でいつ転んでもおかしくない。望夢は思った。ここはノコノコと二人の前を歩かず、真後ろを着いていこう。いつどちらかが(特に瞳が)転んでもすぐに受け止められるように。よし!
「おれ、歩くの遅いから後ろ歩くよ!気にしないで前歩いてくれ!」
 二人はキョトンとしたが、言う通りした。そしてまたこそこそ話。
「歩くの遅いって、いつもそんなことないのに。一緒に歩いてて、ウザがられて先に行かれたこと何度もあるよ?」瞳は望夢をチラ見しながら囁いた。
「やっぱりおかしいよね…。もう疲れたなんてことないだろうし」玲奈も首を捻った。
「フラれたこと、まだ引きずってるのかな?というかそもそも温泉にしたのがまずかったかな?遊園地とかの方がよかったかも…あたしバカだ」
「うちの責任でもあるよ。ごめん…」
 二人の話はまた断片的に望夢の耳に届いていた。
 …ウザい?…疲れた?…バカ?…責任?…いったい何を話してるんだ?…もしやー
『まじこの坂道ウザいんだけどー!』
『ねー!疲れたら足滑らせそう!』
『あのバカちゃんと受け止めてくれるかな~?』
『怪我したらあいつの責任だから!』
 って感じか⁈ひえーーー!ごめんなさいごめんなさい‼︎絶対受け止めます‼︎
 二人は望夢をチラ見した。
「なんか微妙な距離空いてるね…?」
「うちらが歩くの遅めて合わせるべきかな?」
 そこで二人はさりげなく望夢に合わせて歩速を下げた。
 そのとき、望夢の目の高さで蜂がブンブン飛び回った。
「うわっ!あっちいけ!邪魔だ!」
 蜂はすぐにに飛び去り、望夢は宙を睨んだ。
「…⁈あっちいけ?ってあたしたちのこと?」瞳はふてくされた気分になった。
「邪魔って言ったよね?さすがにそれはないでしょ…」玲奈も顔をしかめた。
「まあ、いいや。滝の音聞こえてきたね?行こ!」
 瞳は大きく足を踏み出した。すると滝が近いためか斜面が湿っており、瞳は足を持っていかれた。
「いやっ‼︎」瞳は叫んで尻もちをついた。
 蜂に気を取られていた望夢は動くのが遅れ、慌てて駆け寄り瞳の肩を持った。
「瞳‼︎大丈夫か⁈」
「大丈夫⁈」玲奈も手を差し出した。
 瞳は恥ずかしそうに笑った。「あははははは!ドジったー!ごめん、無駄に大声出しちゃった」
 瞳はお尻をさすりながら二人の支えを借りて立ち上がった。
 望夢は勢いよく頭を下げた。「ごめん‼︎後ろにいながら受け止められなくて‼︎ほんっとにごめん‼︎」
 玲奈はキョトンとした。さっきは邪魔って言ってたのに、いきなり謝るなんて…。情緒不安定なの⁇
 瞳もポカーンとした。「は?なに急に⁈別に受け止めてもらおうなんて思ってないよ!」
 瞳は気遣って言ったつもりだが、完全に言葉の綾だった。望夢は見限られたような気分だった。…そもそも期待されてなかったおれ…。
「まあまあとにかく!瞳に怪我がなくて良かったよ!」玲奈は微妙な空気を宥めようとした。
「ね!心配させてごめん!じゃあ、滝見に行こ?」
「うん!」と玲奈。
「はい…」と望夢。
 苦労してたどり着いた滝は立派なもので、横幅10メートルくらいはあろう、見事な自然の芸術作品だった。太陽光の反射で虹もかかっており、それが美しさを際立たせるアクセントになっている。
「綺麗ー‼︎」瞳は感度しながらスマホでパシャパシャ写真を撮りまくった。
「来た甲斐があったね!」玲奈もスマホを向けた。
「よし!今度は三人並んで撮ってもらおう?…あれ?望夢は⁈」
 二人は周囲を見回して、驚愕した。望夢は手すりから身を乗り出し、滝から分離して落ちてきた水に頭を打たせていた。周りの人たちは動揺しながらそんな望夢を写真に納めている。
「ちょっと‼︎望夢何やってんの⁈」瞳は慌てて望夢を引き寄せた。
 望夢の顔はびしょびしょでくしゃくしゃだった。「んあー、頭冷やしてたのー」
「もーバカ!恥ずかしいからやめてよー!」
 玲奈はそんな二人を見てやれやれと首を振った。

 望夢はベンチに座り、タオルで頭を拭いた。その間、瞳と玲奈は地図を覗き込んでいた。
「どうする?本橋くん、あんまり楽しくなさそう…」
「なんかおかしいよね?昨日の話し合いで納得できてないのかな?望夢も楽しめそうな場所ってどっかある?」
「うーん…牧場も迫力ないし、また探さないとね…」
「たしかに。そしたらー…」
 瞳は風呂上りのおっさんのような望夢を見て考えた。「…そうだ!映画!映画観に行かない?まだ時間あるし!それなら望夢も楽しめるじゃん⁈今望夢が好きなやつの新作やってるし!」
「んー、でもせっかく千葉まで来て映画観るのはおかしくない?」
「だとしても、望夢が楽しめないんじゃかわいそうだし。三人で楽しめるなら、それでも良くない?」
「…そうだね」
 瞳は望夢に向き直った。
「望夢、思ったんだけど、ちょっと路線変更して映画でも観にいかない?望夢が好きな『ダンシング・ウェポン』なんてどう⁈」
 瞳は満面の笑みで提案したが、望夢は首を傾げた。
「え、せっかく千葉まで来て映画観るのはおかしくない?」
 わりかし意見の合う玲奈と望夢。今回は凶と出た。瞳は真顔で近くに置き捨てられていた空き缶を拾うと、いっぱいに滝の水を注ぎ、望夢の頭の上に持ってきてひっくり返した。怒り任せに缶を思いっきり握り潰したものだから水は勢いよく噴射され、望夢は再びびしょ濡れになった。
「ちょっ!おい‼︎何すんだよ⁈」望夢は顔を拭いながら立ち上がった。
 睨み合う二人。玲奈は止める術もなく、ただ見守ることしかできなかった。
「……もういいよ」瞳は望夢に背中を向けた。「あたし先に旅館戻る。もう勝手にすれば?」
 瞳はすたすたと歩き出した。
「ちょっと瞳!チェックインまだじゃん?」玲奈は引き止めようとしたが、瞳は聞かなかった。
 望夢はわけがわからなかった。「何だよ…?おれ、まずいことした?」
 玲奈は望夢を見つめた。



 望夢と玲奈は滝のそばのお土産屋さんに入って温かいお茶と和菓子を摘んだ。一休みも兼ねて、話し合うためだ。
 話しているうちに、お互いに誤解し合っていたことをようやく理解した。
「なんだそうだったのか!てっきりおれ悪口言われてるのかと思ったよ!」
 玲奈は首を振った。「そんなことないよ。うちも瞳も悪口嫌いだから、陰口で盛り上がったりしないよ」
 望夢はお茶をすすった。「はぁー…。ごめん。二人が気遣ってくれてたのに全然気づけなくて」
「ううん。うちらもごめん。本橋くんのこと、誤解してた。瞳は、本橋くんがまだ昨日のこと引きずってんじゃないかって思ってた」
「え…。そんなつもりないんだけどな…」とは言いつつも、まだ少し振り切れない気持ちはあった。まだ一晩しか経っていないのだから、立ち直れなくても不思議ではない。
 さっきまで晴れていた空だが、このとき雨が窓を叩いていた。
「本橋くん、遠慮しなくていいんだよ?本橋くんが男1人じゃ気まずいだろうから役割押しつけるのも悪いと思って、瞳と二人で計画練ってたの」
 望夢はお煎餅をパリッと噛んだ。「なるほどね。ありがとう。でもそんな気遣いは無用だぜ?おれだって一応男だし、女の子に任せっきりってのはプライドに恥じるからな!」望夢はニヤリとして見せた。
 玲奈は吹き出した。「そういうことなら、本橋くんのこと頼らせてもらうからね!」
「おう!任せとけ!」
 窓を叩く雨が強くなる。二人は外を見た。
「雨?天気予報はずっと晴れだったのに」玲奈はそう言いながらスマホの天気予報を確認した。「…あ」
「?どうした?」望夢は玲奈のやらかしちまった顔に嫌な予感しかしなかった。
 玲奈はスマホを見せた。「うち、ずっと自分の地区の天気見てた!千葉じゃなくて!」
 たしかに玲奈のお天気アプリには「東京」と表示されている。望夢は自分のスマホで千葉の天気を調べてみた。
「…やべー!今から豪雨じゃん‼︎」望夢は玲奈に大雨のマークを見せつけた。
「瞳に伝えなきゃ!大丈夫かな⁈」玲奈は瞳に安否確認のメッセージを送った。
「旅館に行くって言ってたよな?もう着いてるだろ?雨が激しくなる前におれたちも急ごう」
 二人は会計を済ませ、急いでバスに乗った。



 およそ20分前。旅館に荷物を預けた瞳は、当然チェックインはできないので、荷物を預けてロビーで待っていた。しかしあんな離れ方をした矢先、ここで二人を待つのは気が引けた。
 適当に歩いて時間を潰すか。
 大きな荷物から解放され、身が軽くなった瞳はまた外に出た。雨が少し降っていたが、すぐに止むだろうと思い、気にしなかった。
 汐風漂う海に面した道を一人、ぼんやりと歩く。道の側面は急な斜面になっており、もはや崖と言っていい。ガードレール一つで海と道とを隔てている。このガードレールが無ければ、海に転落する人や車が後を絶たないだろう。崖はかなり高く、落ちたら命の保障はない。海自体は真っ青で綺麗だが、心に巣食うわだかまりと雨雲とこの崖のせいでとてもリラックスできない。
 …あーあ、ついやけになって、玲奈のことまでおいて来ちゃった…。あたしってほんとバカ…。せっかくの旅行なのに、台無し。そもそもは望夢が悪いんだけど。
 海沿いを散歩すれば気分が晴れるかと思ったが、むしろ逆効果。考えたくないことを考えてしまう。
 雨が強くなったように感じた。
 旅館に戻るか、と瞳は思いなおした。このままだと嫌な思い出で終わってしまうし、自分が拗ねていてはどんどん状況が悪化するだけだ。
 瞳は引き返そうと回れ右した。すると、前方から真っ赤なオープンカーが“待ちなお嬢ちゃん!”とでも言うかのごとくクラクションを連発して向かってきた。その車は瞳の前で急ブレーキで停車した。乗っていたのは男3人。全員、タンクトップやサングラス、タトゥーといったいかにもチャラそうな外見を装っている。
 ヒステリック状態の瞳に、運転席の男が声をかけてきた。「待ちなお嬢ちゃん!」
 やっぱりそういう感じだった。
「おいおいー!冷たいぜ!」「雨の中どこ行くんだい?送ってってあげようか?」「てゆーかオレらと遊ばねー?」
 瞳は無視して歩いた。男たちは車を降りて瞳の前後に立った。
「なかなかかわいいじゃねーか!顔95、スタイル80、服75ってとこ?」正面に立った男が値付けした。
 瞳は男たちを避けて歩こうとしたが、両肩と腰を掴まれて封じられた。
「まあまあホテルでも入ってゆっくり話そうぜ?」と男たちは瞳を担ぎ上げて車に乗せようとした。
 瞳はジタバタともがいた。すると振り回した手が男の額を打ってしまった。
「おい‼︎やりやがったな‼︎」男は瞳を地面に投げつけた。
 瞳は「やっ!」と呻いた。続け様に男たちは瞳の体のあちこちを触り始めた。
「大人しくしてりゃ痛い思いはしないぜ?」
 瞳は抵抗し続けた。しかし男たちは力づくで押さえつけ、怒鳴ったり叩いたりして瞳を脅してきた。
 雨がさらに強くなった。雷もどこかで轟いた。
 助けて!…助けて‼︎…
 口を塞がれて瞳は、懸命に心の中で叫んだ。
「やめろーーー‼︎」
 ここで望夢が大ジャンプして(いるかのような感覚で)飛び込んできた。両手を瞳に“優しく”添えていた男たちは望夢の不意打ちに対抗できなかった。望夢は男たちの顔面や腹に攻撃を入れ、瞳から引き離した。
 望夢は瞳に駆け寄った。「大丈夫か?逃げろ!」
 望夢は瞳を起き上がらせた。すると男が後ろから首を縛ってきた。望夢はとっさに頭を後ろに振って男の頭を殴打すると、手が緩んだ隙にすり抜けて股間を蹴り上げた。男はうろたえて倒れた。
 続いてもう一人が真正面から突進してきた。望夢は迎え撃って男を抑え込んだ。くそ!負ける!っと思いきや、格好はイキっているがかなりヒョロいこの男、あまり力がない。親父より弱い…ってことは、勝てる!いつもあのゴリラと取っ組み合いしていた成果を出すときがきた!
「サンキュー親父ー‼︎」望夢は目一杯の感謝を込めて男の足を引っ掛け、押し飛ばした。
 望夢は振り返った。「大丈夫か?」
 怯えてうずくまっていた瞳は小さく頷いた。「…う…うん、ありがと…望…夢⁈危ない‼︎」
 瞳の声に反射して、望夢は瞳を覆うように身をかがめた。まだダウンしていなかった男が隙をついて飛びかかってきたのだ。こいつはかなり力があり、瞳から望夢を引き離すと望夢の顔を力いっぱい殴った。
 殴られた望夢はくるんと回りながら止めてある車に激突し、尻もちをついた。
「望夢‼︎」瞳は叫んだ。
「おいチビ、車が傷ついたらどうすんだよ⁈」言いがかりをつけながらもう一発食らわせようと近づく男。
 瞳は怒りを抑えられなくなり、男の背中に飛びついて後ろから首を締めた。
「おい!離せ!おら‼︎」男は瞳を振り払おうと体を振った。
 瞳は辛抱強くしがみついて離れない。怒り心頭に発した男は強行手段に出た。わざとガードレールに背中から激突して瞳にダメージを与えたのだ。瞳は打ちつけられた痛みでとうとう手を離してしまった。だがタイミングが悪かった。男がまたガードレールに押しつけようとしたところで離したため、瞳はガードレールの上でのけ反るようにして真っ逆さまに落ちてしまったのだ。瞳は頭から崖に落っこちた。
 ーきゃあ‼︎ー
 声にならない叫び声を上げる瞳。
 望夢は痛みが引いてやっと立ち上がると、ガードレールから身を乗り出して「瞳ーーー‼︎」と叫んだ。
「やべえ‼︎おいお前ら、逃げるぞ‼︎」
 瞳を落とした男は慌てて車に乗り込むと、倒れている男たちを待たずに急発進させた。置いていかれた男たちは、「待ってくれー‼︎」「置いてくんじゃねー‼︎」と叫びながら車を追いかけていった。
 望夢はそんな男たちを放っておいて、ガードレールを乗り越えて瞳を探した。…居てくれ‼︎生きていてくれ…‼︎
「瞳ー‼︎どこだあ⁈」
 もう一度崖下に問いた。
「…だい…じょうぶ!」
 返事があった。望夢は身を乗り出して声のした方を凝視した。瞳は5メートルほど下で、崖から突き出る尖った石を掴んでいた。
「頑張れ瞳‼︎今行く‼︎」望夢は見下ろしながら言った。
「来なくていいよ‼︎」瞳は叫んだ。「危ないから‼︎上で待ってて‼︎」
「バカ言え‼︎見てられねえだろ‼︎」望夢はそう返しながら、恐怖を抑えて崖の下の出っ張りに足をかけた。
 瞳は足をバタつかせて這い上がろうとしたが、崖自体も雨のせいで滑りやすくなっており、思うように上がれない。おまけに手も滑る。これでは転落するのは時間の問題だ。
 いつの間にか雨が強くなっていて、地面も斜面も滑りやすくなっていた。
 瞳は必死で別の石を掴むと、思いっきり力を込めて体を引き上げようとした。しかしその石は、雨で濡れて柔らかくなった地面からスポッ!と抜けてしまったのだ。
「うわっ‼︎」瞳は叫んで、片手でぶら下がった。
 落っこちた石は回転しながら海面に落ちて小さな水しぶきを立てた。その水しぶきは打ち寄せられた波に吸い込まれた。
「じっとしてろ‼︎」望夢は落下の恐怖を抑えながら、瞳の頭上から2mくらいの位置に突き出た細い木の幹を掴んだ。そして瞳に向かって思いっきり手を伸ばした。「掴まれ‼︎」
「望夢…」瞳は目をを潤ませた。
 望夢は目一杯手を差し伸べてくれているが、明らかに届く距離ではない。
「…届かない‼︎…望夢、駄目!戻って‼︎望夢まで死なせたくない‼︎」
「おれだって瞳を死なせたくねーよ‼︎」言いながら望夢はさらに身を乗り出し、手をうんと伸ばした。
「届かないよ‼諦めて‼︎︎」泣き出す瞳。
 望夢はムッとした。「簡単に諦めんじゃねーよ‼︎芽傍の死を無駄にすんじゃねえ‼︎」
 望夢の怒号に瞳ははっとした。
「芽傍は、瞳のために死んだんだ‼︎お前に命を捧げたんだ‼︎それを無駄にしてたまるか‼︎今度はおれが、瞳を守る番だ‼︎」
 瞳は芽傍が犠牲になったあの日、あの場面を鮮明に思い出した。自分の前に立ちはだかり、自身の体で受け止めた包丁、床滴る血、崩れ落ちる芽傍……。あの瞬間、芽傍の寿命が瞳に譲り受けられたのだ。
 瞳は思いっきり手を伸ばして望夢の手を掴もうとした。しかし瞳の手と望夢の手間には50センチほどの距離がある。届くはずがない。
「駄目だ…」と吐露する瞳は、望夢を見つめた。「望夢…ありがとう。でも、もう戻って…。望夢まで死んだら、芽傍くんが余計悲しんじゃう…」
 そう言いながら頬を濡らす瞳を、望夢は見つめ返した。「…嫌だ…嫌だよ‼︎瞳を見捨てるなんて、できねえよ‼︎」
 望夢は考えた。あと少し、あともう少しだけ距離を縮められたら!望夢は必死の想いで手を差し出した。そのとき、首にかけたネックレスがチャリンと揺れた。
 …⁈これだ‼︎
 望夢はすぐさまネックレスを外すと、掴んでいる木の枝に引っかけ、ネックレスを掴んで身を乗り出した。これで少し距離が狭まった。
「瞳‼︎届くか⁈」望夢は必死で問いかけた。
 瞳はうんと手を伸ばした。しかし、届かない。あとちょっと、ほんの20センチの距離なのに!
 こうなったら!
「瞳‼︎跳べ‼︎絶対に掴む‼︎」
 瞳は望夢の顔を見て、一瞬で意志を固めた。「わかった!」
「3つ数えたら、こっちに跳べ‼︎いいな⁈」
 瞳は頷くと、体を左右に揺らし始めた。
「…1…2…3‼︎」
 ジャストタイミングで瞳は手を離し、宙に浮いた。望夢はうんと手を伸ばした。しかし、ぬかるんだ斜面のために上手く踏み切れず、跳んだ高さが足りなかった。お互いの手は数センチの間隔を空けて空を掻いたに過ぎなかった。
 二人は絶望した。瞳は落ちる覚悟をし、望夢は無残にも瞳が落ちていくのを見届けるしかないと落胆した。
 ところが、奇跡が起きた。
 二人が絶望に陥ったその一瞬、本当に一瞬の出来事だった。二人の間に、真っ白い服装の男が現れたのだ。宙に浮かぶその姿は天使としか言い表しようがなかった。その男が、望夢と瞳の手首を掴むと、ぐいと引き寄せて繋いだのだ!
 望夢は息を呑んだ。次の瞬間には、男の姿は消え、自分と瞳が崖に宙ぶらりんの状態で雨に打たれているのだった。
「瞳ー‼︎本橋くーん‼︎」と駆け寄ってくる玲奈。
 玲奈はガードレールにつかまって望夢を引き上げようとした。望夢も全精力を腕に込めて思いっきり引っ張り上げた。
 こうして三人はなんとか崖上に戻った。望夢と瞳は仰向けになって安堵した。二人とも全身泥だらけだ。
「遅くなってごめん!」玲奈が謝った。
 望夢と玲奈は旅館に着いて瞳がいないとわかると、手分けして探すことにした。そして先に瞳が男たちに絡まれているのを見つけた望夢は、咄嗟に玲奈にメッセージを送っていた。
「いいんだ!助かったよ!ありがとう!」望夢は首を振って感謝を伝えた。
 瞳も頷き、上半身を起こした。目から涙が溢れて止まらない。「…ごめんなさい‼︎本当にごめんなさい‼︎…また二人に迷惑かけちゃった…」瞳は何度も頭を下げた。
 玲奈は呆然として瞳を見つめた。
 望夢は微笑んで、瞳を抱き寄せた。「まったく!手のかかる女だぜ!」
「ごめんなさい!」瞳はひたすら謝った。
 望夢は瞳の頭をなでて泥を払った。「無事で良かったよ。ほんとに」
 瞳は色々と恥ずかしくて目を背けた。「…ありがとう…」
 そんな二人を見て玲奈はほくそ笑んだ。
「あ!そうだ!芽傍!」望夢は思い出した。「さっき、瞳が跳んだとき、届かなくて!でも芽傍が宙に現れて!んでおれらの手を…?」
 と興奮状態で説明する望夢だが、瞳も玲奈もぽかんとしていた。
 …おれにしか見えなかったのか。
「ごめん。なんでもない」と言って、望夢は服を叩きながら立ち上がった。
 すると瞳が「望夢も、見たのね?」と尋ねた。
 望夢は胸を弾ませた。「“も”ってことは、瞳も⁈」
 瞳は頷いた。
 望夢は溢れんばかりの思いが込み上げてきた。「芽傍が、おれたちを助けてくれたんだ‼︎」
「そうだね!…また芽傍くんに助けられちゃった…」と瞳は申し訳なさそう呟いた。
「もー!またあたしだけ取り残されたー!」と玲奈は口惜しむ。
 三人は笑った。
「そっか、芽傍くん、二人のこと後押ししてるんじゃない?」玲奈が冷やかした。
 望夢と瞳は見つめ合った。二人の顔を雨風が打った。
「なあ、瞳」望夢は語り出した。「ごめん。実はおれ、まだ若干引きずってたんだ。昨日のこと。好きって気持ちはやっぱりあるし、それなのに友達でいるなんて、しんどいって思ってた…」
 瞳は複雑そうな表情で望夢を見つめている。
「でも、やっとわかったよ。瞳とどう付き合っていけばいいか。改めて考えると、おれは、瞳の彼氏に相応しくない。頭は良くないし、全然かっこよくもないし。だけど、それでもさ、瞳と仲良くしていたいし、瞳を笑顔にしたいし、瞳が困ってたら助けたいんだ!瞳の彼氏になれなくたって、瞳の役に立つことはできるって、そう思ったんだ」
 それを聞いて、瞳は笑顔になった。
「これからも親友として、仲良くしてくれよな!」望夢は親指を立てた。
 瞳は大きく頷くと、手を差し出し、同じく親指を立てようとしたが、敢えて望夢の手を握った。「これからもいっぱい迷惑かけちゃうと思うけど、よろしくね!」
 やっと和解し合った二人を見て、玲奈も喜んだ。
「んじゃ、戻ろうぜ!腹減ったよ!」望夢は立ち上がってお腹をさすった。
「さっき食べたばっかじゃん!」と玲奈は笑った。
「食いしん坊だねー!」瞳も微笑んだ。
 三人は肩を並べて旅館に戻っていった。

「まったく。姿を見られないようにって言ったのに」
 ある場所で、歩く三人を見下ろしながら亜久間は呟いた。
「でも、幸せそうですね!」メモリー嬉しそうに三人を見つめた。
「“一時の”幸せだな」とアジェが良きに計えて言う。
 亜久間は頷いた。「メモリー、今よ」
「やっぱりそうなりますよねー!それじゃ、望夢くんの記憶!さようならー!」
 と言ってメモリーは杖を思いっきり振った。

 望夢と瞳は、体から何かがスーッと抜けていくような感覚を味わって立ち止まった。
 玲奈がそんな二人を不審に思う。「どうかしたの?」
 望夢は宙を凝視した。「…なんか、忘れてることがある気がする…」
「あたしも…」瞳も上の空だ。
 玲奈は首を傾げた。「そう?やり残したことがあるなら、帰る前に思い出してね」
「いや、やり残したことっていうか、なんだろう……わかんないから、いいや」
 瞳も頷いた。
 三人はもやもやした気持ちをそっちのけにして、和気藹々と旅館に戻っていった。



 この日も三人で楽しい時間を過ごし、17時を回った。温泉タイムだ。
「じゃ、おれ休んでるから。ゆっくりしてきな!」今回も望夢が二人に先を譲った。
「ありがとう!」「ありがとね」二人は感謝して、脱衣所の暖簾をくぐった。
「「は~~~!」」
「やっぱり温泉は違うね~」と玲奈が体で味わいながら言った。
「色々あったから尚更だね~」瞳も疲れが取れるのを感じた。
 玲奈は微笑んだ。「まさか本橋くんが瞳の恩人になるなんてね」
 瞳は頷いた。「今度お礼しないと」
 玲奈はニヤニヤしながらお湯をかき集めて肩にかけた。「本橋くんに惚れちゃった?」
「えっ⁈」瞳は驚いて玲奈を見た。「それはー、ないかな?見直したっていうか、好感度上がったってのはあるけど」
「ふーん」玲奈は相変わらずニヤけたままお湯をかき分けた。
「何よ、からかわないでよ!」瞳はピシャッとお湯を飛ばした。
「やったな!あれー?顔が赤くなってるよ?」玲奈も冷やかしてお湯を飛ばし返した。
「ただほてっただけだもん!」瞳はさらに勢いよくお湯をかけた。
 二人は笑いながらお湯をかけ合った。
「本橋くんとは、今以上の関係には絶対ならないの?」玲奈は懲りずに尋ねた。
 瞳はうーんと唸って考えた。「…うちの気持ちが変われば、あるかも?」
「おや⁈」玲奈は期待の眼差しで瞳を見た。
 瞳はニコッとした。「わかんないけどね!」
「そっか。期待しとくね」
「しなくていいよ。もー!」
 二人は笑った。
 しばらくして、玲奈は部屋に戻った。「ただいま」
 望夢は部屋でエロ画像を検索して時間を潰していたものだから、玲奈が急に入ってきて飛び上がってしまった。
「ひぇっ!」
「うおっと!ごめんお邪魔だった?」
「いや、大丈夫。何でもない。瞳は?」
「今髪乾かしてる。すぐに戻ると思う。遅くなってごめんね!」
「気にすんな。じゃ、行ってくるわ!」
「ゆっくりしてきてね!」
 望夢はすたすたと早まる気持ちで廊下を駆け、“湯”と書いてある暖簾を潜った。
 脱衣所に瞳の姿はなく、使い終わったドライヤーが鏡の前に転がっていた。ここに来るまでにすれ違わなかったし、トイレに行ってるかもしくはロビーで飲み物でも買っているんだろう。そう解釈し、望夢は服を脱ぎ始めた。
 一糸纏わずタオルを片手に持った望夢は、温泉に続く引き戸を開けた。その瞬間、温泉独特の朗らかな温かい香りが顔に当たった。目の前には悠然と湯気を巻き上げる白い湯溜まり。望夢は大きく息を吸った。誰もいない貸し切りの温泉。なんて凄まじい開放感なんだ!望夢はワクワクして足を大きく踏み出した。
 すると、温泉の真ん中辺りからブクブクと泡が湧いてきた。そしてそこから浮かび上がる瞳の頭の後ろ姿。「ふあ~!」
「ふぁっ⁈」
 望夢は踏み込んだ足を滑らせて全裸で大の字に倒れた。
「なんだ望夢か!ごめんね、びっくりさせて」瞳は振り返らずに、髪を絞りながら淡々と言った。
 望夢は慌てて手から飛んだタオルを掴み、腰に巻きつけた。そして瞳を見まいと後ろを向いた。
「瞳!どういうつもりだ⁈もう上がったと思ったぞ!あと温泉に顔入れるのは禁止!」
「ごめん。一回出たんだけど、なんか物足りなくて。また入っちゃった。てへ」
 てへ、じゃねえぞぶっ飛ばすぞ!一歩間違ってたらおれはお前に“男の証”を見せつけていたところだし、今だって覗きセクハラわいせつ行為で逮捕されてもおかしくない状況なんだぞ!
「わ、悪いけど、出てくれ!もう充分入っただろ!おれも早く入りたいんだ!これ以上は遅らせたくない!」
「…一緒に入るのはダメ?」と瞳はまさかの一言。
 それを聞いた途端、望夢はムラッと…いや、ヒヤッとした。瞳はそんなキャラではない…。
「いいじゃん?混浴だし。それに、少し話したいの…2人だけで…」
 待て待て待て。望夢は冷静を装っているがこれはかなりヤバい状況だ。瞳は美人な幼馴染、ここは温泉、さらには混浴。これ以上ないというくらいAVのシチュエーションがてんこ盛りだ。何があったんだ瞳⁈芽傍の死と崖から落ちそうになったショックで頭おかしくなったか⁈
 望夢は唾を呑んだ。…自分にとって瞳は大事な幼馴染。古き友。さっきだってこれからも親友でありたいと明言したばかり。こんな状況、あっていいはずがない。
「…遠慮しとくよ。おれたち幼馴染だろ?話は後で聞くから」望夢はストレートに気持ちを伝えた。性的興奮を抑えて。
「そう?でも、昔は一緒に入ってたじゃん?」
「え?…あ…」
 望夢は言われて思い出した。幼稚園くらいの幼い頃は、一緒に遊んで泥だらけになって、その度に同じ浴槽に浸かっていた。今思えば恥ずかしい。
「あれは子供だったからだ!今は違う!おれたちはもう成熟したんだ!」望夢は顔を赤くして言い張った。
「ふふふ」と笑う瞳。「望夢、本当に変わったね!ちょっと前の望夢なら、遠慮なく見てきただろうけど」
 望夢はさらに恥ずかしくなった。「…ああ!そうかも!あの頃はそうだった!でも、今は違う!」
 そう言いながら、望夢は膝をピタッと閉じていた。腰に巻いたタオルが盛り上がらないようにするためだ。
「そっち、向いてもいい?」瞳はふいに尋ねた。
「べ、別にいいけど?おれは出るぞ」望夢は引き戸に向かおうとした。
「気にしないでいいから」と瞳は引き止めた。「お湯、浸かってれば見えないし。寒いから入りなよ?」
 望夢は困った。見えなければいいわけではなくて、このシチュエーション自体に問題があるわけであってな、それを見ていいとか見えないから平気とかで済まして年頃の男女が同じ湯に浸かるということは人間界の摂理、男女の掟に背くとー
「あーーー‼︎めんどくさいな!本当に良いんだな⁈」望夢はとうとう開き直った。
「いいよ。こっち見ていいから。入って」
「……」
 望夢は恐る恐るゆっくりと180°向きを変えた。たしかに、白く濁ったお湯が瞳の体を隠してくれていた。望夢はペタペタと湯に歩み寄ると、申し訳程度に片足を入れ、続いてもう片方も入れると、膝をくっつけて良い姿勢になった。脚だけ浸かった状態だ。やはり全身入れるのは抵抗がある。
「…それで?話ってなんだよ?」望夢は真面目なトーンで尋ねた。
「うん。まず、助けてくれてありがとう」
「なんだ、またか。気にすんな」正直、あのときよりも今の方が気まずい状況なんだが。
 瞳は望夢を見つめた。「…どうして、助けてくれたの?」
「え?言っただろ?瞳とは古い仲だし、あのまま見捨てるなんてできるかよ!」
 望夢は自分を庇うように腕を組んだ。雨が当たって冷たいのだ。
 瞳はまだ腑に落ちない様子だ。「…勝手に離れたのはあたしだし、そのせいで望夢も危険な目に遭わせちゃって…。怒ってないの?嫌いになってないの?…」
「そりゃ、手がかかるなーとは思ったよ。でも、これまでおれの方が迷惑かけてきたし、瞳とは思い出たくさんあるから、そのくらいで嫌いになることはないし…」望夢は照れ臭そうに頭を掻いた。
「そう…。ありがとう。でも、あたしだって迷惑ばっかりだよ?望夢を無理矢理買い物に付き合わせたこともあるし…」
「はは。懐かしいな!でもあのときはおれも悪かったよ。お前をおいていってさ。でも買い物は普通に楽しかったぞ!」
「うん!凄く楽しかった!あのとき上げたネックレス、今日つけてくれてたよね!」
「ああ!まさかあれがあんな形で役に立つとはな」
 二人は笑った。
「あのときだった。望夢が、なんか変わったなって思ったの…」瞳は宙で踊る湯気を見つめた。
「変わった…そうかもな」
 実際そうだ。あのとき望夢は夢を見た。女になる夢だ。そうして女の大変さや、女から見たふしだらな男を嫌というほど理解した。どうしてあんな夢を見たのかはわからないけれど。
「今の望夢なら、きっと良い恋人ができるよ」 瞳は望夢を見つめて言った。
「そうかな?おれもまだまだだからなー。今日も瞳と本郷が気遣ってくれてるのに気づけなかったし」
「うちらも望夢が気にかけてくれてるのわかってなかった。ごめん」
 二人はため息を吐いた。
「異性と関わるのって難しいな」
「難しいね」
 と共感して微笑み合う二人。今の二人の気持ちは、39℃の温泉よりも暖かくなっていた。
 二人は何となく気まずい空気を感じた。
 瞳が沈黙を破った。「色々話してくれてありがとう。あたし、部屋戻るね」
「こちらこそ。おれはもうちょっと浸かるわ!」
 瞳は温泉の縁に置いていたタオルに手を伸ばした。望夢は思わず瞳から目を逸らした。瞳は「ありがとう」と呟くと、お湯から出てタオルを巻き、脱衣所に入った。
 望夢は音で瞳がいなくなったことを確認すると、ようやく肩まで温泉を堪能したのだった。
「ったく!瞳のやつハラハラさせやがって!」
 と呟きながら自分の下半身に目を落とした。“イチモツ”はまだ自然状態に戻っていない。望夢は恥ずかしくてぴったりと膝をつけてお湯に浸かった。



 翌日、最後のスポットである牧場で時間を満喫した三人は、バスと電車を乗り継ぎ、池袋まで戻ってきた。玲奈とはここでお別れだ。
「はいチーズ!」
 玲奈の構えたスマホの画面に向かって望夢と瞳はピースした。
「楽しかったね!その写真あたしにも送って!」瞳は微笑んだ。
 望夢も頷いた。「色々あったけど、楽しかったし、色々と大事なことに気づいたよ。ありがとう」
 玲奈は笑顔で頷いた。「こちらこそ!楽しかった!またお出かけしたいね!」
「だね!また行こう!卒業しても、連絡するからね!」
 瞳はそう言って玲奈と抱き合った。
 それから望夢と瞳は二人同じ電車に乗って帰った。二人で隣同士で座り、思い出を語りながら。
「望夢に告白されたのが今でも衝撃」瞳は笑った。
「わかったよ!もういいだろ!おれだって意外だったんだぞ!」すっかり瞳と打ち解けた望夢には、もう笑い話だった。
「残念だったね!大学では彼女できるといいね!」
「ああ!作ってやるよ!お前よりずーーーっとかわいい彼女をな!」
「せいぜい頑張ってねー!」
「お前も包丁持ったやつに追いかけられないようにな!」
「こらっ!それ禁句!」
 二人は笑い合った。
 夕焼けの中、電車は駆け抜け、二人の帰る街に入った。
 電車は目的地の尾長駅に到着した。望夢は瞳を家まで送り届けた。
「色々とありがとう。あと、迷惑かけてごめん」
「ううん。あたしこそごめん」
 瞳は望夢を見つめた。いつ見ても綺麗な目だ。見つめられるだけでドキドキする。望夢は瞳を抱きしめたいという衝動を抑えて、背中を
向けると、「じゃあ、またな!大学行ってもよろしくな!」と言って歩き出した。
 瞳は「うん!またね!」と大きく頷くと、望夢の背中に手を振って、家に入った。
「ただいまー!」望夢は帰宅した。
「お帰りなさい」と母。
「おう、お帰り」と親父。
 望夢はリビングに荷物を置くと、椅子にドサッと体を預けた。「はー疲れた!」
 するとバーベナが嬉しそうに尻尾を振って飛びついてきた。
「おーただいま!いい子にしてたか⁈」望夢はバーベナを抱きかかえてなでた。
「あなたに会いたがっててのよ」母は料理をしながら微笑んだ。「どうだった?楽しかった?」
「うん。色々あったけど、楽しかったよ」
「どうだった⁈瞳ちゃんと発展はあったか⁈」野球中継を見ていた親父が食い入るように尋ねた。
「あ、な、た!」と母は咎めた。
 望夢は苦笑した。「うーん、ある意味進展したかな?」と望夢は茶を濁して言った。
「おっ⁈付き合ったのか⁈」親父は首を伸ばして尋ねた。
「いやいや違うよ!瞳が大事な幼馴染だってことを、改めて実感したんだ」
「そうか。じゃあ、まだまだ先か」親父は残念そうに言うとまたテレビに目を移した。
 母はやれやれと首を振った。「まったく。望夢、気にしなくていいのよ?瞳ちゃんとは昔からお友達なんだし、そういう関係にもっていく必要はないんだからね。それに、あなたにだっていつか、素敵な人ができるわよ。恋は焦るものじゃないもの」
 望夢は頷いた。「そうだね。瞳とは、これからも仲良くしていこうと思う」
「プロポーズするんだな⁈」と親父がまた振り向いた。
「あなた、いい加減よしなさいよ?私もちょっと期待はしてるけど…」母はニヤリとした。
「なんだよ二人して!」望夢は苦笑した。
「それより、お腹空いたでしょ?もうすぐ晩御飯できるから、お風呂入ってきたら?」母はまた料理の手を動かした。
「うん!」
 望夢は荷物を持って階段を上がり、自分の部屋に置いた。そして寝巻きを持って部屋を出ようとした。すると、ある物が目に入った。それは自分の机上にあった。ノートが開いて置かれている。何も書いてない、真っ白なノートだ。ページをパラパラとめくってみたが、どこにも何も書いてない。そのそばには、削ってから一度も使っていないであろう、先の尖った鉛筆が転がっている。…何だろう?受験も終わったことだし、まさか勉強なんてするつもりで用意したはずがない…。…思い出せない。やっぱり、自分は何かを忘れている…。
 しかし、忘れてしまったことはいくら考えても思い出せるものではない。望夢はノートを閉じて机にしまうと、部屋の電気を消し、階段を下りた。
 屋根の上、望夢の部屋の真上で、4人の人ならぬ者たちがこの光景を見ていた。
「これで、さよならだな」アジェが言った。
「そうね…」亜久間は寂しそうに頷いた。
「大変でしたよー!望夢さん、ずいぶんと細かく思い出を書いてて、消し去るの手こずりました!」メモリーが胸をなでおろした。
 亜久間の後ろに立つ、もう一人の天使が彼女に尋ねた。「天使と言えど、悲しいのか、あんたも?」
 亜久間は向き直った。「そりゃあね。あたしは愛の天使だもの。喜びも、怒りも、悲しみも、どんな感情も網羅してる。契約者との別れは、毎回辛いものよ…」
「そうだよな…」とその天使は呟いた。
 亜久間は微笑した。「あなたもいつか、経験するわよ。天使としての役目を極めればね」
 その天使、芽傍ゆうの魂は、腹をくくったような面持ちで亜久間を見つめた。



 それから長い月日が経った。
 春の香りが心地よい休日の昼間。晴天。
 どこかの、とある公園で、小さな男の子が遊具で遊んでいる。男の子は遊具の一番高い位置に立つと、そこからカメラを向ける男性に手を振った。男は笑って振り返した。男の子は滑り台を滑り降り、地面にスッと着地した。そして走っていって、砂場にいる他の男の子たちと混ざった。
 男はスマホのカメラでまた男の子を撮ると、これまで撮った写真を確認した。生まれた頃から撮ってきた写真がすべて大事に取ってある。生まれた直後。母乳を飲む姿。ハイハイができるようになったとき。初めて立ったとき。喋ったとき。幼稚園に入園したとき。
 男は砂場で友達と固まる我が子を見た。みんな何か考え込むような顔をしており、真剣な話をしているようだ。いったい何だろう?サンタさんは実在するのかとか?もしくは、放送中の特撮ヒーローの今後の展開か?などと男は思った。
 すると、我が子が一人、こちらに近づいてきていた。何やら物寂しげな表情だ。
 男はスマホを下ろした。「ゆう、どうした?お友達はいいのか?何かされたのか?」
 ゆうは首を振った。「ううん。違うの。あのね、今ね、みんなでね、自分たちの名前のお話してたの」
「名前かー、それでどうかしたのか?」
「うん。あのね、いっくんがね、お父さんにね、自分の名前を漢字で書いてもらったんだって。カッコいい字だったんだって」
「ふむふむ。なるほど、それで?」
「お父さん、ぼくの名前、漢字、ないんだよね?」
「ああ。ゆうはゆう、漢字は無いよ」
「それがね、みんなに変だって言われたの。みんな、書けないけど、自分の名前の漢字、あるんだって。あの大人が書く難しいけどカッコいい字。お父さん、ぼくも漢字の名前が欲しかったよ!」
 ゆうはうつむいた。
 お父さんは笑ってしゃがむと、我が子と同じ目の高さになった。「ははっ!そういうことか!よーし、じゃあ説明してやろう!どうしてお父さんがゆうを漢字無しでゆうと名付けたか」
 ゆうは興味津々で顔を上げた。
「いいかい?ゆうっていうのは、お父さんの友達の名前なんだ。その人もゆうって名前なんだ」
 男の子はキョトンとした。
「で、なんでその人の名前をつけたかって言うと、その人は、父さんの大切な人の命の恩人なんだ」
「そうなの⁈」ゆうは叫んだ。
「ああそうだ!でも残念ながら、彼は死んじゃったんだよ…」
「かわいそう…」男の子は表情を曇らせた。
 お父さんは頷いた。「しかもまだ高校生のときにだよ?18歳だ。お父さんも彼に生きていてほしいと何度も願った」
「そうなんだ…。いい人なのに、かわいそうだね」
「だからお父さんは彼の名前をお前につけたんだ。ゆう、お前には彼の分も精一杯生きてほしい。そんな願いを込めてな」
「そうだったんだ…。ねえ!その人、カッコいい人⁈」
「ああ!いつも友達思いで、友達のためなら危険にも飛び込んでいく人だった!立派だよ!」
「すごーい!」ゆうの顔が一気に明るくなった。
「あ、そうそう!お前の名前に漢字がない理由には、もう1つあるんだ」
 お父さんは近くに転がっていた木の枝を取って、地面に字を書いた。
「まず、“勇しい”の勇。それから、“優しい”の優。それに、友達の“友”。これらの漢字はぜーんぶ“ゆう”って読むんだ!」
 ゆうは夢中でそれらの字を覗き込んだ。「ユウキのゆう?やさしいのゆう?ともだちのゆう?」
「そうだ。ゆうって言葉には、色んな意味が込められてるんだ」
 お父さんはゆうの肩に手を添えた。
「だから、気にするな。自分の名前に誇りを持つんだ!」
 ゆうは大きく頷いた。「うん!ぼく、自分の名前が好きになったよ!ゆう!ゆう!ぼく、みんなに話してくる!」
 ゆうは飛び跳ねながら砂場に戻ってまた友達の輪に入った。
 お父さんは微笑んだ。楽しそうに笑う我が子を見て、幸せな気分だった。
 日が暮れる頃、父と子は車に乗って帰路に入った。しかしその途中、お父さんはハンドルを切って道をそれた。
「あれ?お家、こっちじゃないよね?寄り道?」後部座席の息子が尋ねた。
「ああ。ちょっとだけな」
 後部座席に乗る息子は「なになに?」と前の座席に乗り出してきた。
「さっき話した、父さんの友達に会いに行こう」
 息子のゆうは目を輝かせた。
 数分後、親子は墓石の前で両手を合わせた。『芽傍ゆう』と彫られたその墓石は、新品のようにピカピカに輝いていた。
 …ありがとう。お前がいたから、俺は幸せになれたんだ。これからもよろしくな。また会いに来るよ。…
 望夢は心の中でそう呟くと、墓石に花束を置いたのだった。

 どこか遠い場所で、その光景を見る天使たちがいた。
「上手くいったわね。みんな幸せそう」亜久間は微笑んだ。
「はー!やっぱりいいものですね!家族って!」メモリーはうっとりして言った。
 この光景を映し出しているアジェは首を傾げた。「そうか…オレにはわからないな、やっぱり…」
「もー!アジェは時間しか気にしてないもんねー?」とメモリーは皮肉った。
 亜久間の隣に立つゆうも満足気に頷いた。「もう、僕たちが彼らを見守る役目は終わりか…」
「業務上はね」亜久間はニコリとした。「でもお別れじゃない。ああして、マメに会いに来てくれるんだから、寂しくはならないわよ」
「…そうだな」
 ゆうは手を合わせ、親子に感謝を込めた。
「さあ!天使になったからには、働かなくちゃね!助けが必要な人は限りなく存在するから」
「ああ。すぐに取りかかるよ」
 そう返すゆうの足元に、2体の犬の形をした魂が寄ってきた。1匹は白いトイプードル、もう1匹は黒い柴犬だ。ゆうはその子たちを優しくなでた。
「以前の僕のように、助けを必要としてる人の力になりたい。天使として、もっと役に立ちたい」
 亜久間は頷いた。「その調子よ。頑張ってね!」
 亜久間はどこかへ飛び立った。
 メモリーとアジェも芽傍に向き直った。
「ゆうさん、必要なときはいつでも力になりますからね!」
「あんたなら、亜久間に比べりゃ手がかかることはなさそうだな」
 ゆうは会釈した。「これからもよろしく頼む」
 メモリーとアジェも各々どこかへ飛び去った。
 足元にいた犬たちもはしゃぎながらどこかへ行った。
 ゆうは目下で忙しなく行き交う人間たちを見下ろした。そして目を閉じ、ゆっくりと息を吸って、一気に吐き出すと同時に背中の翼を大きく広げ、空を見上げた。その目は、雲間から差し込む光を浴びて、輝いていた。
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