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辿り至ったこの世界で
決壊した心
アリーとの別れは、ただ綺麗な思い出と、曇りも澱みも無い澄んだ思いのままで終われれば、それでよかった。
これからも一緒にだとか、これからも会ったりお話が出来る機会があればとか、そんな高望みなんてしていなかった。
既に勘当された身で、一介の使用人とはいえども公爵家に関する人間であるアリーとの関わりを継続しようだなんて、バレればきっとアリーに迷惑をかけると思ったからだ。
だから潔く身を引いて、せめて大好きだったアリーとの思い出だけでもこの澱にも等しい屋敷で生きてきた中で唯一の良い記憶としてずっと脳裏に刻み込めていたならば、それだけで私は満足出来た筈だった。
……だった、のに。
知らない、覚えの無い光景が私を苛むのだ。
アリーは裏切り者であったのだと、この屋敷で唯一心を許していた彼女でさえ私を騙していたのだと、馬鹿げたを光景を見せる。
勿論、そんなものはただの白昼夢に過ぎないだろう。
そんな事は分かっている。
けれど、私には失われた記憶がある事もまた事実であり、そんな一抹の不安ですらあり得ないと一概に否定しきれないのもまた事実なのだ。
だから、答えを求めてアリーに問い質す。
「ねぇ、お願いよ……違うと、知らないと言ってちょうだい。 アリーがそんな事する筈無いって……」
ただ一言、私の気のせいだと言ってくれればそれでいい。
それだけで、この胸の内に広がる不安は全て晴れて、後には綺麗な記憶と思い出だけが損なわれる事無く残り続けるのだから。
だから、どうか私の気のせいだと……!
けれど……現実は、やはり残酷であった。
「……申し訳ございません、お嬢様。 アリーには、お嬢様に嘘は申し上げる事など出来ません…」
アリーは言い難そうに言葉を窄め、申し訳なさそうに視線を私から外して、私の懇願に対してそのように答えた。
そして、その謝罪は唯一の希望を閉ざす、実質的な終局の宣告であった。
「ああ…あああぁぁ……!」
アリーの残酷な宣告に、ドロドロと思考が溶けていくような感覚に襲われた。
思考が、焼き切れんばかりに熱くなる。
故に、先の答えに次いで並べられたアリーの弁解さえも耳に届かず。
なのに、アリーが何かを言う度、余計に胸が締め付けられた。 それは、彼女が何を言おうとも既に私に突き付けられた事実には何の変わりも無く、ともすれば全ては戯言でしかないからか。
とうに聞く価値は無く、信ずるにも値しない。
しかし、同時にアリーを責める事も恨む事も出来ず。
なぜ、なぜ、なぜ、と譫言のように繰り返すだけであった。
そのように、拭えず、また呑み下せもしない感情は、疑問を積み重ねれば後は決壊していくのみであった。
もちろん、納得のためのこじつけや、理屈の上でならば様々な憶測に希望的観測や客観的推測なんかは幾らでも思い浮かぶ。
でも、その上でそのような理屈のどれを以ってしても拭いきれないのだ。
そして、拭えぬが故にぶつけるより他に無い。
そうするより他に、捌け口など無いのだから。
「なんで、なんでよ……! どうしてアリーが私を……教えて、答えてよ。 なんで私を、公爵様なんかに……」
「お嬢様! アリーはただ、お嬢様の事を思えばと」
「なら、なんで公爵様との事を言ってくれなかったの? 言い訳なんて聞きたくない。 ……私はアリーの事を好きだったのに、アリーは違ったの? アリーも、他の人達と同じ、ように……私の、ことを」
胸の内より、激情が溢れてくる。
それは抑えも効かず、理性も及ばず、ただひたすらに「なんで、どうして」と繰り返しては虚しく消える。
当然、理屈の上では分かっている。
如何に激情に苛まれようとも、今の私がどれほどまでに愚かしいかなんてくらい、俯瞰出来ている。
一方的にがなり、アリーの事情や話さえ聞かずに突っぱねて、挙句には言葉を交わす姿勢を放棄したのだから。
そもそも、私は別れのためにアリーと話していた。 そして、これ以降は住む世界が違うのだから、当然ながら会う機会も無くなってしまうという事も理解しているのだ。
以降関わる要素も、接点さえもが無いのであれば、今更アリーが私を裏切っていた程度の事なんて、こんなにも取り乱してヒステリックを起こす程に気にする必要なんて無い筈なのだ。
今日の事なんて、アリーの事なんてさっさと忘れてしまえば、この話はそれまでの事として終わるのだ。
……それでもアリーの事を理性でもってこの心の内から切り捨てられないのは、私がアリーの事を本当に本当に大好きだったからだろうか。
だから、理論武装して全てを呑み下し、理性的に取捨選択するなど、到底出来るわけがない、と言うのだろうか。
少なくとも、それほどまでに私は精神的に冷酷でも強くもない。
だから「なんで」と繰り返し、絶対に納得出来る筈なんて無いアリーの言葉を一蹴しては答えを求める。
アリーを信じて好いている心と、裏切られていた事実に嘆く理性。
相反する想いの齟齬が、理性を溶かしてしまっていた。
「う、ううっ……」
アリーを追求していれば、ふと、再びくらりと視界が揺れる。 そういえば、さっきからずっと胸が痛くて呼吸も苦しかったのだった。
……なら、もういっそこのまま気絶してでも眠ってしまえばこの気分も良くなるのだろうか。
いつかの夢の、誰かのように……。
そう考えたその時、背後から「落ち着け、エリーナ嬢」とジークの手によって私の身体はアリーから引き剥がされて、その衝撃でぐらりと倒れそうになったところを抱えられるようにして支えられた。
「……顔色が悪い、真っ青だ。 もう今日は、帰って休もう」
「ジーク、でんか……はい、そうしましょう」
ジークに横抱きにされながら言われて、全て受け入れて返答する。
湧き上がり抑えられなかった激情はさっき身体を引かれた時に萎んだようで、代わりに今は倦怠感が全身を支配していた。
今はもう何も考えたくないし、そもそも何か考えられるほど思考は穏やかではなかった。
せめて最低限、横抱きにされたままで眠ってしまわないようにだけ気を付けながら、それ以外の全てをジークに任せて運ばれていく。
その最中、ジークの背後から「お嬢様!」と呼ぶ声が聞こえたけれど、今の私には返事をする気力も無く。
代わりに、ジークが応えた。
「侍女殿。 俺には、どうしてエリーナ嬢があそこまで取り乱していたのか、2人の間にどのような事情があるのかも分からない。 だが、少なくとも今の彼女は体調を崩していて、その原因は貴女にあるように見えた。 だから、今日のところはこれで失礼させてもらう。 見送りはいらないから、今の事をマルコに報告しておいてくれ」
そう言い切るとジークはさっさと歩き出し、競歩の如き早足で馬車まで戻ると私を座席に寝かせると、自らの上着を脱いで掛けてくれた。
「城に着くまで少し辛抱してくれ。 もしも辛ければ、言ってくれれば馬車を止めさせるし、疲労が酷いのならば眠っても構わない。 とにかく、今は休め」
「はい。 ……その、本日はご迷惑をお掛けして」
「そういう気を遣うのは元気になってからにしてくれ。 それに、迷惑だなんて思っていないから、気にするな」
「はい……」
その後は、やはり疲労が祟ったのか意識はあっさりと落ちてしまった。
ゴトゴトと揺れる馬車の中、柔らかな座席のシートと眠りを誘う不当間隔の小さな揺れによって眠りに落とされるその刹那、最後に見たのは車窓から外を眺めるジークの横顔だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「やっと眠ったか」
車窓から外を眺めていたジークは、微かに聞こえ始めた寝息の音で、エリーナがようやく眠った事を察知した。
けれど、眠っている女性の顔をジッと眺めている事は紳士としてあるまじき行いである故に、再び窓の外を向く。
そして、車窓の景色を眺めながら、ついさっきユースクリフ邸で起きた騒ぎの一連を思い返していた。
エリーナは、大好きとまで言っていた自らの侍女と再会し、実際に途中までは仲睦まじく言葉を交わしていた筈だった。
なのに、途中からエリーナの様子がだんだんとおかしくなっていったのだ。
ジークがあれ程までに取り乱している彼女を見たのは、件のパーティーでの事件直後以来。
最近では、記憶を失っていると言えどもパーティーの事件後のような荒れ方も無く、むしろ以前よりも穏やかで聡くあった。
けれど、それは同時に何処か状況を達観しているかのような、その胸の内に諦念でもはらんでいるかのような物腰であったと、ジークは感じていた。
まるで、記憶と共に別の何かも失われてしまったのではないかと思う程に。
けれど、今回はその比ではない。
人を殺してしまったと狂乱していたあの時のような己を一切顧みる事の無い危うさは無いものの、以前とはまた質の違った狂気があった。
エリーナがユースクリフ邸で見せたあの様子は尋常ではなく、あの侍女に対して並々ならぬ信頼……いや、もっと深い感情、執着や依存の念を持っているかのようであったのだ。
それは、エリーナにとってある種のよすがであり、精神を安定に導く薬でもあったのだろう。
けれど、それは今日、崩壊した。
元より王妃や聖霊の一件もあって記憶を失ってしまう程にエリーナは精神的に不安定だったのに、ここにきてまた一つ、その心は信頼していた人物の裏切りと喪失によって傷付いてしまった。
その心境は、ジークには想像もつかなかった。ただ、目覚めたエリーナにどのような言葉をかけるべきだろうかと悩むより他に無かった。
そしてそう悩んでいるうちに馬車は王城へと帰還して、ジークは再びエリーナを横抱きにするとなるべく人目を避けて部屋へと運び、ベッドへと寝かし付ける。 そしてサリーを呼び出して目付けを指示し、自らは自室に戻った。
そうして自らの執務机の上に積み上げられた書類の山に手を付け、普段通りに政務をこなし、しかしまるで身が入らないと筆を投げ出した。
理由は当然、エリーナの事。
今は眠っているけれど、やがて目を覚ませば、エリーナは確実に再び現実に打ちのめされてしまうだろう。 ジークはそんな先を思えば、何か彼女の力になれないものかと思案せずにいられなかった。
だが、一体何をすればエリーナの慰めとなるのだろう。
ジークがこのようにエリーナの事で思い悩むのは2度目であるというのに、やはり適切な方法はまるで見当が付かない。
浮かぶ言葉はありきたりで薄く、品を贈ろうともそれに何の意味があろうか。
傷付いた心の癒しとは、どうすれば良いのか。
ジークには、まるで思い浮かばなかった。
ジークは優秀な王太子ではあるが、こうした機微には疎い部分が昔からあった。
テキスト通りに問題を解決する、生真面目かつ融通の利かない人間。 そのスペックはマニュアルに強く比重を置き、それ故に堅い。
しかし、それで大凡の事が罷り通ってきた。
罷り通ってきたからこそ、今こうして困っている。
優秀な王太子のマニュアルには、傷付き落ち込む女性の励まし方や慰め方なんて記載されていないのだから。
だから、ジークにはどうしようもない。
過去も、そして現在も。
事実、結果的には思い悩んだまま解を出せず、挙句は寝不足のままに普段通りにエリーナとの朝食の席へと向かう事となった。
そしてテラスへと向かえば、エリーナは既に席に着いてジークを待っていた。
「おはようございます、殿下。 今朝は私の方が早く着きましたから、こんな朝早くに急用でも入られたのかと思いました」
確かに、朝が弱く普段から朝食の席にはジークより遅れて参席するエリーナは、今朝は珍しく早くに着席していた。
ジークは、昨日の一件があるから今朝は普段より遅れても仕方がなく、もしかしたら体調でも崩してやしないかと少し心配していたが、それは杞憂であったと内心胸を撫で下ろす。
「おはよう、エリーナ嬢。 あー………そうだな。 気分はどうだろうか?」
「はい。 おかげさまで特に不調も無く、健やかに日々を送っています」
「いや、そういう事ではなく。 何か気に病んでいたり、どこか不調であったりはしないだろうか」
「……? いいえ、特に何も」
ジークの問いに、思い当たる所の無いとばかりにエリーナ小首を傾げて答えた。
そんなエリーナの反応は……何処か、妙であった。
昨日あんな事があったにも関わらず、しかしエリーナはその事を何ら気にしていないかのように、平素の様子でジークに応対しているのだ。
もちろん、ジークも違和感を覚えた。
さりとて、彼女は生まれてからずっと高位貴族の子女であった身であり、故に、何事も無かったかのように振る舞う程度の演技は出来てもおかしくはないと納得した。
心配は要らないと、その意思表示であろうと。
「そうか……なら、構わない」
それは彼女の矜持であり、ならば汲むべき事。
エリーナがそのように振る舞っているのであれば、それ以上ジークの側から突っ込むのは野暮である。
故に、ジークはそれ以上追求する事をやめた。
そうして席に着いて暫く。
堅苦しい食事会という訳ではないからと会話を交えながらフランクに、時にはサリーが2人の間に言葉を挟む普段の食事風景が流れていた。
特段、そこに変わった要素は無い。
いや……実際に、無い筈であった。
エリーナの方から、昨日の話が持ち出されるまでは。
「そういえば、ジーク殿下。 昨日は申し訳ありませんでした。 それと、不遜にも御前で眠ってしまった私を寝台へと運んで下さって、ありがとうございました」
「いや気にするな、昨日は色々と大変だったからな。 それに、一番辛かったのはエリーナ嬢の方だろう。 ……もう、大丈夫なのか?」
「はい……昨日の事は、必要な過程だったのです。 これから私は市井に降って生きるのですから、どちらにせよユースクリフ家との関係は切らねばならなかったのです。 でも、マルコがあのように思っていた事は意外でした。 心底嫌われているものだと思っていましたから」
ここで一つ、ズレる。
ジークの意図としては、マルコと話した後の一件である『アリーの裏切り』について尋ねたつもりであった。
もっとも、その程度のすれ違いはよくある話。
ジークは、それをすぐに訂正する。
「その話は、円満とまではいかずとも無事に解決した話だろう。 エリーナ嬢がマルコと仲睦まじくなれるよう応援してはいるが、そうではない。 俺が気にしているのは、君の乳母であり侍女であったアリーという女性の事だ」
「私の乳母で、侍女……のアリー、ですか? えっと、それはどなたの事なのでしょう?」
そして二つ、致命的にズレた。
ここにきて、ジークは己が感じていた異常の正体にようやく気付いた。
違和感の正体は、エリーナの態度。
昨日の一件からまるで時間が経っていないというのに、そしてあれだけ取り乱して憔悴していたというのに翌朝にはもう何事も無かったかのように振る舞って、挙句にあれだけ慕っていると語り、裏切られたと知って嘆いていたアリーの事をまるで知らないという風に「どなたの事なのでしょう?」と言う。
それは、ジークの中にあったエリーナの印象とは大分乖離したものであった。
感情に揺さぶられ易い、良識的な情のある人。 それがジークの持つエリーナの印象であり、こんなにも理性的で薄情で冷淡な人物ではなかった筈であった。
けれど、今のエリーナは冷淡ではない。
ただアリーについて尋ねれば「私はその方の事なんて、まるで知りませんもの」と困り顔で言うだけであった。
それは純粋な感情からの反応。
本人的に、何もおかしな事など無いのだ。
だがジークには、エリーナのその態度からは、内に底冷えするような何かを介在させているような不穏な雰囲気が感じられた。
これからも一緒にだとか、これからも会ったりお話が出来る機会があればとか、そんな高望みなんてしていなかった。
既に勘当された身で、一介の使用人とはいえども公爵家に関する人間であるアリーとの関わりを継続しようだなんて、バレればきっとアリーに迷惑をかけると思ったからだ。
だから潔く身を引いて、せめて大好きだったアリーとの思い出だけでもこの澱にも等しい屋敷で生きてきた中で唯一の良い記憶としてずっと脳裏に刻み込めていたならば、それだけで私は満足出来た筈だった。
……だった、のに。
知らない、覚えの無い光景が私を苛むのだ。
アリーは裏切り者であったのだと、この屋敷で唯一心を許していた彼女でさえ私を騙していたのだと、馬鹿げたを光景を見せる。
勿論、そんなものはただの白昼夢に過ぎないだろう。
そんな事は分かっている。
けれど、私には失われた記憶がある事もまた事実であり、そんな一抹の不安ですらあり得ないと一概に否定しきれないのもまた事実なのだ。
だから、答えを求めてアリーに問い質す。
「ねぇ、お願いよ……違うと、知らないと言ってちょうだい。 アリーがそんな事する筈無いって……」
ただ一言、私の気のせいだと言ってくれればそれでいい。
それだけで、この胸の内に広がる不安は全て晴れて、後には綺麗な記憶と思い出だけが損なわれる事無く残り続けるのだから。
だから、どうか私の気のせいだと……!
けれど……現実は、やはり残酷であった。
「……申し訳ございません、お嬢様。 アリーには、お嬢様に嘘は申し上げる事など出来ません…」
アリーは言い難そうに言葉を窄め、申し訳なさそうに視線を私から外して、私の懇願に対してそのように答えた。
そして、その謝罪は唯一の希望を閉ざす、実質的な終局の宣告であった。
「ああ…あああぁぁ……!」
アリーの残酷な宣告に、ドロドロと思考が溶けていくような感覚に襲われた。
思考が、焼き切れんばかりに熱くなる。
故に、先の答えに次いで並べられたアリーの弁解さえも耳に届かず。
なのに、アリーが何かを言う度、余計に胸が締め付けられた。 それは、彼女が何を言おうとも既に私に突き付けられた事実には何の変わりも無く、ともすれば全ては戯言でしかないからか。
とうに聞く価値は無く、信ずるにも値しない。
しかし、同時にアリーを責める事も恨む事も出来ず。
なぜ、なぜ、なぜ、と譫言のように繰り返すだけであった。
そのように、拭えず、また呑み下せもしない感情は、疑問を積み重ねれば後は決壊していくのみであった。
もちろん、納得のためのこじつけや、理屈の上でならば様々な憶測に希望的観測や客観的推測なんかは幾らでも思い浮かぶ。
でも、その上でそのような理屈のどれを以ってしても拭いきれないのだ。
そして、拭えぬが故にぶつけるより他に無い。
そうするより他に、捌け口など無いのだから。
「なんで、なんでよ……! どうしてアリーが私を……教えて、答えてよ。 なんで私を、公爵様なんかに……」
「お嬢様! アリーはただ、お嬢様の事を思えばと」
「なら、なんで公爵様との事を言ってくれなかったの? 言い訳なんて聞きたくない。 ……私はアリーの事を好きだったのに、アリーは違ったの? アリーも、他の人達と同じ、ように……私の、ことを」
胸の内より、激情が溢れてくる。
それは抑えも効かず、理性も及ばず、ただひたすらに「なんで、どうして」と繰り返しては虚しく消える。
当然、理屈の上では分かっている。
如何に激情に苛まれようとも、今の私がどれほどまでに愚かしいかなんてくらい、俯瞰出来ている。
一方的にがなり、アリーの事情や話さえ聞かずに突っぱねて、挙句には言葉を交わす姿勢を放棄したのだから。
そもそも、私は別れのためにアリーと話していた。 そして、これ以降は住む世界が違うのだから、当然ながら会う機会も無くなってしまうという事も理解しているのだ。
以降関わる要素も、接点さえもが無いのであれば、今更アリーが私を裏切っていた程度の事なんて、こんなにも取り乱してヒステリックを起こす程に気にする必要なんて無い筈なのだ。
今日の事なんて、アリーの事なんてさっさと忘れてしまえば、この話はそれまでの事として終わるのだ。
……それでもアリーの事を理性でもってこの心の内から切り捨てられないのは、私がアリーの事を本当に本当に大好きだったからだろうか。
だから、理論武装して全てを呑み下し、理性的に取捨選択するなど、到底出来るわけがない、と言うのだろうか。
少なくとも、それほどまでに私は精神的に冷酷でも強くもない。
だから「なんで」と繰り返し、絶対に納得出来る筈なんて無いアリーの言葉を一蹴しては答えを求める。
アリーを信じて好いている心と、裏切られていた事実に嘆く理性。
相反する想いの齟齬が、理性を溶かしてしまっていた。
「う、ううっ……」
アリーを追求していれば、ふと、再びくらりと視界が揺れる。 そういえば、さっきからずっと胸が痛くて呼吸も苦しかったのだった。
……なら、もういっそこのまま気絶してでも眠ってしまえばこの気分も良くなるのだろうか。
いつかの夢の、誰かのように……。
そう考えたその時、背後から「落ち着け、エリーナ嬢」とジークの手によって私の身体はアリーから引き剥がされて、その衝撃でぐらりと倒れそうになったところを抱えられるようにして支えられた。
「……顔色が悪い、真っ青だ。 もう今日は、帰って休もう」
「ジーク、でんか……はい、そうしましょう」
ジークに横抱きにされながら言われて、全て受け入れて返答する。
湧き上がり抑えられなかった激情はさっき身体を引かれた時に萎んだようで、代わりに今は倦怠感が全身を支配していた。
今はもう何も考えたくないし、そもそも何か考えられるほど思考は穏やかではなかった。
せめて最低限、横抱きにされたままで眠ってしまわないようにだけ気を付けながら、それ以外の全てをジークに任せて運ばれていく。
その最中、ジークの背後から「お嬢様!」と呼ぶ声が聞こえたけれど、今の私には返事をする気力も無く。
代わりに、ジークが応えた。
「侍女殿。 俺には、どうしてエリーナ嬢があそこまで取り乱していたのか、2人の間にどのような事情があるのかも分からない。 だが、少なくとも今の彼女は体調を崩していて、その原因は貴女にあるように見えた。 だから、今日のところはこれで失礼させてもらう。 見送りはいらないから、今の事をマルコに報告しておいてくれ」
そう言い切るとジークはさっさと歩き出し、競歩の如き早足で馬車まで戻ると私を座席に寝かせると、自らの上着を脱いで掛けてくれた。
「城に着くまで少し辛抱してくれ。 もしも辛ければ、言ってくれれば馬車を止めさせるし、疲労が酷いのならば眠っても構わない。 とにかく、今は休め」
「はい。 ……その、本日はご迷惑をお掛けして」
「そういう気を遣うのは元気になってからにしてくれ。 それに、迷惑だなんて思っていないから、気にするな」
「はい……」
その後は、やはり疲労が祟ったのか意識はあっさりと落ちてしまった。
ゴトゴトと揺れる馬車の中、柔らかな座席のシートと眠りを誘う不当間隔の小さな揺れによって眠りに落とされるその刹那、最後に見たのは車窓から外を眺めるジークの横顔だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「やっと眠ったか」
車窓から外を眺めていたジークは、微かに聞こえ始めた寝息の音で、エリーナがようやく眠った事を察知した。
けれど、眠っている女性の顔をジッと眺めている事は紳士としてあるまじき行いである故に、再び窓の外を向く。
そして、車窓の景色を眺めながら、ついさっきユースクリフ邸で起きた騒ぎの一連を思い返していた。
エリーナは、大好きとまで言っていた自らの侍女と再会し、実際に途中までは仲睦まじく言葉を交わしていた筈だった。
なのに、途中からエリーナの様子がだんだんとおかしくなっていったのだ。
ジークがあれ程までに取り乱している彼女を見たのは、件のパーティーでの事件直後以来。
最近では、記憶を失っていると言えどもパーティーの事件後のような荒れ方も無く、むしろ以前よりも穏やかで聡くあった。
けれど、それは同時に何処か状況を達観しているかのような、その胸の内に諦念でもはらんでいるかのような物腰であったと、ジークは感じていた。
まるで、記憶と共に別の何かも失われてしまったのではないかと思う程に。
けれど、今回はその比ではない。
人を殺してしまったと狂乱していたあの時のような己を一切顧みる事の無い危うさは無いものの、以前とはまた質の違った狂気があった。
エリーナがユースクリフ邸で見せたあの様子は尋常ではなく、あの侍女に対して並々ならぬ信頼……いや、もっと深い感情、執着や依存の念を持っているかのようであったのだ。
それは、エリーナにとってある種のよすがであり、精神を安定に導く薬でもあったのだろう。
けれど、それは今日、崩壊した。
元より王妃や聖霊の一件もあって記憶を失ってしまう程にエリーナは精神的に不安定だったのに、ここにきてまた一つ、その心は信頼していた人物の裏切りと喪失によって傷付いてしまった。
その心境は、ジークには想像もつかなかった。ただ、目覚めたエリーナにどのような言葉をかけるべきだろうかと悩むより他に無かった。
そしてそう悩んでいるうちに馬車は王城へと帰還して、ジークは再びエリーナを横抱きにするとなるべく人目を避けて部屋へと運び、ベッドへと寝かし付ける。 そしてサリーを呼び出して目付けを指示し、自らは自室に戻った。
そうして自らの執務机の上に積み上げられた書類の山に手を付け、普段通りに政務をこなし、しかしまるで身が入らないと筆を投げ出した。
理由は当然、エリーナの事。
今は眠っているけれど、やがて目を覚ませば、エリーナは確実に再び現実に打ちのめされてしまうだろう。 ジークはそんな先を思えば、何か彼女の力になれないものかと思案せずにいられなかった。
だが、一体何をすればエリーナの慰めとなるのだろう。
ジークがこのようにエリーナの事で思い悩むのは2度目であるというのに、やはり適切な方法はまるで見当が付かない。
浮かぶ言葉はありきたりで薄く、品を贈ろうともそれに何の意味があろうか。
傷付いた心の癒しとは、どうすれば良いのか。
ジークには、まるで思い浮かばなかった。
ジークは優秀な王太子ではあるが、こうした機微には疎い部分が昔からあった。
テキスト通りに問題を解決する、生真面目かつ融通の利かない人間。 そのスペックはマニュアルに強く比重を置き、それ故に堅い。
しかし、それで大凡の事が罷り通ってきた。
罷り通ってきたからこそ、今こうして困っている。
優秀な王太子のマニュアルには、傷付き落ち込む女性の励まし方や慰め方なんて記載されていないのだから。
だから、ジークにはどうしようもない。
過去も、そして現在も。
事実、結果的には思い悩んだまま解を出せず、挙句は寝不足のままに普段通りにエリーナとの朝食の席へと向かう事となった。
そしてテラスへと向かえば、エリーナは既に席に着いてジークを待っていた。
「おはようございます、殿下。 今朝は私の方が早く着きましたから、こんな朝早くに急用でも入られたのかと思いました」
確かに、朝が弱く普段から朝食の席にはジークより遅れて参席するエリーナは、今朝は珍しく早くに着席していた。
ジークは、昨日の一件があるから今朝は普段より遅れても仕方がなく、もしかしたら体調でも崩してやしないかと少し心配していたが、それは杞憂であったと内心胸を撫で下ろす。
「おはよう、エリーナ嬢。 あー………そうだな。 気分はどうだろうか?」
「はい。 おかげさまで特に不調も無く、健やかに日々を送っています」
「いや、そういう事ではなく。 何か気に病んでいたり、どこか不調であったりはしないだろうか」
「……? いいえ、特に何も」
ジークの問いに、思い当たる所の無いとばかりにエリーナ小首を傾げて答えた。
そんなエリーナの反応は……何処か、妙であった。
昨日あんな事があったにも関わらず、しかしエリーナはその事を何ら気にしていないかのように、平素の様子でジークに応対しているのだ。
もちろん、ジークも違和感を覚えた。
さりとて、彼女は生まれてからずっと高位貴族の子女であった身であり、故に、何事も無かったかのように振る舞う程度の演技は出来てもおかしくはないと納得した。
心配は要らないと、その意思表示であろうと。
「そうか……なら、構わない」
それは彼女の矜持であり、ならば汲むべき事。
エリーナがそのように振る舞っているのであれば、それ以上ジークの側から突っ込むのは野暮である。
故に、ジークはそれ以上追求する事をやめた。
そうして席に着いて暫く。
堅苦しい食事会という訳ではないからと会話を交えながらフランクに、時にはサリーが2人の間に言葉を挟む普段の食事風景が流れていた。
特段、そこに変わった要素は無い。
いや……実際に、無い筈であった。
エリーナの方から、昨日の話が持ち出されるまでは。
「そういえば、ジーク殿下。 昨日は申し訳ありませんでした。 それと、不遜にも御前で眠ってしまった私を寝台へと運んで下さって、ありがとうございました」
「いや気にするな、昨日は色々と大変だったからな。 それに、一番辛かったのはエリーナ嬢の方だろう。 ……もう、大丈夫なのか?」
「はい……昨日の事は、必要な過程だったのです。 これから私は市井に降って生きるのですから、どちらにせよユースクリフ家との関係は切らねばならなかったのです。 でも、マルコがあのように思っていた事は意外でした。 心底嫌われているものだと思っていましたから」
ここで一つ、ズレる。
ジークの意図としては、マルコと話した後の一件である『アリーの裏切り』について尋ねたつもりであった。
もっとも、その程度のすれ違いはよくある話。
ジークは、それをすぐに訂正する。
「その話は、円満とまではいかずとも無事に解決した話だろう。 エリーナ嬢がマルコと仲睦まじくなれるよう応援してはいるが、そうではない。 俺が気にしているのは、君の乳母であり侍女であったアリーという女性の事だ」
「私の乳母で、侍女……のアリー、ですか? えっと、それはどなたの事なのでしょう?」
そして二つ、致命的にズレた。
ここにきて、ジークは己が感じていた異常の正体にようやく気付いた。
違和感の正体は、エリーナの態度。
昨日の一件からまるで時間が経っていないというのに、そしてあれだけ取り乱して憔悴していたというのに翌朝にはもう何事も無かったかのように振る舞って、挙句にあれだけ慕っていると語り、裏切られたと知って嘆いていたアリーの事をまるで知らないという風に「どなたの事なのでしょう?」と言う。
それは、ジークの中にあったエリーナの印象とは大分乖離したものであった。
感情に揺さぶられ易い、良識的な情のある人。 それがジークの持つエリーナの印象であり、こんなにも理性的で薄情で冷淡な人物ではなかった筈であった。
けれど、今のエリーナは冷淡ではない。
ただアリーについて尋ねれば「私はその方の事なんて、まるで知りませんもの」と困り顔で言うだけであった。
それは純粋な感情からの反応。
本人的に、何もおかしな事など無いのだ。
だがジークには、エリーナのその態度からは、内に底冷えするような何かを介在させているような不穏な雰囲気が感じられた。
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