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様々な問題

秩序という名の差別

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 無事に訓練を済ませ、ルウクは今日から久しぶりの出勤となる。

 それで気持ちが昂っていたせいか、朝早く起床してしまった。だからと言ってのんびりと過ごすのは性に合わないルウクは、いつもより早めの朝食を済ませそのまま執務室に向かった。あまりにも早い時間のせいで、まだセレンは執務室に来ていなかった。

 ルウクはセレンから預かった鍵を取り出し、執務室のドアを開ける。窓を開けて空気を入れ替え、自分に宛がわれている席に着いて、ようやくここに戻って来たのだと実感しホッと息を吐いた。

「早いな」

 緩み切っていた所に突然声を掛けられて、ルウクはびっくりして振り返る。そしてセレンの顔を見て、勢いよく立ち上がった。

「お、お早うございます。留守にしていて申し訳ありませんでした。今日からまた、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。復帰早々だが、仕事が恐ろしくあるぞ」

 そう前置きして、セレンはマルタスとリーガンの領地争いの件を説明した。そして客観的な証拠を突き付けて、いらない争いを終わらせなければならないという事も。

「マルタスの資料とかリーガンの資料とか言う風に、地方ずつで資料が分けられていれば良かったんだが、そういう風には保管されていなくてな。年代ごとに支出や歳入、そして陳情書などと項目別にそれぞれの資料が分けられているから、金が埋蔵されているギルリスタム地域に関する資料にたどり着くには時間が掛かって大変な作業になりそうだ」

 そう言いながらセレンは、執務室の一角にあるテーブルに、山積みされている資料を横目で見た。つられてルウクも視線を向ける。

「あれでもほんの一部なんだ。気長に、でも気を抜かずに頑張るしかない」
「畏まりました」

 そう言ってルウクは幾つか資料を手に取り、自分の机に持って行く。そこにクラウンがやって来た。

 挨拶を交わした後クラウンは席に着き、早速資料の続きをチェックし始める。そこへハイドやシガもやって来て、隣の秘書室へと移動した。

 ルウクは以前からの習慣通りに皆の分のお茶を淹れ、それぞれのテーブルに置いて行った。

「久しぶりの香りだな」

 セレンがカップを持ち上げて目を閉じる。香りを楽しむその主の姿に、ルウクの心もほっこりと温まった。

 本当は緊張しないといけないのであろう国王である主の傍が、やはりどうしても一番くつろげてしまう。だけどそれではいけないと、ルウクは身を引き締めた。軍での訓練の時でも、セレンとルウクの事を悪く言う人たちがいたのだ。

 セレンの出生を気に入らない人たちも居るのだが、それと共に農民出身のルウクを第一秘書にすること自体を解せないとする人たちも多い。

 どんなに国の為に頑張っていても、正当な評価をされない立場にいる主の足を引っ張るような事だけはしてはいけないと、ルウクは己にしっかりと言い聞かせた。

 シガたちにも紅茶を運んで行き、自分の席に着いて資料をチェックし始めた。だが、ギルリスタム地域の名前もおろか、マルタスやリーガンの名前も一向に出てこない。膨大な資料を前に、かなり手こずりそうだと心の中でため息を吐いた。

 どのくらいの時間が経っただろうか。静かな執務室に、ノック音が響く。慌てて立ち上がると、シガが入室の許可を得てフリッツと共に入って来た。

「フリッツ、どうだ? 学校建築費用のめどは立ちそうか?」
「財源自体は大丈夫だと思います。ただ議会での承認を得られるかどうかは別ですが」

「だろうな……。先日、平民の生活向上を真剣に考えなければならないと話しただけで噛み付く奴もいたぞ。この感じでは教師を含んだ人材の確保も厳しいかもしれん。とりあえずは公募する形をとって、それでも確保出来無いのであれば、強制的に移動させるしかないか……」

「まあ、そうですな。だが先日教え子に声を掛けてみましたら、2人から前向きな返答がありましたよ。ですから人材に関してはそう悲観することも無いかもしれませんぞ」

 ため息を吐くセレンにシガが落ち着いた声で報告をする。思いもよらない朗報に、セレンが顔を上げた。

「さすが、シガの教え子だな。少し希望が湧いてきた」
「はい」

 その後も色々と詰めた話をする3人の声を聞きながら、ルウクは黙々と資料のチェックを続けていた。

 文字を追うのに集中していると、ノック音と共にハイドが顔を出した。

「陛下、サイゴン伯爵がいらっしゃいました」

 ハイドの声にセレンが立ち上がる。

「よく来てくれた。ナイキ侯爵から聞いているとは思うが、伯爵の考えを聞かせてくれ。議会を招集したら教育改革関連の特別会計予算を承認してくれるか?」

「そのつもりです。正直最初はどうかとも思いましたが、侯爵からルーファス地方の技術者の話を聞きました。国を潤すために、いかに優秀な人材を育てることが大事なのかという事を身につまされて考えました」

「そうか。良かった……。伯爵ならそう言ってくれるとは思っていたが、内容が内容だから些か心配していたんだ」

「ですが平民が家業以外の職に就くことに関しては、些か疑問に感じます」
「サイゴン伯爵……」

「優秀な者を育てて国を潤すことには賛成です。ですがそれは己の家業をいかに効率よく進め、収入に生かすかという事に限っての事です。闇雲に自由を与えてしまっては、この国の秩序が乱れてしまいます」

「……何を言っているんだ、伯爵。この国では元々、職業に関して世襲に縛られる制度は無いはずだ。ただ金銭的に余裕が無いから、教育を受けられずに選択の幅が狭まっているだけの話しだろう」

「それは表向きの話です。考えてもご覧なさい。地を這い、泥にまみれるような仕事は平民が家業としています。それはそういう仕事が彼ら下々の者の務めだと、皆に周知されているからなのですよ」

 サイゴン伯爵の言葉にセレンの顔色が変わった。穏やかで聡明な印象のあるサイゴン伯爵が、そういう秩序と言う名の下の差別的意識を持っている人間なのだと知り驚愕する。

「……仕事に貴賤なんて無い。私なんか許されるのであれば、この王宮を出て農業に従事したいくらいだ」

 そのセレンの言葉に今度はサイゴン伯爵が目を見開いた。それは正に、信じられないものを見る時の表情だった。
 そして目を伏せて、ため息を零す。

「……変わったお方ですね」
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