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◇第1章
【5】噛みしめた言葉とお願いごと
しおりを挟むカチッカチッ……と、いつもより大きく感じられる時計の音が幾度響き渡った頃だろうか?
お父様は少々俯いたまま右手を離され、何かを決心したようにようやくしっかりと私の方を見据えて口を開かれた。
「やはり、そうか…………リーシェ、よく聞きなさい。お前は『オツキサマ』となった。それも願いを叶えることができなければ厄災を振りまくと言われている非常に強力な神様がお憑きになられている……お前はクランシュタイン家の娘としてこれまでも人並み以上に努力してきただろうが、これからはその比ではない。今以上に勉学や魔法の上達に励み、より見聞を広めなさい。何よりも神様の願いを叶えて差し上げることが一番大切だ。他のことは捨て置き、神様の願いを叶えるために精進しなさい」
一つ一つを噛みしめるように口にされたお父様の表情は、いつもより固く厳かだ。
お父様がこうして必要以上に強い言葉を投げかけられたのは、これから私が周囲から向けられるであろう視線や歩まなければならない茨の道を誰よりも理解してくれていたからだ。
今であればそれを理解するのは容易いが、一回目の幼くして傲慢な私にはお父様の言葉は本当の意味では届かなかった。
その言葉から「自分はより特別な存在になったのだ」と錯覚した私は、それまでよりも度を増して自尊心が肥大していった。そして、事あるごとに私を素直に認めてくれようとしないお父様に対して不満や苛立ちを抱き、徐々に不仲になっていった。また成長するごとにその傲慢さに拍車がかかっていった結果、破滅への道を辿ることになってしまったのだ。
七歳の娘に対してという面を考慮するのであれば、お父様の言い方にも多少問題はあったのかもしれないが、それでも私がもっときちんとその言葉の意図を汲み取ろうとしていればあのような結末にならなかったかもしれない。
二回目からそう思い直した私は、いつもできる限り柔らかく、しかし毅然とした態度でこう答えるようにしている。
「はい、お父様。リーシェはこれからもクランシュタイン家の令嬢として恥じることのない振る舞いをし、必ずや神様の願いを叶えてみせましょう」
お父様は刹那ごく僅かに目を見開いたが、数回首をゆっくりと縦に振った後、私の頬をそっと撫でた。
目を閉じ、その時間をゆっくりと堪能する。
「ヒロインに期待しない」と決めたものの、ストーリーを大きく変えていくことに対しての不安はやはり大きい。
物語のヒロインが乗り越えていくイベント数はそれなりに多く、そしてその内容はヒロインにとって試練となるよう設定されており、かつ日々成長していくヒロインに比例して段階的に難易度が上げられているからだ。
チート的存在のヒロインだからこそ乗り越えられるようなそれらを、傲慢さゆえに物語の終盤で命を落とす悪役令嬢が代わりにやろうだなんて無謀もいいところかもしれない。
…………それでも、次のチャンスはもうないのだ。
今回こそ、私は生きながらえなければならない。
だから臆さず、できる限りのことをやっていかなければならないのだ。
そう自分に言い聞かせ、私は口を開く。
「……そうだ、お父様。私、一つお願いがありますの」
「ん? 何だ? 言ってみなさい」
お父様は私の頬から手を離し、いつも通りの表情でこちらの返答を待たれた。
私はにこやかに告げる。
「はい。今回、こうして厄災の神様であるノインが私に憑いたことですし、エルヴィス殿下との婚約は白紙に戻してほしいんですの」
「……えっ?」
「お父様もおっしゃったでしょう? 『他のことは捨て置け』と」
思ってもみない言葉だったからかお父様はピタッと固まってしまう。
この時期にはもう私は原作の攻略対象であるこの国の第二王子、エルヴィス・ネオセインティア殿下と婚約していた。理由はもちろん、当時の私が殿下に一目惚れしたからである。
現在この国唯一の公爵令嬢である私は家柄的にも申し分なく、第二王子側からしても都合のいい相手だったため、お父様から王室に話を持ちかけると驚くほど円滑に婚約まで至った。
しかし当然のことながら、いくら私が殿下のことを好きだったとしても、殿下にとっては政略的なものでしかなく、一回目の人生では婚約当初から死ぬまでずっと一方通行の恋愛関係だった。
前世を思い出した二回目以降の私はそんな関係に執着するはずもなく、元々の殿下を慕う気持ちも繰り返すごとに薄れていったため、今は殿下に対して何の感情もない。
過去の人生でこんなにも早い段階で婚約解消に向けて動いたことはないが、ヒロインの代わりに動こうとするならその分、今までよりも私がやらなければならないことはかなり多くなる。今回も死亡リスク回避のために攻略対象であるエルヴィス殿下とはなるべく関わりたくないし、どの道婚約は白紙に戻すだろうから早めに済ませておくに越したことはないだろう。
「……実は私、少し前から殿下との婚約解消を思案しておりまして、円満に解消できそうな理由を探しておりましたの。そこで今回ちょうどいい感じの理由ができましたので、これを機に是非婚約を解消したいと思いまして……ダメでしょうか?」
「……だめではないが…………あんなにお慕いしていたというのに急にどうして……リーシェ。もしかして殿下と何かあったのか?」
「あれは数ヶ月前のことでした」
待ってましたと言わんばりにサッとお父様から顔を背け、意図的に若干声を震わせて続ける。
「その日は月に一度のエルヴィス殿下とのお茶会の日で、まだ殿下に対して好意を持っていた私は何かプレゼントを送りたいと思い、手作りのクッキーを持って行きましたの……そしたら殿下は、『こんな毒が入ってそうなクッキー食えるか』とおっしゃって持っていったクッキーをすべて地面に落とし、そのまま踏みつけられましたのっ! …………以前から少々私のことを毛嫌いしていらっしゃるように感じておりましたが、正直ここまでとは思っていなくて………だから私……その一件があってから私は殿下にふさわしくないのではと考え始め、たくさん思い悩んだ末、殿下から身を引こうと思うようになりましたの」
これらはすべて本当の話だ。
……まあ、クッキーに関しては年相応に幼かった私が「あまりにも真っ黒な色をしたクッキーのような何か」を作ってしまったことが原因なのだけれど……それを地面に落として踏みつけるのはよくないことだしこれくらいの言い分は許されるよね、うん。
すべてを聞き終わった後、お父様は私を抱きしめ普段より少し大きな声で「そんなやつと無理に結婚することはない。すぐに婚約解消の話を進めよう、私に任せておきなさい」と、それはもう嬉しい言葉を聞かせてくれた。
そうして私は心置きなくお父様をめいっぱい抱きしめ返した。
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