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漠北哀歌
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戈壁砂漠の北方、浚稽山の麓から南行すること既に八日。荒涼たる山谷に人煙は皆目として見えず、辺りは幾許とも許されぬ枯れ木が立つのみである。鳥獣の声が高々と響き朔風寒々と吹き荒ぶ。川の轟きは絶えて久しく、渇いた砂礫を染めるのは、流れた血潮のみであった。
敵匈奴の勢力圏只中にあって騎都尉・李陵率いる寡兵五千、それも幕僚を除く全てが歩卒であるこの隊は、連日の激戦を繰り広げていた。最も近い漢城・遮虜鄣でさえ千数百里と離れた胡地である。己に二十倍する大軍を相手にした獅子奮迅の戦いぶりは、統率者李陵に対する絶対的な信頼と心服が無ければ、到底成し得ないものであっただろう。
陵、自ら帝に請うて危険を志したのは、凡そ五カ月前の事。
既に東にある朔方では因杅将軍・公孫敖が防ぎを築き、遥か西方天山に於いては三万騎を率いた弐師将軍・李広利が匈奴の右賢王を討たんと酒泉を発していた。
願わくば我、小を以て衆を討たんと欲して与えられた詔は、砂漠を越えて深く踏み入り、敵を側面から牽制せしめんとの任であった。
李陵率いる小隊が都を後にし、北行を経ること四十余日。斯くして隊の眼前に現れたのは、天山で漢軍三万騎を壊滅させた敵匈奴、その本隊であった。西方の弐師将軍を早々と退け、矛先を東へと向けたその道中に会敵したのである。
単于自ら率いる兵はゆうに数万を超え、敵するに殲滅は免れない。李陵旗下五千、能く戦い能く退き、胡兵の屍を累々と築き、戦況は一時、峡谷を抜け辺塞へ駆け得るかにまで至った。しかし文字通り桁の違う相手に漢軍の兵は減るばかりである。刀が折れ矢も尽き果てたのは、決して比喩では無い。
最も多くの死者を出した夜、既に生きて故地を踏めぬと悟る兵達に、便衣を身に纏った李陵は誰もついてくるなと静かに命じた。いつにも増してその涼やかな口調に、幕僚皆、無言でその帰りを待つ事となった。
夜闇の中、月の明かりを避けながら、李陵は身を屈めて歩を進める。片手は常に石や砂にあて、踏み入る音さえ消し入ろうとする慎重さである。白く灯る息遣いさえ疎ましく、出来うる限りに瞳孔を広げ、短刀を腰元に帯び、単于の帷を只一人目指して山間を伺った。
やがて松明の明かりに気付いた時、通り掛かった歩哨がこちらを指さしているのがわかった。抜かったと歯噛みした李陵は尚も逡巡した。歩哨あらば単于のいる場所も粗方の目途がつく。ここで踏み入りあくまで機を狙うべきか、或いは自幕へと戻るべきか。
その迷いを逃さぬかの様に、後ろから砂礫の鳴る音が近づいて来た。静かに短刀を抜いて振り返れば、胡兵の一人がこちらへ近づきつつある。咄嗟に身を隠そうとしたが、勢い余り足元の砂が滑る。伸ばした掌は虚空を掴むのみで、李陵はそのまま谷の狭間へと転がり落ちて行った。
目が開いたとき、瞳に映ったのは星を横切る雁、月に照らされる濡れた様な岩肌、そして、異様なほど大きな偉丈夫であった。余りある体躯に巨眼赭髯を備えた風貌は、暗闇の中でさえその影を落としている。
悠然と胡坐を組んで座っている大男は、李陵が目を覚ましたことに気づき、声を掛けた。言う。今まで幾度と無く漢軍とは戦ってきたが、これほど手強い敵に遭ったことは無い。飛将軍・李広の驍名は今も尚、我らに語り伝えられている。その孫である男は強き者の子孫であり、また、男も強かった、と。
峡谷に吹く寒風をも跳ね返す隆々たる体躯。寒い土地では自然、人も獣もその身体が大きくなると聞くが、まさにこの男はこの大地の申し子であろう――、一目でわかるこの男が――且鞮侯単于である。
直感した李陵は腰元へと手を伸ばしたがそこに柄は得られなかった。先ほどの転落でどこかへと失ったらしい。その様子を見るでも無く、大男は更に訥々と言葉を続けた。李陵よ、今日のことは誰の耳目ぞ入らぬ。ここにおれが居るのは偶々だ、と。
この事態には流石の李陵といえども困惑した。敵の王が眼前におり、話をしようと言うのである。そして、その声には何の裏も――篭絡しようであるとか、降伏を進めるであるとか、そう言った響きが無い。士であるが故に語らんとするとしか考えられない物言いは、李陵をして、底知れぬ畏れを刻みつけられるものだった。
逡巡の後、李陵は座した。発した言葉は幾つも無いのだが、相対して殺し合いをした将と少しなりとも言葉を交わすことは、とても不思議なものであった。士は己を知る者の為に死すと言う。或いは、互いに命のやり取りをした者同士で無ければ解り得ぬ境地もあるのかも知れないと、李陵は、その胸に宿る何かが感ぜられた。
やがて胡兵の持つ松明の近づきが見えた時、男はその身体を立ちげた。明日からまた殺し合いが始まるのは詮無きことだが、殺すにしろ殺されるにしろ、こうして話をしたかったのは本当だ。武運を祈らんと語り、夜闇へと静かに消えて行った。
それから李陵は、来た時と同じ様に慎重を期し、自らの幕へと戻り着いた。幕僚達は皆、先程と変わらぬ様子でその帰りを待っていた。彼らに暗殺が不可であったことを告げると、次いでその覚悟を口にした。その顔は、夜よりも深い底を見つめている様であった。
月の落ちた頃、李陵率いる全軍は匈奴の不意を衝いて峡谷へと駆けた。最も近い遮虜鄣までも幾日掛かるとさえ知れぬ。なれども座して縛を受けるより、各自鳥獣と散り天子に軍状を報告し得る道を選んだのである。
やがて気が付いた敵の追撃に遭い、大部分が討たれ或いは捉えられた。しかし数十人は混戦の中で胡馬を奪い得る。血飛沫の舞う峡谷を辛じて突破した兵達は李陵と共に遮二無二南方を目指して駆け抜けた。
その部下の数を確かに数え終えると、李陵は只々声を上げて行けと命じた。こと此処に至っては最早天子に、そして家族にも見ゆべき面目は無い。峡谷の入口へとって返した李陵は、そのまま修羅場へと馬首を向けた。
敵匈奴の勢力圏只中にあって騎都尉・李陵率いる寡兵五千、それも幕僚を除く全てが歩卒であるこの隊は、連日の激戦を繰り広げていた。最も近い漢城・遮虜鄣でさえ千数百里と離れた胡地である。己に二十倍する大軍を相手にした獅子奮迅の戦いぶりは、統率者李陵に対する絶対的な信頼と心服が無ければ、到底成し得ないものであっただろう。
陵、自ら帝に請うて危険を志したのは、凡そ五カ月前の事。
既に東にある朔方では因杅将軍・公孫敖が防ぎを築き、遥か西方天山に於いては三万騎を率いた弐師将軍・李広利が匈奴の右賢王を討たんと酒泉を発していた。
願わくば我、小を以て衆を討たんと欲して与えられた詔は、砂漠を越えて深く踏み入り、敵を側面から牽制せしめんとの任であった。
李陵率いる小隊が都を後にし、北行を経ること四十余日。斯くして隊の眼前に現れたのは、天山で漢軍三万騎を壊滅させた敵匈奴、その本隊であった。西方の弐師将軍を早々と退け、矛先を東へと向けたその道中に会敵したのである。
単于自ら率いる兵はゆうに数万を超え、敵するに殲滅は免れない。李陵旗下五千、能く戦い能く退き、胡兵の屍を累々と築き、戦況は一時、峡谷を抜け辺塞へ駆け得るかにまで至った。しかし文字通り桁の違う相手に漢軍の兵は減るばかりである。刀が折れ矢も尽き果てたのは、決して比喩では無い。
最も多くの死者を出した夜、既に生きて故地を踏めぬと悟る兵達に、便衣を身に纏った李陵は誰もついてくるなと静かに命じた。いつにも増してその涼やかな口調に、幕僚皆、無言でその帰りを待つ事となった。
夜闇の中、月の明かりを避けながら、李陵は身を屈めて歩を進める。片手は常に石や砂にあて、踏み入る音さえ消し入ろうとする慎重さである。白く灯る息遣いさえ疎ましく、出来うる限りに瞳孔を広げ、短刀を腰元に帯び、単于の帷を只一人目指して山間を伺った。
やがて松明の明かりに気付いた時、通り掛かった歩哨がこちらを指さしているのがわかった。抜かったと歯噛みした李陵は尚も逡巡した。歩哨あらば単于のいる場所も粗方の目途がつく。ここで踏み入りあくまで機を狙うべきか、或いは自幕へと戻るべきか。
その迷いを逃さぬかの様に、後ろから砂礫の鳴る音が近づいて来た。静かに短刀を抜いて振り返れば、胡兵の一人がこちらへ近づきつつある。咄嗟に身を隠そうとしたが、勢い余り足元の砂が滑る。伸ばした掌は虚空を掴むのみで、李陵はそのまま谷の狭間へと転がり落ちて行った。
目が開いたとき、瞳に映ったのは星を横切る雁、月に照らされる濡れた様な岩肌、そして、異様なほど大きな偉丈夫であった。余りある体躯に巨眼赭髯を備えた風貌は、暗闇の中でさえその影を落としている。
悠然と胡坐を組んで座っている大男は、李陵が目を覚ましたことに気づき、声を掛けた。言う。今まで幾度と無く漢軍とは戦ってきたが、これほど手強い敵に遭ったことは無い。飛将軍・李広の驍名は今も尚、我らに語り伝えられている。その孫である男は強き者の子孫であり、また、男も強かった、と。
峡谷に吹く寒風をも跳ね返す隆々たる体躯。寒い土地では自然、人も獣もその身体が大きくなると聞くが、まさにこの男はこの大地の申し子であろう――、一目でわかるこの男が――且鞮侯単于である。
直感した李陵は腰元へと手を伸ばしたがそこに柄は得られなかった。先ほどの転落でどこかへと失ったらしい。その様子を見るでも無く、大男は更に訥々と言葉を続けた。李陵よ、今日のことは誰の耳目ぞ入らぬ。ここにおれが居るのは偶々だ、と。
この事態には流石の李陵といえども困惑した。敵の王が眼前におり、話をしようと言うのである。そして、その声には何の裏も――篭絡しようであるとか、降伏を進めるであるとか、そう言った響きが無い。士であるが故に語らんとするとしか考えられない物言いは、李陵をして、底知れぬ畏れを刻みつけられるものだった。
逡巡の後、李陵は座した。発した言葉は幾つも無いのだが、相対して殺し合いをした将と少しなりとも言葉を交わすことは、とても不思議なものであった。士は己を知る者の為に死すと言う。或いは、互いに命のやり取りをした者同士で無ければ解り得ぬ境地もあるのかも知れないと、李陵は、その胸に宿る何かが感ぜられた。
やがて胡兵の持つ松明の近づきが見えた時、男はその身体を立ちげた。明日からまた殺し合いが始まるのは詮無きことだが、殺すにしろ殺されるにしろ、こうして話をしたかったのは本当だ。武運を祈らんと語り、夜闇へと静かに消えて行った。
それから李陵は、来た時と同じ様に慎重を期し、自らの幕へと戻り着いた。幕僚達は皆、先程と変わらぬ様子でその帰りを待っていた。彼らに暗殺が不可であったことを告げると、次いでその覚悟を口にした。その顔は、夜よりも深い底を見つめている様であった。
月の落ちた頃、李陵率いる全軍は匈奴の不意を衝いて峡谷へと駆けた。最も近い遮虜鄣までも幾日掛かるとさえ知れぬ。なれども座して縛を受けるより、各自鳥獣と散り天子に軍状を報告し得る道を選んだのである。
やがて気が付いた敵の追撃に遭い、大部分が討たれ或いは捉えられた。しかし数十人は混戦の中で胡馬を奪い得る。血飛沫の舞う峡谷を辛じて突破した兵達は李陵と共に遮二無二南方を目指して駆け抜けた。
その部下の数を確かに数え終えると、李陵は只々声を上げて行けと命じた。こと此処に至っては最早天子に、そして家族にも見ゆべき面目は無い。峡谷の入口へとって返した李陵は、そのまま修羅場へと馬首を向けた。
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