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76. ささやかな願い
しおりを挟む何度も数字を確認して、リリは帳簿ノートをそっと閉じた。
すっかり冷えてしまった紅茶で喉を潤すと、満ち足りたため息をつく。
(すっかり異世界生活にも慣れました……)
曾祖母シオンが亡くなったのは、春の終わりのこと。
初夏の陽射しの下、遺産として引き継いだ『魔女の家』に引っ越してから、本当に色々なことがあった。
あらためて振り返ると、信じられないことばかりが続いている。
(おばあさまが異世界生まれのエルフで、世界を救った大魔女だったとか。私がその血を濃く引いて、この世界では生きていけないとか)
魔法の扉を通って、異世界へ渡ることができたことも驚きだったけれど、言葉を話す黒猫と出会い、まさか自分が異世界で暮らすことになるとは思いもしなかった。
人に化けられるドラゴンと仲良くなって、今では異世界でお店を経営している。
雑貨店『紫苑』の営業は好調だ。
女の子のための雑貨店だけあり、華やかで愛らしい服飾品はよく売れている。
普段使いのワンピースに、お出掛け用の綺麗めワンピース。
レースやフリル、リボンで彩られたブラウスにシンプルなロングスカート、パニエで膨らんだ愛らしいフレアスカートなども最近は人気がある。
セオがマネキン代わりになっている『王子系』と呼ばれる少年装も意外と需要があり、売れ行きは好調だ。
衣装に合わせたバッグや帽子、リボンにカチューシャ、靴下の類もよく売れている。
「利益率が高いのはガラスペンね。ある程度売れたら、頭打ちになるかと思っていたけれど……」
地味に根強い人気があるのだ。
これまでの羽ペンと比べても書き味がよく、何より美しい。
自分用に誂えたら、次はギフト用にと次々と売れていった。
様々なカラーリングやデザインのものを仕入れて販売し始めると、マニア心を刺激したのか、全色を集めようと躍起になる人々が増えたのだ。
おかげで、ガラスペンはすっかり『紫苑』の定番商品となった。
「ペンが売れると、ついでにインクや便箋が売れるから、ありがたいです」
消耗品なので、こちらもよく売れている。
ガラスペンの蒐集家とカラーインクの蒐集家のおかげで、文房具も売れ筋商品だ。
「売れ筋と言えば、ティーセットも奥様方に人気でしたね。高額商品なので、飛ぶようには売れませんが、根強い人気を誇っています」
ティーセットを購入する富裕層のご婦人方は『紫苑』の紅茶缶とデザインシュガーをもれなく持ち帰っている。
花や小鳥、蝶などをモチーフにした愛らしい砂糖はもちろん、バラやスミレの砂糖漬けはお茶会には欠かせないアイテムだ。
これらも消耗品なので、定期的に売れていく。
お茶会でそれらの品が話題になると、翌日以降は新規のお客さまが押し寄せてくるため、クロエやネージュは嬉しい悲鳴を上げていた。
「でも、いちばんの稼ぎ頭はお酒なんですよね……」
悔しいことだが、仕方ない。
今のところ、日本から仕入れている酒類はすべて辺境伯であるルチアが買い取ってくれている。
かなり色を付けての買い切りなので、リリ的にはとてもオイシイ契約だ。
利益率も凄まじい。
まさにぼったくりの所業であるが、あまり安値で設定すると、他の店の商品が売れなくなるのだと警告されてからは開き直っている。
(女の子のための雑貨屋なんだけどなー……)
複雑な気分だが、お酒がそこまで高値で売れているおかげで従業員の皆にもボーナスを奮発できるのだ。
ドライイーストは儲けはほぼ無く、ボランティアに近い気持ちで孤児院に卸している。
おかげで、魔素がたっぷり入った美味しいパンを毎朝食べられるようになったので、結果オーライだ。
使い魔の契約を交わしたナイトとルーファスが日本での雑用を手伝ってくれるようになったので、リリはかなり楽になった。
雑貨店『紫苑』の方も、三人の従業員のおかげで、店長であるリリが不在でも問題なく回るようになっている。
異世界へ移住して、あっという間の二ヶ月だった。
ようやく落ち着いて、異世界の書物を紐解けるようになり、リリは新しいことに挑戦したくなってきた。
そう、日本ではずっと諦めてきたこと。
「旅をしたいわ、私」
◆◇◆
ぽつりとこぼした一言を、使い魔の二人は聞き逃さなかった。
「……旅? リリィは旅がしたいのか」
ゆったりとソファに腰掛けて、日本から持ってきたアルバムを広げていたルーファスがこちらをじっと見つめてくる。
黒猫のナイトはわざわざお昼寝していた窓際から起き上がると、とことこと歩み寄ってきた。
『そうなの? どこに行きたいんだい? ボクが案内してあげるよ』
「む。待て、旅ならば俺がいた方がいいだろう。どれだけ遠い場所でも、俺ならひと飛びで連れていってやれるぞ」
『あいかわらず、おバカだね、キミ。旅って、そんなものじゃないだろう。シオンさまも周辺をのんびり観光しながら旅をすることを楽しんでいたよ』
それは初耳だ。
リリの知っている曾祖母は、あの『魔女の家』でのんびりと庭を眺めながらお茶を楽しんだり、温室で土いじりをするインドアなイメージしか無かったので。
「シオンおばあさまも旅がお好きだったのね。いいなぁ……」
遠足もスキー研修も修学旅行さえ不参加だったリリには、旅が憧れなのだ。
「……リリィがしたい旅も、そういうものなのか?」
戸惑いながらも、そう問いかけてきたルーファス。
リリはそっと小首を傾げて思案する。
「そうですね。私もどうせなら、一気に目的地に到着するよりも、のんびりと景色を楽しみながら進みたいです。色々な街で食べ歩きや観光もしたいし、気に入った土地でしばらく暮らすのも楽しそう」
せっかく、居住性が抜群のキャンピングカーがあるのだ。
大魔女シオンの魔法で馬車に偽装してあるので、のんびり旅するには最適である。
簡易キッチンにトイレもあるので、安心してドライブを楽しめると思う。
(何より、私には『魔法のトランク』がある)
曾祖母シオンの遺産のひとつである、魔法のトランクは家を持ち歩けるのだ。
(気に入った景色があれば、その土地にマイホームを出すことができるもの。最高の贅沢だわ!)
想像するだけで、口元が笑み綻びそうになってしまう。
ずっと体調が悪くて、遠出なんてとんでもない、と我慢してきたリリだが、すっかり元気になった今なら、存分に旅を楽しむことができるのだ。
「……分かった。なら、車は俺が運転しよう」
「え?」
重々しい口調で断言するルーファス。
リリが驚いている間に、話はどんどん進んでいく。
『そうだね。そのくらいは役に立たないと。ちなみにボクはニンゲンの国についても詳しいから、案内役は任せてね、リリ』
「あ、はい。心強いです……?」
黒猫ナイトが自信に満ちた表情で念押ししてきたので、リリはつい頷いてしまった。
頼りになる筆頭使い魔の発言には無条件で承諾する癖がついているのだ。
「あっ……」
気が付いたら、張り切った二人が古ぼけた地図を広げて何やら盛り上がり始めたので、口を挟む余地もない。
(……まぁ、いいか。お店も問題なさそうだし、体調もすこぶる良いですし? 日本への定期報告さえ忘れなかったら、叱られることもないはずです)
そう、ずっと考えていたのだ。
こちらの世界での生活が落ち着けば、旅をしてみたい、と。
不思議な生き物が生息し、魔法を使うことができる、この異世界を見て回りたいと、ずっと熱望していたのだ。
ぼんやりと夢見ていた、異世界旅。
旅のお供は黒猫と泣き虫なドラゴン。
リリは魔法のトランクを手にして、のんびりと知らない街を歩いていく。
「うん、悪くない光景です」
季節は、夏。
涼しい避暑地を目指すのも良い。いっそ、南国の海へと向かうのはどうだろうか?
地図を覗き込む二人の間に割り込むと、リリはにこりと笑みを閃かせた。
「行きましょう、異世界旅行!」
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