恋の音が聞こえたら

橘 華印

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第一章

02:別れてほしいんだ

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 しゅわしゅわと、はじけていく炭酸の音が耳に入る。
 お気に入りのカフェの店内、慣れたソファで座りを直して、都はお気に入りのコーヒーソーダをストローでかき混ぜた。カロカロと鳴る氷のぶつかり合いも、心地が良かった。

 少し離れたテーブルから聞こえてくる、友人同士や恋人たちの会話も、ざわめきとしてすんなり入ってくる。小さなわけではないが大きな店でもない。そんなカフェで恋人と過ごすのは、とても好きだったのだが。
「正弘さん、飲まないの? 冷めるよ」
「あ、ああ、うん……」
 どうも、目の前に座る男の歯切れが悪い。視線を合わせもせずに、落ち着きがないのだ。少し年上の彼は、いつでもスマートにエスコートしてくれていた気がするが、今日はどうにもよそよそしい。何かあったのだろうかと都は不安に駆られた。
 やがて意を決したように彼が顔を上げる。都の心臓が嫌な音を立て、グラスの中の氷がガロ……と鳴き声を上げた。


「別れてほしいんだ」


「……は?」
「別れてほしい。きみのことを嫌いになったわけじゃないんだ。でも俺ももう三十になるし、ほら、いろいろあるだろう。結婚とか。親もうるさくなってきたし」

 この男は何を言っているのだろうかと、都は目を瞠る。ガンガンと頭を殴られているような感覚を味わって、体の中で何かが割られた音を聞いた。
 そこでようやく、別れ話を切り出されているのだと認識し、目を瞬いた。
 予兆はなかったはずだ。
 先週だって、ここで待ち合わせてホテルへ行って、いつも通りの夜を過ごしたはずなのに。

「ま、さ……ひろ、さん、結婚……すんの?」

 嘘だ。そう思いたい都の指先が震える。考えたこともなかった〝結婚〟という二文字を、いきなり投げつけられた気分だった。

「そういうことを考えている人はいる」

 愕然とした。
 結婚を考えているということは、少なくとも親しい付き合いのはずで、見合いでもない限りは、昨日今日出逢った女性というわけではなさそうだ。

「大学の同期で、ゼミも一緒だったんだ。それで……」
「あー、あぁ、なるほどね。ははっ、まさか浮気相手になってるとは思わなかった。男相手なら疑われないもんな」
 男は、聞いてもいない相手との関係を話し始める。いくらなんでもデリカシーのかけらもないなと、都は遮って睨みつける。親の勧めで見合いをしたと言われた方がまだマシだった。
「きみのことはそれなりに好きだったけど、将来を考えるとどうしてもさ……だから、その、悪いけど……」
「……めた」
「え?」
「――冷めた、っつったの」

 都は大きな息を吐いて、呆れぎみに告げた。グラスの氷をかき回して、炭酸の泡が逃げていくのを楽しむ。まだどれだけも飲めていなかったせいか、パチパチと外へ飛び出してくるものまであった。
 はじける音を聞くたびに、同じ音を立てて心が割れて、指先から熱が逃げていくような感覚にとらわれた。

「俺が浮気とか二股とか嫌いなの、言ってたはずじゃん。それも覚えてないほど俺に興味なかったんなら、仕方ねーけどさ」
「そ、それは覚えていたけど」
「まあ、本命がいることに気づかなかった俺も、それほどアンタに興味なかったのかな。ねえ、連絡先消していい? そっちも消して。もう逢うことないでしょ?」

 男の声を遮り、ポケットから携帯端末を取り出して、画面を操作する。消去しますか、と聞いてくるシステムに躊躇いもなくOKを返して、待受画面に戻した。
 男が気まずそうに同じ操作をするのを眺めて、店内のざわめきに耳を傾けた。

 仕事の話、旅行に行く話、子供の話。

 みんなそれぞれ楽しそうであり大変そうでもあり、けっして自分だけが不幸なわけではないのだと言い聞かせる。

「……じゃあ、これ。ここの支払い」
 男は財布から一万円札を取り出して、テーブルの上に置いてくる。男のブレンドコーヒーと、都のコーヒーソーダの分にしては、ずいぶんと多い。
「多くない?」
「今細かいのがなくて」
 男はそう言うが、今ちらりと見えた財布の中には、千円札もちゃんと入っていた。
「ああ、てヤツね。ハイハイ。じゃあもらっとく」
「少なくない?」
 カフェの代金にしては多い、手切れ金にしては少ない。

 男がおかしそうにふっと笑って、席を立つ。
 話がついたのならば、これ以上ここにいる必要はないとばかりに、半分ほど残っているコーヒーもそのままに、都に別れを告げてきた。

「元気で」
「……アンタも」
 都はひらひらと手を振ってやり、ひとまず後腐れのない別れを演じてみせる。
 少し離れたところでドアが開く音、閉まる音を聞いて、完全に見えなくなってから、ようやく無理をして作っていた顔から力を抜いた。
 ず、とソファの上を尻が滑り、落ちてしまわないかという位置で止まる。

「………………フラレた、のかぁ……」

 目を伏せて、体中のすべてを吐き出すかのように長く息を吐く。その弾みで危うく尻がずり落ちそうになって、おっと、と両手でソファをつかみ、深く腰をかけ直した。
 そうしたら、必然的に相手席のコーヒーカップが目に入り、都はそれをぼんやりと眺める。
「結構好きだったんだけどなあ……」
 都は自分がゲイであることを自覚していたし、年上の男に弱いのも知っていた。

(でも浮気は無理。即お別れ案件)

 昔、両親が浮気だの暴力だので離婚してから、そういうものには嫌悪感を抱いていたし、女性と深い付き合いができないのも、父に暴力を振るわれる母を見て育ってきたせいだろう。
 あの男の血が流れているのならば、自分もいつか、女性に暴力を振るってしまうのではないかという恐怖。父に甘えることもできなかった欲求。

 それが、面白いほど性癖に反映していた。

 音に敏感なのもそのせいかもしれない。
 両親のケンカを聞きたくないと耳を塞いでいたはずなのに、それでも聞こえてくる暴力的な音の数々。昔はドアの開閉音にさえビクついていた。その後に何も聞こえてこなければ、今日の父は優しいかもしれない。今日の母は笑っているかもしれない。そんな期待をした。ほぼすべての場合で、期待は裏切られたわけだけれども。
 浮気をされた家族がどんなに傷つくかを知っているから、浮気はしないし、してほしくない。
 心の底からの願いだったが、彼には届かなかったようだ。まさか自分の方が浮気相手にされていたなんて、情けなくてしょうがない。

(大丈夫、こんなの。不毛って分かってたし、諦めるのも慣れてる)

 都は大きく息を吐く。そうすることで、流れてきそうな涙を我慢した。

(大丈夫)

 前髪をかき上げ、ソーダをすする。入るべきではないところに入ってしまったのか、むせ返ってしまった。ゲホゴホと咳き込む口を押さえると、なんの弾みか、ぽろりと目から水滴がこぼれる。

「……っ」

 これ以上惨めな気分になりたくないと、都はその涙をすぐさま指で拭った。だが、あふれ出てくるものを隠し切れずに、ついには肘をついて組んだ手の上に額をのせて、声を殺して泣いてしまった。

「……っふ……ぅ」

 今日はもうこのまま返って泣いて、泣いて、明日はいつも通り仕事に行こう。


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