恋の音が聞こえたら

橘 華印

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第二章

11:手帳の持ち主は

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「はよーっす」
 事務所のドアを開けると、もうすでに出勤した事務員たちの、明るい声で迎えられる。
「おはよーございますヤコさん。コーヒーいります?」
「ヤコちゃんおはよ。ねーこの間の報告書、まだ出てないよー」
 夜間学校に通いつつここで働いている女の子に頷く。子供の手が離れたからと、フルタイムで経理までこなしてくれる女性には、ごめんなさいすぐ出しますと手を合わせてみる。
 あと数名のスタッフと所長。本当に小さな職場ではあるが、都には居心地がいい。

藤吾とうごさんおはよ。何か変わったことない?」
 そうして、所長に朝の挨拶。
 引き継ぎはパソコンをつければ分かることだが、ひとまずのコミュニケーション。窓際、全体が見渡せるデスクで、所長である春日野藤吾はメールの処理をしているようだった。 
「おはよう、ヤコちゃん。特に変わった案件は入ってないよ。今日の予約は、ワンちゃんのお散歩三件とオトミさんとこの買い物のお手伝い。あとお掃除案件がいくつか」
 いつもと同じような内容だと都は安堵し、コーヒーを受け取って一口。
「あそ。あのさー藤吾さん、それやめてよね。とうとう藤木ちゃんまで、俺のことヤコって呼ぶようになっちゃったじゃん。あ、藤木ちゃんコーヒーありがと」
「え、でもそんなこと言われてもなあ。ヤコちゃんはヤコちゃんだし」
「いいじゃないですか、可愛いですよヤコさん。親しみやすいし」
「そーよぉ、ウチの子もヤコちゃんと遊びたい遊びたいって言ってるし、好かれてんのね」
「お子さんにまで、何を教えてんですか山崎さん……」
 これはもう直りそうにはないなと、都は頭を抱える。心の底から嫌なわけではないのだが、どうにも子供っぽく思えてしまう。それを口にしたら、春日野が優しい笑顔で返してくる。
「僕に比べたらまだまだ子供だよ、ヤコちゃん」
「……っもういい」
 普段だったら、ここで呆れながらも諦めて、デスクにつくのだ。あの優しい笑顔にダマされて。

 だけど今日は、呆れることはできなかった。
 あの男と同じことを言われて、また思い出してしまったせいで。

 ず、と立ったままコーヒーをもう一口。
 その苦みは、あの店のコーヒーソーダを思い起こさせ、そこでもまたあの男を連想してしまった。

(なんか、これ、ヤバいのかな俺)

 彼のことばかり考えてしまう。何をしても連想してしまう。
 一度家に帰って着替えた際も、あの男(ひと)も着替えていったのかななんて思うし、電車に乗ったら乗ったで、どこの路線を使っているのかななどと考えるし、挙げ句の果てには、通りすがりのまだ開店していない眼鏡屋の看板にさえ目が行ってしまう始末。
(ちが、違う。あれだよほら、昨日の今日だからっていうか。時間経てば忘れるって。そうそう、絶対そう)
 たった一夜を共に過ごしただけの男を、忘れられないなんて。
 そんな馬鹿なことがあるものかと、都はふるふる首を振って否定する。そうしてようやくカバンをデスクに置き、はたと思い出した。

「あ」

 そういえばこのカバンの中に入れっぱなしだった、と探る。

 あの部屋で拾った手帳。

 片手で持つには少し大きく、両手には余るサイズ。カバーに包まれたストライプの表紙には、ご丁寧にスケジュール帳であることが英語表記されていた。
 どうしよう、と都は椅子に腰を下ろす。勝手に中を見るわけにもいかないと思ったのは、これがどう見ても女物だからだ。

(まあ、あの人がこういう可愛いの好きって可能性もあるけど。甘い物好きみたいだし、これもそういう趣味なのかも)

 先入観というものはどうしてもついて回るが、本当に彼の物である可能性だってある。となれば、これがなくなって困っているだろう。
 返したい、と都は思う。
 しかし、連絡先どころか、名前も知らない。本当に教えてくれなかった、一夜限りの男の落とし物。
 ホテルのフロントに預けても良かったのだが、同じ部屋に泊まっておいて相手に返せないというのはどういうことかと詮索されるのが嫌だった。あまり褒められた行為ではないからだ。

 都はほんの少し思案し、素直に交番に届けてこようと軽く目を伏せた。
 好奇心で、この手帳の中を見るべきではない。見たらいけないと自分を戒める。

(ほら個人情報だからね。持ち歩いてんなら予定とかちゃんと書いてんだろうし。……見たら駄目)

 ぺたん、とデスクに手帳を置き、ため息を吐く。
 見たい気持ちはあるものの、その権利はない。例えば名前とか、電話番号とか、住所とかが、書いてあったとしてもだ。
 いくら落とし物とはいえ、本人の了承なく盗み見ていいはずがないと、手帳からようやく手を離した。
 落ち着こう、とまだ残っている熱いコーヒーを口に運んで、気がつく。

 このコーヒーの苦みを上手く使うカフェ――昨日あの男と話していた女性が、手帳をなくしたようなことを言っていなかったかと。

 都は記憶をたぐり寄せ、あの時間を引っ張ってくる。
 彼女は、これくらいのと手で形を作り、デザインが紫のストライプだということも話していた。
 まさに今、都の目の前にあるような物である。
(待て待て。これもしかして、あの店長さんのじゃ……? なんであのひとが持ってんの? 知らないみたいなこと言ってなかったか?)
 男はあの時確かに、なかったと思うと言っていた。それがどうして、あのホテルの部屋に落ちていたのか。
 可能性として考えるのならば、知らないうちに彼のカバンの中に落ちた手帳が、気づかないうちに、何かの拍子で床に落ちてしまったということ。
(……ねーな……)
 このサイズの手帳が、うっかりカバンの中に入り込み、そのまま気づかないなんて。口が開きっぱなしのトートバッグならまだしも、彼のカバンはファスナーのついているビジネスバッグだったように思う。そこにうっかり入り込むなんてこと、ない。

 都は垂れた頭を、手の甲で支えた。

(あの店長さんのだったら、故意だよな、これな。どういう理由か知らないけどさ)
 うーんと唸る。
 彼女の何が知りたくて、手帳に手を出したりしたのか。
 女性は抱けないと言っていたが、彼女に好意を持っているのだったら、ちゃんと返してやれと怒って、見届けるつもりだ。
 だが、何しろ男の連絡先を知らない。
 接点はあの店しかないのだが、昨日の今日でまたパフェを食べに行くとは思えないのだ。
 となればこの手帳は、やはり交番に届けなければいけない。
 下手に都が返しに行っても、見つけた場所と理由は話せないし、ごまかせそうな話も作れない。
 今日の仕事で外に出る機会があったら、ついでに交番に届けてこようと、ため息を吐いた。

「なんか元気ないねーヤコちゃん。彼氏とケンカでもした?」
「してないっす……っていうか別れたんで……」
 この事務所の人間は、都の恋愛事情を知っている。所長である春日野はもちろん、事務員の山崎や藤木、フルタイムシフトのメンバーは全員だ。
 さすがに最初は敬遠されていたようだが、都の人となりを知ったのか、否定はしないでいてくれた。
「あらっ、そーなの? 残念ね……でもまあ、ヤコちゃんならすぐに次の人見つかるわよ」
 おおらかに笑いながら、山崎はかかってきた外線電話を取る。
 励ましてくれているのだろうと思うと、心の中をすでに別の男が占めていることが、後ろめたい。
「はい、本日ですね。お話を伺って、その上でご依頼いただけるようであれば。はい。ご相談は無料です」
 山崎は、スタッフたちのスケジュールを確認しながら、電話の対応をしている。普段の、少し雑な言葉遣いとは別物で、さすがベテランさんだと感心さえした。
 どうも今日仕事の依頼が舞い込みそうだ。打ち込めるような物だといいと思いつつ、電話の対応が終わるのを待った。
「今日すぐ来るって。なんか浮気調査っぽい」
「藤吾さーん、今日依頼だったら俺も参加していい? 最近ちっちゃいのばっかりだったじゃん」
「うーん、話を聞いてからね。藤木ちゃん、コーヒー用意しておいて」
「はーい」
 浮気調査っぽい、と幾分深刻な依頼内容になりそうなのに、慣れか、事務所は和やかなものだった。
 今日すぐに来ると言っていた依頼人を、都は心待ちにした。忙しければそれだけ、あの男のことを考える時間も減っていくだろう。

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