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妻としてのつとめ
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誰かが近づいてきた。そんな気配を察して、閉じていた目を開く。
布団をはいで上半身を起こすと、襖の向こうから声が届いた。
「紬様、おはようございます」
若い女性の声。
返事をしようにもすぐには声が出ず、かろうじてうーんとうなると、襖が開き僅かに顔を覗かせる。
いや、この表現は少々間違っているだろう。何しろ戸を開けた女性には、顔と呼ぶのに必要な目や鼻や口が存在していないのだから。
「おはよう。忍さん」
眠い目をこすりながら、入ってきたのっぺらぼうに挨拶する。
彼女の名は、忍。花嫁行列の時、紬の乗った籠に寄り添って歩いていた相手で、この家でも彼女の世話係となっていた。
紬がこの屋敷に来てから、今日で三日目。こうして毎朝起こしに来るのも、すっかり日課になっていた。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「まあ、それなりに」
本当は何度も目が覚めたのだが、眠りが浅いのはいつものことなので、別段言う必要はないだろう。
そう思ったが、彼女は目ざとく気づいてくる。
「本当にそうですか? 目元、少しだけくすんでいますし、昨日もそうでしたよ。そういうのは自然と顔に出るものですよ」
顔のない彼女にそんなことを言われるの、なんだか妙な感じだ。
「紬様も、新しい生活で慣れないことが多いのでしょう。困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
「別に困ってるわけじゃないんだけど。それより、紬様って呼び方、何とかならない?」
元々彼女は、紬のことを奥方様と呼んでいた。それをやめてくれないかと頼んだところ、このように紬様と呼ぶようになったのだが、紬としてはどうにもむず痒い。
「そうはいきません。詩様とは今のところ形だけの夫婦であることは知っていますが、それでも主の奥方というのには変わりませんもの。たとえご命令でも、こればかりは譲れません」
胸を張ってそう言われると、やめてとは言えなくなってしまう。
そうでなくても、忍相手には、どうにも強く言いづらい。
花嫁行列の最中、彼女を騙して逃亡したという後ろめたさがあるからだ。
そんな相手の世話係などさぞかし嫌がるだろう。そう思っていたのだが、彼女はそんな様子を微塵も見せずに、何かと世話を焼いてくれている。
顔がないため表情を読むことはできないが、もしあったとしたら、きっと気さくで明るい笑顔をしているだろう。
だからこそ、付き合い方がよくわからない。
月城の家にも使用人はいたが、その中に紬に笑顔を向ける者など一人もいなかった。
常貞たちが紬を見下すのを見て、使用人たちもまた、紬を見下すようになっていった。
(夫婦なんて形だけのものだし、私に価値なんてないのに)
それから、忍に手伝ってもらい寝間着から着替える。
本当は一人でやりたいところだが、ここでの生活は基本的に着物ばかり。一人で着付けをするには時間がかかる。
「さあ。お着替えもすんだことですし、次は奥方としての務めを果たしてもらいましょうか」
「また、あれをやるのね」
わかっていたことだが、ため息が出る。とはいえ、仕方の無いことだ。
忍と共に部屋を出ると、廊下の向こうから、白くて丸い毛玉が数体、ワラワラと群がりながらこちらにやって来ていた。もちろん、全部アヤカシだ。
こんなにもたくさんのアヤカシがいる光景など、紬も滅多に見ることはなかったが、早くもそれに慣れつつあった。
「あっ、奥方様だー」
「奥方様だー」
「こら、あなたたち。奥方様でなく紬様です」
毛玉たちが紬を奥方様と呼び、忍がそれを窘める。
この毛玉、ある程度の知性はあるようだが、詩や忍らと比べると少し単純なようだ。
その後二人は、紬の部屋のすぐ隣にある部屋の前に立つ。
ここからが、忍の言っていた、奥方としての務めの始まりだ。
とはいえ、大したことをするわけではない。
「詩──」
形式上夫となった相手の名を呼ぶが、返事は無い。
紬のやることというのは、要は寝ている詩を起こすこと、それだけだ。
そんなもの、さっき紬が起こしてもらったように忍たちでもできるだろうし、実際紬が来るまではそうしていたらしい。
だが詩は、形だけとはいえ夫婦になったのだから、妻に起こしてもらうくらいの楽しみはあっていいはずと、よくわからないことを主張したのだ。
とはいえ紬も、相当都合のいい条件でここにいる身。そのくらいならと、特別嫌がることなく引き受けたのだが……
「詩──詩────」
さらに呼ぶが、またも返事はない。
襖を開けると、畳の上に敷かれた布団がひとつ。そこで詩は眠っていた。
「声をかけただけでは、起きないようですね」
「わかってるわよ」
昨日も一昨日もこうだったのだから、今日もそうなのだろうという気はしていた。
ため息をつきつつ部屋の中に入ると、寝ている詩の傍らに座る。
横向きに寝ている彼の寝顔を見ると、本当に驚くくらいの綺麗な顔をしている。
もしも彼が人間だったなら、寄ってくる女性は数多くいるだろう。
とはいえ、紬もそんな彼に惹かれるかというと、そんなことはない。
それは、詩がアヤカシだからというわけではない。
人に好かれることのなかった自分には、人を愛するということが、どうしても想像できないのだ。
「詩!」
大きな声で、もう一度彼の名を呼ぶ。すると小さくううんと唸った後、顔を傾け、僅かに目を開いた。
「紬……」
紬の名を呼び、ニコリと幸せそうな顔で笑う。
とりあえず、起きてはくれたようだ。
そう思った途端、詩の手が急に伸びてきて紬の肩を掴み、そのままグッと引き寄せた。
「あっ……ちょっと!」
「紬~」
抱きつくような体勢になりながら、詩は実に幸せそうに声をあげる。
それだけでない。寝ぼけているのか、今にも密着しそうなくらい、顔を近づけてきた。
「い、いい加減にしなさーい!」
吐息がかかるほど近づいたその瞬間、バッと振り上げた紬の手が詩の頬を打ち、バチーンと大きな音を響かせた。
布団をはいで上半身を起こすと、襖の向こうから声が届いた。
「紬様、おはようございます」
若い女性の声。
返事をしようにもすぐには声が出ず、かろうじてうーんとうなると、襖が開き僅かに顔を覗かせる。
いや、この表現は少々間違っているだろう。何しろ戸を開けた女性には、顔と呼ぶのに必要な目や鼻や口が存在していないのだから。
「おはよう。忍さん」
眠い目をこすりながら、入ってきたのっぺらぼうに挨拶する。
彼女の名は、忍。花嫁行列の時、紬の乗った籠に寄り添って歩いていた相手で、この家でも彼女の世話係となっていた。
紬がこの屋敷に来てから、今日で三日目。こうして毎朝起こしに来るのも、すっかり日課になっていた。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「まあ、それなりに」
本当は何度も目が覚めたのだが、眠りが浅いのはいつものことなので、別段言う必要はないだろう。
そう思ったが、彼女は目ざとく気づいてくる。
「本当にそうですか? 目元、少しだけくすんでいますし、昨日もそうでしたよ。そういうのは自然と顔に出るものですよ」
顔のない彼女にそんなことを言われるの、なんだか妙な感じだ。
「紬様も、新しい生活で慣れないことが多いのでしょう。困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
「別に困ってるわけじゃないんだけど。それより、紬様って呼び方、何とかならない?」
元々彼女は、紬のことを奥方様と呼んでいた。それをやめてくれないかと頼んだところ、このように紬様と呼ぶようになったのだが、紬としてはどうにもむず痒い。
「そうはいきません。詩様とは今のところ形だけの夫婦であることは知っていますが、それでも主の奥方というのには変わりませんもの。たとえご命令でも、こればかりは譲れません」
胸を張ってそう言われると、やめてとは言えなくなってしまう。
そうでなくても、忍相手には、どうにも強く言いづらい。
花嫁行列の最中、彼女を騙して逃亡したという後ろめたさがあるからだ。
そんな相手の世話係などさぞかし嫌がるだろう。そう思っていたのだが、彼女はそんな様子を微塵も見せずに、何かと世話を焼いてくれている。
顔がないため表情を読むことはできないが、もしあったとしたら、きっと気さくで明るい笑顔をしているだろう。
だからこそ、付き合い方がよくわからない。
月城の家にも使用人はいたが、その中に紬に笑顔を向ける者など一人もいなかった。
常貞たちが紬を見下すのを見て、使用人たちもまた、紬を見下すようになっていった。
(夫婦なんて形だけのものだし、私に価値なんてないのに)
それから、忍に手伝ってもらい寝間着から着替える。
本当は一人でやりたいところだが、ここでの生活は基本的に着物ばかり。一人で着付けをするには時間がかかる。
「さあ。お着替えもすんだことですし、次は奥方としての務めを果たしてもらいましょうか」
「また、あれをやるのね」
わかっていたことだが、ため息が出る。とはいえ、仕方の無いことだ。
忍と共に部屋を出ると、廊下の向こうから、白くて丸い毛玉が数体、ワラワラと群がりながらこちらにやって来ていた。もちろん、全部アヤカシだ。
こんなにもたくさんのアヤカシがいる光景など、紬も滅多に見ることはなかったが、早くもそれに慣れつつあった。
「あっ、奥方様だー」
「奥方様だー」
「こら、あなたたち。奥方様でなく紬様です」
毛玉たちが紬を奥方様と呼び、忍がそれを窘める。
この毛玉、ある程度の知性はあるようだが、詩や忍らと比べると少し単純なようだ。
その後二人は、紬の部屋のすぐ隣にある部屋の前に立つ。
ここからが、忍の言っていた、奥方としての務めの始まりだ。
とはいえ、大したことをするわけではない。
「詩──」
形式上夫となった相手の名を呼ぶが、返事は無い。
紬のやることというのは、要は寝ている詩を起こすこと、それだけだ。
そんなもの、さっき紬が起こしてもらったように忍たちでもできるだろうし、実際紬が来るまではそうしていたらしい。
だが詩は、形だけとはいえ夫婦になったのだから、妻に起こしてもらうくらいの楽しみはあっていいはずと、よくわからないことを主張したのだ。
とはいえ紬も、相当都合のいい条件でここにいる身。そのくらいならと、特別嫌がることなく引き受けたのだが……
「詩──詩────」
さらに呼ぶが、またも返事はない。
襖を開けると、畳の上に敷かれた布団がひとつ。そこで詩は眠っていた。
「声をかけただけでは、起きないようですね」
「わかってるわよ」
昨日も一昨日もこうだったのだから、今日もそうなのだろうという気はしていた。
ため息をつきつつ部屋の中に入ると、寝ている詩の傍らに座る。
横向きに寝ている彼の寝顔を見ると、本当に驚くくらいの綺麗な顔をしている。
もしも彼が人間だったなら、寄ってくる女性は数多くいるだろう。
とはいえ、紬もそんな彼に惹かれるかというと、そんなことはない。
それは、詩がアヤカシだからというわけではない。
人に好かれることのなかった自分には、人を愛するということが、どうしても想像できないのだ。
「詩!」
大きな声で、もう一度彼の名を呼ぶ。すると小さくううんと唸った後、顔を傾け、僅かに目を開いた。
「紬……」
紬の名を呼び、ニコリと幸せそうな顔で笑う。
とりあえず、起きてはくれたようだ。
そう思った途端、詩の手が急に伸びてきて紬の肩を掴み、そのままグッと引き寄せた。
「あっ……ちょっと!」
「紬~」
抱きつくような体勢になりながら、詩は実に幸せそうに声をあげる。
それだけでない。寝ぼけているのか、今にも密着しそうなくらい、顔を近づけてきた。
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