糸と蜘蛛

犬若丸

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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う

孤独な家の中 13

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 突然、すすり声を出しながら胴を前後に揺らし始めた。
 すすり声はよく聞き取れないが、幼子に話しかける柔らかな口調であった。だが、そこに涙が混じっている。
 彼女の腕にはあるものが抱えられていた。その抱き方は赤子を抱くそれに酷似しており、カンダタは慎重さを忘れ早足で近寄り、彼女の下で座る。
 画面が入れ替わるテレビの明かりがそれを鮮やかに照らされる。
 抱いているのは赤子に違いない。だが、遺体だった。
 死後、長い間放置され干からびた目玉は窪んで落ち、肌は黒く変色していた。小さく不気味に悲惨な容姿でもひと目であの子だと悟った。
 「産んでごめんなさい」
 すすり声でくぐもっていた言葉がはっきりとカンダタに届く。
 「不幸にしてごめんなさい。守ってあげられなくてごめんなさい」
 紅柘榴から漏れる言葉は赤子に対する謝罪であった。唇が震え、赤子の遺体を決して離そうとしない。
 堪らずカンダタは背中を撫でようとした。同じ気持ちを偽物が相手だとしても共有したかったのかもしれない。
 弱々しくなった背中に触れる寸前、紅柘榴が不意に立ち上がった。そして、初めてカンダタと認識する。見下すその目はなぜか敵意があった。
 「あんたなんか助けるんじゃなかった。見殺しにすればよかった」
 それはカンダタに向けられた言葉だ。敵意が優しく思えるほどの憎悪だ。
 これは偽物だ。偽物の言葉だ。だが、事実でもある。
 紅柘榴と出会わずに野垂れ死んでおけば失わずに済んだ。目の前の赤子も死なずに済んだ。
 死んだ子を母が抱く風景を作ったのはカンダタだ。
 「お前がやったことだ」
 カンダタには否定できない。許しを乞うのもできない。最も自分自身が許せないからだ。
 赤眼の子が言い放った言葉が脳内で反芻する。
 これ以上のない憎悪を向けられ、復讐の針を何百本も背中に刺される気分だ。
 言葉と過去に縛られ、天井から垂れ落ちる荒縄に気付けなかった。それに気付いたとしても払いのけようととはしなかった。
 輪がカンダタの頭を括っても気にする素振りがない。
 縄が首まで届き、一気に絞まりぐいっと上がる。殺しにかかる荒縄は首に痛みを覚え、ようやく罠であると気付いた。
 硬い縄を握り、なんとか解こうとするも首と縄の間に指が入る隙間はなく、捻れて硬い縄は人の手では千切れない。
 息苦しさから解放されようと両脚を振るい、胴を捻るように動かすが体力を消耗するばかりで死に近づく。
 暴れるカンダタの足元では赤子と抱く紅柘榴はこちらを睨む。それは「死ね」と口にしなくとも告げており、その目線を受け取ると抵抗する力がするりと抜けた。
 楽になろうと暴れていた身体は刹那に静寂を纏い、荒縄の縛りはきつくなった。手足が痙攣し、目や口から生理的な液体が流れる。
 身体の空気が少なくなり、視界が霞む。五感が鈍くなる。そんな中、明確に感じ取ったのはこちらを責める紅柘榴の視線と首後ろの疼きだ。
 呼吸ができなくなった頭はそれが何なのか判断できずに疼きによって生まれる感情に呑まれて行く。
 酸素が薄くなると同時に今まで溜めてこらえていた涙分が放出される爆発的な感情が生まれた。
 紅柘榴を冒涜するような姿と行動もそうだが、何よりも偽物に惑わされる自分が腹立たしい。
 そんなものカンダタの責任であり、そこに他者は関係ない。自分の問題だ。だが、目の前のものを排除しなければこの先も同じ轍を踏む。
 そうなる前にこの鬱憤を膂力に変え、八つ当たりでもいいから排除すべきだ。
 どうせこいつも鬼なのだ。紅柘榴でなければいくら殺してもいい。
 酸素が十分に取れなくなった脳は理性が薄まり、黒蝶の本能が勝る。
 解けなかった荒縄は紙切れ同様に散り切りになり、宙を蹴っていた両足は力強く床を踏む。顔の半分から片腕まで黒蝶が描かれていた。
 呼吸ができるようになってもそれを味わう余裕はなかった。
 紅柘榴の睨む目はこちらを見下している。それが強く黒い感情を作らせ、その本能のままにカンダタは雄叫びを上げていた。
 獣の声だと本人は気付いていない。黒蝶に呑まれれば自分が大切にしていたものも呆気なく忘れる。
 紅柘榴の胸倉を掴む。カンダタからの強い衝撃により大事に抱えていた赤子が母から離れる。赤子は水風船が潰れたような音を出し、その上をカンダタが踏みにじる。
 黒蝶が刻まれた左手で色白い陶器のような頬を打った。強く握られた拳の痕が赤く残る。
 頬の柔らかい皮とその下にある硬い骨。殴った後に残る感覚は快感だった。
 偽の紅柘榴が左手に触れる。その手は熱く、無言で添えるだけの手が煩い。
 彼女の身体を大きく揺さぶり、その手を払った。叫びたいと開く唇が目に入り、甲高い声を聞く前に顎を打つ。
 目と目が合う。それに異様な生理的嫌悪があり、黒い目を潰す勢いで殴る。
 拳が柔らかい肌の衝撃を受けるたびに言いようのない喜びが血潮となって体中を巡る。早く駆ける 血潮は正気を戻す隙を与えず、次にまた殴る。
 その快感をもう一度頭一瞬の隙間なく、暴力を続ける。
 無意識に顔を狙っていた。この顔が原因なのだと強い使命に似たものが働いていた。
 どうせこいつ偽物だ。最後には鬼になるなら先手を打つのが最善だろう。
 偽物の彼女は無抵抗でただの暴力を甘受する。
 その意味も知らぬまま、カンダタは今まで1番強い殴打を与える。
 ついに立っていられなくなった紅柘榴は床に倒れそうになるもカンダタが胸倉を上げて無理に立たせた。
 項が痒い。耳元で誰かが囁いている。それよりも腹が減った。目の前のものは弱りきった獲物だ。
 拳から伝える骨の感覚は砕けて柔らかいものになっていた。
 挽肉にしよう。食べやすいように。ならもっと打つ必要がある。
 破けた皮から肉の甘い匂いがする。耳元で誰かが食べごろだと囁く。いや、まだだと囁き声に答える。食べるにはまだ固い。
 まだ足りない。もっと、もっと欲しい。
 次の一発を、繰り出そうと高く上げた。
 そこに腕にしがみつく者がいた。
 少女の重みが片腕一本に垂れ下がり、殴ろうと前屈みになっていた体勢は後方へと引っ張られる。「やめて」と少女の叫び声を聞きながら尻餅をついた。
 カンダタが転ぶと腕にかかっていた重みは消え、また身体を支配していた黒蝶の模様も姿を晦ます。
 囁き声も暴力性もなくなり、カンダタに静寂が戻る。嫌味なほどの静寂はカンダタを鈍器で殴った。
 目の前にあるのはかろうじて人の顔を保っていた。
 花丸文の柄と濡れ烏色の髪は紅柘榴の特徴と一致している。
 カンダタは彼女を全身で抱きしめた。何度も殴られた骨は砕け、肉は潰されてされている。顔は酷く、目・鼻・口・耳と形が残っているところがない。
 「なんで、なんでだ?」
 静寂に返ってくる言葉はない。
 カンダタの腕に抱かれているのは人だ。鬼ではない。
 どの部屋も鬼となって抵抗してきた。それが偽物の正体だからだ。しかし、彼女はどうだろう。
 いくら殴っても抵抗しなかった。声も上げなかった。
 黒蝶に流れていたせいで聞こえなかっただけで、もしかしたら声を出していたかもしれない。「やめて私よ、紅柘榴よ」と訴えていたかもしれない。黒蝶がそれを遮っていたのかもしれない。
 殴って快感を得た時、囁き声がした。
 その声が紅柘榴の声をかけしていたとしたら?
 だとしたら、この腕にいる人は、カンダタが殴っていた人は、カンダタが求めている想い人だった?
 「べに?べになのか?答えてくれ」
 虚ろに問いかける。強く抱きしめたくても自ら与えた怪我が悪化しそうでできない。
 「俺がやったことだ。俺のせいだ」
 こんなはずではなかった。こんなもの望んでない。やり直しさせてくれ。
 カンダタが強く願っても腕の中の紅柘榴は動かない。
 「俺の全てをやる。助けてくれ」
 涙ながらに叫ぶ。乞う相手はここにはいない蝶男だ。
 「お願いだ」
 蝶男の微笑む顔が頭に浮かんだ。
 虚いながら同じ台詞を繰り返していくとカンダタの肌に黒蝶が浮かび上がる。
 顔半分でしかなかったその模様は首から肩へと広がっていく。全身を凄まじい勢いで黒く染めていくが、本人はそれに気付いていない。
 激しく脈打つ。高なる心臓を握られている。
 黒蝶はいつでも心臓を潰せる。握ってくる感触はこわれもの扱うように優しい。
 黒蝶が広がり、カンダタの全身が真っ黒になった頃、心臓と血が限界値まで達する。脳内でぶつりと切れる音がした。
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