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第1話 からかさ小僧

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【からかさ小僧(からかさ-こぞう)】
日本の妖怪の一種。傘に一つ目と一本足がついた姿で描かれることが多く、またその一本足で飛び跳ねるとされる。付喪神の一種との見方もあるが、その正体は定かではない。




「はい、じゃ、また二週間後に」

 退屈そうな目をした女医先生がいつも通り平坦な声でそう言い、ボクは素直に頷いた。

 まあ、無駄なんだけど。

 ボクの予想通り、女医先生は既にボクには目もくれず、パソコンに向かってカルテを打ち込み始めていた。

「ありがとうございました」

 ボクは立ち上がり、目線の合わない先生に向かって頭を下げてから診察室を出た。



 平日の昼すぎにも関わらず、待合室に並べられた椅子はほとんど埋まっている。ボクはその中から比較的周りに人がいない椅子を選んで腰をかけた。

 会計で呼び出されるまでの間、正面の白い壁をぼんやりと見つめる。



 ボクがこの商売繁盛している精神科の病院に通い始めて三カ月が経つ。

 初めて病院に来たボクに対して、女医先生が下した診断は「統合失調症」だった。

 先生から淡々と告げられた説明を聞いて、ボクは、まあ、そうなんだろうなと納得した。

 前の仕事はある時期から急に職場に行けなくなって逃げるように辞めていたし、それと前後して、わけの分からないものが見えたり聞こえたりするようになっていたからだ。
 


 そのことを先生に伝えると、先生は初めてほんの少しだけ表情を変え、眼鏡の奥の大きな目を瞬きさせながら言った。

「龍見さんの状態で病識があるのは、正直に言って珍しいですね」

「ビョウシキ?」

「ああ、自分が病気だと自覚しているということです。今回の場合であれば、龍見さんは自分が見聞きすることの一部が現実ではないと分かっています。

 統合失調症ではそのあたりが認識できないことが多いんですよ」

「はあ」

 それ以上聞くのが面倒になって、ボクは大人しく頷いた。



 他の人は知らないけど、今ボクの周囲を取り巻く世界はあまりにも奇妙だ。

 だから、これが正常だと感じる人はそうそういないだろう。

 なんにせよ、ボクはそれ以来定期的にこの病院を訪れては処方箋を受け取り、日々規則正しく薬を飲む生活を送っている。



 診療所の入った建物を出ると、いつの間にか外は暗くなり、雨粒がざらざらと降ってきていた。

 ボクは思わず建物の入り口で立ち尽くし、空を見上げた。

 行きの空は明るくて、雨が降る気配なんて一つもなかったから、傘は持ってきていない。

 すぐ近くにコンビニがあるのは知っているけど、貯金を切り崩して生活している身としては無駄な出費はできれば避けたい。

 その時、ふと視線を感じた。

 ボクは視線の主を探して首を回した。そしてボクは、ゴミ捨て場に打ち捨てられたビニール傘と目が合った。



 うん、そう。ビニール傘だ。



 折りたたまれたビニール傘の中央に、てらてら光る大きな目玉が上下逆さまに付いていた。

 目玉には丁寧に瞼も付いていて、それが半目になって、なんだか恨みがましそうにボクのことを見ている。

 ボクは何度か瞬きをしてみた。だけど目玉は消えない。ボクは軽く息を吸って、それから小さくため息をついた。

 ほら、またこれだ。

 最近のボクを取り巻く世界は、あまりにも変わっている。

 ボクは目玉の幻覚を無視して、遠目に傘の状態を確認した。



 傘は先端あたりが少し錆びて、茶色くなっている。骨も一本折れてるみたいだ。そんな状態になったビニール傘なんて、捨てるのが当然だろう。

 でもお金に余裕があるとは言えないボクは別だった。

 ボクは雨の中をゴミ捨て場まで走り、ビニール傘を掴んだ。そのまま素早く傘を開いて頭の上に掲げる。

 うん、問題ないみたいだ。



 こいつ以外は。



 傘の内側では、目玉が驚いたように目を見開いている。ボクは目玉を睨みつけた。

 ただの幻覚のくせに、しつこい奴だ。

 ボクはついっと傘を回し、骨の折れた部分を確認した。



 外から見た時は完璧に折れたものだと思っていたけれど、こうしてみると金属の先端がキャプから外れただけらしい。

 ボクは傘の持ち手を肩に置いて支え、骨をキャップに差し込んだ。

 よし、これで家まで快適に帰れるぞ。



「おわ」

 べろん、と首筋に水気を感じてボクは思わず飛び上がった。

 再び傘を回すと、目の前に目玉とその下にぺろりと垂れた赤い舌が現れる。目玉は何も悪びれていない様子で、犬が嬉しい時にやるみたいに、もう一度ボクを舐めようとしていた。

 されてたまるか。

 ボクは傘の舌をよけ、それから目玉の上を小突いて言った。

「やめろ。次舐めたら置いていくからな」

 ボクがそう言うと、目玉はぐるぐると目を回し、それからしゅんと大人しくなった。

 よし、それでいい。ボクはようやく安心して傘を差し、雨の道を歩き始めた。



 無事に傘を手に入れたので、ボクは寄り道をして帰ることにした。今家には何もないから、昼ご飯を買って帰りたい。

 五分くらいたらたらと歩いて、ボクとビニール傘は大通り沿いにあるコンビニに辿り着いた。

 ビニール傘を無造作に外の傘立てに突っ込み、コンビニの中に入る。



 それからしばらくして、ボクはカップラーメンの棚の前で腕組みをして悩むことになった。

 本当は新発売の豚骨ラーメンを試したい。

 だけど、カップラーメンが四百円近くするなんて、いったいどうなってるんだ。これはもう怒ってもいい話だ。

 でも背油にあご出汁、つるつる生麵かあ。



 長い逡巡の末、ボクはやっと欲望を振り切って安いメーカーのカップ麺を手にレジに向かった。

 はあ、この世は無職に世知辛い。



 そしてボクがお金を払い終わってレシートを受け取っていると、外からなんだか騒がしい声がした。

 首を伸ばして外を伺うと、騒音の発生源は金髪と青い髪の組み合わせのカップルのようだ。

 コンビニの中にいた客じゃない。多分このコンビニと同じ建物に入っているカラオケから出てきたんだろう。

 金髪の男が叫んだ。

「はあ、雨降ってんじゃん」

 男の声はでかい。TPOをわきまえないデカさだ。

 もしかすると、声がでかいと人としての器も大きく見えるとか思ってるタイプの人間なのかもしれない。

「どうする?コンビニで傘買う?」

 間延びした声で、横にいた青い髪の女の子が答えた。

「そんなのもったいねえよ」

 そう言って金髪の男はコンビニの前の傘立てから二本のビニール傘を引き抜いた。

「おっしゃ、これでいいだろ」

「はーい」

 そして二人はそれぞれにビニール傘を広げて歩き出す。だけど。

「あ」

 ボクは思わず呟いた。



 男が開いた傘の後ろ側で、目玉が助けを求めるみたいにボクに向かって目をぱちぱちさせていたからだ。

 ボクはコンビニのドアを開けて、歩き去ろうとしている男に声をかけた。

「あの」

「ああん?」

 食い気味に振り返って男が答えた。眉が細い。というか無い。

「その傘、ボクの」

「あ?」

 うん。態度が悪い。だけどボクは気にせず主張することにした。

「それ、ボクのです」

「ああ?」

 金髪の男が一瞬だけ手に持った傘を見た。

 だけど男は悪びれもせず、ボクの顔を下から上に睨みつけるようにして凄んだ。

「はあ? これは俺の傘だけど? ビニ傘なんてどれも同じような見た目してんだろ。お前の傘だって証拠あんのか?」

 確かにビニ傘はどれも同じような見た目だ。それはその通りだ。でも、今回に限っては、うーん。ボクは小さく首をかしげた。



 ばっちり目玉が付いてるからなあ。



 ボクが黙っているのを見て、男が勝ち誇ったように捨て台詞を吐いた。

「はっ、貧相な女。こんな傘なんかに必死になりやがって」

 それから金髪の男は右手で傘を揺すりながら言った。

「こんな、オンボロ傘」



 あ、目玉が怒った。



 それはとても分かりやすい変化だった。なにせ、傘についていた目玉が急にひん剥かれ、一気に血走ったのだ。

 傘は血走った目のまま、ぬるんと長い舌を男の右耳に伸ばした。

 それはボクを舐めようとした時とは違って、何か悪いことを囁くような、もしくは何か見えないものを耳の中に送り込もうとするような、形容しがたい嫌な動きだった。



 次の瞬間、男がぴん、と棒立ちになった。青い髪の女の子が訝し気に男を見上げる。

「なに、マサ君。どしたの?」

 ぐるんと金髪の男が回転して、青い髪の女の子の方を見た。その男の顔には気持ち悪いくらいの笑顔が全面に張り付いていた。



「なあ、アイコ」

「何よ?」

「傘で空飛ぶのって、ロマンだよなあ」

「はあ?」

 脈絡のない話に困惑している女の子に構わず、金髪の男は不思議なくらい滑舌良く喋り始めた。

「俺さ、子供の時に映画か何かで見て、傘持って高いところから飛び降りたら空飛べるって信じてたんだよ。

 そしたら同じ幼稚園の奴にそのこと馬鹿にされてさ、めちゃくちゃ腹立った。

 うん、でも俺、今分かったよ。俺は正しかった」

 それだけ言い残して振り返ると、男は傘を握りしめたまま、人間離れした勢いでビルの非常階段を駆け上がっていった。

 男の姿がつづら折りになった階段を尋常じゃない速度で行ったり来たりして上がり、やがて男は一番上の階の手すりから顔を出した。



 いち、にー、さん、しー、ごー、六階か。

 ボクはビルのひさしから体を乗り出して階数をぼんやりと数えた。すごいな。ボクだったら絶対に遠慮したい運動だ。



「見てろ」

 男が傘を頭上に構え、ぎらぎら輝く笑顔のまま叫ぶ。

「俺は飛べる。飛べるんだ」

 そして男は手すりに片足をかけ、一気に体を前に乗り出した。

 ぱっと体が開き、傘を差した男の体がダイビングをするみたいに風を受けて暗い雲の下を舞う。

 青い髪の女の子が金切り声をあげた。

 その傍らでボクは見た。風に巻かれたビニール傘が、男の右手をはたくようにして手から抜け出し、そして離れていったのを。

 そしてその瞬間、男の顔から輝きが消え、代わりに恐怖に支配されたように顔が歪んだ。

 でも、もう後悔しても遅いみたいだ。

 傘を失った男の体は、重力に従ってまっさかさまに地面に近づいていく。そして。



 ずごん、と物凄い衝撃音がして、ボクは思わず軽く身を引いた。

 地面にはさっきまで金髪の男だったものが横たわっていた。

 右足の膝がぽっきり逆向きに曲がって、鋭角に折れた首の下には白っぽい脳みそがこぼれ出している。

 落ちる時に嚙んだのか、目を見開いた男の顔からは血まみれになった舌がだらりと下がっていた。



 なんか、アイツの顔みたいだな。

 ボクがそう考えていると、正にその張本人、いや張本傘が開いた姿のままふわりふわりと空から落ちてきた。

 周囲の人たちは男の方に駆け寄ったり叫んだりと忙しそうで、ボクたちの方には目もくれない。

 その間に傘はカールした柄の部分をコツっと地面につけ、それからぴょんぴょんと跳ねてボクの足元まで来た。



 傘がボクを見上げ、てらてら光る大きな目玉と目が合う。

 ボクは小さく首をかしげて、それから空を見上げた。

 空は分厚い雲で覆われていて、まだまだ雨は止みそうにない。ボクは傘を手に取り、それから呟いた。

「お腹減ったし、さっさと帰るか」

 傘が嬉しそうにぷるぷるっと震えた。

 少なくとも、ボクはそんな風に感じた。




 最近のボクはよく幻覚を見る。

 きっとこの傘も、マンションから飛び降りた男も、ボクの頭が作り出した妄想だ。だから何も気にする必要はない。

 ボクの後ろでは、まだ青い髪の女の子の甲高い叫び声が響き続けていた。

 だけどボクはすぐにそのことを忘れた。

 ボクは歩きながら、カップラーメンに入れるお湯の量は適量がいいか少なめがいいかについて、じっくりと考えることにした。



―第1話 からかさ小僧 【完】
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