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第6話 猿神(前編)

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【猿神(さる-がみ)】
各地の伝承に登場する、人に害をなす妖怪。その名の通り大きな猿の姿をしており、多くの伝承で女好きのエピソードが伝わる。人間の女を生贄に求めたり、嫁に求めたりした結果、成敗される話が多い。また憑き物として語られることもあり、猿神に憑かれた人間は暴れだすとされる。



 問題が発生した。

 昨日の夜、寝ていたら急にズゴゴンメキャメキャッという音を立て、本棚が真ん中から崩壊したのだ。

 近くの窓にいた女の子の影はパニックになって逃げまどうし、風呂場で寝てた奴らは驚いて壁に激突するし、傘は玄関で飛び跳ねるしで大騒動だった。

 しかしいくら多めに本を詰め込んでいたとはいえ、本の重さで壊れる本棚ってどうなんだ。まあ、知り合いの知り合いの子供時代から使っていたお古をもらったやつだから、寿命だったのかもしれないけど。

 そんなこんなで、ボクの部屋では今、本棚にしまわれていた大量の本が行き場を失くしていた。

 ちなみにボクの小さなこだわりとして、本だけは床に平積みしないと決めている。服や皿は床に平積みしまくりだけど、それは置いておくとして。

 一見どうでもいいようなそういう不合理なこだわりが、人間の個性を形作るのだ。

 知らんけど。

 とにかく、ボクは早急に新たな本棚を手に入れる必要があった。



 そこでボクは電車を乗り換えて繁華街の大きな家具屋に向かった。今時は色んな組み立て家具をその場で買って持って帰れるので大変ありがたい。

 ボクはうきうきと三階の収納家具コーナーに行き、そこで絶望することになった。

 一番安い組み立て式の本棚でも、一万円を超えるだと?

 完全に予算超過だ。ボクはしばらくの間ショックから立ち直れず、その場に棒立ちし続けた。

 コスト高の影響か? 増税のせいか? それともボクは知らない間に異世界に迷い込んでいたのか?

 考えても答えは出ない。諦めてボクはスマホを取り出し、別の家具屋を探すことにした。

 といっても、量販店型大手のここより安い家具屋なんてそうそうないだろう。

 諦め半分で検索していると、近くにリサイクルショップがあるのを発見した。大型の家具も取り扱っているらしい。ボクはさっそくその店に向かうことにした。



 そのリサイクルショップは、控えめにいっても最高だった。品ぞろえが良くいくつも本棚が置いてあるし、値段も手ごろだ。

 中でもボクの目を引いたのは、ボクの肩くらいの高さがある大容量の本棚だった。

 使い勝手が良さそうで、色も焦がしたような深い茶色で趣深い。何より値段は四千円と、さっきの家具屋で見た本棚の半額以下だ。

 問題は、どうやって持って帰るかだった。

 ボクはちらりとレジの方を見た。

 当然、店は大型の家具については配送料を払って配達することを想定しているのだろう。レジ横の壁に配送料の目安を書いたポスターが貼ってあった。

 この本棚の大きさだと、配送料は三千円くらいのようだ。

 ボクは慄いた。

 せっかく四千円の本棚を見つけたのに、三千円も払ったら安いものを探した意味がないじゃないか。

 だったら自力で持って帰るしかない。

 ボクは試しに本棚に両手を添え、力を込めた。

「ふんぬっ」

 足腰に力を込め、腕がぷるぷるするまで力を込める。しかし本棚はどっしりと床に吸い付いたまま離れる気配がない。

 ヤバい、泣きそうだ。

 その時だった。

「キャアアアアア」

 外から物凄い悲鳴が聞こえた。一瞬の後、必死の形相をした青い髪の女の子がばたばたと店の中に駆け込んで来る。

「何かあったんですか?」

 リサイクルショップの店員が目を丸くして聞いた。青く染めた髪を振り乱した女の子が、息も絶え絶えに答える

「外。外で、刃物を振り回している男が」

「なんだって」

 店員が外に面した窓に向かって走る。何となく、ボクも野次馬根性で窓の外を覗いた。

 確かに店の外の大通りに、包丁のようなものを二本、それぞれ右手と左手に持って振り回している男がいた。

 男は汚い叫び声を上げながら、逃げ惑う人々を追ってでたらめに走っている。

 イッている目、というのはああいう目を言うんだろう。その目は白目が目立つほど見開かれているのに、視線はどこをさまよっているのかさっぱり分からない。

 ふと、走り回る男の頭上に何かが見えた気がして、ボクは瞬きをした。

「猿?」

 瞬きをしてもそれは消えない。どうやらいつもの幻覚らしい。

 それは着物を着て烏帽子を被った、大きな猿だった。猿の輪郭はもやもやと曖昧で、男の背中にぴったりと張り付くようにして覆い被さっている。

 随分と暑苦しい幻覚だ。

 その時、猿が顔をしかめるボクに気付いたみたいだった。猿は包丁を持った男越しにボクを睨みつける。猿の顔には、鼻先から口にかけて凶悪な皺が刻まれていた。

―ケテ…。

 どこかから、弱々しい声がした。

「ん?」

それは気のせいじゃなければ、ボクの頭の中に直接響いてくるようだった。

―ケテ…助ケテ…

 声はあの猿の乗っかった男の方から響いてくるらしかった。面白そうなので、ボクも試しに頭の中で喋ってみることにした。

―どうも。こちらはニート。繰り返す。こちらは無職のニート。応答せよ。

―遊ンデナイデ、助ケテ…

 おお、通じた。やってみるもんだな。

―どうしたんだ。

―捕マッタ。逃ゲラレナイ。コノママデハ、周囲の人ヲ傷ツケテシマウ…

―大変だな。頑張ってくれ。

―チョット、チョット待ッテ。今ノハ助ケル流レ…

―だって、ボク格闘技の心得とかないし。腕力ないし。

―姿ガ見エルナラ、デキルハズダ。引ッ張リ出シテ、引キ離スダケデイイ…

 それから、今にも泣きそうな弱々しい声が頭に響いた。

―オ願イ、何デモスルカラ…

 ボクは改めて、その目のイッた男の姿を見た。

 男は滅茶苦茶大柄というわけではないけれど、がっしりとした体形で、少なくともボクよりは力がありそうだ。

 ボクは再び脳内で喋った。

―何でもするといったな。

―何デモスル…ダカラ早ク…。

 ボクは厳かに聞いた。

―本棚を、運んでもらえるか?

―…ハア?

 ボクはリサイクルショップのドアを開け、外に向かって足を踏み出した。後ろから青い髪の女の子が叫ぶ。

「ちょっと、何考えてるの。危ないから早く店に戻りなさいよ」

 ボクはそれを無視して外に出た。ドアを閉めると、急にむわっと夏の気温が肌を差す。

 ボクは道の真ん中にいる男に向かって声をかけた。

「おーい。出て来たぞ」

 男がボクの方を向いた。眼球がぐるぐると動き、そしてボクの方を見てぴたりと止まる。

「ああああああ」

 男が包丁を構えてボクの方に突進してきた。男がボクにぶつかりそうなほど近づく。

 そのぎりぎりのところまで待って、ボクは体を右によけて男の背後に手を伸ばした。

 手に何か柔らかいものが触れる感触があった。ボクはそいつを掴み、ぐっと力を込めて引き抜く。

 ずるん、と手ごたえがあって、男の体から大きな猿が抜け出した。

 そしてその瞬間、刃物を持った男の体が力を失ったように地面にへたり込む。一方、ボクの右手に残った猿は。

「ひええ」

 地面をぴょんと蹴り上げ、そいつはボクの体に両手両足で抱き着いた。ボクは思わず叫び声をあげる。

「くっさっ」

 幻覚だからか重さはないけど、圧迫感がある。あと何より物凄い獣臭い。

 ボクが振り払う前に、大猿はボクを抱きしめたまま悲痛な声で泣き喚いた。

「怖かったあ。もうちょっとであの男に取り込まれちまうところだった」

 ボクは思わず大猿を体にくっつけたまま突っ込んだ。

「いや、喋ってたのお前の方かい」

 いろいろ気になることはあったけれど、遠目に通報を受けたらしい警察が走ってくるのが見えた。
 
 面倒ごとはごめんだ。

 ボクは警察に見つかる前に、大猿を引き連れたままリサイクルショップへ戻った。



―後編へ続く
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