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第10話 土蜘蛛
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【土蜘蛛(つち-ぐも)】
蜘蛛の形をした妖怪で、八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)などとも呼ばれる。多くの伝承に登場し、平家物語においては源頼朝がこの土蜘蛛を成敗した描写が書かれる。その他にも、人に化けるものや、人を襲って食らうものなど、多くの伝承にその姿が伝わる。
暗闇は好きだ。
だが日が落ちた後に女が俺の帰りを怯えて待つ、この薄暗がりの時間はもっと好きかもしれない。
「帰ったぞ」
玄関の扉を開けると、薄暗がりの中で女がびくりと肩を震わせた。だが女は何も喋らない。俺が勝手に話すことを禁じているからだ。
手探りで電気をつけると、玄関のそばの廊下で地べたに座り込む女の姿が鮮明に映った。
女の体は痩せこけ、髪はまばらに抜け落ちているせいで禿げが目立った。
昔は読者モデルをやっていたなんて、この姿を見ても誰も信じないだろう。
「おい」
「ひっ」
俺が声をかけただけで、女は頭を抱えて囁いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
俺は壊れたように呟く女の前に、さっきコンビニで買ったばかりの弁当の中身をぶちまけてやった。
「ほら、飯だ」
女が目の前に残飯のように捨てられた飯を前に呆然とした。しかし俺が舌打ちをすると、女は慌ててべたりとその場に土下座をする。
「ありがとうございます」
そして女は弁当の上に這いつくばり、床の飯を犬のように直接口をつけて食い始めた。手を使って食べるのは、俺が禁止しているからだ。
女が飯を口に運ぶたび、突き上げられた痩せた尻が揺れる。それを見て俺は思った。
こいつにももう飽きたな。
俺は立ったまま、這いつくばる女を見下ろして言った。
「随分と飯を食うんだな。役立たずのくせに」
女がはっとしたように床の飯から顔をあげる。その目に向かって、あえて微笑みながら俺は言った。
「ああ、違う違う。もちろん責めてるわけじゃないさ。ただ、お前みたいな能無しだろうと、養うのにはコストがかかる。お前は俺に負担をかけてるんだから、ちゃんとそのことを自覚しろよって、そう言いたかっただけだ」
それから俺はしゃがみ込み、女の手触りの悪い髪を撫でた。
「いいんだ。俺は大丈夫だから。でもお前は優しい女だからな。いろいろ気にしてしまうこともあるだろう。俺はお前の自主性を尊重するよ。もし死にたいと思ったら、悲しいけど止めるわけにはいかない」
それから俺は目に力を込めて言った。
「でも、遺書なんか残すんじゃないぞ。あんなのは承認欲求の強い馬鹿のやる真似だ。お前は自分で死にたいと思ったから勝手に死ぬ。それだけだ」
女の目に残っていた最後の光が消えた。女は乾いた唇を半開きにして、やがてうつろな目でこっくりと頷く。
その日の夜明け、俺がベッドで寝ていると、あの女が家を出ていく気配がした。
翌朝、俺は朝のニュースであの女の行き先を知った。
ローカル線の始発に飛び込んだらしい。おかげでその線は朝から運転を見合わせていて、乗客にとってはとんだ災難だ。
俺は顔をしかめた。
人に迷惑をかける方法を選ばないよう、もっときちんと教育してやるべきだった。
まあ、俺の通勤に関係のない路線を選んだことは誉めてやろう。
朝のコーヒーを飲み終わって丁寧に髭を剃ると、俺は専門店のオーダースーツに袖を通した。靴ベラを使って良く磨かれた革靴を履き、玄関を出る。
電車は混雑していたが、タイミング良く俺は席に座ることができた。しかし、次の駅で杖をついた老婆が電車に乗り込んできた。俺はさっと立ち上がり、老婆に声をかける。
「こちらへどうぞ」
「まあ、すみません」
「いえいえ。運動不足だったんで、ちょうどよかったですよ」
俺がそう言って爽やかに笑うと、近くにいた若い女がぽうっと見惚れるように俺の方を見た。
俺はつり革を掴みながら、その女をそれとなく観察した。
ミントカラーのブラウスに白いプリーツスカートと、服装は悪くない。だが全体を見るとどことなく垢ぬけなかった。一重の眠そうな目と、太い足のせいだろう。
あれじゃあ俺の獲物にはならない。
俺は電車の外を流れる風景に目を移して考えた。
早く、次の上質な獲物を見つけなくてはならない。退屈な人生こそが、俺の最も倦むべきものだった。
糸で絡めとるように女を捕まえ、あらゆる言葉の毒を注入し、弱っていく女の命をゆっくりと貪る。それこそが俺の人生の最大の悦びだった。
その日もつつがなく仕事を終え、俺は適当な駅で降りてふらふらとあたりを歩き回った。次の標的を探すためだ。
いつだって獲物は自分の予期していないところで現れる。時間がかかる時もあれば、すぐに見つかる時もある。
今回は後者らしかった。
その女はコンビニの袋を手首にかけ、両手をパーカーのポケットに突っこんだままぶらぶらと歩いていた。フードで顔が隠れているが、その顔の造形の美しさは申し分ない。
だぼだぼとした服のせいで分かりづらいが、スタイルも悪くないようだ。
何より、他人をよせつけまいとするようなその女の雰囲気が俺の嗜虐心を煽った。
俺はこっそりと女の後をつけ、女が古びたアパートに入っていくのを見た。
ことが動いたら女の家に転がり込むことも、俺の家に女を呼び寄せることもあるが、今回に限ってはあの女のアパートで暮らすことはないな。俺は一人頷いた。
俺は女が入って行った部屋を確認し、その番号の郵便受けを確認する。郵便物を見る限り、どうやらひとり暮らしのようだ。俺の獲物にはもってこいだった。
そして俺はアパートを後にしながら、抑えきれない笑みが口元に浮かぶのを感じた。
狩りが始まる。この瞬間の興奮こそが、俺が生きる意味なのかもしれない。
それから俺は仕事の帰りや休日に、偶然を装って女の周りに顔を出すようになった。道ですれ違い、駅で隣に立って電車を待ち、スーパーで同じ商品を取るふりをして、手を重ねる。
「あ、すみません」
「はあ」
しかし女の反応は鈍かった。これだけ会っているのに、俺の顔を認識していないのではないかと疑いたくなるレベルだ。
こんなことは今まで無かった。これまでの獲物は、偶然を装ったその出会いに勝手に運命を感じ、とんとん拍子に名前も知らない俺のことを意識するようになるからだ。
だが、あの女はそううまくいかない。
二週間が経ち、しびれを切らした俺は強硬手段に出ることにした。
その日、インターフォンのボタンを押すとと安っぽいチャイム音ともに返事があった、
「あ、はーい」
出てきた女を見て、俺はあえて目を丸くする。
「あれ?」
女が首をかしげる。俺はスマホを確認しながら言った。
「すみません。間違えたみたいです。アイツ、住所はここだって言ってたのに」
「はあ」
「あれ?」
扉を閉められそうになったので、俺は女に顔を近づけるようにして続けた。
「お姉さん、僕と会ったことありますよね?」
そう言えばさすがに思い出すだろう。直接話したことはないにしろ、もう二十回は偶然を装って会っているのだ。
しかし女は首をかしげた。
「ちょっと記憶にないです。それじゃ」
「あ、ちょっと待って」
俺は慌ててそう言うと、ドアのへりを掴んでわざとへなへなと崩れ落ちた。
「すみません、外の暑さでちょっと体調を崩したみたいで」
俺はよく母性本能をくすぐると言われる垂れた目で女を見上げた。
「中で水を飲ませてくれませんか」
女は眉間に皺を寄せてしばらく考え、それから渋々といったように頷いた。
俺を玄関の上がり框に座らせると、女はキッチンに向かった。ジャーっという激しい水音が聞こえ、すぐに女が周りが水で濡れたコップを持ってきた。水道水を汲んできただけらしい。しかし俺は文句も言わず、弱々しく微笑んで受け取った。
「ありがとうございます」
喉が渇いていたわけではないが、つじつまを合わせるためにコップの水を飲み干す。
その後、俺はまじまじと女の顔を見た。
「何?」
「いや、似てるなと思って」
「はあ」
「お姉さん、死んだ僕の彼女にそっくりなんです」
もちろん嘘だ。だが真実味をもたせるため目元に手をやり、涙をぬぐうような仕草をする。それから俺は顔をあげ、そっと彼女の腕を引いた。
「一度だけ、彼女のことを思い出させてください」
そう言って、俺は彼女にキスをしようと口元に顔を寄せる。その瞬間だった。
ガツン、と頭の左側に強い衝撃を受け、俺は横向きにへたりこんだ。思わず手を頭に当てると、かじられたような歯型から血が流れだしていた。俺は思わず叫んだ。
「何しやがる」
女は仁王立ちになってボロボロのビニール傘を構えていた。あれで思いっきり殴られたらしい。歯型のような傷までできたのは謎だが、当たり所が悪かったのだろう。
俺がそれ以上文句を言う前に、女が吐き捨てた。
「臭い」
「はあ?」
「お前の口、なんか虫けらみたいな臭いがする。臭い」
頭に血が昇った。俺は今まで、少なくとも女にそんなことを言われたことは無かった。俺は体に湧き上がる衝動に身を任せ、女に飛び掛かった。
だん、と音を立て、女の体が廊下に倒れる。俺はそのうえに馬乗りになって彼女の首を絞めた。普段の俺ならそんな直情的な真似はしないが、その時は後先など考えられないほどに血が昇っていた。
誰もいないはずの風呂場からガツンガツンと音がする。その音で俺ははっと我に返った。
俺の下では、女がぐったりと身を横たえていた。俺は思わず女を見下ろした。
パーカーのフードが外れて長い黒髪が廊下に扇状に広がり、白い肌と相まって一枚の絵画のような光景を作り出している。
殺ってしまったか、と一瞬焦ったが、すぐに思い直した。
ほんの少し頸動脈を締めただけだ。こんなことで死ぬわけがない。気絶しているだけだろう。
俺の推測通り、女の長い睫毛がぴくぴくと動く。そして。
「ふう」
女から、それまで聞いたことがないような色気のある息が漏れた。
女がゆっくりと目を開き、人形のような目を細めて俺を見据える。
「まったく、ひどいことをしてくれるもんだ」
妖艶な声だった。
「久しぶりに目が覚めちまったよ」
そう言って女はくっくっと意地の悪そうな笑みを見せた。それから女が俺の顔に手を伸ばす。突然のことに動けないでいる俺の頬を、女の滑らかな手が撫でた。
「私はね、お前みたいな奴が大嫌いなんだ」
その瞬間、俺は奇妙な感覚に捕らわれた。みるみる体が縮み、それに対比して周囲の物が大きくなっていくような錯覚に襲われる。
いや、錯覚じゃなかった。俺は確かに小さくなっていた。
小さくなった俺を女が片手でつまんで吊るす。女の紅い唇が近づき、ふっと俺に息を吹きかけた。
その瞬間俺の意識は飛んだ。
目が覚めると、俺はアパートの階段を下っていた。そこに俺の意思は関係なく、ただ操られるように左右の足が交互に動く。俺から見える世界は、すべてがセピア色に沈んでいた。
俺の体、俺の意思に反してアパートのそばの花壇に近づいて行った。そこにあるホースを手に取り、輪っかの形に結ぶ。そして俺はそのホースを近くにあった大きな木の枝にかけた。
そして、俺は自分の顔を輪になったホースに近づけた。首がホースの輪をゆっくりと通過していく。その時になってやっと、俺は自分の体が何をしようとしているか気付いた。
いやだ、やめてくれ。死にたくない。
叫びたくても声は出ない。その時、耳元であの妖艶な声がした。
―安心しなよ。死ぬわけじゃない。
女の声が楽し気に囁く。
―生まれ変わるだけさ
ホースが喉に食い込み、呼吸が狭まっていく。
―お前はこれから、ただのちんけな蜘蛛になるんだ。
鳥も虫も猫も、すべてがお前を食らいつくそうと襲い掛かる。でも、捕まってもそれで終わりじゃない。死んだ瞬間にまた蜘蛛として生き返り、お前は再び食われるんだ。
―とわに、永遠に
女の声が高らかに笑った
パトカーのサイレンの音で目を覚ました。外から沢山の人の声がする。
ボクがサンダルをつっかけて玄関の外の廊下に出ると、アパートの一階に警察と、近所の人たちが集まっていた。
騒ぎを聞くに、どこかの馬鹿男がこのアパートの敷地で勝手に首を吊ったらしい。
迷惑な話だ。
騒ぎはうるさいが、ボクには関係のないことなので部屋に戻ることにする。昼寝から中途半端にたたき起こされたので、まだ頭がぼんやりと眠りを求めているのだ。
そう思い、部屋に入ろうとした瞬間だった。
「うわ、蜘蛛だ」
小さな蜘蛛が廊下を這っていた。部屋の中に入られたらたまったもんじゃない。
ボクは迷わずサンダルで蜘蛛を踏みつぶした。そのまま端の方へ蹴り飛ばす。
体を潰された蜘蛛はひくひくと足を動かし、やがて止まった。
「ふああ」
ボクはあくびをして玄関のドアを開けた。中ではビニール傘がご機嫌そうに飛び跳ねている。ボクはそいつの頭を軽く撫で、それからベッドに向かった。
―第10話 土蜘蛛 【完】
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【土蜘蛛(つち-ぐも)】
蜘蛛の形をした妖怪で、八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)などとも呼ばれる。多くの伝承に登場し、平家物語においては源頼朝がこの土蜘蛛を成敗した描写が書かれる。その他にも、人に化けるものや、人を襲って食らうものなど、多くの伝承にその姿が伝わる。
暗闇は好きだ。
だが日が落ちた後に女が俺の帰りを怯えて待つ、この薄暗がりの時間はもっと好きかもしれない。
「帰ったぞ」
玄関の扉を開けると、薄暗がりの中で女がびくりと肩を震わせた。だが女は何も喋らない。俺が勝手に話すことを禁じているからだ。
手探りで電気をつけると、玄関のそばの廊下で地べたに座り込む女の姿が鮮明に映った。
女の体は痩せこけ、髪はまばらに抜け落ちているせいで禿げが目立った。
昔は読者モデルをやっていたなんて、この姿を見ても誰も信じないだろう。
「おい」
「ひっ」
俺が声をかけただけで、女は頭を抱えて囁いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
俺は壊れたように呟く女の前に、さっきコンビニで買ったばかりの弁当の中身をぶちまけてやった。
「ほら、飯だ」
女が目の前に残飯のように捨てられた飯を前に呆然とした。しかし俺が舌打ちをすると、女は慌ててべたりとその場に土下座をする。
「ありがとうございます」
そして女は弁当の上に這いつくばり、床の飯を犬のように直接口をつけて食い始めた。手を使って食べるのは、俺が禁止しているからだ。
女が飯を口に運ぶたび、突き上げられた痩せた尻が揺れる。それを見て俺は思った。
こいつにももう飽きたな。
俺は立ったまま、這いつくばる女を見下ろして言った。
「随分と飯を食うんだな。役立たずのくせに」
女がはっとしたように床の飯から顔をあげる。その目に向かって、あえて微笑みながら俺は言った。
「ああ、違う違う。もちろん責めてるわけじゃないさ。ただ、お前みたいな能無しだろうと、養うのにはコストがかかる。お前は俺に負担をかけてるんだから、ちゃんとそのことを自覚しろよって、そう言いたかっただけだ」
それから俺はしゃがみ込み、女の手触りの悪い髪を撫でた。
「いいんだ。俺は大丈夫だから。でもお前は優しい女だからな。いろいろ気にしてしまうこともあるだろう。俺はお前の自主性を尊重するよ。もし死にたいと思ったら、悲しいけど止めるわけにはいかない」
それから俺は目に力を込めて言った。
「でも、遺書なんか残すんじゃないぞ。あんなのは承認欲求の強い馬鹿のやる真似だ。お前は自分で死にたいと思ったから勝手に死ぬ。それだけだ」
女の目に残っていた最後の光が消えた。女は乾いた唇を半開きにして、やがてうつろな目でこっくりと頷く。
その日の夜明け、俺がベッドで寝ていると、あの女が家を出ていく気配がした。
翌朝、俺は朝のニュースであの女の行き先を知った。
ローカル線の始発に飛び込んだらしい。おかげでその線は朝から運転を見合わせていて、乗客にとってはとんだ災難だ。
俺は顔をしかめた。
人に迷惑をかける方法を選ばないよう、もっときちんと教育してやるべきだった。
まあ、俺の通勤に関係のない路線を選んだことは誉めてやろう。
朝のコーヒーを飲み終わって丁寧に髭を剃ると、俺は専門店のオーダースーツに袖を通した。靴ベラを使って良く磨かれた革靴を履き、玄関を出る。
電車は混雑していたが、タイミング良く俺は席に座ることができた。しかし、次の駅で杖をついた老婆が電車に乗り込んできた。俺はさっと立ち上がり、老婆に声をかける。
「こちらへどうぞ」
「まあ、すみません」
「いえいえ。運動不足だったんで、ちょうどよかったですよ」
俺がそう言って爽やかに笑うと、近くにいた若い女がぽうっと見惚れるように俺の方を見た。
俺はつり革を掴みながら、その女をそれとなく観察した。
ミントカラーのブラウスに白いプリーツスカートと、服装は悪くない。だが全体を見るとどことなく垢ぬけなかった。一重の眠そうな目と、太い足のせいだろう。
あれじゃあ俺の獲物にはならない。
俺は電車の外を流れる風景に目を移して考えた。
早く、次の上質な獲物を見つけなくてはならない。退屈な人生こそが、俺の最も倦むべきものだった。
糸で絡めとるように女を捕まえ、あらゆる言葉の毒を注入し、弱っていく女の命をゆっくりと貪る。それこそが俺の人生の最大の悦びだった。
その日もつつがなく仕事を終え、俺は適当な駅で降りてふらふらとあたりを歩き回った。次の標的を探すためだ。
いつだって獲物は自分の予期していないところで現れる。時間がかかる時もあれば、すぐに見つかる時もある。
今回は後者らしかった。
その女はコンビニの袋を手首にかけ、両手をパーカーのポケットに突っこんだままぶらぶらと歩いていた。フードで顔が隠れているが、その顔の造形の美しさは申し分ない。
だぼだぼとした服のせいで分かりづらいが、スタイルも悪くないようだ。
何より、他人をよせつけまいとするようなその女の雰囲気が俺の嗜虐心を煽った。
俺はこっそりと女の後をつけ、女が古びたアパートに入っていくのを見た。
ことが動いたら女の家に転がり込むことも、俺の家に女を呼び寄せることもあるが、今回に限ってはあの女のアパートで暮らすことはないな。俺は一人頷いた。
俺は女が入って行った部屋を確認し、その番号の郵便受けを確認する。郵便物を見る限り、どうやらひとり暮らしのようだ。俺の獲物にはもってこいだった。
そして俺はアパートを後にしながら、抑えきれない笑みが口元に浮かぶのを感じた。
狩りが始まる。この瞬間の興奮こそが、俺が生きる意味なのかもしれない。
それから俺は仕事の帰りや休日に、偶然を装って女の周りに顔を出すようになった。道ですれ違い、駅で隣に立って電車を待ち、スーパーで同じ商品を取るふりをして、手を重ねる。
「あ、すみません」
「はあ」
しかし女の反応は鈍かった。これだけ会っているのに、俺の顔を認識していないのではないかと疑いたくなるレベルだ。
こんなことは今まで無かった。これまでの獲物は、偶然を装ったその出会いに勝手に運命を感じ、とんとん拍子に名前も知らない俺のことを意識するようになるからだ。
だが、あの女はそううまくいかない。
二週間が経ち、しびれを切らした俺は強硬手段に出ることにした。
その日、インターフォンのボタンを押すとと安っぽいチャイム音ともに返事があった、
「あ、はーい」
出てきた女を見て、俺はあえて目を丸くする。
「あれ?」
女が首をかしげる。俺はスマホを確認しながら言った。
「すみません。間違えたみたいです。アイツ、住所はここだって言ってたのに」
「はあ」
「あれ?」
扉を閉められそうになったので、俺は女に顔を近づけるようにして続けた。
「お姉さん、僕と会ったことありますよね?」
そう言えばさすがに思い出すだろう。直接話したことはないにしろ、もう二十回は偶然を装って会っているのだ。
しかし女は首をかしげた。
「ちょっと記憶にないです。それじゃ」
「あ、ちょっと待って」
俺は慌ててそう言うと、ドアのへりを掴んでわざとへなへなと崩れ落ちた。
「すみません、外の暑さでちょっと体調を崩したみたいで」
俺はよく母性本能をくすぐると言われる垂れた目で女を見上げた。
「中で水を飲ませてくれませんか」
女は眉間に皺を寄せてしばらく考え、それから渋々といったように頷いた。
俺を玄関の上がり框に座らせると、女はキッチンに向かった。ジャーっという激しい水音が聞こえ、すぐに女が周りが水で濡れたコップを持ってきた。水道水を汲んできただけらしい。しかし俺は文句も言わず、弱々しく微笑んで受け取った。
「ありがとうございます」
喉が渇いていたわけではないが、つじつまを合わせるためにコップの水を飲み干す。
その後、俺はまじまじと女の顔を見た。
「何?」
「いや、似てるなと思って」
「はあ」
「お姉さん、死んだ僕の彼女にそっくりなんです」
もちろん嘘だ。だが真実味をもたせるため目元に手をやり、涙をぬぐうような仕草をする。それから俺は顔をあげ、そっと彼女の腕を引いた。
「一度だけ、彼女のことを思い出させてください」
そう言って、俺は彼女にキスをしようと口元に顔を寄せる。その瞬間だった。
ガツン、と頭の左側に強い衝撃を受け、俺は横向きにへたりこんだ。思わず手を頭に当てると、かじられたような歯型から血が流れだしていた。俺は思わず叫んだ。
「何しやがる」
女は仁王立ちになってボロボロのビニール傘を構えていた。あれで思いっきり殴られたらしい。歯型のような傷までできたのは謎だが、当たり所が悪かったのだろう。
俺がそれ以上文句を言う前に、女が吐き捨てた。
「臭い」
「はあ?」
「お前の口、なんか虫けらみたいな臭いがする。臭い」
頭に血が昇った。俺は今まで、少なくとも女にそんなことを言われたことは無かった。俺は体に湧き上がる衝動に身を任せ、女に飛び掛かった。
だん、と音を立て、女の体が廊下に倒れる。俺はそのうえに馬乗りになって彼女の首を絞めた。普段の俺ならそんな直情的な真似はしないが、その時は後先など考えられないほどに血が昇っていた。
誰もいないはずの風呂場からガツンガツンと音がする。その音で俺ははっと我に返った。
俺の下では、女がぐったりと身を横たえていた。俺は思わず女を見下ろした。
パーカーのフードが外れて長い黒髪が廊下に扇状に広がり、白い肌と相まって一枚の絵画のような光景を作り出している。
殺ってしまったか、と一瞬焦ったが、すぐに思い直した。
ほんの少し頸動脈を締めただけだ。こんなことで死ぬわけがない。気絶しているだけだろう。
俺の推測通り、女の長い睫毛がぴくぴくと動く。そして。
「ふう」
女から、それまで聞いたことがないような色気のある息が漏れた。
女がゆっくりと目を開き、人形のような目を細めて俺を見据える。
「まったく、ひどいことをしてくれるもんだ」
妖艶な声だった。
「久しぶりに目が覚めちまったよ」
そう言って女はくっくっと意地の悪そうな笑みを見せた。それから女が俺の顔に手を伸ばす。突然のことに動けないでいる俺の頬を、女の滑らかな手が撫でた。
「私はね、お前みたいな奴が大嫌いなんだ」
その瞬間、俺は奇妙な感覚に捕らわれた。みるみる体が縮み、それに対比して周囲の物が大きくなっていくような錯覚に襲われる。
いや、錯覚じゃなかった。俺は確かに小さくなっていた。
小さくなった俺を女が片手でつまんで吊るす。女の紅い唇が近づき、ふっと俺に息を吹きかけた。
その瞬間俺の意識は飛んだ。
目が覚めると、俺はアパートの階段を下っていた。そこに俺の意思は関係なく、ただ操られるように左右の足が交互に動く。俺から見える世界は、すべてがセピア色に沈んでいた。
俺の体、俺の意思に反してアパートのそばの花壇に近づいて行った。そこにあるホースを手に取り、輪っかの形に結ぶ。そして俺はそのホースを近くにあった大きな木の枝にかけた。
そして、俺は自分の顔を輪になったホースに近づけた。首がホースの輪をゆっくりと通過していく。その時になってやっと、俺は自分の体が何をしようとしているか気付いた。
いやだ、やめてくれ。死にたくない。
叫びたくても声は出ない。その時、耳元であの妖艶な声がした。
―安心しなよ。死ぬわけじゃない。
女の声が楽し気に囁く。
―生まれ変わるだけさ
ホースが喉に食い込み、呼吸が狭まっていく。
―お前はこれから、ただのちんけな蜘蛛になるんだ。
鳥も虫も猫も、すべてがお前を食らいつくそうと襲い掛かる。でも、捕まってもそれで終わりじゃない。死んだ瞬間にまた蜘蛛として生き返り、お前は再び食われるんだ。
―とわに、永遠に
女の声が高らかに笑った
パトカーのサイレンの音で目を覚ました。外から沢山の人の声がする。
ボクがサンダルをつっかけて玄関の外の廊下に出ると、アパートの一階に警察と、近所の人たちが集まっていた。
騒ぎを聞くに、どこかの馬鹿男がこのアパートの敷地で勝手に首を吊ったらしい。
迷惑な話だ。
騒ぎはうるさいが、ボクには関係のないことなので部屋に戻ることにする。昼寝から中途半端にたたき起こされたので、まだ頭がぼんやりと眠りを求めているのだ。
そう思い、部屋に入ろうとした瞬間だった。
「うわ、蜘蛛だ」
小さな蜘蛛が廊下を這っていた。部屋の中に入られたらたまったもんじゃない。
ボクは迷わずサンダルで蜘蛛を踏みつぶした。そのまま端の方へ蹴り飛ばす。
体を潰された蜘蛛はひくひくと足を動かし、やがて止まった。
「ふああ」
ボクはあくびをして玄関のドアを開けた。中ではビニール傘がご機嫌そうに飛び跳ねている。ボクはそいつの頭を軽く撫で、それからベッドに向かった。
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