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第7話 天国と地獄
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◇ 寛文十年(1670年) 江戸 多賀一郎 十九歳
多賀一郎は朝からソワソワしていた。一郎は一年前から、江戸の「淀藩」石川氏の下屋敷の長屋で一人暮らしをしている。
侍医の父白庵と母の里は、一年前の寛文九年に、主の石川憲之が伊勢国の亀山藩から山城国の淀藩への領地替えが決まり、慌ただしく江戸を去った。
譜代大名にはよくあることなうえ、石川氏は五万石から六万石に加増されたことで喜ばしい異動でもあった。
ただ、加増分は各地に飛び地となって点在していたため、官吏としても優れていた白庵は二百石を加増のうえ、新領の飛び地の見分役に抜擢。各地を妻とともに飛び回っており、江戸の長屋はそのままに息子を一人暮らしさせていた。
一郎は、金沢屋からの迎えが来るのを待ちながら、狭い部屋をぐるぐると何周もしている。
ふと小さい本棚に目が止まる。母の里が丁寧な字でこと細かく、炊事、洗濯から、銭の管理まで、生活のやり方を記した帳面が立て掛けてある。一郎はそっと引き抜くと、畳んだ布団の下に隠そうとする。
その時、長屋の戸がガラリと開いて、金沢屋が「お待たせしやした!」と大声を上げる。一郎はビクッとして、慌てて帳面を懐に収める。
一郎が「ど、どうして、金沢屋さんが直接?使いの人でなく?」と聞くと、金沢屋は「吉原は行って帰るまでが吉原です。それが粋ってもんです」ともっともらしいことを言う。
「そ、そういうものですか?」と更に聞く一郎に、金沢屋は「さぁさぁ、行きましょう!天国に!」と満面の笑みを向ける。
◇寛文九年(1669年) 伊勢亀山 胡蝶 十八歳
「岡本の子孫は出てこい」と新たな亀山藩主となった板倉重常の側近の武士が命じる。
鈴鹿の村。河原沿いの水呑みたちの集落に、村民が集められている。しかも、藩主自らが御成という異常な事態に、村民や水呑みのものたちは、押し黙って身体を震わす。
ボロボロの小屋から、胡蝶と、中年の母親が出てくる。馬上の板倉は母親に「お前が岡本重政の息子の娘か?」と問うと、母親はこくんとうなずく、板倉は黙って右手を上げると、側近が槍で串刺しにする。
胡蝶は「お母さま!」と叫び、母親にすがりつくが、別の武士たちに引き剥がされて、板倉の前に立たされる。
板倉は八年前の寛文元年(1661年)、江戸の忍岡にある孔子廟(後に湯島へ移転し湯島聖堂)の大改修の奉行として名を挙げた生粋の朱子学信奉者である。徳川への忠誠心は病的と噂される譜代大名だ。
「東照大権現様に楯突いた大悪人の孫が、我が領地でのうのうと暮らしているわけにはいかんからのぉ」と澄まして言う。
村民は「ひっ」と悲鳴を上げるが、胡蝶は涙を浮かべながらも、きっと唇を結ぶ。腕を掴む武士をばっと振り払って、一歩前に出ると、板倉の目を睨みつけ、「私はひ孫です。どうぞ殺めなさったら」と気丈に言う。
板倉は長い蛇のような舌を出して唇を舐める。十八の娘らしい身体の線を舌でなぞるように見て、美しく凛とした顔には感心したように片眉を上げる。
板倉は「おい、連れてこい」と部下に言うと、拷問されてボロボロとなった庄屋喜左衛門が引きずり出される。
胡蝶は「庄屋さま?」と小さく声をあげる。
板倉は「この村は、東照大権現様に仇をなした大罪人の子孫を匿っておった。徳川の世への大逆である。よって、村民全員を撫で切りとする」と宣言する。
村民から「そんな!六十年も昔のことなのに」「いま、徳川様に楯突く者などおりません」と悲鳴と懇願の声が上がる。
板倉は耳にわざとらしく手を当てて「ふむふむ、それももっともじゃ。では、寛大なる新藩主として、一つ提案しよう。それは、この陰陽の娘を人柱として献上することじゃ」と言う。
胡蝶が陰陽(両性具有)であることを知っているのは、殺された母親と庄屋喜左衛門しかいない。喜左衛門は顔を腫らしながら「すまない、すまない」とうわ言のように繰り返す。
幼馴染の村の男たちも「えっ、胡蝶が?」「女じゃないのか?」と微かな驚きの声が上がり、胡蝶の胸に突き刺さる。
胡蝶は一回フーッと息を吐いてから、大きく息を吸い込むと胸を張り、キリリとした姫の顔になる。
板倉は一瞬、「うっ」と気押される。胡蝶は「いいわ。私が人柱になる。でも一つお願いがある。どんな神様か知らないけど、神に捧げるんだから、もう少し綺麗な衣装を着て天国に行かせてくれないかしら」と精いっぱいの強がりを言う。
板倉は「くくく、ワシも同じことを考えておったわい。綺麗なオべべで飾ってやることは約束しよう」と不気味に誓う。
「もっとも『お姫さま』が行かれるのは…」とわざと丁寧語で言い、「天国ではなく、苦界でありますがのぉ」と高笑いする。
多賀一郎は朝からソワソワしていた。一郎は一年前から、江戸の「淀藩」石川氏の下屋敷の長屋で一人暮らしをしている。
侍医の父白庵と母の里は、一年前の寛文九年に、主の石川憲之が伊勢国の亀山藩から山城国の淀藩への領地替えが決まり、慌ただしく江戸を去った。
譜代大名にはよくあることなうえ、石川氏は五万石から六万石に加増されたことで喜ばしい異動でもあった。
ただ、加増分は各地に飛び地となって点在していたため、官吏としても優れていた白庵は二百石を加増のうえ、新領の飛び地の見分役に抜擢。各地を妻とともに飛び回っており、江戸の長屋はそのままに息子を一人暮らしさせていた。
一郎は、金沢屋からの迎えが来るのを待ちながら、狭い部屋をぐるぐると何周もしている。
ふと小さい本棚に目が止まる。母の里が丁寧な字でこと細かく、炊事、洗濯から、銭の管理まで、生活のやり方を記した帳面が立て掛けてある。一郎はそっと引き抜くと、畳んだ布団の下に隠そうとする。
その時、長屋の戸がガラリと開いて、金沢屋が「お待たせしやした!」と大声を上げる。一郎はビクッとして、慌てて帳面を懐に収める。
一郎が「ど、どうして、金沢屋さんが直接?使いの人でなく?」と聞くと、金沢屋は「吉原は行って帰るまでが吉原です。それが粋ってもんです」ともっともらしいことを言う。
「そ、そういうものですか?」と更に聞く一郎に、金沢屋は「さぁさぁ、行きましょう!天国に!」と満面の笑みを向ける。
◇寛文九年(1669年) 伊勢亀山 胡蝶 十八歳
「岡本の子孫は出てこい」と新たな亀山藩主となった板倉重常の側近の武士が命じる。
鈴鹿の村。河原沿いの水呑みたちの集落に、村民が集められている。しかも、藩主自らが御成という異常な事態に、村民や水呑みのものたちは、押し黙って身体を震わす。
ボロボロの小屋から、胡蝶と、中年の母親が出てくる。馬上の板倉は母親に「お前が岡本重政の息子の娘か?」と問うと、母親はこくんとうなずく、板倉は黙って右手を上げると、側近が槍で串刺しにする。
胡蝶は「お母さま!」と叫び、母親にすがりつくが、別の武士たちに引き剥がされて、板倉の前に立たされる。
板倉は八年前の寛文元年(1661年)、江戸の忍岡にある孔子廟(後に湯島へ移転し湯島聖堂)の大改修の奉行として名を挙げた生粋の朱子学信奉者である。徳川への忠誠心は病的と噂される譜代大名だ。
「東照大権現様に楯突いた大悪人の孫が、我が領地でのうのうと暮らしているわけにはいかんからのぉ」と澄まして言う。
村民は「ひっ」と悲鳴を上げるが、胡蝶は涙を浮かべながらも、きっと唇を結ぶ。腕を掴む武士をばっと振り払って、一歩前に出ると、板倉の目を睨みつけ、「私はひ孫です。どうぞ殺めなさったら」と気丈に言う。
板倉は長い蛇のような舌を出して唇を舐める。十八の娘らしい身体の線を舌でなぞるように見て、美しく凛とした顔には感心したように片眉を上げる。
板倉は「おい、連れてこい」と部下に言うと、拷問されてボロボロとなった庄屋喜左衛門が引きずり出される。
胡蝶は「庄屋さま?」と小さく声をあげる。
板倉は「この村は、東照大権現様に仇をなした大罪人の子孫を匿っておった。徳川の世への大逆である。よって、村民全員を撫で切りとする」と宣言する。
村民から「そんな!六十年も昔のことなのに」「いま、徳川様に楯突く者などおりません」と悲鳴と懇願の声が上がる。
板倉は耳にわざとらしく手を当てて「ふむふむ、それももっともじゃ。では、寛大なる新藩主として、一つ提案しよう。それは、この陰陽の娘を人柱として献上することじゃ」と言う。
胡蝶が陰陽(両性具有)であることを知っているのは、殺された母親と庄屋喜左衛門しかいない。喜左衛門は顔を腫らしながら「すまない、すまない」とうわ言のように繰り返す。
幼馴染の村の男たちも「えっ、胡蝶が?」「女じゃないのか?」と微かな驚きの声が上がり、胡蝶の胸に突き刺さる。
胡蝶は一回フーッと息を吐いてから、大きく息を吸い込むと胸を張り、キリリとした姫の顔になる。
板倉は一瞬、「うっ」と気押される。胡蝶は「いいわ。私が人柱になる。でも一つお願いがある。どんな神様か知らないけど、神に捧げるんだから、もう少し綺麗な衣装を着て天国に行かせてくれないかしら」と精いっぱいの強がりを言う。
板倉は「くくく、ワシも同じことを考えておったわい。綺麗なオべべで飾ってやることは約束しよう」と不気味に誓う。
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