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第二章『幼なじみと剣士の男』
26.あってはならないこと
――夜、農村『モアサナ』
闇夜の凍える空気を割って、冷たい雨粒が打ち付ける。さっきまで温もりをくれた窓際の灯りも、今は凍えた景色に沈んでいた。
風か濡れた髪を額に沿わせ、瞼に張り付き目線を遮ろうとする。しかし、その不快感に気づかないほど、目の前で起こっている現実は意識を奪っていた。
「暗殺……ギルド!」
ダグラスの怒りに満ちた声。その時、キオの鋭い瞳に光が乗った。
やがて瞼が閉ざされる。その瞬間――彼の足元に青い魔法陣が輝き、勢いよく水が吹き出した。
「クレア!!」
ダグラスの声は轟音にかき消される。
雨を全身で受け止めながら、高々と打ち上がったキオ。宿屋の屋根に華麗に着地すると、見下ろした景色を眺めてから、死角へと逃げていった。
「っ――アン!!」
「わかってル!!」
再び高く飛び上がり、上空からキオを探す。闇に溶け込まんとする人影は、微かな光を反射してギリギリでアンに見破られた。
「西!」
「分かった!」
「ちっ……」
舌打ちしながらも再び水の柱を足場に逃走するキオ。それを空から追うアン、ぬかるむ地面を蹴り走り始めるダグラス。
「カーラ、宿に入って隠れてて!」
「キオ……なんで――」
「カーラ!!」
「ハルくん、私……私……」
ずぶ濡れのドレスの胸元を掴み、恐れか怖さに支配されたように顔を強ばらせる。目尻に溜まったものが雨ではないことは、想像せずともわかった。
その瞬間、彼女の肩を掴み、身体を揺さぶる。
「……カーラ!気持ちはわかる。でも今は後悔してる暇がないんだ!必ず助けてくるから、謝るなら彼女に謝るんだよ!!」
絶望一色だった顔色に頬の赤が加わる。目を細め、ぐっと涙こらえると、そこに決意に似た感情と不安が乗った。
「……うん、お願い!」
「約束する」
濡れた髪の隙間から、覚悟を決めた眼差しを向ける。
大きく頷いたカーラの頭に軽く触れた。再び立ち昇った水の柱に向け――雨を弾き、走り出した。
――
身体の感覚が鈍い。鉛のように重たい瞼。それに酷い揺れ。下手な御者がいたものだと胸の奥でため息を漏らした。
そういえば、彼と出会う前までの旅は酷かった。父が用意した御者は馬を操ることに必死だったっけ。
彼とザバールで知り合ってから、私の人生は常に彼と共にあった。あの鼻につく気取った笑みも、真剣に前を見つめる鋭い眼差しも、たまに見せる寂しげな横顔も……全てを知ってきたからこそ、彼の隣に立つことを選んだ。
この馬車は何処に向かっているのだろう。ダグラスなら帝国仕込みの手綱さばきで、気分良く旅ができる。
「――――」
朦朧とした意識の中で、記憶と現実が溶けていく。
そういえば、彼はどこに行ったの?
「――ア」
少し不器用で荒っぽいところもあるけど、私が思い描く理想の部下……
「ク――ア」
いえ、それ以上の大切な人――
「クレア」
名前を呼ばれた気がして、微睡みに抗うように瞼を持ち上げた。
同時に感じる凍てつく寒さ、叩きつける雨、ジクジクと嫌な痛みを感じる首筋。そうだ、こいつに――キオに毒を刺されて私……。
「クレアーーー!!」
「……ダグ……ラス」
「チッ、もう起きたか。アイツ失敗作渡しやがったな」
まだ遠く感じる耳に届いた声に応える。自身を運ぶ人の声で何が起きたのかを全て把握した。今自分は――キオに誘拐されているのだと。
ダグラスが助けようとしてくれている。でもここは……屋根の上なんだ。飛び移りながら私を運べるなんて、すごい機動力。彼じゃ追いつけないかも……。
「止まレ!」
次に聞こえたのは、空から近づく少女の声。キオが屈んだと同時にクレアの肩を掠めていく鋭い爪と青い翼。
「っ――」
「はっ!クレア!ごめン!!」
傷から血が滲み、雨水と溶け合って裂けた服を淡い赤で染めていく。僅かな痛みを感じたが、皮肉にもそれが意識を呼び起こすきっかけとなった。
「大……丈夫……よ、アンちゃん」
「根性あるな。さすがあの戦いで生き延びただけある」
「やっぱり……暗殺ギルド」
「悪いな、私怨はないが仕事でね」
「ふっ、悪い……けど、この作戦は……失敗するわ」
「ん?」
次の瞬間――暗闇の中、白い何かが横目にすり抜け、キオの顔へ飛びかかった。宙を舞う身体、引き伸ばされた視界、落ちることは――想定内。
『ボスン!』
身体が痺れるほどの衝撃を感じ、傷ついた左肩に熱が戻っていく。暖かく硬い二つの腕の温もり。安堵の息を漏らしながら、恐れに閉じた瞼を開いた。
「……迷惑かけるわね」
「……あぁ、まったくだ」
「でも信じてた――ダグラス」
身体を支えてくれているダグラスの太い腕に触れ微笑みかける。彼は僅かに頬を赤らめ、僅かに視線を逸らした。
また助けられたよ。ありがとう、ダグラス。
心の中で囁いた言葉を口にするのは、きっと今じゃない。そう感じて、冷たい雨に打たれながら再び目を閉じた――。
――
濡れて滑る屋根の上を転がり、落ちる間際に辛うじて体勢を変えて免れたキオ。顔を持ち上げた先にいたのは――淡い青の瞳を揺らす骨狼『ボーンハウンド』と空から舞い降りた幼き鳥人『ハーピィ』だった。
「くっ――魔物ふぜいが……」
「……魔物いうナ。私はアン、この子はグラ。名前があル」
「魔物のくせに人真似が上手いな……」
「アンは人魔です。間違えないでください。キオさん」
二体の間を割るように、隣の建物の屋根から一つの影が跳んで渡る。
銀髪に灰色の瞳の少年。そうか、こいつが――
「……モンスターテイマー『ハルト』」
ハルトが徐に前髪をかきあげると、キオはフラフラと揺れながらその場で立ち上がった。細い目の僅かな隙間から悔しさが滲み、口元に垂れた雨水を噛んで見せた。
「……キオさん、大人しく捕まってください。今なら誘拐未遂で済みます」
「あまいな。もうこの手は穢している」
「……そうですか」
ため息が白く濁り、雨の隙間を縫って薄れた。手に握るナイフに力を込め、顔の前で構える。
刃の向こうに見える景色が、糸の森でぶつかったオリバーの姿と重なった。
キオが右手を前に向けると、小さな青い魔法陣がこちらを狙う。刹那――放たれた鋭い水の槍を刀身で弾く。傍らを駆け抜けたグラが水しぶきを上げ、むき出しの牙で襲いかかった。
しかし、彼の左手は既に足元へむけられている。魔法陣から飛び出した水の柱は――軽々とグラを吹き飛ばした。
「ギャウ!」
思わず笑みを零すキオ。自身の強さを信じる、強者の笑顔――それが過信でなければ。
突如、背中に当たる雨が棘のように鋭くなり、彼へ突き刺さり両手が地面に触れた。いや、それは水ではなく――鋭い羽の矢の雨だ。
「がはっ!!」
「クレアに酷いことした罰」
冷静に見下ろすアン。それを睨みつける彼の視線は、直後にこちらを向いた。
彼にはこう見えただろう。視界の隅に立つ影が、突然目の前にいた。それを認識した時には――首にナイフを突きつけられていた。
「……な、何が」
「修行の成果ですよ。相棒とのね」
ハルトの横に歩み寄り、キオを警戒するように唸るグラ。その白い身体に刻まれた紋章は赤く輝いてが、徐々にその光は闇に薄れた。
「……仲間の力を一時的に借りる絆の力――『リンク』僕はそう名付けました」
「リンク……有益な情報、感謝しよう」
「逃がしませんよ。教えてもらいます。今回の依頼者と目的を全て!」
「いや、逃げさせてもらう」
その声に呼び出されたように、彼の足元に大きな魔法陣が描かれた。
「なっ!離れ――」
一瞬で吹き出した巨大な水柱が鼻先を掠める。キオはそのまま高く空へ弾かれ、落ちた水は足元に落ち、足場としていた屋根が崩落した。
揺れに耐えるように膝をつき、水飛沫を全身で浴びる。再び見上げる。
飛びこんできたのは――有り得ても、有り得てはならない光景だった。
「……な、何故あなたが――」
『バサッ、バサッ』
大きな羽ばたきの音が雨音を割くが、頭がそれを理解できない。いや、したくない。
「なんで……。なんであなたが、ワイバーンを連れている!そんな物を魔物につけて、その子に何をした!キオ!」
不敵に口角を上げるキオ。跨るワイバーンの首には、重たそうな首飾りがつけられていた。
「従えたからだ。この魔道具で」
首にある鉄の輪を撫でる姿に、絶望と怒りが湧き上がる。頭に血が登り、気づけば歯を食いしばり、目尻を上げて睨みつけていた。
「魔物を服従させる魔道具……そんなもの誰が作った!!」
そう、それはモンスターテイマーの力に似ているようで、相対する力。巷では存在を囁かれながら、不可能とされた代物。
「お前もよく知っているだろう?あの豚、性格はアレだが、腕は確かだったな。ウチのギルドの知識を提供すると、すんなり完成させてた。……まぁ、これも試作品だがな」
豚……魔道具、性格、帝国にいる――。
そんな人物、一人しか知らない。私欲と恨みでクレアを追い詰め、ハーピィ達を危険に晒した悪徳貴族。魔道具で王都を滅茶苦茶にして消えた男。たったひと月でまたこんな――。
全身の毛が逆立ち、絶望は失せる。怒りが脳内を支配し、冷えきった身体が熱を帯びた。胸は湯が沸騰するようにざわつき、涙となって瞳に現れる。
「アイツ――!!」
「ハルト、落ち着け」
その苛立ちに蓋をする声は、後方から聞こえた。
一軒となりの屋根上。クレアを避難させて戻ったであろうダグラスは、静かに雨にうたれていた。
「フリオ・ノーランド――ヤツは確かに大罪人だ。クレアに手を出したことは到底許されない。だが、あの魔道具……『隷属の首輪』は帝国で長く研究されていたものだ。そして、恨みに固執するな。いつか身を滅ぼす」
「さすが詳しいな。『ダグラス・ガウェイン』」
「ガウェインの名は捨てた。俺は『ただのダグラス』だ」
ガウェイン家……帝国騎士団ガウェイン元副団長の血筋。代々帝国に仕え、武勲を上げてきた名家だと聞いたことがある。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「ダグラス、こればっかりは許せないよ。あの首輪の力は、僕とグラやアンの絆の契約とは違う。あれは――自我を殺す支配の力なんだ!」
気づけば手に持つナイフを構え、力任せに投げていた。真っ直ぐで重たく、ブレのない投擲。それはキオの瞳を穿つ――はずだった。
「ギャウ!」
「お、おい!暴れるな!」
突然首をくねらせ、コントロールを失うワイバーン。拍子に的が逸れ、ナイフは彼の顔前を掠める。そのまま弧を描き、おくにある建物の壁へ突き刺さった。
「クソっ!」
「待てハルト!……様子がおかしい」
「えっ?」
再び向けた視線の先、雨の中で踊るようなキオとワイバーンの姿を見つめる。
「ちょっ、おい!言うことを聞け!」
「ギャウア!ギャーーー!!」
ワイバーンの咆哮が村に響く。いつの間にか出てきて、雨に打たれていた村人達は、暗闇にあるものが魔物と知ると、慌てたように悲鳴を上げて走り始めた。
「キオ!ワイバーンから降りろ!」
「ダグラスなんで?!」
『ガツン――――』
次の瞬間、頭上から硬い物が降ってきて、額にぶつかる。倒れながら見たその正体は――ヒラヒラと舞う空色の羽根だった。
「ハルトのバカ!違う!こんなのハルトじゃなイ!!」
髪から滴る水と共に、苦痛の歪むアンの顔から涙と血が落ち、ハルトの鼻先を通って頬で混ざった。
頭が揺れて、真っ白になる。視界の先には少女の顔と、真っ暗な空があるのに、異質な静寂が包み込んでいる。
あぁ……そうか。僕はまた、アンに叱られてる。あの日の約束を破ったから。
一ヶ月前の北での戦い――あの日の記憶のアンが、優しく語りかけてきた。
『ハルトのチカラは『護る』為に使っテ――』
鼓膜に雨音が届き、額の痛みがじわじわと広がる。目の前の仲間の悲しい顔をようやく認識して、歪んでいく顔を止められなかった。
「アン……ごっ、ごめ゛ん゛っ……ごめ゛ん゛っ!!」
「……うん、大丈夫。私は何があっても仲間だかラ」
そうだ、あの魔道具に仲間との絆を否定されたような気がしたんだ。魔物と人を繋ぐのは、支配や枷じゃないって信じてたから。
でも、仲間と結んだ約束を忘れて、今僕は――キオを殺そうとした。
オリバーに誓った『信じる』約束も蔑ろにした。なんて馬鹿なんだろう。なんて愚かなんだろう。
どの口が――絆を語っていたんだろう。
「ハルト、立って。まだ終わってなイ」
「う゛っ、う゛ぐっ……う゛ん!」
喉につっかえて苦しいものを飲み込んで、痺れた手足に力を込める。寒さと罪悪感に震える身体を無理やり押さえ込み、上半身を持ち上げた。その刹那だった――。
「キオ!!もう諦めろ!!死ぬぞ!!!」
ダグラスの声が今の現実に意識を引き戻した。ぐしゃぐしゃの顔を腕で拭い、忌々しかった敵を見上げる。
「だっ、ダメだ!離せ!いっ、グッ――あ゛っ……あぁぁぁぁぁ!」
「ギュルウゥゥ!!」
その出来事は、僕らに止めることはできなかった。たった今、生きて罪を償わせると誓った相手の最期を。
『ズシャッ――グチャ……ゴリッ、バキッ――』
飛びながら咀嚼するワイバーン。上に跨るキオの胸は大きく抉れ、あったはずの心臓がなくなっていた。
その場でだらりと腕が垂れ、首が折れ、身体が滑り落ちる。
赤く染まった水溜まりに落ち、あたりに飛沫が飛び散った――。
闇夜の凍える空気を割って、冷たい雨粒が打ち付ける。さっきまで温もりをくれた窓際の灯りも、今は凍えた景色に沈んでいた。
風か濡れた髪を額に沿わせ、瞼に張り付き目線を遮ろうとする。しかし、その不快感に気づかないほど、目の前で起こっている現実は意識を奪っていた。
「暗殺……ギルド!」
ダグラスの怒りに満ちた声。その時、キオの鋭い瞳に光が乗った。
やがて瞼が閉ざされる。その瞬間――彼の足元に青い魔法陣が輝き、勢いよく水が吹き出した。
「クレア!!」
ダグラスの声は轟音にかき消される。
雨を全身で受け止めながら、高々と打ち上がったキオ。宿屋の屋根に華麗に着地すると、見下ろした景色を眺めてから、死角へと逃げていった。
「っ――アン!!」
「わかってル!!」
再び高く飛び上がり、上空からキオを探す。闇に溶け込まんとする人影は、微かな光を反射してギリギリでアンに見破られた。
「西!」
「分かった!」
「ちっ……」
舌打ちしながらも再び水の柱を足場に逃走するキオ。それを空から追うアン、ぬかるむ地面を蹴り走り始めるダグラス。
「カーラ、宿に入って隠れてて!」
「キオ……なんで――」
「カーラ!!」
「ハルくん、私……私……」
ずぶ濡れのドレスの胸元を掴み、恐れか怖さに支配されたように顔を強ばらせる。目尻に溜まったものが雨ではないことは、想像せずともわかった。
その瞬間、彼女の肩を掴み、身体を揺さぶる。
「……カーラ!気持ちはわかる。でも今は後悔してる暇がないんだ!必ず助けてくるから、謝るなら彼女に謝るんだよ!!」
絶望一色だった顔色に頬の赤が加わる。目を細め、ぐっと涙こらえると、そこに決意に似た感情と不安が乗った。
「……うん、お願い!」
「約束する」
濡れた髪の隙間から、覚悟を決めた眼差しを向ける。
大きく頷いたカーラの頭に軽く触れた。再び立ち昇った水の柱に向け――雨を弾き、走り出した。
――
身体の感覚が鈍い。鉛のように重たい瞼。それに酷い揺れ。下手な御者がいたものだと胸の奥でため息を漏らした。
そういえば、彼と出会う前までの旅は酷かった。父が用意した御者は馬を操ることに必死だったっけ。
彼とザバールで知り合ってから、私の人生は常に彼と共にあった。あの鼻につく気取った笑みも、真剣に前を見つめる鋭い眼差しも、たまに見せる寂しげな横顔も……全てを知ってきたからこそ、彼の隣に立つことを選んだ。
この馬車は何処に向かっているのだろう。ダグラスなら帝国仕込みの手綱さばきで、気分良く旅ができる。
「――――」
朦朧とした意識の中で、記憶と現実が溶けていく。
そういえば、彼はどこに行ったの?
「――ア」
少し不器用で荒っぽいところもあるけど、私が思い描く理想の部下……
「ク――ア」
いえ、それ以上の大切な人――
「クレア」
名前を呼ばれた気がして、微睡みに抗うように瞼を持ち上げた。
同時に感じる凍てつく寒さ、叩きつける雨、ジクジクと嫌な痛みを感じる首筋。そうだ、こいつに――キオに毒を刺されて私……。
「クレアーーー!!」
「……ダグ……ラス」
「チッ、もう起きたか。アイツ失敗作渡しやがったな」
まだ遠く感じる耳に届いた声に応える。自身を運ぶ人の声で何が起きたのかを全て把握した。今自分は――キオに誘拐されているのだと。
ダグラスが助けようとしてくれている。でもここは……屋根の上なんだ。飛び移りながら私を運べるなんて、すごい機動力。彼じゃ追いつけないかも……。
「止まレ!」
次に聞こえたのは、空から近づく少女の声。キオが屈んだと同時にクレアの肩を掠めていく鋭い爪と青い翼。
「っ――」
「はっ!クレア!ごめン!!」
傷から血が滲み、雨水と溶け合って裂けた服を淡い赤で染めていく。僅かな痛みを感じたが、皮肉にもそれが意識を呼び起こすきっかけとなった。
「大……丈夫……よ、アンちゃん」
「根性あるな。さすがあの戦いで生き延びただけある」
「やっぱり……暗殺ギルド」
「悪いな、私怨はないが仕事でね」
「ふっ、悪い……けど、この作戦は……失敗するわ」
「ん?」
次の瞬間――暗闇の中、白い何かが横目にすり抜け、キオの顔へ飛びかかった。宙を舞う身体、引き伸ばされた視界、落ちることは――想定内。
『ボスン!』
身体が痺れるほどの衝撃を感じ、傷ついた左肩に熱が戻っていく。暖かく硬い二つの腕の温もり。安堵の息を漏らしながら、恐れに閉じた瞼を開いた。
「……迷惑かけるわね」
「……あぁ、まったくだ」
「でも信じてた――ダグラス」
身体を支えてくれているダグラスの太い腕に触れ微笑みかける。彼は僅かに頬を赤らめ、僅かに視線を逸らした。
また助けられたよ。ありがとう、ダグラス。
心の中で囁いた言葉を口にするのは、きっと今じゃない。そう感じて、冷たい雨に打たれながら再び目を閉じた――。
――
濡れて滑る屋根の上を転がり、落ちる間際に辛うじて体勢を変えて免れたキオ。顔を持ち上げた先にいたのは――淡い青の瞳を揺らす骨狼『ボーンハウンド』と空から舞い降りた幼き鳥人『ハーピィ』だった。
「くっ――魔物ふぜいが……」
「……魔物いうナ。私はアン、この子はグラ。名前があル」
「魔物のくせに人真似が上手いな……」
「アンは人魔です。間違えないでください。キオさん」
二体の間を割るように、隣の建物の屋根から一つの影が跳んで渡る。
銀髪に灰色の瞳の少年。そうか、こいつが――
「……モンスターテイマー『ハルト』」
ハルトが徐に前髪をかきあげると、キオはフラフラと揺れながらその場で立ち上がった。細い目の僅かな隙間から悔しさが滲み、口元に垂れた雨水を噛んで見せた。
「……キオさん、大人しく捕まってください。今なら誘拐未遂で済みます」
「あまいな。もうこの手は穢している」
「……そうですか」
ため息が白く濁り、雨の隙間を縫って薄れた。手に握るナイフに力を込め、顔の前で構える。
刃の向こうに見える景色が、糸の森でぶつかったオリバーの姿と重なった。
キオが右手を前に向けると、小さな青い魔法陣がこちらを狙う。刹那――放たれた鋭い水の槍を刀身で弾く。傍らを駆け抜けたグラが水しぶきを上げ、むき出しの牙で襲いかかった。
しかし、彼の左手は既に足元へむけられている。魔法陣から飛び出した水の柱は――軽々とグラを吹き飛ばした。
「ギャウ!」
思わず笑みを零すキオ。自身の強さを信じる、強者の笑顔――それが過信でなければ。
突如、背中に当たる雨が棘のように鋭くなり、彼へ突き刺さり両手が地面に触れた。いや、それは水ではなく――鋭い羽の矢の雨だ。
「がはっ!!」
「クレアに酷いことした罰」
冷静に見下ろすアン。それを睨みつける彼の視線は、直後にこちらを向いた。
彼にはこう見えただろう。視界の隅に立つ影が、突然目の前にいた。それを認識した時には――首にナイフを突きつけられていた。
「……な、何が」
「修行の成果ですよ。相棒とのね」
ハルトの横に歩み寄り、キオを警戒するように唸るグラ。その白い身体に刻まれた紋章は赤く輝いてが、徐々にその光は闇に薄れた。
「……仲間の力を一時的に借りる絆の力――『リンク』僕はそう名付けました」
「リンク……有益な情報、感謝しよう」
「逃がしませんよ。教えてもらいます。今回の依頼者と目的を全て!」
「いや、逃げさせてもらう」
その声に呼び出されたように、彼の足元に大きな魔法陣が描かれた。
「なっ!離れ――」
一瞬で吹き出した巨大な水柱が鼻先を掠める。キオはそのまま高く空へ弾かれ、落ちた水は足元に落ち、足場としていた屋根が崩落した。
揺れに耐えるように膝をつき、水飛沫を全身で浴びる。再び見上げる。
飛びこんできたのは――有り得ても、有り得てはならない光景だった。
「……な、何故あなたが――」
『バサッ、バサッ』
大きな羽ばたきの音が雨音を割くが、頭がそれを理解できない。いや、したくない。
「なんで……。なんであなたが、ワイバーンを連れている!そんな物を魔物につけて、その子に何をした!キオ!」
不敵に口角を上げるキオ。跨るワイバーンの首には、重たそうな首飾りがつけられていた。
「従えたからだ。この魔道具で」
首にある鉄の輪を撫でる姿に、絶望と怒りが湧き上がる。頭に血が登り、気づけば歯を食いしばり、目尻を上げて睨みつけていた。
「魔物を服従させる魔道具……そんなもの誰が作った!!」
そう、それはモンスターテイマーの力に似ているようで、相対する力。巷では存在を囁かれながら、不可能とされた代物。
「お前もよく知っているだろう?あの豚、性格はアレだが、腕は確かだったな。ウチのギルドの知識を提供すると、すんなり完成させてた。……まぁ、これも試作品だがな」
豚……魔道具、性格、帝国にいる――。
そんな人物、一人しか知らない。私欲と恨みでクレアを追い詰め、ハーピィ達を危険に晒した悪徳貴族。魔道具で王都を滅茶苦茶にして消えた男。たったひと月でまたこんな――。
全身の毛が逆立ち、絶望は失せる。怒りが脳内を支配し、冷えきった身体が熱を帯びた。胸は湯が沸騰するようにざわつき、涙となって瞳に現れる。
「アイツ――!!」
「ハルト、落ち着け」
その苛立ちに蓋をする声は、後方から聞こえた。
一軒となりの屋根上。クレアを避難させて戻ったであろうダグラスは、静かに雨にうたれていた。
「フリオ・ノーランド――ヤツは確かに大罪人だ。クレアに手を出したことは到底許されない。だが、あの魔道具……『隷属の首輪』は帝国で長く研究されていたものだ。そして、恨みに固執するな。いつか身を滅ぼす」
「さすが詳しいな。『ダグラス・ガウェイン』」
「ガウェインの名は捨てた。俺は『ただのダグラス』だ」
ガウェイン家……帝国騎士団ガウェイン元副団長の血筋。代々帝国に仕え、武勲を上げてきた名家だと聞いたことがある。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「ダグラス、こればっかりは許せないよ。あの首輪の力は、僕とグラやアンの絆の契約とは違う。あれは――自我を殺す支配の力なんだ!」
気づけば手に持つナイフを構え、力任せに投げていた。真っ直ぐで重たく、ブレのない投擲。それはキオの瞳を穿つ――はずだった。
「ギャウ!」
「お、おい!暴れるな!」
突然首をくねらせ、コントロールを失うワイバーン。拍子に的が逸れ、ナイフは彼の顔前を掠める。そのまま弧を描き、おくにある建物の壁へ突き刺さった。
「クソっ!」
「待てハルト!……様子がおかしい」
「えっ?」
再び向けた視線の先、雨の中で踊るようなキオとワイバーンの姿を見つめる。
「ちょっ、おい!言うことを聞け!」
「ギャウア!ギャーーー!!」
ワイバーンの咆哮が村に響く。いつの間にか出てきて、雨に打たれていた村人達は、暗闇にあるものが魔物と知ると、慌てたように悲鳴を上げて走り始めた。
「キオ!ワイバーンから降りろ!」
「ダグラスなんで?!」
『ガツン――――』
次の瞬間、頭上から硬い物が降ってきて、額にぶつかる。倒れながら見たその正体は――ヒラヒラと舞う空色の羽根だった。
「ハルトのバカ!違う!こんなのハルトじゃなイ!!」
髪から滴る水と共に、苦痛の歪むアンの顔から涙と血が落ち、ハルトの鼻先を通って頬で混ざった。
頭が揺れて、真っ白になる。視界の先には少女の顔と、真っ暗な空があるのに、異質な静寂が包み込んでいる。
あぁ……そうか。僕はまた、アンに叱られてる。あの日の約束を破ったから。
一ヶ月前の北での戦い――あの日の記憶のアンが、優しく語りかけてきた。
『ハルトのチカラは『護る』為に使っテ――』
鼓膜に雨音が届き、額の痛みがじわじわと広がる。目の前の仲間の悲しい顔をようやく認識して、歪んでいく顔を止められなかった。
「アン……ごっ、ごめ゛ん゛っ……ごめ゛ん゛っ!!」
「……うん、大丈夫。私は何があっても仲間だかラ」
そうだ、あの魔道具に仲間との絆を否定されたような気がしたんだ。魔物と人を繋ぐのは、支配や枷じゃないって信じてたから。
でも、仲間と結んだ約束を忘れて、今僕は――キオを殺そうとした。
オリバーに誓った『信じる』約束も蔑ろにした。なんて馬鹿なんだろう。なんて愚かなんだろう。
どの口が――絆を語っていたんだろう。
「ハルト、立って。まだ終わってなイ」
「う゛っ、う゛ぐっ……う゛ん!」
喉につっかえて苦しいものを飲み込んで、痺れた手足に力を込める。寒さと罪悪感に震える身体を無理やり押さえ込み、上半身を持ち上げた。その刹那だった――。
「キオ!!もう諦めろ!!死ぬぞ!!!」
ダグラスの声が今の現実に意識を引き戻した。ぐしゃぐしゃの顔を腕で拭い、忌々しかった敵を見上げる。
「だっ、ダメだ!離せ!いっ、グッ――あ゛っ……あぁぁぁぁぁ!」
「ギュルウゥゥ!!」
その出来事は、僕らに止めることはできなかった。たった今、生きて罪を償わせると誓った相手の最期を。
『ズシャッ――グチャ……ゴリッ、バキッ――』
飛びながら咀嚼するワイバーン。上に跨るキオの胸は大きく抉れ、あったはずの心臓がなくなっていた。
その場でだらりと腕が垂れ、首が折れ、身体が滑り落ちる。
赤く染まった水溜まりに落ち、あたりに飛沫が飛び散った――。
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