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彼らがいればこその自然さ

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さて、前回までは主人公とヒロインについて解説をして来たが、もちろん主人公とヒロイン二人だけでは多くの場合物語は成立しない。よっぽど上手な人が描かないかぎり、その二人だけの世界はリアリティーを失う。だからこその彼ら――バイプレーヤー(ここでは脇役という意味で扱う)の存在が重要になってくるのだ。バイプレーヤーたちが主人公やヒロインを取り巻くことで、その物語はリアリティーを持ち始めるのだと思う。そのためにはバイプレーヤーたちの個々も立っていなければならない。僕が読んできた小説の中で一番それがあると思うのが池井戸潤さんの「半沢直樹」である。
原作を読んでみればわかるが、ドラマとはまた違う。しかし、渡真利や伊佐山などのバイプレーヤーの立ち方はドラマに劣っていない。だからこそリアリティーを感じ、連載された経済雑誌の読者投票を連載小説が制すという史上初の快挙をやってのけることが出来たのだろう。

このような話をした後で今の最前線・悪貨たちの駄文を読んでみると、もはやお馴染みとなった「何だあれは?」が飛び出してくるのは分かるだろう。どいつもこいつも揃って敵を憎んで適当にやられ、そこへ主人公がやってきて敵を倒すとまたどいつもこいつも揃って主人公を称賛する。全くもって個が立っていない。炎上覚悟でより過激な言い方をすれば「彼らは主人公教の信者である」とも言えるのではないか?もうちょい穿った見方で言うのならこうだ。
「世界は作者の偶像である主人公中心に回っており、ヒロインやバイプレーヤーは作者教の熱烈な信者であり、主人公を偶像崇拝している」
ここまで言えば大分わかりやすいのではないだろうか。まあつまり悪貨たちの駄文は、恐らくは現実世界でうだつが上がらずほとんど誰からも認められない彼らが作り出した欲望の塊であるといえる。

だからこそ彼らを救わなければならない。彼らも僕らと同じくこの世界に苦しめられているのだろうから。

(次回に続く)
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