ナナシ荘の料理係

天原カナ

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大事なこと

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 寿司用のお揚げにもやし、豚挽き肉、刻んだえのきの順に入れていき、最後に溶き卵を入れる。そうして口をつまようじで閉じる。
 それを煮る出汁は出汁の素とすき焼きの素で味をつける。
「武彦さん、すき焼きの素適当ってどのくらいなんですか?」
「適当に入れて、味を見ればいい。作っていけばそのうち分かるようになる」
「うちの母親のようなこと言いますね」
 篁四郎と潤子が研究所に行ったその日の夜、仕事帰りの武彦がやってきた。シンも帰ってきて、タツキがいない静けさはどこかにいった。
 そうして今、タツキのリクエストした「巾着」とやらを作るのを教えてもらっている。
「料理は経験だからな。俺も最初は全くできなかった」
「そうなんですか?」
「ああ。潤子さんに無理矢理料理係にされてから、必死に覚えた」
「無理矢理ってひどいなぁ」
「料理経験ないし、そういうのは料理の専門学校行ってる奴に頼んでくれって言っても聞いてくれなかったでしょ」
「だって千歳くんがよかったんだもん」
 いつの間にか潤子の武彦の呼び名が昔のものになっている。隠していたのか、それとも総務省の職員になった武彦に気を使っていたのかはわからない。
 それでも名前で呼ぶ潤子は、昔を懐かしむように無邪気に笑っていた。それに少しだけ妬いてしまいそうになって、もし自分がここを出たら、同じように名字で呼ばれてしまうのかと思って寂しくもなった。
「どうして武彦さんだったんですか?」
「なんとなく」
「なんとなくで、俺は家庭教師のバイトをやめたんだ」
「あー家庭教師してそうですね」
 出汁にすき焼きの素を入れながら、篁四郎が笑う。味見をすると少し濃かったので、少しだけ水を足した。
 ここにタツキがいたら家庭教師をしていた武彦の話で盛り上がるところなのだろうが、あいにく盛り上げ役はここにはいない。
 話題は台所の床に落ちて、誰にも拾われなかった。
 味が決まったら巾着を入れて煮込む。
 その間に夕方のタイムセールで安くなっていた鯛のアラ汁を作ることにした。ノートを見れば分かるだろうとは思ったが、手の込んだ魚料理は初めてだ。武彦が来てくれて、いつでも聞ける状態であることに安心した。
 熱湯でアラを一回洗う。そうして鍋に出汁とアラを入れて火をかける。あとは醤油を少々と塩を少々、味を見ていきながら足していく。
 それにキュウリの漬け物が今日の夕飯だ。
 もう少し品数を増やしてみたいが、今のところメインと副菜、それに汁物を作るのが精一杯だった。
 アラ汁も巾着もできあがったことを確認すると、全員に声をかける。
「ご飯ができました!」
 そうするとみな、ダイニングの自分の席につくのだ。
 タツキは自分の部屋にいても飛んでやってくるし、シンはいつもこの時間になるとリビングにいてニュースを見ている。潤子も料理をしている篁四郎を見ていることが多い。
 それぞれの席にアラ汁を並べ、巾着を一人二つずつ、真ん中にキュウリの漬け物を置いた。
「武彦さん、ご飯どのくらい食べます?」
「ごく普通で」
 武彦の茶碗と汁椀は、食器棚の奥に大事に仕舞われていた。エメラルドグリーンの茶碗と千歳と底に書かれている汁椀は、ここにいるときに使っていたものらしい。
 昨日はそんなものがあると知らなくてタツキのものを使用して出したが、潤子がまだとってあると言うので出してきたのだ。
「はい、武彦さんのご飯です」
「懐かしいな」
「でしょう。ちゃんととってたよ」
 そう言う潤子の前に、小盛りの赤い茶碗を置き、シンの前に普通盛り焦げ茶色の茶碗を置く。そしてシンより少し多めのご飯の入った水色の茶碗を篁四郎自身の前に置いた。
「いただきます」
「いただきます」
 シンの一言でみなが復唱する。
 いつもは目の前にいるのがタツキなのに、昨日も今日も武彦が座っているのが不思議だった。
「タツキの様子はどうだった?」
 キュウリの漬け物を食べながら、シンがそう聞く。
「ビニールの中でランニングマシーン走らされてへとへとって言ってました」
「なんだそりゃ」
「かまいたちの疑惑が出てますからね、とことん走らせる気でしょう」
「シンさんはかまいたちって見たことある?」
「あるぞ」
 ご飯を一口食べ、アラ汁で流し込むと、シンが遠くを見る。
「あれは戦時中だな」
「え、あ、ごめんなさい。そんな時代のこと聞いちゃって」
「かまわねぇよ。潤子だってそのくらいから生きてるばばあじゃねぇか」
「ばばあじゃない」
 ムキになる潤子に、シンが笑う。
「ま、そのくらい昔だな。妖怪だけ集められた妖怪部隊ってのがあって、その中にいたな。素早く動いて敵を切り刻んでよう。あれは気持ちよかったねぇ」
「その人たちは今どこにいるんですか?」
「さぁな。爆撃で死んだか、生きてたら集められて妖怪課の監視下で生きてんじゃねぇか」
「タツキくんのひいおじいさまの弟がかまいたちだったんですって」
「それじゃ、戦争中に会ってたかもしれねぇな」
 そう言ってシンが巾着にかぶりつく。
「うん、うめぇ」
「ありがとうございます」
 タツキが帰ってきたら、これと唐揚げを作ろうと思った。いつも汁物は味噌汁だから、レシピノートにあったスープにも挑戦もしてみたい。
「タツキさん、早く帰ってこれるといいですね」
「そのために頑張らなきゃ」
「具体的になるするか考えてんのか?」
「それはこれから……」
「もうすぐ盆休みになるから、そしたら解放されるんじゃねぇか?」
「でもそれで、妖怪認定されたらタツキくん帰ってこないんだよ」
「ああ、そうか……」
 うなだれるようなシンの声が、ダイニングに響く。空気が重たくなりそうなのを留めたのは、武彦だった。
「上司に直談判しようと思います」
「どうやって?」
「パワポで資料を作って、プレゼンをする。タツキさんがナナシであるという資料を作って、ナナシ課から圧力をかけてもらえるようにします。ナナシ課としても貴重なナナシを減らすわけにはいきませんから」
「妖怪課にあるタツキさんの資料はどうやって手に入れるんですか?」
 篁四郎がそう聞くと、武彦はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「佐々木田くんには悪いですが、お兄さんたちを利用させていただきます。というより、お兄さん方もこちらの味方のようですので、どうにかなりそうです」
 兄たちは篁四郎には甘い。
 仕事は優先されるべきことだろうが、妖怪課からナナシ課へ渡しても困らない資料なら、いくらでも渡してくれるだろう。少なからず路三郎ならそうするし、平一郎も路三郎にそうするように働きかけをするだろう。
「ナナシか妖怪か決めるのが父さんなら、俺は父さんに働きかけます」
「でも、なにが決め手なんだろう……」
「え?」
 ぽつりとこぼれた潤子の言葉に、みなが潤子を見る。
「だって、なにが決め手で、タツキくんがかまいたちだってなるの?」
「おそらく、何回も走らせて、その風圧で周りを傷つけるかどうかじゃないでしょうか」
「何回やっても傷つけなかったら、ナナシなんでしょ?」
「反対に一回でも傷つけたら、かまいたちとされてしまいます」
「そんな……」
「その結果が出る前に、働きかけなくてはいけません」
「もし、タツキがナナシ認定された後に、かまいたちの力が発覚したらどうする?」
 そうシンが言うと、潤子が力強く反論する。
「タツキくんは人を傷つけたりしない」
「かまいたちだって、好きで人を傷つけてるわけじゃねぇよ」
「そうだけど……」
「俺は、研究材料としか見られていないとこに、タツキさんを置いておくのは嫌です」
「篁四郎くん……」
「そうだな、篁四郎の言うとおりだ」
「とりあえず、やれることをやりましょう」
「うん。そうだね」
 それからみんなでご飯をたいらげ、食器を片づけた。
 シンは風呂に入り、武彦はリビングのローテーブルの上でパワーポイントで資料を作っている。潤子はソファーに座り、そんな武彦の作る資料を見ていた。
 夕飯で使った食器の洗い物をして、明日の朝食のメニューを考える。
 アラ汁はもうすっかり食べてしまったから、明日の朝は味噌汁を作らないといけない。キャベツがあるからそれを入れて、卵焼きを作って、冷蔵庫にトマトがあったからサラダにしよう。
 たまにはパンの朝食もいいかもしれない。
 そんなことを考えていると、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。
 通知の名前は次兄の陽二郎だった。
「もしもし」
『もしもーし、お兄ちゃんだよ』
「うちには兄が三人おります」
『誰だかわかってるくせに』
「よう兄さん」
 テンションの高い声に、げんなりしつつも、相手が陽二郎であることに、タツキのことを聞けると少しだけ喜んだ。
『こうちゃん、ナナシ荘の料理係になったんだって?』
「そう」
『これでうちら四兄弟に隠し事なくなったね』
「まぁ、そういうこと」
 これまで篁四郎は兄たちの仕事について興味がなかった。聞くこともなかったし、兄たちもわざわざ教えてこなかった。
 だが、兄同士は仕事の話をしていたのかもしれない。末の弟が話に加わることを期待しながら。
 ナナシのことは口外しないと言っても、ナナシ課や妖怪課に相手がいるなら話は別だ。これで兄たち全員とナナシの話ができる。
「よう兄さん、タツキさんの実験ってどうなってる?」
『実験ねぇ、進捗なしってとこだね』
「どういうこと?」
『上がってくる実験結果は、どれも人間より速く走れるって結果ばかりで、周りを傷つける風圧が生まれたってのないんだよね』
「そうなんだ」
『何十回ってやってそれだから、あと何百回やるつもりじゃないかなぁ、霧島クン』
「何百回!?」
『何千回かも。そういう実験って回数こなすもんだってみちくん言ってたし』
 陽二郎の言葉に、篁四郎はぞっとした。
 霧島はタツキのことを実験材料として扱おうとしていた。それは結果が出るまでずっとやるということだ。
 どこかで霧島が諦めてくれたらいい。だが、諦めてくれなかったら、タツキはあのビニールの中のランニングマシーンの上で走り続けなくてはいけないのだ。
「なんで、そんなに妖怪認定したいの?」
『そりゃ、妖怪は増えてほしいからじゃないかな』
「え」
『俺としては仕事が増えるから増えなくていいんだけど、研究所の方は増えてほしいみたいだね』
「みち兄さんも?」
『みちくんはそういうの好きじゃないからなぁ』
「そうだよね」
『研究対象はたくさん欲しいってのが、研究所の方針らしいけどね』
「……そっか」
『でもそろそろ解放するようにこっちからも働きかけるよ。父さんにもお願いしてみたら?』
「でも仕事でしょ?」
 兄にとってもこれは仕事の一環だ。いくらナナシ荘の料理係といっても、邪魔していいわけがない。
 それは父親にとっても同じだ。
 仕事の邪魔をするわけにはいかないし、いくら息子とはいえ仕事のことに口を出していいわけはない。
『でもこうちゃんにとっても大事なことでしょ?』
「え?」
『仕事より大事なことはたくさんあるよ』
「兄さん……」
『じゃあ可愛い弟のためにお兄ちゃんたちは一肌脱ぐよ。またね』
 そう言って、陽二郎は篁四郎の返事を待たずに通話を切ってしまった。
 リビングを見ると、いつの間にかシンが風呂から上がって、代わりに潤子が風呂に行ったらしく姿がなかった。
 三人分の麦茶を入れて、篁四郎もリビングへ行く。
「どうぞ」
「ありがとう」
「悪いな」
 麦茶をローテーブルに置いてソファーに座るシンの横に座ると、武彦が声をかけてきた。
「お兄さんだった?」
「はい。妖怪課にいる二番目の兄でした。妖怪課にいるって今日知ったんですけど、いろいろ手を回してくれるって」
「それはいい」
「でも、兄たちに迷惑をかけてないでしょうか?」
「ん?」
 武彦とシンの視線が篁四郎に集まる。
「俺がタツキさんをあそこから出そうとすることは、兄たちの仕事の邪魔をしていないかなって思ったんです」
「兄ちゃんたちはなんて言った?」
「気にするなって」
「じゃあそれが答えだ」
 ぽんぽんとシンが篁四郎の肩を叩く。それは父親のような大きさのある手だった。
 そんな二人に小さく微笑みながら武彦が言う。
「佐々木田さんからよく弟の話は聞いてたんです。俺は一人っ子なのでよく分かりませんが、兄弟仲がよくて羨ましい」
「兄に言われました」
「なんと?」
「仕事より大事なものがあると」
「それはそうですね」
 キーボードの上を動いていた武彦の指が止まる。マウスを動かして資料を保存すると、背伸びをした。
「俺にとっては、このナナシ荘が大事です。たぶん、仕事よりも」
「武彦さん……」
「大学を卒業してもナナシ荘と関わりたくて、総務省にも入りました。タツキさんを傷つける人がいるなら、職権乱用でもなんでもしてやります」
「言うねぇ、千歳」
「茶化さないでくださいよ、シンさん」
 武彦の顔が、少しだけ若くなったように見えた。それはかつてここで料理係をしていて「千歳」と呼ばれていた青年の顔だ。
「お兄さんたちの仕事の邪魔をするより、タツキさんをあそこから出すことが大事だと思えば、それを全力でやればいい。君が正しいと思うことをすればいいんですよ」
「俺が正しいと思うこと……」
 きっと武彦はそうやってきたのだろう。
 総務省に入って、ナナシ課の職員になっても、自分の信じた道を歩むために様々なことを選択してきた。
 それはすべてここに住むナナシのため。
「明日、実家に帰ります」
「ん?」
「そして父に話します」
「ラスボスかな」
「そうですね」
 兄たちが家を出てから、父と話す機会は減った。元々仕事で忙しい人でゆっくり話すことはなかったし、夕飯に間に合わないことも多々あった。
 篁四郎が寝た後に帰ってきて、朝少し顔を合わせるくらいというのも高校生のころには当たり前になっていた。
 はたしてきちんと話せるだろうかという緊張感がある。
 でも、話さなければいけないという使命感もある。
 それでタツキが解放されるなら、父の仕事の邪魔をしてしまっても仕方ない。
 タツキは実験材料でも動物でもない。
 ナナシは生きた人なのだから。

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