こちら、輪廻転生案内課!

天原カナ

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神代の生前

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 クーラーをつけて寝るのも寒くなってきた頃、茜は朝起きていつも食べている食パンの買い置きがなくなっていることに気がついた。
 昨日帰りに買おうと思って、すっかり忘れていたのだ。
「あ、アイス半額につられたからだ」
 買い物しようと寄ったいつも行くスーパーで、アイスが半額になっていた。それを見て喜んだ茜は、たくさんアイスを買って、食パンのことなど頭の中からすっかり消し去ってしまった。
 今、冷凍庫にはありとあらゆる種類のアイスが入っている。冷凍しておいた食パンなんてないし、あるのは冷凍ご飯だけだ。
 なにかおかずになるものはないかと冷蔵庫を開けると、卵が二つとベーコンが目に入った。これでオムレツが作れる。
 今日は休日だ。
 朝ご飯作りに時間をかけてもかまわない。
 そうと決まったら、茜は洗濯物を洗濯機に入れて、スイッチを押した。洗濯機が回っている間に朝ご飯をすませようという魂胆だ。
 冷凍庫を開けて、アイスに追いやられている冷凍ご飯を取り出し、そのまま電子レンジに入れる。二分半とセットしてスイッチを入れた。
 次はおかず作りだ。ベーコンを切って、油をしいたフライパンに入れる。その間に卵を二つボウルに割ると、塩と胡椒を適当に入れて混ぜた。
 フライパンからはベーコンの焼ける匂いがして、色が変わった頃を見計らって、卵を入れる。箸で卵を回しながら、オムレツの形にしようとするが上手くいかなくて、結局はベーコン入りオムレツとスクランブルエッグの間くらいのものができあがった。
「まぁケチャップかけたらどうにかなるよね」
 そう一人ごちて、出来上がったものを皿に移して、その上からケチャップをかける。卵と格闘していた間に温めたご飯を、茶碗に入れると、それなりに立派な朝ご飯に見えた。
 パンと一緒にいつも飲んでいたオレンジジュースはこのメニューに合わない気がして、グラスに麦茶をそそいだ。
 それをリビングのローテーブルに運ぶと、茜は手を合わせた。
「いただきます」
 熱々のご飯を食べ、ケチャップのついた卵を食べる。これに味噌汁があったら完璧だ。今度お湯をそそぐだけでできる味噌汁を買ってこよう。
 スマホでニュースを流しながら、充実した朝ご飯を食べて、麦茶を飲む。
 やっぱり朝にご飯を食べるのはいいなと思う。
 久しぶりに卵かけご飯も食べたい。もしかしたら生前の自分はご飯が好きだったのかもしれない。好物は卵かけご飯というくらいに。
 洗濯機が終了の音楽を流す。
 茜はスマホのニュースを一時停止して、洗濯物を干した。ベランダに出ても、隣はシンっとしていてどうやら天真は仕事のようだ。
 部屋に戻ると、歯を磨いて、洗顔をして、化粧をする。化粧だっていつの間にか素早くできるようになった。麗のようにしっかりとしたアイメイクは苦手だが、それでも社会人として最低限の化粧はできていると思う。
 そうして服が入っている棚を開けると、茜はその中からティシャツとジーンズを選んだ。それに薄手のパーカーを羽織り、下駄箱からスニーカーを取り出した。
 今日の服装に休みの日に使っているバッグは似合わないが、急に決めたことだから仕方がない。
 歩きやすいスニーカーで、一歩一歩踏みしめて駅までの道を歩く。
 行こうと決めたときが、吉日だ。
 行き先の住所は曖昧だが、スマホもあるし大丈夫だろう。
 最寄り駅に着くと、ICカードをかざして改札を通る。そうして来た電車に乗り込んだ。
 行き先はここから五つ離れた駅。
 


 スマホの地図を頼りにたどり着いた場所は、想像以上に賑やかだった。
「鶏って本当にコケコッコーって鳴くんだ」
 目の前の看板を見上げながら、茜はぽつりと呟いた。
 看板には笹井養鶏場と書かれてある。
 ここは川井が働いていた場所だ。そしてあの高級卵を生産している場所で、売っている場所でもある。
 販売所こちらという看板を頼りに中に入っていくと、鶏の鳴き声は更に賑やかになっていき、匂いもする。繁華街から離れたここは、周りには畑くらいしかなくて、いくら鶏が鳴いてもいいのだろう。
 歩くのは大変だったが、今日のこの格好は正解だったといえる。
 販売所と書かれた小屋の中に行くと、卵の自販機が置いてあった。今朝産みたてと書かれた文字が書かれていて、新鮮さが伺える。自販機は中が見えるようになっており、好きなボックスに入っている卵を見て買えるようになっている。中をみるとなくなっているボックスもあるから、ここに買いに来る人も少なくないらしい。
 どれを選んでも違いがわからない気がして、茜はお金を入れて、適当な六個入りを選んだ。ドアが開き、選んだ卵を取れるようになっている。
 それを持ってきたエコバッグに入れると、販売所の外に出た。誰かいないだろうかと、周りを見るが、鶏の鳴き声が響くだけで人の姿は見えなかった。
 誰か川井のことを知っている人がいれば、話してみたかった。なにを話せばいいかまではわからないが、川井のことを覚えている人がいて欲しかった。
 それは茜の自己満足かもしれないが、川井に教えられてここの卵を食べて美味しかったくらいは言ってもいい気がした。
「ハチ?」
 誰もいない養鶏場を見ていると、不意に名前を呼ばれた。ここで呼ばれるはずのない呼び名で。
「え、神代さん!?」
 振り返れば神代が驚いた様子で立っている。同じ日に休日なのだから、神代も休みのはずだ。ここに来てもおかしくない。でも神代の住む区画はここではないし、繁華街でもない場所にいるのも不思議だ。
 そんなことをぐるぐる考えて、やっと茜の口から出たのはありきたりな質問だった。
「なんでここにいるんですか?」
「たっぷり間を置いてからの質問がそれか」
「いや、だって、神代さんの住む区画じゃないし。なにしに来たのかなって」
「ハチ、ここはどこだ?」
「え、養鶏場ですけど」
「それなら卵を買いに来たに決まってるだろう」
 そんなこともわからないのかという風に言って、神代が販売所に入っていく。その後を追うと、慣れたように自販機で卵を買う神代がいた。
「神代さん、よく来るんですか?」
「たまにな。ここの卵は美味いから」
「昔からです?」
「結構前からだな」
 川井に会ったことはないのかと聞こうと思って止めた。だってここは人になかなか会えない。販売所は無人だし、養鶏場にも人はいない。働いている人は、もっと早くに仕事をしているのかもしれないし、川井も神代もお互いを見ても知らないようだった。
 神代は卵を持ってきた保冷バッグに入れると、卵を売っている自販機のその横にある自販機へと移った。そこでなにかを数個買って、保冷バッグに入れ、最後の一個を茜に手渡した。
「ハチ。ほら」
「なんですかこれ」
「シュークリームだ」
「え?」
「早い時間じゃないと売ってないんだ。隣の自販機で売ってる。これが美味い」
「ありがとうございます」
 白い包み紙に包まれたシュークリームはひんやりとして、柔らかい。ちょっとでも力を入れると潰れそうで、茜は丁寧にそれをエコバッグに入れた。
「ここによく来るなら、保冷バッグを持ってくることだな」
「次からそうします」
「ハチ、ここまでどうやってきた?」
「電車で来て、歩きました。神代さんは?」
「俺も同じだ」
 もう二人とも卵を買ったから、ここに用はない。誰か養鶏場の人に会えるかと思ったけど、ここの卵の美味しさは知っているし、また何度でも買いに来ればいい。そしていつか会えたら話そう。川井のことを覚えているかと。
 ここから駅まで徒歩で三十分かかる。一人ではなく話し相手がいるのは気が紛れていい。
 二人で養鶏場を出ようとしたら、ちょうど作業着を着た三十代くらいの女性とすれ違った。
「あれ、お客さん?」
「あ、はい」
「うちの卵美味しいでしょう。シュークリームまだあるかしら。あれも美味しいのよ。知らなかったら買ってって」
「もう買いました」
 神代がそう言うと、女性はにこやかに話し出した。
「そりゃお客さん運がいいわ。数年前にね、生前はパティシエだったって人がうちに就職して、それから作るようになったのよ。なんでも現世では有名なパティシエだったらしくて、美味しいのよねぇ。こっちでもお店出したらいいのに、別のことしてみたいってもったいない話でしょう」
 女性がマシンガントークでそこまで話して、朗らかに笑う。話からして、この養鶏所に勤めている人のようだ。ここで会えたのは幸運だ。
「あ、あの!」
「ん? どうしたの?」
「川井さんという方をご存じですか?」
「かわいさん?」
 その名前を聞いて、女性が首をひねる。友達も恋人もいなかったといっていたが、同僚はいたはずだ。
「先日までここで働いていた方です。転生されて……私その人にここの卵が美味しいって聞いて」
「んー私ここに三十年勤めてるけど、そんな人いないわよ。別の養鶏場と間違えてない? でもうちより美味しい卵はなかなかないけどね」
 そう笑って、女性は養鶏場の中へと入っていく。追いかけてもう一度聞こうと思った茜を止めたのは、神代だった。
「ハチ」
「神代さん……」
「無駄だ」
「どういうことですか?」
「彼女は覚えていないよ」
「なんで……」
「消滅とはそういうことだ。全ての縁が消える」
 静かな声で神代が言う。
 消滅すると輪廻から消える。それだけだと思っていた。関わった人の記憶からも消えるなんて思ってもいなかった。
「でも、私は覚えています。神代さんだって」
「俺たちは役所の職員だからな。覚えていなきゃいけない」
「そんな……」
「歩きながら話すか」
 足を止めていた場所から、神代が駅へと歩き出す。少し遅れて、茜も歩き出した。
 ゆっくり歩く神代に追いついて、隣を歩く。徐々にその速度はいつも役所で一緒に歩くものになっていった。
「この卵、卵かけご飯にすると美味しいんです」
「今度やってみる」
「出来立てのご飯でやるのが、一番美味しいです」
「確か卵かけご飯専用醤油があったな」
「……川井さんに教えてもらったんです」
 神代にとって川井は、転生予定者の一人で、消滅した一人だ。きっと神代はもっとたくさんの消滅を見てきたのかもしれない。それでも初めての消滅は茜にとって衝撃だったのだ。
「あの養鶏場で働いてて、とても美味しい卵だって」
「いつ?」
「転生日の少し前に、大型スーパーに行ったときに出会ったんです。卵売場の前で」
「そうか」
「神代さんはいっぱい消滅した人を見ましたか?」
「そうだな……」
 まっすぐ前を向いて、神代が答える。
「助けられなかったと、無力を悔いたこともある。それも段々麻痺してきて、俺はそのことが一番怖かった」
 ただ消滅する人を見ているだけ。なにも感じなくなったと理解したとき、神代はなにを思ったのだろう。
「消滅を覚えているのは役所の職員だけだ。もう二度とあんなことはさせないと思うためだと思っている」
「私は、もう二度とあんなの見たくないです」
 でもきっとこの仕事をしている限り、また見る機会はくるだろう。そのときはその人のことを覚えているように、目を逸らしてはいけないと思った。
「ハチ」
「なんですか?」
「腹減ってないか?」
「まぁ、少し」
 昼食のお誘いだろうか。この辺りは詳しくないが、たまに卵を買いに来る神代なら、美味しい店を知っているのかもしれない。
「じゃあ、少し付き合え」
「どこに?」
「いいところだ」
 そう言って神代が茜を連れて行ったのは、養鶏場から歩いて、もうすぐ駅というところにあった行列だった。
「なんですか、この行列」
「やっぱり休日は人が多いな」
「美味しいものですか?」
「美味しいものだな」
 行列の先には幟が立っていて、それをよく見ると「鯛焼き」と書いてあった。
「鯛焼き、ですか?」
「そうだ。あんこは嫌いか?」
「いえ、好きですけど」
「ならいいだろう」
 てっきり食事だと思っていたのに、これでは拍子抜けだ。そんな茜に、神代が不思議そうに尋ねる。
「なんだそんなに腹減ってたのか? 鯛焼き二つ買うか?」
「いえ、一つでいいです」
「遠慮するな。付き合わせたから奢りだ」
 鯛焼きを待つ行列に並ぶ神代はどことなく楽しそうだ。そういえば甘党だったなと思い出した。
「ここの鯛焼き屋もよく来るんですか?」
「卵を買いに来るときには必ず寄る。ここはあの世鯛焼きランキング一位を穫った店だからな。美味い」
 そんなランキングがここに存在するとは思わなかった。とんこつラーメンランキングもあるのだろうか。それなら一位の店を食べてみたい。
「神代さん。とんこつラーメンランキング一位はどこですか?」
「とんこつラーメン? それは俺の守備範囲外だな。それに俺は醤油ラーメン派だ」
「だと思いました」
 そんなことを話していると、列は順調に進み、あっと言うに茜たちの番になった。
「鯛焼き五つください」
「はい!」
 神代の注文に、店員の若い女性が元気よく答える。すぐに鯛焼きが入った包みが渡されて、会計をすると列を離れた。
「鯛焼き五つもどうするんですか?」
「俺が三つ、ハチが二つ。五つだろ」
「神代さんそんなに食べるんですか?」
「今食べるのは一つだ。残りは後日食べる用だ。少し味は落ちるが冷凍保存もきく」
「そうですか」
「あっちに公園があるから、そこで食べるぞ」
 神代の案内について行くと、小さな公園があった。人気も少なく、ベンチで鯛焼きを食べるにはぴったりだ。
「これ持って座ってろ。今お茶買ってくる」
「あ、はい」
 温かな鯛焼きの入った包みを持って、茜は日影のベンチに座った。甘い匂いがして、少しだけ空腹を刺激する。
 神代はすぐに戻ってきた。緑茶のペットボトルを二つ持って。
「ほら、お茶だ」
「ありがとうございます」
「鯛焼きも熱いうちに食べるといい」
「はい」
 包みを開けて一つ取り出すと、残りを神代に渡す。神代もそこから一つ取り出すのを見て、二人で「いただきます」と言った。
 ぱくりと鯛焼きの頭部分から食べると、甘さ控えめの少し塩のきいたあんこが口に広がる。薄い皮は重たくなく、これなら二つぺろりと食べてしまいそうだ。
「美味しいです」
「そうだろう」
 茜と同じように頭から鯛焼きを食べている神代が、どこか誇らしげにそう答える。初対面の印象は仏頂面の人だったが、神代は意外と表情がある。
「さすが鯛焼きランキング一位ですね」
「ランキングは馬鹿にできないな」
「はい。私もとんこつラーメンランキング探してみます」
「とんこつラーメンが好きなのか?」
「そうですね。好きです」
「九州出身かもな」
 それは天真にも言われたことだ。九州というのは日本の一つの地域だということは調べて知った。
「九州ってとんこつラーメン好きが多いんですか?」
「そうらしいな。俺が生きてた頃は知らなかったが」
「神代さんって確か」
「先の戦争で死んでる」
 死んだという言葉がするりと出てきて、ちょっとだけ動揺する。だが、ここで暮らす人たちには当たり前のことなのだ。できるだけ落ち着いて話を聞いていたつもりだが、神代にはバレてしまったようだ。
「そのうち慣れる。ここで暮らしていたらな」
「神代さんも慣れました?」
「慣れた。俺の頃は戦争で死んだ人たちがいっぱいでな。死因がみんな戦死だった」
 一つ目の鯛焼きを食べ終えたところで、ペットボトルのお茶を飲む。口の中の甘さが、緑茶の苦みで中和された。
「もう一つ食べるか? それとも持って帰るか?」
「食べます」
「食べて大きくなれ」
「もうちょっと身長欲しいって思ったら、伸びますかね?」
「やってみればいい」
 そう言って笑う神代に、これは伸びないのだなと思って鯛焼きを受け取った。これも頭から食べると、やっぱり美味しくて、二つ目だということを忘れそうだった。
「神代さんは、甘いものに詳しいんですね」
「そうだな。長くいるから、結構詳しい方だと思う。美味い店があると聞くと行くようにはしている」
「大好きじゃないですか」
「幼い頃が戦時中であまり甘いものを食べれなかった反動かもな」
「大変な時代だったんですね」
 なくなった記憶には、歴史や地理も含まれていた。だから、茜は歴史の本を買って読んでみたことがある。神代や麗たちが生きた時代がどんな風だったのか知りたくて。
 本には戦争があったとだけ書いてある。文字だけではそこにあった現実はわからなかった。
「戻りたくはないな、あの時代には」
 神代は生きるために人を殺し、殺された。戦死だったと言ってしまえばそれまでだが、その裏にはたくさんの思いがあるはずだ。
「やっぱり神代さんも家族に会いたいとかで役所に?」
 神代に家族に会いたいかと聞いたら、会いたいと答えていた。それは家族の元から遠く離れていた場所で亡くなったからだろうか。
 ふと考え込むように黙ってしまった神代に、聞いてはいけないことだったかと慌てる。
「あの、神代さん。言いたくなければ別に……」
「置いてきた人がいる」
「え?」
「現世に置いてきた人がいるんだ。未練だな」
「そう、ですか」
 自嘲して、神代がお茶を飲む。ペットボトルの蓋をきゅっと締めると、それを保冷バッグの中に入れた。
「そろそろ行くか?」
「あ、はい」
 二つ目の鯛焼きはとうになくなっている。茜は持っていたお茶をバッグにしまうと立ち上がった。
「今度また卵買いに行ったら、シュークリームと鯛焼き買うようにします」
「それがいい」
 駅の方へ歩きだそうとしたときだった。
「道生さん?」
 そう呼びかけられた。
 誰だろうと一瞬思って、神代の名前が「道生」だったことを思い出した。
 振り返ると、綺麗な女性がそこに立っていた。神代の知り合いだろうか。でも彼女の表情は再会を喜ぶものではなく、驚いて少し青ざめていた。
「……美代さん?」
 神代の口から、名前がこぼれる。
 その瞬間、女性がきびすを返して、逃げるように走り出した。
「待って!」
 いつも冷静な神代がそんな大声を出す場面があるとは思わなかった。神代は美代と呼んだ女性を追いかけると、その腕を掴んだ。
「なんで逃げるんです?」
「離してっ」
「美代さん!」
 美代の腕を掴んで離そうとしない神代と、逃げようとする美代。その攻防を茜はどうすればいいかわからず、ただおろおろと見ているしかなかった。
「あの、神代さん、落ち着いて……」
 茜の声が聞こえないのか、神代は美代を掴まえたままだ。
「いつここに来たんです? どうして逃げるんですか?」
「嫌!」
 悲鳴のような美代の声があがり、思いっきり身体を捻ると神代の手から離れた。
「似てる人がいるなって思ったの。人違いだったらよかったのに」
「美代さん?」
 呪詛のような言葉を吐いて、美代が走り去る。それを神代はもう追いかけようとはしなかった。
 深いため息を吐いて、神代が地面に落ちた保冷バッグを持ち上げる。
「卵ダメになったかもな」
「神代さん……」
「悪かったな。変なとこ見せて」
「いいんですか? 追いかけなくて」
「いい」
「あの……」
「許嫁だったんだ」
「いいなずけ?」
 聞いたことのない言葉に、茜が首を傾げる。そんな茜に神代はほっとしたような顔になり、駅への道を歩き出した。
「帰るぞ」
「あ、はい」
 駅に着いても、電車に乗っても、神代は黙ったままで、茜もなにも話さなかった。分かれ道でも、ただ別れの挨拶をしただけだ。
 社宅に帰ってから、茜はスマホを出して検索窓を呼び出した。そこに文字を入力する。
「いいなずけ」
 すぐに答えは出てきた。
「婚約者?」
 神代が言った言葉が蘇る。置いてきた人がいるというあの言葉。
 それは「婚約者」のことだったのだろうか。
 神代は美代のことを置いて亡くなって、それを未練に思ったのだろうか。
 こんなことを直接神代に聞くわけにもいかなくて、どうすればいいのかわからない。許嫁という言葉がわからなくて首を傾げた茜に、ほっとしたような顔をした神代が、全てを語っている気がした。
「あ、卵!」
 帰ってすぐスマホで検索していたから、卵を放置したのを忘れていた。あのエコバッグの中にはシュークリームも入っている。
 急いでエコバッグから卵を出して、冷蔵庫に入れる。そうして形を保ったシュークリームも入れようとして、少し悩んで包みを開けた。
 柔らかい皮にかじりつくと、濃厚なカスタードクリームの甘さが広がる。
「おいしい」
 ぼそっと呟いて、夢中で食べた。クリームは温くなって少し溶けかかっていたけど、それでも充分美味しかった。
 神代も帰宅したら食べるのだろうか。卵は無事ではないだろうけど、割れてないのもあればいい。
 ただ今は、神代が大好きな甘いもので癒されて欲しいと思った。


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