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ネモ
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しばらくして、私は気が付いた。
「あ……うう……」
気を失っていたようだ。
まだ、私は魔王山にいる。
霧が少し薄くなっているところを見ると、中腹よりだいぶ下ってきた場所のようだ。
山の上を見上げる。
殆ど崖のような坂があった。
こんな崖を落ちてきたのかと思うと、ゾッとした。
生きているのが不思議なくらいである。
しかし、こんな崖だからこそ、あの獣も追ってこれなかったのだろう。
「痛い……っ……」
体を動かすと、あちこちが痛い。
だが、なんとか立って歩ける。骨も折れてはいないようだ。
この時点で奇跡と言っていいだろう。
すぐ横も、下りの崖となっていた。
人が1人通れるくらいの場所に、たまたま、引っかかって止まってくれただけのようだ。
さらに落ちていたら、命がどうなっていたかはわからない。
隣に、ショートソードが転がっていた。
これも幸運と言えるだろうか?
地図とコンパスは無くしてしまった。
日が傾いてきていた。
道は全く分からないが、ここで夜になるのはまずい。
「あの山の中で夜になれば、霧で全く身動きが取れなくなる」
ネモに言われたことだ。
日が暮れる前に必ず麓まで戻るように、とは、特にしつこく言われたことだった。
私は、よろよろと歩き始めた。
道ともいえない場所を手探りで歩く。
方角が全く分からないため、ひたすら下り道を探りながら歩いた。
緩やかな道を見つけ、助かったと思えば、その先は、崖があるだけの行き止まりとなっていた。
仕方なく引き返す。
振り返っても、自分が辿ってきた道がわからない。
ただ我武者羅に、歩ける場所を探して進んだ。
日暮れが近づき、焦りが大きくなる。
もう死ぬまでここから出られないのでは、とさえ思えてくる。
狼の遠吠えが聞こえた。
びくり、と体が震える。
辺りを見渡すが、霧の中では、遠くは見えない。
落ち着いて……
自分に言い聞かせる。
普通の狼に似た遠吠えだ。
さっきの大きな獣の咆哮ではない。
動きを止めて、しばらくじっとしていると、遠吠えは聞こえなくなった。
大きな溜め息を吐いて、また歩き出す。
たとえ、相手がヘルハウンドでなくとも、今の消耗した状態で獣の相手をするのは辛い。
そして、またあれに遭遇するかもしれない可能性を考えると、再び恐怖が込み上げてきた。
それでも、立ち止まってはいられない。
私は、必死に道を探し続けた。
気付けば、すっかり日が傾いていた。
私は、道を下り、行き止まりを見つけては、また登る、ひたすらそれを繰り返していた。
今はまだ、辛うじて近くは見えるが、転落の危険を考えると、動くのはリスクが高い。
念のためにと、持たされていた松明は、あの転落の際に失ってしまっていた。
今、私の手元にあるのは、一振りのショートソードだけ。
ここで夜明けを待つ?
いや、いつ獣に襲われるかもしれない、こんな場所で、朝まで過ごす勇気は、私には、とてもなかった。
足元に注意しながら、今までより慎重に、しかし、今までよりさらに必死に、道を探す。
辺りは、闇と霧で、目の前段差が、下りられるのか、崖なのかすらわからない、かなり絶望的な状況になりつつあった。
あれは……?
その時、遠くに、かすかに何かが見えた気がした。
目を凝らす。
あれは、明かりだ。
この霧の中でも、闇が明かりを目立たせてくれていた。
人がいる!?
私は、思わず駆けだした。
今いる位置から、遠く、少し低い場所に見える、明かりらしきもの。
その場所まで、一直線に道が通じている保障などないのに、そんな危険も忘れていた。
人がいるということは、道があるということだ。
これが麓に戻れる最後のチャンスかもしれない。
そう思うと、走るのを止められなかった。
幸運にも、その明かりの場所までの道を阻むものはなかった。
とはいえ、歩きやすいようなまともな道ではなく、私は、あちこちに出っ張る石に、何度もよろけながらも、その場所を目指し、坂を下った。
近づくにつれて少しずつ、明かりが鮮明になっていく。
「あっ……」
坂道に足を取られて転ぶ。
なんとか、踏ん張り、転げ落ちることだけは、回避した。
ゆっくりと立ち上がると、まだ、明かりが立ち去っていないことに、ほっとした。
今度は、慎重に、ゆっくり歩みを進めていくと、その明かりが2つあることがわかった。
さらに近づくと、松明を持った2人が、向き合って、離れて立ってる姿が見えた。
私のいる場所から、2人の場所までは、建物の2階ほどの高さになっていた。
あれは……ネモ?
片方は、ネモだった。
私を探しに来てくれたのだろうか?
それは、ただの義務感によるものなのかもしれないが、それでも私にはうれしかった。
すぐにでも、近くまで行って声を掛けようと思ったところで、もう1人の話す声が聞こえてきた。
「ようネモ、こんなところで会うとは、奇遇だな」
声の主は、あのルンフェスだった。
「お前がなぜ、こんなところにいる?」
「ただの訓練だ。今から戻るところでな」
そういうルンフェスは、随分と疲れた様子だった。
この山は、いるだけで体力を奪われる。
訓練のために、長くここにいたというなら、頷ける話だったが、
「わざわざ、獣を連れて訓練か? ここは獣と散歩に来るところではあるまい」
獣……?
ネモの言葉にはっとして、ルンフェスの後方を見た。
ひっ……!?
私は、思わず、悲鳴を上げそうになって、自分の口を塞いだ。
ルンフェスの後ろにいたのは、暗闇に2つの目を光らせた、大きな獣だった。
忘れるわけがない。
山の中腹で、私を襲った獣──あのヘルハウンドに間違いなかった。
なんで、あの人があの獣を連れているの……?
あの時、私に襲い掛かったヘルハウンドは、今はネモをじっと睨んでいた。
「あ? そんなん、俺の勝手だろうが? こいつは俺が手塩にかけて育てた奴だぜ。女1人、手懐けられないお前とは違うんだよ」
言って、ルンフェスは、獣の頭を撫でる。
「……チェントに何をした?」
ネモは、静かな声で言った。
「何のことかな? と言いたいところだが、面倒臭え。教えてやるよ」
あっさりと、ルンフェスは白状した。
「あの女は、死んだ。こいつの爪にかかってな」
「なんだと!」
ネモの表情が変わる。
ルンフェスはそれを笑った。
「くくく、傑作だぜ、その顔。そんなにあの女が大事か? 今のは冗談だ、安心しな。俺はあの女の最後は見届けていない」
今のところはな、とルンフェスは続けた。
「あの女は、崖から落ちたんだよ。こいつから逃げようとしてな。ドジな女だぜ。探し回ってたら、こんな時間になっちまったわけだ」
手間をかけさせやがって、と毒づく。
「なるほど、お前1人では勝てないと見て、ヘルハウンドまで持ち出したわけか」
「はあ? 何言ってんだ? こいつを使ったのは、単に人の手で殺られた形跡を残さないためだ」
ネモの発言に、ルンフェスは怒るでもなく、心底不思議そうにそう言った。
聞いていた私も、そんな無意味な挑発をして、何になるのかと思うだけだった。
「今のチェントは、もうお前や俺より確実に強い。あいつ自身は気付いていないようだがな」
何を言っているのだろう? ネモは。
私はネモとの剣の稽古で、一度も勝ったことがないというのに。
「あいつは原石だよ。今まで教えてきたどんな奴とも次元が違う。まだまだ強くなる。いずれは、魔王様とも渡り合えるかもしれない」
私はその発言を、ただ茫然と聞いていた。
この人は、私を恨んでいたのではないのか? 憎んでいたのではないのか?
直接、私を褒めてくれたことなど、一度だってなかったのに。
何故そんな、少し嬉しそうに、私のことを話すのだろう?
「ついに目まで腐っちまったか。哀れだな、ネモ」
ルンフェスは、冷ややかにそう言うと、やれ、とヘルハウンドをけしかけた。
ヘルハウンドは一瞬で間合いを詰めると、ネモに跳びかかった。
ネモは横に避けながら、抜いた剣で、辛うじてその攻撃を弾いた。
すれ違って距離を取るも、ヘルハウンドはすぐさま追撃をかけてくる。
ネモは左手に持っていた松明を捨てて、両手で応戦した。
それでも、劣勢なのは変わらない。
ネモは、相手の爪と牙を防ぐだけで手一杯のようだった。
「あの女も、こいつにまったく刃が立たなかったんだぜ? 魔王様と渡り合えるとか、寝言もいいとこだ」
ルンフェスが嘲笑う。
助けに入らなければ、ネモがやられてしまう。
そう思っても、足がすくんで動かなかった。
あの獣に襲われた時の恐怖は、まだ抜けていない。
「こんな獣など、すぐに相手にならなくなるさ。あいつの才能は、それほどだ」
必死に攻撃を防ぎながらも、ネモはそう答えた。
遂にヘルハウンドの爪が、ネモの左肩を捉えた。
「ぐっ……!?」
呻き声を漏らすネモに、ヘルハウンドは容赦なく跳びかかった。
「!?」
仰向けに組み伏せられたネモは、眼前に迫った牙を、右手の剣でギリギリで止めていた。
駄目だ。このままでは、本当にネモが殺されてしまう。
「ネモよお。俺には、お前があの女に、そこまで入れ込む理由がわかんねえんだけどよ?」
ルンフェスは余裕の笑みを浮かべて、ネモに歩み寄った。
「お前まさか、あの女に惚れたとか言うんじゃねえよなあ?」
「……だったら、どうだというんだっ!!」
聞き間違いだろうか?
今、あるはずのないことが、聞こえるはずのない言葉が、聞こえた気がした。
だが、それは幻聴ではなかった。
確かに、私の耳には、私の頭には、私の心には、その言葉が届いていた。
「……おいおい、からかっただけなのによ。マジかよ。こいつは、本当に傑作だぜ! そうか、女に誘惑されて、目が曇っちまったわけか! 本当に哀れな奴だよ、お前は!」
ルンフェスの言葉など、もう私の耳には入っていなかった。
「安心しろよ。あの女とは、ちゃんとあの世で会わせてやるからな」
次の瞬間、私は跳んでいた。
段差の高さなど気にも留めず、体の痛みもすべて忘れて。ただあの人を助けるために。
両手で剣を突き出しながら、全力で跳んだ。
ぐさり、と、鈍い音を立てて、私の剣は、確かに、ヘルハウンドの硬い肌に突き刺さった。
そのまま、ヘルハウンドの背中に着地する。
激しい落下の衝撃。だが、手は放さない。獣の背中がクッションになり、いくらか衝撃が和らいだ。
「チェント!?」
「てめえ!」
2人が驚きの声を上げた。
そして、背中を貫かれたヘルハウンドが、ネモを放して暴れだした。
だが、意地でも手は放さない。首を狙ったはずが、わずかに狙いが外れたせいで、一撃では仕留められなかった。
それでも、傷は浅くはないはずだ。
私は刺さった剣を、さらに深く押し込んだ。
咆哮が轟く。さらに激しく暴れ始める。
まだ、力尽きないのか。
そのしぶとさに驚嘆する。
そこに拘束を解かれたネモが立ち上がり、突っ込んできた。
「うおぉぉーっ!!」
ネモは雄叫びを上げて、ヘルハウンドの額目掛けて、剣を突き出す。
その一撃を受けた獣は、遂に沈黙した。
「お、お前ら、よくも、俺のヘルハウンドを……」
ルンフェスが震える声で短剣を構え、こちらを睨んでいた。
ヘルハウンドの強さに慢心して、ロクな武器を持ってきていないのだろう。
私達2人は、剣を構え、彼を睨み返した。
ヘルハウンドが仕留められる直前に横槍を入れれば、まだ勝負はわからなかったはずだ。
だが、彼は機を逃した。
「くそっ、覚えていろよ!」
捨て台詞を残して、彼は逃げていった。
彼はこの日より、魔王領に戻れなくなり、行方をくらますことになった。
ルンフェスが去り、静寂が訪れ、緊張が解ける。
私は、ネモの胸に飛び込んでいた。
そして、戸惑うネモに構わず、子供のように泣きじゃくった。
一瞬戸惑った様子を見せた彼は、だがゆっくりと右手で、私の頭を撫でた。
「すまん、チェント。俺のせいで、とんでもない苦労を掛けた」
ルンフェスの狙いは俺だったのに、お前を巻き込んでしまった、と彼は言った。
「違う! 違うの、ネモ!」
そんなことはどうでもよかった。
首を振り、泣きながら、私は言った。
「私、嬉しかったの。あなたに認めてもらえて、あなたが私を褒めてくれて、あなたが……」
──私を好きだと言ってくれて──
それ以上は言葉にならなった。
私は、彼の胸に顔をうずめて、声を上げて泣き続けた。
「……聞いていたのか?」
彼は困ったような、照れたような、そんな顔をしていた。
「……嘘じゃ、ないよね?」
私は彼に確かめた。
彼は、しばらくの沈黙の後、
「ああ……」
強く頷いて、確かにそう言ったのだ。
「私もあなたが好き!」
はっきりとした声で、私は言った。
彼の心に、しっかり届くように。
「私、頑張るから、あなたの期待に応えられるよう頑張るから、見捨てないでね」
「お前なら、大丈夫だ。俺が保証する」
彼の手が、私を優しく包む。
彼の胸に抱かれながら、私は思ったのだ。
ようやく、私の居場所を見つけた。
最初に出会ったとき、私のことをどう思っていたのか?
のちに彼に聞いたことがある。
「出会う前は、親父のこともあり、憎く思った時もあったよ」
彼はそう切り出した。
「だが実際にあった時には、弱々しい、かわいそうな娘という印象しかなかったな」
レバス城の牢屋で会った時のことだろう。
もう、ずいぶん昔のことのように感じた。
だからそれ以降、お前を恨んだことは一度もない、と彼は言った。
「魔王様にお前の教育を言い渡された時は正直戸惑ったが、めきめき成長していくお前を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった」
魔王様は、最初からお前の素質を見抜いていたのかもしれん、と彼は言う。
私は、最初から彼を誤解していた。
この時、分かったことだった。
彼は、厳しく、真面目で、不器用で、そして誠実な人なのだ。
もし彼が私を本当に恨んでいたとしても、私怨で訓練を厳しくするような、陰湿な真似は、絶対しないであろう。
あの翌日以降も、いつものように訓練の日々は過ぎていった。
あんなことがあっても、彼の訓練の厳しさはまるで変わらなかった。
それが、彼の性格を表しているようだった。
一方、私の方のやる気は、それまでとまるで違った。
彼の期待に応えたい。
ただそれだけで、いくらでも頑張れた。
訓練を続ける私達のところに、数週間後、1つの知らせが届いた。
ベスフル軍の手によって、レバスの城が陥落したという知らせだった。
「あ……うう……」
気を失っていたようだ。
まだ、私は魔王山にいる。
霧が少し薄くなっているところを見ると、中腹よりだいぶ下ってきた場所のようだ。
山の上を見上げる。
殆ど崖のような坂があった。
こんな崖を落ちてきたのかと思うと、ゾッとした。
生きているのが不思議なくらいである。
しかし、こんな崖だからこそ、あの獣も追ってこれなかったのだろう。
「痛い……っ……」
体を動かすと、あちこちが痛い。
だが、なんとか立って歩ける。骨も折れてはいないようだ。
この時点で奇跡と言っていいだろう。
すぐ横も、下りの崖となっていた。
人が1人通れるくらいの場所に、たまたま、引っかかって止まってくれただけのようだ。
さらに落ちていたら、命がどうなっていたかはわからない。
隣に、ショートソードが転がっていた。
これも幸運と言えるだろうか?
地図とコンパスは無くしてしまった。
日が傾いてきていた。
道は全く分からないが、ここで夜になるのはまずい。
「あの山の中で夜になれば、霧で全く身動きが取れなくなる」
ネモに言われたことだ。
日が暮れる前に必ず麓まで戻るように、とは、特にしつこく言われたことだった。
私は、よろよろと歩き始めた。
道ともいえない場所を手探りで歩く。
方角が全く分からないため、ひたすら下り道を探りながら歩いた。
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仕方なく引き返す。
振り返っても、自分が辿ってきた道がわからない。
ただ我武者羅に、歩ける場所を探して進んだ。
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もう死ぬまでここから出られないのでは、とさえ思えてくる。
狼の遠吠えが聞こえた。
びくり、と体が震える。
辺りを見渡すが、霧の中では、遠くは見えない。
落ち着いて……
自分に言い聞かせる。
普通の狼に似た遠吠えだ。
さっきの大きな獣の咆哮ではない。
動きを止めて、しばらくじっとしていると、遠吠えは聞こえなくなった。
大きな溜め息を吐いて、また歩き出す。
たとえ、相手がヘルハウンドでなくとも、今の消耗した状態で獣の相手をするのは辛い。
そして、またあれに遭遇するかもしれない可能性を考えると、再び恐怖が込み上げてきた。
それでも、立ち止まってはいられない。
私は、必死に道を探し続けた。
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私は、道を下り、行き止まりを見つけては、また登る、ひたすらそれを繰り返していた。
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念のためにと、持たされていた松明は、あの転落の際に失ってしまっていた。
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いや、いつ獣に襲われるかもしれない、こんな場所で、朝まで過ごす勇気は、私には、とてもなかった。
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あれは……?
その時、遠くに、かすかに何かが見えた気がした。
目を凝らす。
あれは、明かりだ。
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人がいる!?
私は、思わず駆けだした。
今いる位置から、遠く、少し低い場所に見える、明かりらしきもの。
その場所まで、一直線に道が通じている保障などないのに、そんな危険も忘れていた。
人がいるということは、道があるということだ。
これが麓に戻れる最後のチャンスかもしれない。
そう思うと、走るのを止められなかった。
幸運にも、その明かりの場所までの道を阻むものはなかった。
とはいえ、歩きやすいようなまともな道ではなく、私は、あちこちに出っ張る石に、何度もよろけながらも、その場所を目指し、坂を下った。
近づくにつれて少しずつ、明かりが鮮明になっていく。
「あっ……」
坂道に足を取られて転ぶ。
なんとか、踏ん張り、転げ落ちることだけは、回避した。
ゆっくりと立ち上がると、まだ、明かりが立ち去っていないことに、ほっとした。
今度は、慎重に、ゆっくり歩みを進めていくと、その明かりが2つあることがわかった。
さらに近づくと、松明を持った2人が、向き合って、離れて立ってる姿が見えた。
私のいる場所から、2人の場所までは、建物の2階ほどの高さになっていた。
あれは……ネモ?
片方は、ネモだった。
私を探しに来てくれたのだろうか?
それは、ただの義務感によるものなのかもしれないが、それでも私にはうれしかった。
すぐにでも、近くまで行って声を掛けようと思ったところで、もう1人の話す声が聞こえてきた。
「ようネモ、こんなところで会うとは、奇遇だな」
声の主は、あのルンフェスだった。
「お前がなぜ、こんなところにいる?」
「ただの訓練だ。今から戻るところでな」
そういうルンフェスは、随分と疲れた様子だった。
この山は、いるだけで体力を奪われる。
訓練のために、長くここにいたというなら、頷ける話だったが、
「わざわざ、獣を連れて訓練か? ここは獣と散歩に来るところではあるまい」
獣……?
ネモの言葉にはっとして、ルンフェスの後方を見た。
ひっ……!?
私は、思わず、悲鳴を上げそうになって、自分の口を塞いだ。
ルンフェスの後ろにいたのは、暗闇に2つの目を光らせた、大きな獣だった。
忘れるわけがない。
山の中腹で、私を襲った獣──あのヘルハウンドに間違いなかった。
なんで、あの人があの獣を連れているの……?
あの時、私に襲い掛かったヘルハウンドは、今はネモをじっと睨んでいた。
「あ? そんなん、俺の勝手だろうが? こいつは俺が手塩にかけて育てた奴だぜ。女1人、手懐けられないお前とは違うんだよ」
言って、ルンフェスは、獣の頭を撫でる。
「……チェントに何をした?」
ネモは、静かな声で言った。
「何のことかな? と言いたいところだが、面倒臭え。教えてやるよ」
あっさりと、ルンフェスは白状した。
「あの女は、死んだ。こいつの爪にかかってな」
「なんだと!」
ネモの表情が変わる。
ルンフェスはそれを笑った。
「くくく、傑作だぜ、その顔。そんなにあの女が大事か? 今のは冗談だ、安心しな。俺はあの女の最後は見届けていない」
今のところはな、とルンフェスは続けた。
「あの女は、崖から落ちたんだよ。こいつから逃げようとしてな。ドジな女だぜ。探し回ってたら、こんな時間になっちまったわけだ」
手間をかけさせやがって、と毒づく。
「なるほど、お前1人では勝てないと見て、ヘルハウンドまで持ち出したわけか」
「はあ? 何言ってんだ? こいつを使ったのは、単に人の手で殺られた形跡を残さないためだ」
ネモの発言に、ルンフェスは怒るでもなく、心底不思議そうにそう言った。
聞いていた私も、そんな無意味な挑発をして、何になるのかと思うだけだった。
「今のチェントは、もうお前や俺より確実に強い。あいつ自身は気付いていないようだがな」
何を言っているのだろう? ネモは。
私はネモとの剣の稽古で、一度も勝ったことがないというのに。
「あいつは原石だよ。今まで教えてきたどんな奴とも次元が違う。まだまだ強くなる。いずれは、魔王様とも渡り合えるかもしれない」
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ヘルハウンドは一瞬で間合いを詰めると、ネモに跳びかかった。
ネモは横に避けながら、抜いた剣で、辛うじてその攻撃を弾いた。
すれ違って距離を取るも、ヘルハウンドはすぐさま追撃をかけてくる。
ネモは左手に持っていた松明を捨てて、両手で応戦した。
それでも、劣勢なのは変わらない。
ネモは、相手の爪と牙を防ぐだけで手一杯のようだった。
「あの女も、こいつにまったく刃が立たなかったんだぜ? 魔王様と渡り合えるとか、寝言もいいとこだ」
ルンフェスが嘲笑う。
助けに入らなければ、ネモがやられてしまう。
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「ぐっ……!?」
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「!?」
仰向けに組み伏せられたネモは、眼前に迫った牙を、右手の剣でギリギリで止めていた。
駄目だ。このままでは、本当にネモが殺されてしまう。
「ネモよお。俺には、お前があの女に、そこまで入れ込む理由がわかんねえんだけどよ?」
ルンフェスは余裕の笑みを浮かべて、ネモに歩み寄った。
「お前まさか、あの女に惚れたとか言うんじゃねえよなあ?」
「……だったら、どうだというんだっ!!」
聞き間違いだろうか?
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「安心しろよ。あの女とは、ちゃんとあの世で会わせてやるからな」
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両手で剣を突き出しながら、全力で跳んだ。
ぐさり、と、鈍い音を立てて、私の剣は、確かに、ヘルハウンドの硬い肌に突き刺さった。
そのまま、ヘルハウンドの背中に着地する。
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「チェント!?」
「てめえ!」
2人が驚きの声を上げた。
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それでも、傷は浅くはないはずだ。
私は刺さった剣を、さらに深く押し込んだ。
咆哮が轟く。さらに激しく暴れ始める。
まだ、力尽きないのか。
そのしぶとさに驚嘆する。
そこに拘束を解かれたネモが立ち上がり、突っ込んできた。
「うおぉぉーっ!!」
ネモは雄叫びを上げて、ヘルハウンドの額目掛けて、剣を突き出す。
その一撃を受けた獣は、遂に沈黙した。
「お、お前ら、よくも、俺のヘルハウンドを……」
ルンフェスが震える声で短剣を構え、こちらを睨んでいた。
ヘルハウンドの強さに慢心して、ロクな武器を持ってきていないのだろう。
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そして、戸惑うネモに構わず、子供のように泣きじゃくった。
一瞬戸惑った様子を見せた彼は、だがゆっくりと右手で、私の頭を撫でた。
「すまん、チェント。俺のせいで、とんでもない苦労を掛けた」
ルンフェスの狙いは俺だったのに、お前を巻き込んでしまった、と彼は言った。
「違う! 違うの、ネモ!」
そんなことはどうでもよかった。
首を振り、泣きながら、私は言った。
「私、嬉しかったの。あなたに認めてもらえて、あなたが私を褒めてくれて、あなたが……」
──私を好きだと言ってくれて──
それ以上は言葉にならなった。
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「……聞いていたのか?」
彼は困ったような、照れたような、そんな顔をしていた。
「……嘘じゃ、ないよね?」
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彼は、しばらくの沈黙の後、
「ああ……」
強く頷いて、確かにそう言ったのだ。
「私もあなたが好き!」
はっきりとした声で、私は言った。
彼の心に、しっかり届くように。
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彼の手が、私を優しく包む。
彼の胸に抱かれながら、私は思ったのだ。
ようやく、私の居場所を見つけた。
最初に出会ったとき、私のことをどう思っていたのか?
のちに彼に聞いたことがある。
「出会う前は、親父のこともあり、憎く思った時もあったよ」
彼はそう切り出した。
「だが実際にあった時には、弱々しい、かわいそうな娘という印象しかなかったな」
レバス城の牢屋で会った時のことだろう。
もう、ずいぶん昔のことのように感じた。
だからそれ以降、お前を恨んだことは一度もない、と彼は言った。
「魔王様にお前の教育を言い渡された時は正直戸惑ったが、めきめき成長していくお前を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった」
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私は、最初から彼を誤解していた。
この時、分かったことだった。
彼は、厳しく、真面目で、不器用で、そして誠実な人なのだ。
もし彼が私を本当に恨んでいたとしても、私怨で訓練を厳しくするような、陰湿な真似は、絶対しないであろう。
あの翌日以降も、いつものように訓練の日々は過ぎていった。
あんなことがあっても、彼の訓練の厳しさはまるで変わらなかった。
それが、彼の性格を表しているようだった。
一方、私の方のやる気は、それまでとまるで違った。
彼の期待に応えたい。
ただそれだけで、いくらでも頑張れた。
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