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第四章 揺れ動く心
涼太からの助言
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夏休みの間、直人は大学に行く日のほとんどを図書館で過ごしていた。楽器を弾かない直人が部室にいても、することがない。個別練習を見学するのも楽しいが、さすがに一日中では退屈になる。
その日も朝、部室の冷蔵庫にドリンクを補充してから図書館へ向かった。三階の窓際、お気に入りの席に座り、持参した小説を開く。
大きな桜の木が程よい木陰を作ってくれていて、真夏の強い陽射しも和らいでいる。まるで自然の中で読書をしているような、贅沢な気分を味わえる特等席だった。
「直人くん、お疲れさま」
集中して本を読んでいると、背後から声をかけられた。振り返ると、軽音部の元部長・佐々木涼太が立っていた。
涼太は白いTシャツにジーンズという夏らしい服装だが、首元には十字架のペンダントが光っている。短く刈り込んだ黒髪にワックスを利かせた、いかにもバンドマンらしいスタイルだった。
「涼太先輩! お疲れさまです。研究の調べ物ですか?」
涼太は大学院に進学しており、研究のためによく図書館を利用している。卒部後も直人とはよく顔を合わせていた。
「うん、院生は夏休み関係なしに研究があるからね」
涼太は直人の隣の席に腰を下ろした。
「ところで最近、部活はどう? フェスや祭りの練習で忙しいんじゃない?」
「はい、涼太先輩がいた頃と変わらず順調ですよ」
「そうそう、直人くんは最近、健くんと仲がいいって聞いたよ」
「えっ?」
直人は内心ドキッとした。拓真から涼太に、直人と健が付き合っているという話が伝わったのだろうか。それとも、直人が密かに健に想いを寄せていることがバレたのか。
動揺して視線が彷徨う直人を見て、涼太は苦笑した。
「いや、悪い意味じゃないよ。ただなんとなく、二人の雰囲気が変わったなって思って」
「雰囲気……ですか?」
直人は涼太の顔を見つめた。涼太はにっこりと微笑む。
「うん。二人とも、なんていうか……複雑そうに見える」
「複雑……ですか?」
直人は目をぱちくりさせた。涼太の観察眼の鋭さに、改めて驚かされる。
「恋愛って、複雑だからね」
その言葉を放った後、涼太は急に寂しそうな表情を見せて俯いた。恋愛をしたことのない直人には、その複雑さがまだよく理解できない。
「俺さ、学部の時に好きな人がいたんだよ」
ぽつりと涼太が語り始めた。直人は静かに聞き入る。
「でも告白できなかった」
「そう……なんですか」
涼太の表情がさらに暗くなった。
「今思えば、なんで言わなかったんだろうって……すっげえ後悔してる」
「でも、その時は言えない理由があったんじゃ……」
直人の言葉に、涼太は首を振った。
「言えないんじゃなくて、言わなかったんだ。怖くて」
「怖い……?」
直人は目を見開いた。軽音部をまとめ上げるほど社交的な涼太が、告白を怖がるなんて信じられない。
「断られるのが怖かった。拒絶されるのが。だったら友達のままの方がいいって思ったけど……結局、言わなかったことで失ったものの方が大きかった」
涼太は自嘲するように笑ったが、その瞳には涙が滲んでいる。
「まさか……」
「そう。俺が躊躇している間に、その人に恋人ができてた」
当時のことを思い出しているのか、涼太の目が揺れている。今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
直人はその様子を見て、胸がじくりと痛んだ。人を愛し、傷つくということは、こんなにも苦しいものなのか。
涼太は手の甲で目元を拭い、直人に向き直った。
「人生って、自分で選択していくものだと思うんだ」
「選択……」
その言葉に、直人は息を呑んだ。これまで自分が本当の意味で選択したことがどれほどあるだろう。
「流されて生きることは楽だけど、後で後悔することが多いんじゃないかな」
「涼太先輩は……後悔してるんですか?」
涼太は眉を下げて、深く頷いた。
「うん。だから直人くんには、後悔しない選び方をしてほしい」
「後悔しない……選び方」
直人はその言葉を口の中で小さく反芻した。
「自分の気持ちに正直になること。それが一番大切だと思う」
涼太は優しく微笑んで、直人の頭をぽんぽんと撫でた。その手の温かさが、じんわりと直人の心に染み込んでいく。
「あ、やばっ! もうこんな時間か……ごめん直人くん、俺もう戻らないと」
涼太は慌てて立ち上がり、手をひらひらと振りながら去っていった。
一人残された直人は、『後悔しない選び方』という言葉を何度も心の中で繰り返した。
これまで、自分が心から選択したことがどれだけあっただろう。高校、大学、学部、一人暮らし、軽音部、アルバイト……全てなんとなく決めてきた。
健とのルームシェアも、条件が良くて見学した時に気に入ったから決めただけ。
でも、健が提案してくれた『擬似恋人』だけは違った。流されて決めたのではなく、健の力になりたいと思った。それは確かに、自分なりの選択だったのかもしれない。
擬似恋人になってからの健との関係を振り返ってみる。
初めて映画館で手を繋いだ時のドキドキ感。健が他の人と話している時の嫉妬、そしてそこからくる独占欲。健が笑顔を見せた時の嬉しさ。健が泣いている時の、胸が締め付けられるような苦しさ。
これは美月の言う通り、恋愛感情なのだろう。
でも健は「好きじゃなくてもいいから」と言った。健にとって直人は、次の恋人ができるまでの一時的な代役に過ぎない。
「はあ……」
直人は大きくため息をついて天井を仰いだ。
人生は一度きり。涼太の言う通り、後悔しない選択をしたい。
その日も朝、部室の冷蔵庫にドリンクを補充してから図書館へ向かった。三階の窓際、お気に入りの席に座り、持参した小説を開く。
大きな桜の木が程よい木陰を作ってくれていて、真夏の強い陽射しも和らいでいる。まるで自然の中で読書をしているような、贅沢な気分を味わえる特等席だった。
「直人くん、お疲れさま」
集中して本を読んでいると、背後から声をかけられた。振り返ると、軽音部の元部長・佐々木涼太が立っていた。
涼太は白いTシャツにジーンズという夏らしい服装だが、首元には十字架のペンダントが光っている。短く刈り込んだ黒髪にワックスを利かせた、いかにもバンドマンらしいスタイルだった。
「涼太先輩! お疲れさまです。研究の調べ物ですか?」
涼太は大学院に進学しており、研究のためによく図書館を利用している。卒部後も直人とはよく顔を合わせていた。
「うん、院生は夏休み関係なしに研究があるからね」
涼太は直人の隣の席に腰を下ろした。
「ところで最近、部活はどう? フェスや祭りの練習で忙しいんじゃない?」
「はい、涼太先輩がいた頃と変わらず順調ですよ」
「そうそう、直人くんは最近、健くんと仲がいいって聞いたよ」
「えっ?」
直人は内心ドキッとした。拓真から涼太に、直人と健が付き合っているという話が伝わったのだろうか。それとも、直人が密かに健に想いを寄せていることがバレたのか。
動揺して視線が彷徨う直人を見て、涼太は苦笑した。
「いや、悪い意味じゃないよ。ただなんとなく、二人の雰囲気が変わったなって思って」
「雰囲気……ですか?」
直人は涼太の顔を見つめた。涼太はにっこりと微笑む。
「うん。二人とも、なんていうか……複雑そうに見える」
「複雑……ですか?」
直人は目をぱちくりさせた。涼太の観察眼の鋭さに、改めて驚かされる。
「恋愛って、複雑だからね」
その言葉を放った後、涼太は急に寂しそうな表情を見せて俯いた。恋愛をしたことのない直人には、その複雑さがまだよく理解できない。
「俺さ、学部の時に好きな人がいたんだよ」
ぽつりと涼太が語り始めた。直人は静かに聞き入る。
「でも告白できなかった」
「そう……なんですか」
涼太の表情がさらに暗くなった。
「今思えば、なんで言わなかったんだろうって……すっげえ後悔してる」
「でも、その時は言えない理由があったんじゃ……」
直人の言葉に、涼太は首を振った。
「言えないんじゃなくて、言わなかったんだ。怖くて」
「怖い……?」
直人は目を見開いた。軽音部をまとめ上げるほど社交的な涼太が、告白を怖がるなんて信じられない。
「断られるのが怖かった。拒絶されるのが。だったら友達のままの方がいいって思ったけど……結局、言わなかったことで失ったものの方が大きかった」
涼太は自嘲するように笑ったが、その瞳には涙が滲んでいる。
「まさか……」
「そう。俺が躊躇している間に、その人に恋人ができてた」
当時のことを思い出しているのか、涼太の目が揺れている。今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
直人はその様子を見て、胸がじくりと痛んだ。人を愛し、傷つくということは、こんなにも苦しいものなのか。
涼太は手の甲で目元を拭い、直人に向き直った。
「人生って、自分で選択していくものだと思うんだ」
「選択……」
その言葉に、直人は息を呑んだ。これまで自分が本当の意味で選択したことがどれほどあるだろう。
「流されて生きることは楽だけど、後で後悔することが多いんじゃないかな」
「涼太先輩は……後悔してるんですか?」
涼太は眉を下げて、深く頷いた。
「うん。だから直人くんには、後悔しない選び方をしてほしい」
「後悔しない……選び方」
直人はその言葉を口の中で小さく反芻した。
「自分の気持ちに正直になること。それが一番大切だと思う」
涼太は優しく微笑んで、直人の頭をぽんぽんと撫でた。その手の温かさが、じんわりと直人の心に染み込んでいく。
「あ、やばっ! もうこんな時間か……ごめん直人くん、俺もう戻らないと」
涼太は慌てて立ち上がり、手をひらひらと振りながら去っていった。
一人残された直人は、『後悔しない選び方』という言葉を何度も心の中で繰り返した。
これまで、自分が心から選択したことがどれだけあっただろう。高校、大学、学部、一人暮らし、軽音部、アルバイト……全てなんとなく決めてきた。
健とのルームシェアも、条件が良くて見学した時に気に入ったから決めただけ。
でも、健が提案してくれた『擬似恋人』だけは違った。流されて決めたのではなく、健の力になりたいと思った。それは確かに、自分なりの選択だったのかもしれない。
擬似恋人になってからの健との関係を振り返ってみる。
初めて映画館で手を繋いだ時のドキドキ感。健が他の人と話している時の嫉妬、そしてそこからくる独占欲。健が笑顔を見せた時の嬉しさ。健が泣いている時の、胸が締め付けられるような苦しさ。
これは美月の言う通り、恋愛感情なのだろう。
でも健は「好きじゃなくてもいいから」と言った。健にとって直人は、次の恋人ができるまでの一時的な代役に過ぎない。
「はあ……」
直人は大きくため息をついて天井を仰いだ。
人生は一度きり。涼太の言う通り、後悔しない選択をしたい。
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