文バレ!③

宇野片み緒

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第十章 それぞれの理由

「見えるからだめなんだよ」

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 空が次第に赤らんできた。夏の練習試合で万葉に倒された屈辱を思い出す。向かいのコートにはガタイのいい六人が、裏がありそうな笑顔で並ぶ。その周りには紫色が十数人、ヤンキー座りで選手交代に備えている。このゴミどもをこの手で倒すために、ここまで来た。
「まとさん、皆さん、僕たち応援してますよ」
 客席からキリが身を乗り出して叫んだ。
「おう。ありがとな」
 片手を上げて大声で返す。ニチセイの十三人も側に居た。
「負けたらハリセンボンのーます、ですから!」
 竹谷が小指を立てて続けた。めっ、と言うように童顔をむりにしかめている。つぶらな目がつり上がってパッツン前髪がひょんと跳ねた。
「媚売ってんじゃねえぞ竹谷」
 低く呟いてから内田が同じく小指を立てて、満面の笑みで媚を売り返した。
「うん、絶対に勝ってあげる。僕と竹谷の約束だよっ」
 あざとむ、安定してんな。他のぴよぴよたちもファイトーと声を張る。
「そろそろ始めていいか」
 審判がボソッと俺たちのやり取りを遮った。堅気そうな雰囲気の中年男性だ。
「すみません、待ってくださってたんですか」
 頭を下げると彼は、少しな、と真顔で告げた。向かいのコートで万葉の連中が、迷惑かけんなよとゲラゲラ笑う。この声は本当に耳にこびりつく。客席に聖コトバ学院はいない。万葉高校のメンツを二度と見たくないと言い、外に出ていってしまったのだ。キラキラハーフたちが不在だと客席の照明が減ったような気すらする。
「万葉高等学校 対 新古今高等学校 全国大会準決勝 開始」
 濁りのない尺八の音が鳴り響く。背筋が自然と伸びた。この時のために、全員で決めていた出題がある。屈辱の三対零を、勝利で上書きするために。
「いろはにほへと」
 先攻を取った俺はバックライトから、本気のスパイクサーブを送り込んだ。悪人面の山田ジョンが、へえ、と口元を歪める。フロントセンターから、
「とかなくてしす」
 嫌な笑みで返してきた。鳥肌が、末端からせり上がる。これが全国一位の選ぶ返しか。とかなくてしす、つまり咎無くて死すとは、この文中に隠されている暗号だ。いろは歌は古い文献の一部では、七五調の区切りではなく、七文字ごとに区切って書かれていることがある。この意味深な書き方で、各区切りの最後の文字を縦読みすると、こうなる。「と・か・な・く・て・し・す」。つまり、私は罪がないのに殺される。ただの偶然だという説もあるが、遺恨の意で作者がわざと読み込んだのではないかと江戸時代よりも古くから囁かれているのだ。今だ作者不明なこの四十八文字を、誰が書いたのか解明する大きな手がかりとも言われている。
「折句」
 バックセンターから速見が打った。縦読みで暗号を埋め込む技法をこう呼ぶ。ちなみにこういう言葉遊びは我らのヒーロー唯一の弱点である。
「この作品、実は折句になってるんだぜ」
「どこが。はっ、本当だ」
 というような速見とヒイロの時間差で通じる和やかなやり取りが、部活の休憩中にいつも繰り広げられていた。苦手を克服しようと関連書籍を図書室から借りてきて、答えがわからないまま本編と解説を何度も往復し、一人で悶々と考え込むヒイロをよく見かけたものだった。
「あくびがでるわ」
 相手のバックレフトがトスをした。とある詩の冒頭だ。
「いやけがさすわ」
 フロントライトが続け、こちらへ排球が飛んでくる。
「しにたいくらい」
 続きを言って打ち返した。
「てんでたいくつ」
 バックライトの菩菩が返してくる。こうゆうテンポのいいラリーは、ニチセイの大好物だ。客席から見守っている彼らが、音を立てない拍手を送ってくれていた。
「まぬけなあなた」
 ジョージが上げた排球を内田が受ける。最後の一文を悪意のこもった声色で叫び、小さな後輩は万葉側へ一直線に叩きこんだ。
「すべってころべ」
 各文の始めの六文字を縦読みすると、「あ・い・し・て・ま・す」。なのだが内田は今、その素敵な暗号を度外視し、万葉を罵倒する気持ちだけで打ってしまった。あの優しい作者に、すごく失礼なことをした。だから、罰が当たったのかもしれない。うさぎと呼ばれるに相応しい高いジャンプだったが、小さな体は、それでも敵襲のいかついブロックには届かなかった。
「谷川俊太郎」
 作者名を言い山田ジョンが素早く突き落としたボールが、着地の途中だった内田の腕をえぐるように殴った。
「あっ」
 焦りを含む感嘆詞が響いた。打ち返せるわけがなかった。バランスを崩し、後輩は床へ叩き付けられるように転倒した。グキッと鈍い音がする。内田の喉から悲鳴を噛み殺したような甲高い音が微かに漏れる。そのまま足首を抑えて涙目でうずくまった。痛そうに震えている。
「アトムちゃん」
 速見が叫んで駆け寄った。客席が心配そうにざわめいている。驚きのあまり、声を失う。堅気な審判は冷静だった。アリーナ中に尺八が鳴り響く。
「一対零」
 義務としてそれを告げてから、「君、立てるか」とアトムに近づいた。
「おいおい。すべってころんだのは、そっちだったなあ」
 がはは、とジョンが胸を反らせて指差している。あいつは、こうなることがわかっていたのだ。転ばそうとして、このタイミングで内田を狙ったのだ。ゲスだとはわかっていたが、ここまでやるのか……。
「足くじいたか」
 対角から声をかけると左足を引きずりながらも、サラサラショートの後輩は健気に立ち上がった。膝も肘も擦っている。右膝にも、目立つ内出血があった。
「いいえキャプテン。本当に大したことないです。あのね、ちょっと、大げさに痛がってみただけなんです。速見さんも、そんなに心配しないでくださいね」
 白いハイソックスの足首には濃く鮮血が滲んでいた。強がりで負けず嫌いなこの後輩は、見るからに不調なときも下手な嘘でごまかしてくる。
「保健室で手当てを」
 審判が口を挟んだが、内田は間髪入れずに返した。
「僕が抜けたら人数不足で失格になるじゃないですか」
 二校の中間で揺れていたボールを、ジョンが拾い菩菩へと投げる。万葉のサーバーは毎度のごとくヤクザ麻呂だ。負傷した敵を気遣う優しさすら、やつらには一切なかった。感情が覆い隠された肉厚な面で、堀田菩菩は真っ直ぐに打つ。いつもの遅いサーブではなかった。
「谷川俊太郎」
 出題が繰り返され、白い排球がフロントレフトへと猛スピードで向かう。それを受けようと一歩後ろに下がり、軽い体重すら支えきれなかった左足を軸にして、内田は崩折れた。本人が平気なふりをしているだけで、傷は深いだろうし足首は確実に捻っている。立ち続けることも難しそうだ。放心して口を開いた小さな選手の目の前に、球は落ちかけた。とめなければ。ここで落としたら二対零だ。開始早々でマッチポイントにされてたまるか。前みたいな終わりはごめんだ! 全員が走り出した。
「スイミー」
 真っ先に追いついたバックレフトのヒイロが、滑り込んで二点目を阻止した。無茶な動きだった。床との摩擦で皮膚が薄く削られる音。両腕が薄赤に染まる。欅平さんが怒りとも嘆きともとれる悲痛な声で「池」と客席から、彼しか使わないヒイロの愛称を叫んだ。白い球が一直線に上へ舞う。息を飲んで天を見上げる。ボールが照明で乱反射する。スイミー。小学生の教科書にも載るほど有名なこの絵本を翻訳した方こそが、谷川俊太郎という人物である。フロントセンターのジョージの前へ球は上がる。
「遠道打て」
 ヒイロが立ち上がりながら声を張った。その両腕には縦に長くかすり傷ができていた。急に責任を感じた内田が大粒の涙をこぼした。了解と呟き、高身長の後輩は真剣な顔で構える。凍てつかせるような眼光が敵コートに向けられる。
「たかが一人のケガで怒りすぎじゃねえ?」
 山田ジョンが指を差して笑っている。自身の右手に目線をやり、ジョージは眉間に皺を寄せた。手酷く負傷した内田を見下ろし、
「やる価値あるよね」
 口の端をつりあげて呟いた。必殺技を繰り出す気だ。
 あれから個人で何度も練習し、手を傷めずに速度と強さを出す絶妙の力加減をついに見出したのだという。だが失敗すれば、やつの右手は数十分使えなくなる。これは賭けだ。
 スイミーの作者の名前を凛と叫び、細心の注意を払い打点を決め、ジョージは高飛びのように床を蹴った。白いボールが、細長い腕に吸い付けられるように落ちてくる。
「レオ=レオニ」
 コート中に風が渦を巻く。いける!
 その排球を叩く瞬間だった。眩い光がコートへ差し込み、ジョージの視界を真っ白にくらませた。当て推量で叩かれた球は、狙った位置には飛ばなかった。混乱した足が、着地点をなくして空を切る。景色が靄がかって停止する。
 我に返った時には、もう遅かった。背中から落下した長身を速見が強靭な腕で抱きとめ、内田と違いなんとか大ケガは免れた。魔球は大きく軌道を外れ、一直線にコート外の床を強く叩き滑っていった。アウトだ。
「二対零」
 告げられ尺八が鳴り響く。先ほどの光の出どころを探すと、客席で悠々と観戦している万葉高校のOBが持っていた手鏡だった。即座に指差し、訴える。
「審判、あの人です。今、万葉高校を援護しましたッ」
 中年男は、客席を見て首をかしげる。もう犯行現場は隠蔽されたあとだった。審判は鼻でため息をつき、どうしようもないという風に首を振った。
「証拠は?」
 諦めなさい、と諭すような乾燥した声だった。手鏡なんて誰でも持っている。
「むりだよ小野」
 ソウルが切なくうつむいた。副キャプテンが舌打ちをした。
「でも、助けが間に合っただけ良かったんだぜ。アトムちゃんに続いてジョージまでケガさせちまったら、オイラ先輩失格なんだぜ」
 そう言って速見は悲しげな笑みを浮かべ、サムアップをしてみせた。
「ねえ見た? 俺の必殺技、無駄んなっちゃたよ」
 ジョージは普段通りに笑ったのだが、その瞳から涙が筋になってこぼれた。本人は気づいていない様子で、冗談をいう声色のまま続ける。
「ほら、右手も、駄目んなっちゃったよ」
 たはは、と笑う頬を涙がぽたぽた伝っていく。ジョージが泣くなんて、初めてのことだった。こいつは、こんなふうに悲しむんだな。内田が立てないまま、ごめんと繰り返していた。
「右手だけで済んで、良かったんだぜ」
 速見が神妙な表情でポツリと言った。
「谷川俊太郎」
 菩菩のサーブで試合が唐突に再開する。この、最低なゴミめ!
 届かなかった意志を継ぐ思いで排球を上げる。
「スイミー」
 俺のトスをソウルが受けてアタックを打つ。
「レオ=レオニ」
 翻訳される前のスイミーを書いたレオ=レオニは、イタリアの著名な絵本作家である。しかし敵は全国一位だ。彼の著作の中から、絵本ではない作品を即座に選んで返しやがった。
「平行植物」
 万葉のバックセンターがスパイクを打つ。学術書の体で出版された文献である。だが実在する植物を扱ったものではない。なんと一冊丸々、著者の空想の賜物。架空の発見者による発見談や研究発表を元に、平行植物という植物群の実態が緻密に描き出されている。全編を通して嘘八百なのに、妙にリアルで想像力を掻き立てられる。あの本には俺の幼い頃の、遠い思い出がある。山ノ内家にあった、あの宝物のような、平行植物という文献。子どもが読むには字が多いので、タエ子さん─ソウルの母さん─が俺たちに何度も読み聞かせてくれた。
 フロントセンターのジョージのほうへ球は飛んだ。
「ごめんソウルさん。代わりに打って」
 左手で右手を指差し、やつは力なく作り笑いをした。瓶底メガネの文系男子は頷く。
「任せろ。大好きな本だ」
 ソウルは珍しく、頼もしい表情で笑みを返した。トスを上げ、
「時空のあわいに棲み、」
 で区切って俺を見た。あの懐かしい呪文の、続きを。
「われらの知覚を退ける植物群」
 スパイクをぶっ飛ばす。
 時空のあわいに棲み、われらの知覚を退ける植物群。作中で平行植物はこう提唱されている。この幻想的な設定を初めて知ったとき、幼い日の俺とソウルは心が踊った。触れると消えてしまう上に写真にも映らない、そんな奇妙な植物群があるというのだ。まだ幼稚園児だった頃に二人で、平行植物に大いなるロマンを抱き、近所の山まで一緒に散策しに行ったことがある。あの時の俺たちは、まだ作り話だと知らなかった。
 もちろん平行植物なんか見つかるわけがなかったし、ソウルは山頂付近でうっかりメガネを谷底に落として、何も見えないと泣き出した。そんな幼なじみの手を引きながら、俺もつられてわあわあ泣きながら、懸命に山を下ったのだ。
 そして二人とも死への恐怖すら感じながら夜中にようやく家につき、無謀な冒険は、両親に散々怒られるという苦い結末で終了。今だから笑える話だ。母曰く、捜索願いを出す寸前だったらしい。ソウルも同じくそれを思い出してくれたのか、俺のほうを見て照れ笑いした。
「三大奇書」
 万葉が打つ。またもや上手い返しだ。生物系三大奇書と言えば、平行植物、アフターマン、鼻行類の三作品である。しかし世間一般的に三大奇書とだけ言われれば、こっちが定説だ!
「ドグラ・マグラ」
 ファウル判定になるのを恐れて、せっかくの話題を自ら変えてしまった俺はバカだ。単純なトスが高く上がる。「ドグラ・マグラ」は推理系三大奇書の一つだ。夢野久作が十年以上の月日をかけて創作した代表作である。精神患者が主人公の非常に難解な作品だ。その常軌を逸した作風から一代の奇書とも呼ばれ、読破した者は必ず一度は精神に異常をきたすとまで言われている。ちなみにこの三大奇書、残る二冊は、小栗虫太郎の黒死館殺人事件と、中井英夫の虚無への供物である。そのどちらかを返してくると思いきや、万葉の選択は違った。
「河童」
 これも同じく精神患者が主人公になっている作品だ。短編小説で、知る人ぞ知る。まさか万葉高校、そういう方面からも切り込んでくるとは。さっきから幾度も、想定外な方向へ大きく飛躍している。その上を行く返しを思いつけない。
「芥川龍之介」
 作者名を言ってヒイロが打ち返した。我らのヒーローまで、こんなスタンダードな返しを選んでしまうなんて。しかも少しフォームが乱れた。腕のかすり傷だけでここまで調子が狂うわけがない。もしや、他にもどこか。
「なあヒイロお前」
 言いかけた時に小太鼓が鳴った。十五分経過だ。菩菩が球を受け、
「次は芥川龍之介で再開だな」
 野太い声で独りごちた。ジョンが歯茎を見せて、腹を抱えて笑う。
「あああ面白え! ボロッボロのくせに選手交代はできねえんだろ。くぁわいそうになあ。全くよ、なんでお前ら六人しかいねえんだよ。部員の勧誘に失敗でもしたのかよ。がはははは」
 それは質問ではなくただの罵倒で、やつは答えを待たずに背を向けた。入れ替える三人についてけたたましく話し合っている。
 痛いところをつかれた。情けない話だが、事実、勧誘に失敗したのだ。
 去年の春、物珍しさにつられて仮入部だけは二十人も来てくれた。しかし本入部した一年生は、結局ジョージと内田だけだったのだ。体育会系なのに国語の勉強をしなければならないということがネックになり、他の連中は本入部では他の部活へ行ってしまった。バレーボール部に流れたのが大半だ。仮入部期間中、どいつもこいつもバレー部と文バレ部を行ったり来たりしていたらしい。その展開は、本当に予想していなかった。
 実を言うと二人も一度は去ろうとしていた。しかしすぐに戻ってきたのが内田である。泣きじゃくりながら体育館に飛び込んできて、やつはこう言った。
「あのね、バレー部の人がね、ひどいんです。本入部はしないでくれって、言ってきやがったんです。チビは戦力外だから文バレ部にでも行けって。あいつら、僕のことだけじゃなくて、文芸バレーボールのこともバカにしやがったんです。もうすっごく悔しいから、こっちに入部して全国取って、見返すことに決めたんです」
 意外と芯があるやつだと、その時思った。
 数日後にはジョージも戻ってきて、あっけらかんとした態度で言った。
「ねえ先輩、最低でも六人いないと全国大会には出れないんすよね。仕方ねーんでこの遠道、六人目になってあげようじゃないの」
 バレー部つまんなかったんで辞めました、と当人は笑っていたが本当の原因は、あまりの態度の悪さゆえに入部三日で追い出されたからだと噂で知った。そんなメンツなので、この後輩二人が異様に扱いづらかったのは当たり前とも言える。だが今となっては大切な仲間だ。俺は万葉高校を許さない。やつらのせいで、この二対零の局面で、内田は立てないしジョージは右手が使えない。敵は人選にじっくり時間をかけている。
「池原、つき指してるよな」
 ふいにソウルが口を開いた。ヒイロは舌打ちをし、
「気づいていたか」
 眉をしかめた。そうか、フォームが崩れた原因はつき指だったのか。
「うん。むりするなよ。……速見も」
 ソウルは穏やかに微笑んで続けた。
「え? オイラは無傷なんだぜ」
 速見は豪快な笑みを浮かべる。しかしソウルは、一息ついて言った。
「嘘つけ。ジョージを受けとめたとき、肩、痛めただろ」
 そう、だったのか。全員が意外そうにやつを見る。
「な、なんで気づいてるんだぜ。エスパーかよ山ノ内」
 速見は慌てだす。ジョージが急に笑顔をなくした。
「え、まじなんすかマイティさん」
「なんてことないんだぜ。心配無用なんだぜ」
 やつはサムアップをした。その手の位置が心なしか低い。ソウルは本当に人をよく見ている。耐えていることを、全て見透かしてくる。俺の幼なじみは、昔からそうだ。
 敵がコートに戻ってきていた。
「へえ。じゃあ、あと二人を壊せば終いじゃねえかよ」
 ジョンが三白眼を見開いた。その言葉の意味するところを理解して、背筋が凍った。狂っている。まるでガラクタを踏み潰すような言い方をする。こいつは、形式上の勝利しか見ていない。どんな手を使ってでも、あと一点を取るつもりなのだ。なあ、ジョン。なんでお前、そんな戦い方しかできねえんだよ。やめてくれ。もうこれ以上、俺の仲間を傷つけるなよ。
「大丈夫だよ」
 ふいに、とても安心する声がした。
 しかしやつの次の行動で、その安心が消えた。ソウルがメガネを外した。恐怖が襲ってくる。小学生の頃がフラッシュバックする。同じ光景だ。細い背中が、目の前にある。
「待てソウル!」
 かすかに振り向いた、その瞳はすでに虚ろだった。本人によって放り投げられたメガネが、アリーナの壁に派手に当たり、砕けた。アリーナ中がざわつく。
「山ノ内さんが割れた」内田。
「本体を投げるなんて」ジョージ。
「自殺行為なんだぜ」速見。
 違う、笑い事じゃない、間に合わないんだ。
「見えるからだめなんだよ」
 そう呟き、ソウルはふっと目を閉じる。
「流れが読めた。いくよ」
 ジョンが、はあ? と顔を歪ませて、菩菩がいつも通りにサーブを打った。
「芥川龍之介」
 開眼とともに、ソウルは風のようなレシーブを返す。
「蜘蛛の糸」
 相手コートはざわめいた。
「羅生門」
 フロントセンターのジョンが焦った顔になって打つ。返ってきた球を、
「藪の中」
 ソウルが気配を察知して打ち返す。あまりに動きが早く、セリフとセリフの間がなかった。敵は速度に追いつけず、球を落とした。
「二対一」
 審判がうろたえた様子で尺八を吹いた。万葉が息を呑む。
「お、おい、急に強くなるってどういうことだよ。メガネがねえと、普通は前が見えなくなるはずじゃねえか。だろ、どうなってんだよ」
 ジョンは眉をしかめて、こちらへボールを転がしてきた。目にも止まらぬ速さでソウルはそれを手に取り、スパイクを打った。藪の中、と声が響く。
「二対二」
 客席が一気にざわめく。
「お前ら、なんで追いつけねえんだよ! 使えねえクズどもが!」
 山田ジョンはがなりたてた。取り巻きのチンピラどもは、つっかかった。
「こっちのセリフだ、てめえこそ打てよ!」
 互いの信頼はまるで感じられない。その背後から強面の菩菩が、こちらを無言で睨んでいた。
「山ノ内さん、すごいですっ」
 内田が声を弾ませた。だがすぐに、怪訝そうに彼の顔を見た。
「あと一点」
 そう吐き出して頷いたソウルの目は深く濁り、まるで笑っていなかった。
「山ノ内さん?」
 きっとその声も届かなかった。
「ソウル、だめだ」
 手首を掴んだ俺を、焦点の合わない虚ろな瞳で見つめてくる。
「小野、どうしたんだよ。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
 それでもソウルは死に急ぐような笑みを浮かべた。
「藪の中」
 最後のサーブが放たれる。これまでの全てが、脳裏を巡った。谷底に落ちていくメガネ。昔は同じだった身長。部室の檸檬。体育館の高い天井。万葉の選手たちがスローに見えた。口を開けて、伸ばす腕、腕、腕。排球が床を叩く。アリーナの端には砕けたメガネが落ちている。
「二対三。勝者、新古今高校」
 わっと歓声が上がると同時に、ソウルは気を失った。
「山ノ内」「山ノ内さん」「ソウルさん」「おい、山ノ内! 山ノ内!」
 部員たちが心配して駆け寄る声が、遠く耳鳴りのように聞こえた。客席で身内も悲鳴をあげている。俺は、立ち尽くしたまま声が出なかった。
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