5 / 27
電車
しおりを挟む
「まず壁の時計が狂っていたんだ。一時間も近く進んでいたのに、気がつかなかった」
腕時計の方は合っていたのだが、クロード=ブルゴーニュはその日壁掛け時計ばかり見ていたから、泡を食って家を出たわけだ。電車の時間に遅れるのは何としても避けたかった。
「……まあ、駅に着いたら杞憂だとすぐ分かったが」
駅構内で適当に時間を潰すか、早いがもう電車に乗ってしまうか……遅れるより良いだろう。そう思ってクロードはやってきた電車に乗った。
早朝だったからか、乗客はほとんど見当たらなかった。最後尾でホームの端だったこともあるだろう。とにかく、乗った車両には自分以外誰も居なかった。
クロードは電車に乗ると読書するのが日課になっている。しかし、いつもと違ってあまり身が入らなかったから、すぐに止めた。何とは無しに窓の外を眺めている内に寝てしまったようだ。
ふと目が覚めたら、相変わらず、クロードの他に乗客は居なかった。
そもそも、前方の車両が無かった。車掌すら居ない。なのに電車、一両きりのそれは、ある程度のスピードを保ったまま走り続けた。
車内がやけに白っぽくて眩しかった。その中を、黄色い蝶が一匹飛んでいった。窓が全て開けられていて、絶えず温かい風が吹き込んでいた。一言で言うなら『幻想的』といったところか。
窓の外は眩しい空のせいであまり見えなかったが、おそらく、川の傍だったのだろう。水の匂いがしていた気がする。
どのくらい経ったか判らないが……急に声をかけられた。
「――すみません、お隣空いてますか」
顔を上げてみれば、美しい女性が……。
「って何だ、混ぜっ返すな! ったく、今のどこに食いつく要素があったんだ……こら、いつまで笑っている?」
確かに隣は空いていたんだが、しかしおかしいじゃないか。一両きりとはいえ、乗客はクロードしか居ないのだ、許可を取る必要がどこにある。
「空いていますが、他の席だって空いていますよ」
そう返したら、彼女は笑って言った。
「もうどの席も埋まっていましてよ、皆さん楽しそうにお喋りなさってるのが聞こえるでしょう!」
彼女の言う通りだった。反響して聞き取り辛くはあったが、結構な数の人間が喋っている声が聞こえた。彼女は、他の乗客達は、一体いつ乗車したのだろう。
彼女は、もう一度隣に座って良いかどうか尋ねてきた。空いてないなら仕方がない、彼女はクロードの隣に座った。
「ん? 何で拗ねているんだ、……お前が彼女と会ったら……いや、止めておこう」
さして特徴は無い外見だったと思う。全体的に綺麗な印象は受けたが、それだけだ。茶髪に青い瞳で、髪は少し癖があった。
「スタイル? 何でそんなことが気になるんだ……」
華奢な女性だった。白のブラウスに水色のロングスカートというありきたりな格好だ。
そう言えば、綺麗な声をしていた気がする。聞き心地の良い音というのか。
彼女はとりとめもない話題をもちかけてきた。
どこの街のどこの喫茶店のケーキセットが美味い、でもコーヒーだけならあそこが一番、服を買うならどこそこ、この作家の本が好き、歌手ならあの人……楽しくはあった。いろいろな疑問を忘れるくらいに。
何しろ、一つ聞けば十でも二十でも話題が出てくるのだから。
ただ、一つだけ話したがらない事があった。彼女の話題の大半は川近くの街についてだったから、その辺りに住んでいるのか、或いはその辺りが好きなのか……そう尋ねただけだ。何て事ない質問だろう。
彼女は困ったように笑ってごまかした、だがクロードには彼女が一瞬顔を顰めたのが判った。まるで、取り返しのつかない事をしでかしたみたいに……。
会話が途切れ、しばし沈黙が降りた。
……そして、ふとクロードはいつ電車が駅に着くのかが急に気になりだした。
同時に、彼女や他の乗客達はいつ乗車したのかも不審に思った。
果たして、彼女以外の乗客は実在しているのだろうか。そう疑ったクロードは彼女に伝えた。
「車掌に聞きたい事があるので、少し席を外しますね」
だが彼女は何も返事をしない。クロードは構わずに立ち上がった。ずっと同じ体勢で座っていたからか、やけに躰が重かった。
彼女は小さく溜め息を吐いた。
「賭けに勝ったのは君が初めて……」
何の事か訊いたが、笑って答えない。
「お喋りに夢中になりすぎるのはいけないね――」
そう自虐するだけだった。
「……一目惚れされた? まさかな」
そして、クロードは降りる予定の駅に一時間早く降り立ったというわけだ。
「……そんな目で催促されてもな。話が繋がらないと言うんだろう? だが、そこが俺もよく判らないんだ」
気が付いたら列車が減速していて、クロードは荷物を背負ってドアの前まで歩いて、ごく普通に列車から降りていた。あの彼女が黒幕だったんだろう、おそらく。
「……正体? そんなもの判るわけがないだろう」
……ひょっとしたらローレライ(岩の妖精、あるいはセイレーンの一種とされる。美しい声で男を誘惑し、破滅へと導く)だったのかもしれない。妙に川の事に詳しかったし、声が綺麗だったから。
「……なあ、それでも、兄さんは彼女と同伴したかったか?」
腕時計の方は合っていたのだが、クロード=ブルゴーニュはその日壁掛け時計ばかり見ていたから、泡を食って家を出たわけだ。電車の時間に遅れるのは何としても避けたかった。
「……まあ、駅に着いたら杞憂だとすぐ分かったが」
駅構内で適当に時間を潰すか、早いがもう電車に乗ってしまうか……遅れるより良いだろう。そう思ってクロードはやってきた電車に乗った。
早朝だったからか、乗客はほとんど見当たらなかった。最後尾でホームの端だったこともあるだろう。とにかく、乗った車両には自分以外誰も居なかった。
クロードは電車に乗ると読書するのが日課になっている。しかし、いつもと違ってあまり身が入らなかったから、すぐに止めた。何とは無しに窓の外を眺めている内に寝てしまったようだ。
ふと目が覚めたら、相変わらず、クロードの他に乗客は居なかった。
そもそも、前方の車両が無かった。車掌すら居ない。なのに電車、一両きりのそれは、ある程度のスピードを保ったまま走り続けた。
車内がやけに白っぽくて眩しかった。その中を、黄色い蝶が一匹飛んでいった。窓が全て開けられていて、絶えず温かい風が吹き込んでいた。一言で言うなら『幻想的』といったところか。
窓の外は眩しい空のせいであまり見えなかったが、おそらく、川の傍だったのだろう。水の匂いがしていた気がする。
どのくらい経ったか判らないが……急に声をかけられた。
「――すみません、お隣空いてますか」
顔を上げてみれば、美しい女性が……。
「って何だ、混ぜっ返すな! ったく、今のどこに食いつく要素があったんだ……こら、いつまで笑っている?」
確かに隣は空いていたんだが、しかしおかしいじゃないか。一両きりとはいえ、乗客はクロードしか居ないのだ、許可を取る必要がどこにある。
「空いていますが、他の席だって空いていますよ」
そう返したら、彼女は笑って言った。
「もうどの席も埋まっていましてよ、皆さん楽しそうにお喋りなさってるのが聞こえるでしょう!」
彼女の言う通りだった。反響して聞き取り辛くはあったが、結構な数の人間が喋っている声が聞こえた。彼女は、他の乗客達は、一体いつ乗車したのだろう。
彼女は、もう一度隣に座って良いかどうか尋ねてきた。空いてないなら仕方がない、彼女はクロードの隣に座った。
「ん? 何で拗ねているんだ、……お前が彼女と会ったら……いや、止めておこう」
さして特徴は無い外見だったと思う。全体的に綺麗な印象は受けたが、それだけだ。茶髪に青い瞳で、髪は少し癖があった。
「スタイル? 何でそんなことが気になるんだ……」
華奢な女性だった。白のブラウスに水色のロングスカートというありきたりな格好だ。
そう言えば、綺麗な声をしていた気がする。聞き心地の良い音というのか。
彼女はとりとめもない話題をもちかけてきた。
どこの街のどこの喫茶店のケーキセットが美味い、でもコーヒーだけならあそこが一番、服を買うならどこそこ、この作家の本が好き、歌手ならあの人……楽しくはあった。いろいろな疑問を忘れるくらいに。
何しろ、一つ聞けば十でも二十でも話題が出てくるのだから。
ただ、一つだけ話したがらない事があった。彼女の話題の大半は川近くの街についてだったから、その辺りに住んでいるのか、或いはその辺りが好きなのか……そう尋ねただけだ。何て事ない質問だろう。
彼女は困ったように笑ってごまかした、だがクロードには彼女が一瞬顔を顰めたのが判った。まるで、取り返しのつかない事をしでかしたみたいに……。
会話が途切れ、しばし沈黙が降りた。
……そして、ふとクロードはいつ電車が駅に着くのかが急に気になりだした。
同時に、彼女や他の乗客達はいつ乗車したのかも不審に思った。
果たして、彼女以外の乗客は実在しているのだろうか。そう疑ったクロードは彼女に伝えた。
「車掌に聞きたい事があるので、少し席を外しますね」
だが彼女は何も返事をしない。クロードは構わずに立ち上がった。ずっと同じ体勢で座っていたからか、やけに躰が重かった。
彼女は小さく溜め息を吐いた。
「賭けに勝ったのは君が初めて……」
何の事か訊いたが、笑って答えない。
「お喋りに夢中になりすぎるのはいけないね――」
そう自虐するだけだった。
「……一目惚れされた? まさかな」
そして、クロードは降りる予定の駅に一時間早く降り立ったというわけだ。
「……そんな目で催促されてもな。話が繋がらないと言うんだろう? だが、そこが俺もよく判らないんだ」
気が付いたら列車が減速していて、クロードは荷物を背負ってドアの前まで歩いて、ごく普通に列車から降りていた。あの彼女が黒幕だったんだろう、おそらく。
「……正体? そんなもの判るわけがないだろう」
……ひょっとしたらローレライ(岩の妖精、あるいはセイレーンの一種とされる。美しい声で男を誘惑し、破滅へと導く)だったのかもしれない。妙に川の事に詳しかったし、声が綺麗だったから。
「……なあ、それでも、兄さんは彼女と同伴したかったか?」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる