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子守り/葵と暁
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「……あ」
朝、同棲中の恋人(の中身)が子供に戻った。ヒカルの知る限り、三度目の幼児返りだ。
「…………」
「おはよう」
意識が浮上した時、恋人の視線が注がれていた。今日は彼が先に起きたらしい。いつものように抱きしめてキスしようとして、いつもと違う恋人の様子に気付く。
「…………」
「……おばちゃんの事、憶えてるかなあ?」
「…………?」
小首を傾げ、ゆっくり首を横に振られた。
「寂しいな。お友達だよ、アオイくんの」
ずっと無表情でヒカルを見ていた恋人の少年期である【アオイくん】は、まるで本当の子供のような屈託の無い笑顔で笑った。最初も二度目の時も、アオイくんはずっと泣いていた。大人と子供の頃の精神が錯乱して混同したまま、ヒカルに抱き締められてずっと泣いていた。あの時は一度も見られなかった笑顔を見られて、ヒカルはとても嬉しかった。
「え……っと、ちょっと待って、まずは服を着ようね」
ヒカルは今の状況を再確認して焦った。双方ともすっぽんぽんだ。数時間前までドロドロに愛し合っていたのだから仕方ない。これでアオイくんがパニックにならなくてよかった。
ヒカルは床に落ちていたパジャマを拾って羽織り、アオイくんに一旦シーツをかけて、洋服箪笥の中からいつもより可愛い感じの服を選んでアオイくんに着せた。自分も服を着替えて、アオイくんの手を引いて寝室を出る。ヒカルの指先をキュウっと握ってくる指は、ちょっと痛いと思いつつも自分を信用してくれた事を窺わせた。
テレビを点けてチャンネルを変えると子供番組がちょうどやっていて、こういうの見るかなあと思いながらも、とりあえずそのチャンネルに固定してみた。
物心ついたの頃から【普通の事】を教えられず、ずっと斜めから世間の醜さを見せつけられてきた彼が、このタイプの番組を見て喜ぶかとも思ったけど……穴が開くという表現がピッタリの食い入るように見ていて、すごく可愛い。実は返って新鮮だったのかも知れない。子供は子供らしい事をしているのが一番幸せなんだ。……自分は今、母性に目覚めているようだ。
「朝ご飯出来たから食べようか」
パンを焼いて目玉焼きにカバの形に切った皮なしウインナーを添え、サラダとコーンポタージュを作った。デザートは蔕をとってヨーグルトをかけた苺。
「はい、そこの赤い椅子に座ってね」
「…………」
アオイくんは終始無言のままだけれど、でも決して自分を拒絶しているわけではなさそうだ。声が出ないのか、出せないのか……幼児返りという特殊な状況が、そうさせているのかも知れない。
「美味しい?」
「…………」
無言だけど美味しいという顔でこっくり頷く。思いの外、アオイくんはなかなか素直みたいだ。それとも警戒しない相手にだけかもしれないけど。……うーん、いつどこで今みたいにヒネくれちゃったんだろう……とか……いや、好きだよ、今の彼も。面白くて。最後までサラダに手を付けないでいたから「野菜も食べないと駄目だよ」って言うと、目を瞑って我慢して食べていて和んだ。デザートは譲った。
葵のパートナーとして生活していくという事は、これからこういう状態が何度か発生するという事。ヒカルは医者ではないから、幼児返りについて詳しい事は何も知らない。だからと言って、調べようとも思わない。
専門的にどうこう考えた目で彼を見るより、その時その時の雰囲気で対応して、純粋に子供のアオイくんに接した方がいいのではないだろうか。ただ一つとても良く判っているのは、子供の頃の彼がヒカルを必要としているという事だけだ。いや、それで充分なのだ。
「何して遊びたい?」
「…………」
「絵、描くの好き?」
「…………」
丁寧に二回も頷かれた。しかし社会人しか住んでいないこの家にはラクガキ帳もクレヨンもない。それどころか色鉛筆すらない。職業的に必要なく、趣味でもない。新しいノートとあるだけの色ペンを持って来て、アオイくんと一緒に絵を描く事にした。描く絵を見れば、いくつくらいのアオイくんなのか判るかなって思ったけれど……上手過ぎて判らなかった、残念。
諦めて本来のお絵かきに熱中する。アオイくんはチラシの電子フェアリーのイラストを何だかすごく気に入ったみたいで、そればかり真似して描いていた。
「…………」
「どうかした?」
「…………」
百体目くらいの電子フェアリーに取り掛かっていたアオイくんの目が、徐々にショボショボと瞬き出した。急激に襲ってきたらしい眠気を払い除けるようにして、電子フェアリーを描き進めている。
……戻るのかも知れない。ヒカルがそう直感してすぐ、アオイくんは頭のリボンを描き入れると、倒れ込むようにしてそのまま眠ってしまった。眠りにつく間際に、小さい声で自分の名前を呼んだのが聞こえたのは、気の所為なんかじゃないと信じたい。
ベッドに運んで寝かせ、すぐ目の覚めない事を確認してから、愛し合っていた状態に戻した。パジャマを着せて掛け布団を被せる。着ていた服は畳み直して、もう一度同じ場所に仕舞った。ノートとペンを片付けて、【アオイくん】のいた気配を消す。描いていたノートは目の届かない場所に仕舞った。見付かってしまう可能性もあるけど、捨てる気になんてなれなかった。
「……おはよ……」
「おはよう、葵くん」
「……今……四時って、夕方の四時?」
「うん、そう」
「……寝てた?」
「すっかり眠りこんでたね。全然起こしても起きなかった」
「そう……妙に頭がボンヤリしてるのよ……何か夢を見ていた気がするけれど……どんな夢だったか思い出せない……」
「熟睡だったもんね。あ、お腹空いてる? 何か食べる?」
「いいえ、あんまり……本当に寝てたの?」
「今、起きたんでしょう?」
「そうなんだけど……何ていうか」
「とりあえず着替えたら? ついでに洗うよ」
「そうね……」
どこか腑に落ちない顔をして、服を着に寝室に戻って行った。……どうやら全く憶えていないらしい。ヒカルは、彼に【アオイくん】になっていた事を言うつもりは全く無い。言う必要なんて無いだろう。
「……ねえ」
「はい?」
驚いた。先程と全く同じ服を着ていたものだから。
「まだボンヤリしてるんだけれど……何だかとても気分がいいのよ。不思議ね……」
「そりゃあれだけ寝ていたら気分もいいでしょうね」
「あら、一人で寂しかったの?」
「そりゃもう」
「それは悪かったわね」
「いいえ、ときどき可愛らしい寝顔を見させに行ってたから」
「盗み見? 嫌な趣味ね」
その後は、取り立てて何をするわけでなく、何気ない休日の午後を過ごした。残っていた家事を済ませ、軽食を食べながら撮り溜めしてあった映画を観た。その最中、服の裾から差し込まれた手は抓っておいた。
夕ご飯を一緒に作って食べている間、どうも何かを気にしている素振りをする。ヒカルは食事の途中で立ち上がり(葵はちょうどテレビを観ていて怒られなかった)大き目のメモ帳とペンを持って来て、テーブルの上で描き始めた。
「……これは何よ?」
「電子フェアリー」
「題名だけじゃ判らないわ」
「さっき葵くんが描いていたよ」
「……どうしてアタシがこんなのを描くの?」
「さぁ……概ね誰かの電波を拾ってるんじゃ?」
「おかしな言い掛かりはやめなさいよ」
苦笑する恋人の中に、先程までのアオイくんを見つけた。子供の頃の恋人は、彼の中で笑っている。
……次に恋人が幼く戻ったら、今度は何をして遊ぼうか。その時がとても楽しみだ。
朝、同棲中の恋人(の中身)が子供に戻った。ヒカルの知る限り、三度目の幼児返りだ。
「…………」
「おはよう」
意識が浮上した時、恋人の視線が注がれていた。今日は彼が先に起きたらしい。いつものように抱きしめてキスしようとして、いつもと違う恋人の様子に気付く。
「…………」
「……おばちゃんの事、憶えてるかなあ?」
「…………?」
小首を傾げ、ゆっくり首を横に振られた。
「寂しいな。お友達だよ、アオイくんの」
ずっと無表情でヒカルを見ていた恋人の少年期である【アオイくん】は、まるで本当の子供のような屈託の無い笑顔で笑った。最初も二度目の時も、アオイくんはずっと泣いていた。大人と子供の頃の精神が錯乱して混同したまま、ヒカルに抱き締められてずっと泣いていた。あの時は一度も見られなかった笑顔を見られて、ヒカルはとても嬉しかった。
「え……っと、ちょっと待って、まずは服を着ようね」
ヒカルは今の状況を再確認して焦った。双方ともすっぽんぽんだ。数時間前までドロドロに愛し合っていたのだから仕方ない。これでアオイくんがパニックにならなくてよかった。
ヒカルは床に落ちていたパジャマを拾って羽織り、アオイくんに一旦シーツをかけて、洋服箪笥の中からいつもより可愛い感じの服を選んでアオイくんに着せた。自分も服を着替えて、アオイくんの手を引いて寝室を出る。ヒカルの指先をキュウっと握ってくる指は、ちょっと痛いと思いつつも自分を信用してくれた事を窺わせた。
テレビを点けてチャンネルを変えると子供番組がちょうどやっていて、こういうの見るかなあと思いながらも、とりあえずそのチャンネルに固定してみた。
物心ついたの頃から【普通の事】を教えられず、ずっと斜めから世間の醜さを見せつけられてきた彼が、このタイプの番組を見て喜ぶかとも思ったけど……穴が開くという表現がピッタリの食い入るように見ていて、すごく可愛い。実は返って新鮮だったのかも知れない。子供は子供らしい事をしているのが一番幸せなんだ。……自分は今、母性に目覚めているようだ。
「朝ご飯出来たから食べようか」
パンを焼いて目玉焼きにカバの形に切った皮なしウインナーを添え、サラダとコーンポタージュを作った。デザートは蔕をとってヨーグルトをかけた苺。
「はい、そこの赤い椅子に座ってね」
「…………」
アオイくんは終始無言のままだけれど、でも決して自分を拒絶しているわけではなさそうだ。声が出ないのか、出せないのか……幼児返りという特殊な状況が、そうさせているのかも知れない。
「美味しい?」
「…………」
無言だけど美味しいという顔でこっくり頷く。思いの外、アオイくんはなかなか素直みたいだ。それとも警戒しない相手にだけかもしれないけど。……うーん、いつどこで今みたいにヒネくれちゃったんだろう……とか……いや、好きだよ、今の彼も。面白くて。最後までサラダに手を付けないでいたから「野菜も食べないと駄目だよ」って言うと、目を瞑って我慢して食べていて和んだ。デザートは譲った。
葵のパートナーとして生活していくという事は、これからこういう状態が何度か発生するという事。ヒカルは医者ではないから、幼児返りについて詳しい事は何も知らない。だからと言って、調べようとも思わない。
専門的にどうこう考えた目で彼を見るより、その時その時の雰囲気で対応して、純粋に子供のアオイくんに接した方がいいのではないだろうか。ただ一つとても良く判っているのは、子供の頃の彼がヒカルを必要としているという事だけだ。いや、それで充分なのだ。
「何して遊びたい?」
「…………」
「絵、描くの好き?」
「…………」
丁寧に二回も頷かれた。しかし社会人しか住んでいないこの家にはラクガキ帳もクレヨンもない。それどころか色鉛筆すらない。職業的に必要なく、趣味でもない。新しいノートとあるだけの色ペンを持って来て、アオイくんと一緒に絵を描く事にした。描く絵を見れば、いくつくらいのアオイくんなのか判るかなって思ったけれど……上手過ぎて判らなかった、残念。
諦めて本来のお絵かきに熱中する。アオイくんはチラシの電子フェアリーのイラストを何だかすごく気に入ったみたいで、そればかり真似して描いていた。
「…………」
「どうかした?」
「…………」
百体目くらいの電子フェアリーに取り掛かっていたアオイくんの目が、徐々にショボショボと瞬き出した。急激に襲ってきたらしい眠気を払い除けるようにして、電子フェアリーを描き進めている。
……戻るのかも知れない。ヒカルがそう直感してすぐ、アオイくんは頭のリボンを描き入れると、倒れ込むようにしてそのまま眠ってしまった。眠りにつく間際に、小さい声で自分の名前を呼んだのが聞こえたのは、気の所為なんかじゃないと信じたい。
ベッドに運んで寝かせ、すぐ目の覚めない事を確認してから、愛し合っていた状態に戻した。パジャマを着せて掛け布団を被せる。着ていた服は畳み直して、もう一度同じ場所に仕舞った。ノートとペンを片付けて、【アオイくん】のいた気配を消す。描いていたノートは目の届かない場所に仕舞った。見付かってしまう可能性もあるけど、捨てる気になんてなれなかった。
「……おはよ……」
「おはよう、葵くん」
「……今……四時って、夕方の四時?」
「うん、そう」
「……寝てた?」
「すっかり眠りこんでたね。全然起こしても起きなかった」
「そう……妙に頭がボンヤリしてるのよ……何か夢を見ていた気がするけれど……どんな夢だったか思い出せない……」
「熟睡だったもんね。あ、お腹空いてる? 何か食べる?」
「いいえ、あんまり……本当に寝てたの?」
「今、起きたんでしょう?」
「そうなんだけど……何ていうか」
「とりあえず着替えたら? ついでに洗うよ」
「そうね……」
どこか腑に落ちない顔をして、服を着に寝室に戻って行った。……どうやら全く憶えていないらしい。ヒカルは、彼に【アオイくん】になっていた事を言うつもりは全く無い。言う必要なんて無いだろう。
「……ねえ」
「はい?」
驚いた。先程と全く同じ服を着ていたものだから。
「まだボンヤリしてるんだけれど……何だかとても気分がいいのよ。不思議ね……」
「そりゃあれだけ寝ていたら気分もいいでしょうね」
「あら、一人で寂しかったの?」
「そりゃもう」
「それは悪かったわね」
「いいえ、ときどき可愛らしい寝顔を見させに行ってたから」
「盗み見? 嫌な趣味ね」
その後は、取り立てて何をするわけでなく、何気ない休日の午後を過ごした。残っていた家事を済ませ、軽食を食べながら撮り溜めしてあった映画を観た。その最中、服の裾から差し込まれた手は抓っておいた。
夕ご飯を一緒に作って食べている間、どうも何かを気にしている素振りをする。ヒカルは食事の途中で立ち上がり(葵はちょうどテレビを観ていて怒られなかった)大き目のメモ帳とペンを持って来て、テーブルの上で描き始めた。
「……これは何よ?」
「電子フェアリー」
「題名だけじゃ判らないわ」
「さっき葵くんが描いていたよ」
「……どうしてアタシがこんなのを描くの?」
「さぁ……概ね誰かの電波を拾ってるんじゃ?」
「おかしな言い掛かりはやめなさいよ」
苦笑する恋人の中に、先程までのアオイくんを見つけた。子供の頃の恋人は、彼の中で笑っている。
……次に恋人が幼く戻ったら、今度は何をして遊ぼうか。その時がとても楽しみだ。
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