怪奇拾遺集(7/4更新)

狂言巡

文字の大きさ
上 下
1 / 16

冬のまろうど

しおりを挟む
 コン……コン。
 ノックの音だ。やや遠慮しているリズムで、宵闇にとけ込んでしまうような音が二つ。雑誌に目を落としていた朧は、音源を求めて顔を上げた。
  リビングを照らす灯かりは火鉢と行灯の火だけで、部屋の隅はぼんやりと仄暗さに包まれている。音はその向こう側、つまり玄関から聴こえてくるようだった。月夜は眉を顰め、卓上の時計を見遣った。針が示す時刻は、家の軒が三寸下る丑三刻。つまり、深夜二時。
  人を訪ねてくるには非常識すぎる時間だ。ならば大事か――。一瞬考えたが、ノックの調子に差し迫った様子はなかったのも事実で。とりあえず雑誌を置いて玄関に向かってみる。ノックの音は一度響いたきりで、あとはとても静かなものだった。陽の暮れた辺りから未だ降り続いている、雪の所為だろう。

 「……どちらさん?」

  ドア越しに声を掛けたが、外はしんとしたままで何の返答もなかった。人の気配すら感じられない。一層訝って、ドアスコープに顔を寄せる。小さなレンズの向こうに見えたのは、丸く形を歪めた庭と階段、そこに降り積もる真っ白な雪だけだ。

 「んー?」

  気のせいだっただろうかと首を傾げる。何だか急に眠気が増した気がして、月夜は欠伸を噛み殺しながらリビングに戻った。

  翌朝。夜中のノックが妙に気になって、新聞を取りにいくついでに庭に出てみた。雪は夜通し降ったようで、まっさらな新雪が庭を覆っている。
  そういえばあの時、ここに足跡を見ただろうか。ふと気になったが、どうにも思い出せない。新聞を片手に雪を眺める。朝日にきらきらと輝く雪面には、人はおろか、乗り物や動物の足跡さえ見受けられなかった。





 『モノノケじゃないんですか?』

  電話の向こうで従弟の卿介が言った。

 『べとべとさんとか、あまりにも寒いもんだから、姉さんの家に入れてもらおうとしたとか』
 「いや、そういうやつらだったらすぐ分かるのよ」

  妖怪や精霊の類の気配はしなかったし、もちろん姿も見えなかった。そう続けると、従弟が小さく唸る。

 『ああでも、そもそも普通のお客だったなら、べル鳴らしますよね……』
 「でっしょー?」
 『真夜中のノックだなんて、まるでホラー映画のプロローグですね』

  自分の家は郊外にあるから、来訪する人間は限られている。知り合いに順に電話をかけて尋ねてみても、みんな同じような答えしか返ってこない。

 『簡単にドアを開けない方がいいですよ、強盗かもしれないし』
 「いや、強盗ならノックしないじゃん」

  やはり気のせいだっただろうか。そう思う一方で、何故だか妙に引っかかって仕方ないのだ。

 「あーあ……かわいーい弟が【お姉ちゃん、ただいまー】って言ってくれるなら、すぐに開けてあげるのになー」

  冗談半分でそう呟けば、電話の向こうで弟分が盛大にため息をついていた。





  コン……コン。
  ノックされた。少し奇妙なリズムで、どこか辺りを憚るような音が二つ。さっと時計に一瞥をくれた。昨夜と同じ、丑三時。やはり来たか。提灯を手に取って立ち上がる。ドアにぴたりと身を寄せて外の様子を窺った。やはり何の気配もない。
  コン……コン。
  それでも、ドアは今度は目の前で音を立てる。気のせいではないだろう。何もいないことがはっきり分かっているのに、そこには確かに『何か』がいるのだ。

 「…………」

  息を詰めてドアノブに手を伸ばす。開けるためではなく、開かないように押さえておくためだ。しかし月夜の指先がドアノブにかかった瞬間、

 「おーねーちゃーん、たーだいまー」

  子供の甘えたような声が聴こえた。ドアノブに触れた指先が異様に冷たさを伝えて、思わず飛び退くようにしてドアから離れる。

 「……っ!」

  バンッ。
  同時に、ドアが勢いよく開いた。四角に区切られた外から、雪が混じった冷風が吹き込んでくる。手にしていた提灯の明かりがかき消えて、玄関が真っ暗になった。傷んできたらしい蝶番がギィギィと鈍く軋む。頬に貼りつく雪を掌で拭いながら、月夜はぼんやりと廊下を見やった。
  ――どうやら、とんでもないものを招き入れてしまったようだ。暗闇に沈む廊下の奥――。
  コン……コン。
  リビングに続くドアが音を立てた。

  コン……コン……。
  ノックされた。少し奇妙なリズムで。あれを招き入れてしまった夜からは、玄関のドアではなく家の中のドアからノックされるようになった。リビング、書庫、バスルーム……ドアだけでなく襖や引き戸まで。決してそれに応じてドアを開けたりはしなかった。部屋の間の移動は極力避けて、一日のほとんどをどこか一室で過ごす。
  引きこもる姉貴分を心配した卿介から何度か電話があったが、適当にごまかして、しかし絶対家には呼ばなかった。風呂に入っている間にバスルームのドアをノックされた時は、熱いシャワーを浴びながら途方に暮れた。また、あの甘ったるい声がするのではと思うとぞっとしない。しかしそんな生活が二週間も続けば、ある程度は慣れてしまった。
  今日も日がな一日リビングの炬燵で仕事に没頭し、うとうとと眠くなってきたので寝室に移った。どうしても通らなければならない寝室のドアだけは、いつも開けてあった。そのおかげか何なのか。寝ている間だけは、寝室のドアをノックされるということがなかった。開けっ放しのドアをくぐり抜けて寝室に入る。
  しんと冷たい夜気に肩を震わせながらベッドに潜ると、すぐに明かりを消して目を閉じる。そのまますんなりと眠りに落ちようとした、その時。

  コン……コン。
  聞き慣れた、ノックの音がした。咄嗟にぱっと目を見開く。音が、するはずがない! だって、この部屋のドアは開いているのだから。廊下の向こうのどこかから聴こえてきたのかと思ったが、それにしてはいやにはっきりしていた。もっと近くだ。更に近い場所で。
  コン……コン。
  もう一度ノックの音がした。

 「……っ」

  ぞわぞわと、決して気温のせいだけではない寒さが肌を襲う。気づいてしまった。音源は、自分の真下。ベッドの底板だ。月夜のベッドの下はちょっとした収納スペースになっていて、アルバムを入れた背の低い引き出しや、下着を入れた編み籠などがいくつかつっこんであった。音はそこから響いていた。――底板が、叩かれているのだ。
  おそるおそる身を起こして、ぶら下がるようにしてベッドの下を覗き込む。幼い頃から人ならぬモノ相手などとっくに慣れていたはずなのに、嫌な汗が額に滲んだ。緊張で息が詰まる。そして濁った緑色の瞳がベッドの下を捉えると――引き出しと編み籠が置いてあるはずのそこにいるそれと目が合った。

 「やっとあえた、おねーちゃん」

  手の甲で底板を叩きながら、それがにたりと笑った。
しおりを挟む

処理中です...