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スピネルの本懐
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「俺、藤野さんが好きです」
そう言葉にした時、やたら腑に落ちた事を紅葉は覚えている。その言葉を聞いたヒカルと言えば、ぽかんと口を開けて、間抜けという形容しか出来ない表情でこちらを見ていた。
言ってしまった事に後悔はなかったが、それでもこの安心安全の関係がこれで終わってしまう事が恐ろしかったし、残念だった。きっと、ヒカルが自分を見る目が変わってしまうのだろう。厳つくて年上の部下にこんな事を言われるのは可哀想だなと、やけに他人事のように思った。ヒカルが何か言葉を発しようとした瞬間、彼女のスマートフォンがけたたましくアラームを鳴らした。それに我に返ったように口を閉じ、ヒカルはわたわたとスマホを操作してアラームを止めて「ごめんなさい、甥を迎えに行かなきゃ」と騒ぎながら家を出ていった。
その後に一応寝転がったものの、休めるワケがなかった。酒を抜く為にも寝なければと思うのに。マグカップとついでにシンクに溜まっていた食器類を洗い、ヒカルが使っていた毛布を綺麗に畳む。無事に間に合ったかLINEする事は出来なかったし、彼女からも宿泊のお礼のメッセージ以外、何も音沙汰はなかった。翌朝、職場に行くのが怖かった。
緊張しながら出勤して事務所に顔を出すと、ヒカルが「おはよーございます」と声をかけてきた。いつも通りの普通すぎる態度だった。紅葉の心配は杞憂だったようで、その後の彼女も全く普段通りだった。きっと、彼女の中で紅葉の告白は無かった事にされたのだと、その時に悟った。そそっかしくても大人だなと感心すると同時に、自分のこの気持ちは捨てなければいけないのだとも気付き、その事に愕然とした。すっかり育ちきって溢れた感情は、捨てたくとも簡単に無くせるモノではない。
「古木さん、お疲れ様です。今日は肌寒いですねぇ。……どうですか、この後一杯だけ」
「主任、いつもラーメン一杯じゃ終わらないでしょ」
「ふふっ、解ってるじゃないですか」
少しだけ声を潜めて笑い、少しだけ自分を特別扱いする。紅葉の話に楽しそうに笑い、くだらない話に花を咲かせ、美味しそうに食事する女に、諦めろという方が無理だとある時、紅葉は開き直った。別に良かったのだ。――報われなくても良かった。好きな仕事を真面目にこなして、ヒカルと一緒に職場環境を少しずつ改善して、同僚とマニアックな共通の話題で盛り上がって、時々ヒカルに手招きされてこっそりお菓子をもらって、帰りに時間を合わせて飲みに行って、それだけで楽しくて、満たされた。――それなのに。
「藤野さんにお願いしたんですよ、古木さんと話してみたいって」
大分酔っ払ったのか、舌足らずな甘えた声で彼女は言った。経理を担当している彼女とは、職場は同じでも接点はほとんど無かった。すれ違う時に挨拶をする程度だ。
「藤野主任に?」
「はい。あと、古木さんって何歳くらいなんだろうって聞いたら、本人に聞いてみればって。ところで、古木さん何歳なんですか~?」
けらけら笑いながら身を寄せてくる彼女に、何とか躰を逸らしてそれを阻止する。
「……あのヒト、他に何か言ってたか?」
「えー? 何だったかな。忘れちゃいました~」
「…………」
ヒカルを見ると、自分から一番遠い席で自分達より年上の男性社員と何やら話をしていた。急に沸々と怒りが湧く。紅葉の告白を無かった事にしたのは別に良かったのだ。それは理解できるから。でも、だからといってこんな風に女性を宛てがうような、仲人紛いの事をするなんて。そんなに自分の気持ちが迷惑だっただろうか。それなら、飲みに誘ったり、休日に一緒に出かけたり、そんな事をしなければ良かったんだ。気持ち悪いとサッサと離れてくれれば良かった。そうしてくれたら、ちゃんと諦めてやったのに。
残業中。実は楽しみだったこの倉庫の作業も、今は気まずい。
「あの、緑の箱取ってほしいですけど」
「これか」
立ち上がった紅葉に、ヒカルは素早く台に乗って触れるだけのキスをした。
「……っ! あ、あんた……っ」
「あの、一晩色々思い出して考えたんです。私、結構古木さんに無神経な事してたでしょ?」
「え……あ、まあ……」
突然そう言われ、この数ヶ月間の事を思い出す。
「でも、しょうがないと思います。普通、毎日顔を合わせる相手に好きだなんて言われれば、離れるか聞かなかった事にするしかない」
「言い訳させてもらうと、聞かなかった振りをしたわけじゃないんですよ。ただ、信じられなくて。私の都合のいい妄想なんじゃないかって不安で……」
ヒカルは、気まずそうに右頬にかかる髪を弄った。
「ごめんなさい。あの、こんな間抜けな女で良かったら、付き合ってくれますか?」
「……っ」
紅葉はごくりと喉を鳴らした。昨晩から、急な展開に頭がついて行かない。それでも躰は勝手に動き、ヒカルを抱きしめていた。何も置かれていない棚に背中を押し付ける。
「アンタが隣に居いてくれるなら何でもいい」
小さく呻いたヒカルの頭部が、左胸に収まる。
「心臓、ドクドクしてる。私とおんなじ」
何だか泣きそうに聞こえたのは、気の所為だろうか。
そう言葉にした時、やたら腑に落ちた事を紅葉は覚えている。その言葉を聞いたヒカルと言えば、ぽかんと口を開けて、間抜けという形容しか出来ない表情でこちらを見ていた。
言ってしまった事に後悔はなかったが、それでもこの安心安全の関係がこれで終わってしまう事が恐ろしかったし、残念だった。きっと、ヒカルが自分を見る目が変わってしまうのだろう。厳つくて年上の部下にこんな事を言われるのは可哀想だなと、やけに他人事のように思った。ヒカルが何か言葉を発しようとした瞬間、彼女のスマートフォンがけたたましくアラームを鳴らした。それに我に返ったように口を閉じ、ヒカルはわたわたとスマホを操作してアラームを止めて「ごめんなさい、甥を迎えに行かなきゃ」と騒ぎながら家を出ていった。
その後に一応寝転がったものの、休めるワケがなかった。酒を抜く為にも寝なければと思うのに。マグカップとついでにシンクに溜まっていた食器類を洗い、ヒカルが使っていた毛布を綺麗に畳む。無事に間に合ったかLINEする事は出来なかったし、彼女からも宿泊のお礼のメッセージ以外、何も音沙汰はなかった。翌朝、職場に行くのが怖かった。
緊張しながら出勤して事務所に顔を出すと、ヒカルが「おはよーございます」と声をかけてきた。いつも通りの普通すぎる態度だった。紅葉の心配は杞憂だったようで、その後の彼女も全く普段通りだった。きっと、彼女の中で紅葉の告白は無かった事にされたのだと、その時に悟った。そそっかしくても大人だなと感心すると同時に、自分のこの気持ちは捨てなければいけないのだとも気付き、その事に愕然とした。すっかり育ちきって溢れた感情は、捨てたくとも簡単に無くせるモノではない。
「古木さん、お疲れ様です。今日は肌寒いですねぇ。……どうですか、この後一杯だけ」
「主任、いつもラーメン一杯じゃ終わらないでしょ」
「ふふっ、解ってるじゃないですか」
少しだけ声を潜めて笑い、少しだけ自分を特別扱いする。紅葉の話に楽しそうに笑い、くだらない話に花を咲かせ、美味しそうに食事する女に、諦めろという方が無理だとある時、紅葉は開き直った。別に良かったのだ。――報われなくても良かった。好きな仕事を真面目にこなして、ヒカルと一緒に職場環境を少しずつ改善して、同僚とマニアックな共通の話題で盛り上がって、時々ヒカルに手招きされてこっそりお菓子をもらって、帰りに時間を合わせて飲みに行って、それだけで楽しくて、満たされた。――それなのに。
「藤野さんにお願いしたんですよ、古木さんと話してみたいって」
大分酔っ払ったのか、舌足らずな甘えた声で彼女は言った。経理を担当している彼女とは、職場は同じでも接点はほとんど無かった。すれ違う時に挨拶をする程度だ。
「藤野主任に?」
「はい。あと、古木さんって何歳くらいなんだろうって聞いたら、本人に聞いてみればって。ところで、古木さん何歳なんですか~?」
けらけら笑いながら身を寄せてくる彼女に、何とか躰を逸らしてそれを阻止する。
「……あのヒト、他に何か言ってたか?」
「えー? 何だったかな。忘れちゃいました~」
「…………」
ヒカルを見ると、自分から一番遠い席で自分達より年上の男性社員と何やら話をしていた。急に沸々と怒りが湧く。紅葉の告白を無かった事にしたのは別に良かったのだ。それは理解できるから。でも、だからといってこんな風に女性を宛てがうような、仲人紛いの事をするなんて。そんなに自分の気持ちが迷惑だっただろうか。それなら、飲みに誘ったり、休日に一緒に出かけたり、そんな事をしなければ良かったんだ。気持ち悪いとサッサと離れてくれれば良かった。そうしてくれたら、ちゃんと諦めてやったのに。
残業中。実は楽しみだったこの倉庫の作業も、今は気まずい。
「あの、緑の箱取ってほしいですけど」
「これか」
立ち上がった紅葉に、ヒカルは素早く台に乗って触れるだけのキスをした。
「……っ! あ、あんた……っ」
「あの、一晩色々思い出して考えたんです。私、結構古木さんに無神経な事してたでしょ?」
「え……あ、まあ……」
突然そう言われ、この数ヶ月間の事を思い出す。
「でも、しょうがないと思います。普通、毎日顔を合わせる相手に好きだなんて言われれば、離れるか聞かなかった事にするしかない」
「言い訳させてもらうと、聞かなかった振りをしたわけじゃないんですよ。ただ、信じられなくて。私の都合のいい妄想なんじゃないかって不安で……」
ヒカルは、気まずそうに右頬にかかる髪を弄った。
「ごめんなさい。あの、こんな間抜けな女で良かったら、付き合ってくれますか?」
「……っ」
紅葉はごくりと喉を鳴らした。昨晩から、急な展開に頭がついて行かない。それでも躰は勝手に動き、ヒカルを抱きしめていた。何も置かれていない棚に背中を押し付ける。
「アンタが隣に居いてくれるなら何でもいい」
小さく呻いたヒカルの頭部が、左胸に収まる。
「心臓、ドクドクしてる。私とおんなじ」
何だか泣きそうに聞こえたのは、気の所為だろうか。
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