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小塚原心中

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 その日二人の男が小塚原こづかはら刑場の露と消えた。
 一人は金の揉め事で父親を殺めてしまった大店おおだなの跡取り息子。最期に一首の歌を口にした。
 もう一人は吉原の女郎相手に文使ふみつかいを営んだ男。最後まで自分がやったのだという言葉を曲げなかった。
 役人の振り下ろした刀で穴の中に転がった首は二つ。その何れもが満足げに穏やかな表情を浮かべていた。

 低い木戸越しに朱い実を付けた鬼灯の鉢が見える。
「ごめんなさいよ。惣吉そうきちさん。いなさるかい」
 一声掛けて木戸を押した伊助は、小さな裏庭に面した濡れ縁に佇む老人の姿を認めた。軒先にぶら下げられた吊りしのぶをぼんやりと見上げる老人の傍らには、徳利と猪口が居並んでいた。
「暑いね。伊助いすけさん」
 鷹揚な声を発した老人の目元が赤かった。
「陽のあるうちから呑んでいなすったんですかい」
 老人は置かれていた猪口を掲げて苦笑いを浮かべた。
「暑気払いにと思ってね」
 惣吉は目を伏せてゆっくりと猪口に口を付ける。力なく目線を漂わせ時折鼻を啜る様子に察するものがある。目元が赤いのは酔っているからだけではあるまい。
 この御人は今し方まで泣いていなさったか。
 思いはしたが口には出さず、伊助は手刀を切って惣吉の横に腰を下ろし手拭いを出して汗を拭いた。
「頼まれた通り小塚原に行って参りやしたよ」
「済まないね伊助さん。手数を掛けてしまって」
 惣吉は僅かに顔を伊助の方に向け頭を下げる。
「いや何。京町の名主の頼み事とあっちゃぁ断れませんや」
「そうかい。いや。そうだったね」
 惣吉はそれだけ言って猪口を傾けるでもなくただただぼんやりと庭先を眺める。一匹の蜻蛉が迷い込んできて,鬼灯の鉢に差された竹の支柱の先に止まった。
御上おかみのお達しの通り文使いの源六げんろくさんも淡島屋の若旦那も首を切られなすった。しかと見届けて参りやした」
「どんな。様子でした」
 前を向いたまま惣吉が問う。
「笑っているように見えやしたよ。二人とも」
 惣吉は口を付けようと猪口を持ち上げた手を止めた。
「源六さんも。淡路屋の若旦那も。笑っていなさったと」
「ええ。柵越しでしたがあっしの目にはそう見えやした。これから死ぬとは思えないくらいに落ち着き払った様子でござんしたよ。淡路屋の若旦那に至っては歌を一首詠んだくらいでさ」
「ああ。そうだったかい」
 惣吉は溜息をついて漸く伊助に向き直った。
「恩に着るよ伊助さん。これ。この通りだよ」
 深々とこうべを垂れる惣吉を伊助は制する。
「止して下せぇ惣吉さん。あっしはただ言われた通り処刑の様子を見てきただけのことでござんすよ。あんなもん惣吉さんが物見遊山にに出向くようなもんじゃござんせん」
「いや。本当はあたしがこの目で見届けなければならなかったんだ……」
「名主のお務めもおありでしょう。安気あんきにそうそう外を出歩いてなんかいられませんや」
 惣吉は力の無い声を出した。
「そうじゃないよあたしは自分で見るのは恐ろしかったんだよ」
 伊助に向き合いながら惣吉の目はどこか遠くを見つめていた。
「源六さんを殺めたのはね。伊助さん。このあたしなんだよ」
「何を仰るんですかい。源六さんを斬ったのは役人でさぁ」
「あたしが殺めたのも同じことなんだよ。あたしが。あたしが源六さんの頼みを聞きさえしなければ死ぬことなんてありゃあしなかった」
 俯いた惣吉の目から一筋光るものがこぼれ落ちた。
「一体全体どういうことなんですかい」
 惣吉は涙を流れるままにしていたが、やがて息を整えて意を決したように語り始めた。
「二十日ほど前のことだよ。源六さんがあたしのところに来てね。手を突いて言ったんだよ。自分に二十両盗ませてくれ、後生だから、とね」
「そりゃぁ。無心してくれ、ってことですかい」
「そうじゃあないよ。言葉の通り盗ませてくれということさ。ただし本当に盗みを働こうってわけじゃない。二十両盗んだ罪人としてお縄に掛かるように口裏を合わせてくれと、そう言いなさったんだよ」
 伊助の腋から脇腹に汗が伝い落ちた。夏の暑さに滴り落ちるものとは違った妙に冷たいものだった。
「源六さんは。盗みのとがで首を切られたんじゃねぇと」
 言葉を失った伊助と懸命に言葉を探しているであろう惣吉の間に暫し沈黙が訪れた。
「妙だとは思ってたんだ。源六さんは生真面目な御人だ。金に困っても盗みを働くような御人じゃねぇ。けど何でまたそんなことに」
「文を届けるためだよ」
「届けるって。一体どこなんですかいそりゃぁ」
小伝馬町牢屋敷こでんまちょうろうやしきに囚われてた淡路屋の若旦那のところだよ」
 伊助は必死に頭を働かせた。文使いを営む源六は頼まれればどこへでも出向く。しかし文を届けるためだけにありもしない盗みの咎をひっ被り、あまつさえ斬首されるなどとは。
「正気の沙汰じゃねぇ」
「その通りだよ」
 思わず伊助の口を突いて出た言葉を惣吉は否定しなかった。
「淡路屋の若旦那って言やぁ、あれだ。おたなの金蔵から遊ぶために金子きんすを持ち出そうとして大旦那に見咎められ、揉み合っているうちに偶さか大旦那を突き飛ばして首の骨を折って死なせたって話だ。そんな与太郎に文を届けるために」
「そう悪し様に言うもんじゃありませんよ。若旦那には若旦那の事情がおありだったんだ」
「親殺しの事情がですかい」
「大旦那が亡くなったのは本当にただ間が悪かっただけなんだ。若旦那には急ぎ纏まった金が必要な訳があったんだよ。金四百両。どうしても急いで用立てしなければならなかった」
 額を聞いて伊助には思い当たる節があった。妓楼の女一人を吉原の外に請け出すにはその位の金が必要になる。
「伊助さん。揚羽屋あげはや豊里とよさとはご存じだね」
「ええ。知っておりやす。揚羽屋の部屋持ちで労咳ろうがいを患って臥せっておりやしたが一月前に浄閑寺じょうかんじの穴ん中に葬られた女でござんしょう」
「若旦那はその豊里を身請けして養生をさせたかった。治らないまでも自分の手元に置いてずっと一緒にいてやりたかった。そういうことだよ」
「源六さんは」
 伊助は眉根を寄せた。
「文使いの源六さんはその豊里から若旦那に文を届けるように頼まれたってことですかい」
「そうだよ。若旦那は豊里の間夫まぶだった。互いに想い想われる仲だったのさ」
「しかし合点がてんがいかねぇ」
 伊助は眉根を寄せた。
「そりゃあ文使いってのは女郎と客との間の文の遣り取りを仲立つのが商売でさ。でも牢の中にいる罪人に文を渡すんなら牢屋敷に出入りする通いの下男にでも銭を掴ませて頼めば済むことでしょうよ」
「それじゃあいけなかったんだ」
 惣吉は思い出したように猪口を持ち上げ酒で唇を湿らせた。
「袖の下を渡したからといってその下男が確かに若旦那に文を渡してくれるとは限らない。貰うものだけ貰って知らんぷりを決め込むことだってあるかもしれない。若旦那が小塚原に送られる前に間に合わせねばと、源六さんはそう思案なさったのさ」
「一体何が源六さんをそこまでさせたって言うんです。相手が誰だろうが口八丁手八丁預かったものは必ず届けるっていう文使いの矜持きょうじですかい」
 些か伊助は語気を荒げた。あまりにも愚かしいという思いが腹の中で渦巻いていた。
「……いなさった」
「何ですって」
 惣吉の言葉が聞き取れず伊助は苛立ちを募らせた。
「何をしていなさったんですかい源六さんは」
「惚れていなさった」
 伊助は更に惣吉に投げつけようと喉まで出かかっていた言葉が勢いを失った。
「惚れて……」
「源六さんはね。豊里に惚れてなさったんだ。心の底から惚れていなさったんだ」
 伊助の眉間に深い皺が刻まれ口が真一文字に引き結ばれた。伊助の鼻から深く深く長い息が吐き出された。
「源六さんもね。臥せった豊里がもう長くないことは分かっていたんだ。豊里が好いているのが若旦那だということも承知していた。豊里も伊助さんがさっき言いなすったように、源六さんなら上手く手筈を整えて文を届けてくれるだろうと思っていたろうよ」
 惣吉は一度そこで言葉を句切った。伊助は腕を組み目黙して惣吉の言葉を待った。
「たった一言、惚れた女の一途いちずな想いを伝えてやりたかったのさ。一世一代の大博打に打って出てね。人殺しなどはできないが己もそれ相当の罪を被って重罪人の牢に入れば必ず会える。会って直接文を手渡せる。源六さんはそう算段しなすった」
「けど惣吉さん。あっしも多少は臑に傷持つ者だ。だから知っている。牢に入るときには身を改められるもんだ。それをどうかいくぐって文を持ち込んだんです」
紙縒こよりに拵えてね。まげを結んだ元結もとゆいに忍ばせるんだ、とそう言っていたよ。長い言葉は書けないが一言伝えるだけならそれで間に合うと」
「それだけのことをして。何を伝えたんだ。源六さんは。一体全体……」
 伊助はぽつりと漏らした。惣吉は伊助からゆっくりと目を逸らし庭先をぼんやりと見つめた。
「伊助さんは若旦那は最期に歌を詠んだと言いなすったね。どんな歌だったね」
「確か……。確か下の句だけでござんした。われても末にあわむとぞ思ふ、と」
「では豊里の文にはこうあったのだろうね。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の。百人一首は崇徳院の歌の上の句が。これはあたしの当て推量になるんだけれども」
 急な流れの滝川が岩に当たって二つに分かれてもまた一つになるように、今は別れ別れでも愛しい人とこの先必ず相見えて結ばれると信じている。
 労咳で先のない自分を苦界から救い出そうとして誤って父親を死なせて斬首される淡路屋の若旦那。この世で添い遂げられなくても変わらず想いを寄せているのだと豊里は伝え、その気持ちを確かに受け取ったと淡路屋の若旦那は応えたのか。
 今生では決して結ばれることはなくても、浄土では、あるいは来世では必ず結ばれることになると、その想いを豊里から受け取り自分も同じ思いで黄泉路を行くのだと、若旦那は短い言葉に込めたのか。若旦那の口から死に際に下の句を聞いた源六は思ったことだろう。確かに文と共に想いを届けることが出来たのだ、と。
 伊助は静かに目を閉じた。満足げに穏やかな笑みを浮かべる淡島屋の若旦那と源六の最期の顔が浮かんでは消え消えては浮かんだ。
「伊助さん」
 思いを巡らせる伊助に惣吉は声を掛けた。
「あたしを奉行所へ突きだしておくれでないかい」
「……惣吉さん」
「例えどんな事情があろうとも、御上おかみを欺いて源六さんを無実の罪で死なせてしまったんだ。あたしも罰を受けなきゃならない。あたしはね。もう辛くて辛くて仕方ないんだよ」
 考えを重ねた挙げ句に伊助は言った。
「ならねぇよ。誰もそんなことは望んじゃいねぇ」
「けれどね、あたしは……」
「きついことを言うが惣吉さん。お前様は吉原京町の名主の御役を放り出して自分は楽になりたいんだと、そう仰るんですかい」
 惣吉は力なく項垂れた。
「腹の中にしっかり抱え込んでこのことは墓の中まで持ってお行きなせぇ。あっしもここで聞いたことはきれいさっぱり忘れまさぁ」
「それで……それでいいのかねぇ……」
「なぁに惣吉さん」
 伊助は努めて声を和らげた。
「源六さんも若旦那も豊里も逃げずに精一杯のことをした。お前様のなさったことは人の助けになったじゃありやせんか。誰一人として助からなかった。けれど誰一人として悲しんでなんかいなかった。そのことを忘れないでいてやることが一番の供養になるんじゃないんですかい」
 顔を上げた惣吉は徳利から猪口に酒を注ぎ足してついと飲み干した。
「それにしても。苦い酒だよ」
 惣吉は呟いた。
「苦い。本当に苦いねぇ。あたしも長いこと生きてるけどね。こんなに苦い酒を呑むのは初めてのことだよ」
 鬼灯の鉢で羽を休めていた蜻蛉が飛び立っていった。
 夏の西日は二人並んで濡れ縁に座る男たちをただただ照らし続けていた。
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