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side A18
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第一報は、テスト中だった。だからエンマは昼休みにスマホの電源を入れてやっと、末尾が110の着信が何度もあったことに気付いた。
何かと思ってかけ直そうとしたとき、また同じ番号からちょうど着信があって、何を考える間もなく電話に出てしまった。
相手は低い男の声で街中の警察官を名乗り、お母様と思われる女性が事故にあったので、街中の救急病院に来て欲しいと淡々と話した。
どういうことだかわからなかった。午後から試験があるんですが、と言うと、男は続けて言った。
「こちらとしては、なるべく早めに来ていただいて身元の確認をしていただきたいんです」
身元の確認?
「心肺停止で搬送となりまして、一応持ち物などから宮内みちるさんと思われるのですが、ご家族の方の確認もしていただきたいんです」
「……すぐ行きます」
向いで学食を食べていたカナエに「母親が事故ったらしい。病院に行く」とだけ言ってとにかく病院に向かった。電車とバスを乗り継いだはずだがそれすら記憶にないまま、受付で母親の名前を言うと、事務員のような女性が事務室から出てきて先導した。とても悪い予感がした。
案内されたのは地下だった。窓がない長い廊下。蛍光灯が煌々と付いている。コツンコツンと女性の靴音が響く。ある部屋の前で女性が足を止めた。ルームサインにはくっきりと「霊安室」と書いてある。女性は「こちらです」と静かに言い、一礼して去って行った。
中に入ると、警察官らしき制服の男が一人と、スーツ姿の男性が一人、そしてストレッチャーに寝かされ布団をかけられた母がいた。肌は蒼白だが、顔に目立った傷はない。
「母さん……」
近寄ると、警察官があまり触らないようにと声をかけてきた。二、三確認したいことがあります。このご遺体は宮内みちるさんで間違いありませんか。
「間違いありません」
この人は誰で何のためにこんなことを聞いてくるのか全くわからないまま、朝の母の様子や最近の体調、エンマとの関係などを聞かれるままに答えた。
「はい。それでは、今日はお引き取りいただいて構いません。明日、署の方へ来てください。調書をあらためて作成します。ご遺体のほうは司法解剖の必要がありますので、お引き渡しが可能になりましたらまたご連絡します」
「は?母は……このままなんですか?」
「このままというか、これから解剖室に移送して、司法解剖を行います。司法解剖は順番待ちになりますので、いつご遺体をお返しできるかわからないんです。ですから」
「帰れってことですか?」
「そのようには申し上げていないつもりですが、ご遺体のお引き渡しまで数日かかると思われますので、連絡をお待ちいただければ」
「……あの……」
「ご質問があればどうぞ」
「母は死んだんですか?どうして死んだんですか?」
霊安室から出て一階に上がると、まるで別天地に来たようだった。夏の午後の自然光が差し込む明るいロビーの椅子に腰掛け、くおんにメッセージを送った。
「母が死んだ。事故にあったみたい。今病院」
自分が送っているメッセージの意味がわからなかった。くおんも明日まで試験だ。こんなのを送って俺はどうして欲しいんだろう。
メッセージには受信も来ていて、見てみるとカナエだった。大丈夫か、とりあえず先生にお前が今日何かあって受けられなくなったことは言っといたから、と入っていた。試験。明日も三科目あった。
カナエにも似たようなメッセージを返した。そしてありがとう、明日も行けないみたい、と。
スマホが手の中で震えた。
「どこの病院?」
くおんだった。
「県庁の近くの」
「駅で待ってる」
駅に着くと、くおんがちゃんといた。ほっとするのと一緒に、とんでもないことが起こったという現実感が一気に覆いかぶさってきて、言葉が出なかった。
「おい。大丈夫か?」
「……」
「とりあえず家に帰んべ。俺んちでもいいし」
「家に……」
「俺も行くから」
いつも歩いている駅から家までの十分の道が、全然知らない道に見えた。足元がふわふわしていた。家の鍵穴に鍵を入れられなかったので、くおんが代わりに開けてくれた。
七月末の日は長くて、家の中にはまだ夕日の残りが差していた。朝のままのリビング。母が洗ってラックに立てかけたお皿。
「……なんか、信じられなくて」
リビングの椅子に座ってテレビをつける。明日の天気。最近のホットスポット。
「てか、くおんはいいの?明日試験でしょ」
くおんは向かいの席に座って、暗くなってきた部屋の中で黙ってテレビ画面を見ている。すごい非現実的。くおんがうちにいる。そして母はいない。
テレビ画面が切り替わる。本日のニュース……中央通り交差点近くで、今日、午前十時ごろ、四十代女性が、バイクに跳ねられ死亡しました。バイクを運転していた二十代の男性も意識不明の重体です。警察では事故の原因について調査中です。
これ?
「これかな」
他人事みたい。というか、事故のニュースなんて今までは全部他人事だったんだな……。
「おまえ、大丈夫か?」
「……ん?」
くおんがリビングの電気を付けてくれた。蛍光灯の明るさに、どんなに暗い中にいたのかやっとわかる。
「なんか食う?食った?」
「あ……昼も食ってないかも」
「なんか買ってくるか?」
「作るわ」
ご飯は炊けていた。母が朝、セットして行ったから。今日はテストだから簡単なのにしようと思って、カレーの材料を揃えてあった。普通の、シンプルなカレー。野菜と肉を軽く炒めて、二十分くらい煮て、ルーを入れるやつ。何も考えないで野菜を切り、肉と炒めて鍋に入れた。水とローリエを入れて蓋をする。あと煮るだけ。
これで明日もカレーだなと。母さんは小食だから、俺が多少多めに食べてもカレールーの箱の四人前の量で作るとぴったり二日食べられる。だから忙しい日が続く時はたいていカレー……。
悲しいとかより、心臓が急にドンと鳴った。もう夕食を作っておいても、自分しか食べる人はいないんだ。これからずっと。
「くおん、明日……試験だろ。勉強しないと……」
「あのな、それはおまえもだろ。俺は明日一個だけだからいいよ。人のこと心配してる場合じゃねーだろ」
「俺明日、大学行けないから。なんか、警察署に行かないといけないんだって。だから勉強しなくていいんだわ」
口に出すとようやく本当のことのような気がしてくる。明日警察署に?何時に?どうやって?何を話す?
「それ早く事務に言ったほうがいい。再試験にしてくれるかも」
「……」
「エンマ」
今それ考えないとダメなんかな?頭に何も入って来ない。
台所で蓋をした鍋を見ていたら、くおんが「ごめんな」と言った。何が。頭が少しも動かない。
二人でカレーを食べた。母がセットした最後のご飯だった。くおんと自分の皿を盛り付けて、テーブルにとんと置いたら、いきなり涙が出てきた。これで。これが最後。くおんはわけがわからなかったと思う。でも何も言わず、ちょいちょいと俺のほおを指で拭って、
「いただきます」
と言って食べ始めた。俺も食べることができた。一人だったら無理だったと思う。結局くおんはそのまま泊まって、朝早くに着替えに自分のアパートに戻って行った。
翌日、警察署にとりあえず行ってみると、交通課に通されて昨日聞かれたことをもう一度聞かれた。
新たに聞かれたこともあった。保険のことや家族のことだ。保険のことは加入しているものを全部調べて来るように言われた。父親のことも何度も聞かれたが、俺は何も答えようが無かった。保険のことがわからなかったので、また後日来なければならない。調書は未完。それでも半日ほどかかった。テストには間に合わない。
どんよりした曇りの日だった。メッセージが来ていたので確認した。くおんとカナエからだった。くおんは試験が二コマ目で終わったので、また家に行くか?とあった。カナエの方は、今日の試験のざっくりした感想と、何か手伝えることがあったら言ってくれということだった。彼は今日の試験の講師陣にも俺が外せない用件で受けられないということを伝えてくれたらしい。さすが中身アメリカン……ぐいぐい行くタイプ……。でもやはり、本人からの申告がないと、ということだったので、必ず先生たちにメールしろ!と結ばれていた。ほんと、お礼しかない。
くおんとカナエの忠告に引っ張られる形で、帰る前に大学の事務室に寄った。初めてだった。ガラスのはまった受付カウンターをノックした。
「あの」
三十代くらいの眼鏡の女性が顔を出して、どうしました?と言った。
「母親が、昨日、事故で死んでしまって……」
死んで、というのを、母親が死んでしまってから初めて口に出したことに気がついた。死んでしまったんだ。
ぐっとのどが詰まった。事務員さんは何かを察したのか、俺が次の言葉をなかなか出せないでいる間に、何枚かの書類を持ってきた。
「昨日の午後からのと……今日の、試験、警察とかに行ってて……受けられなかったんです。どうしたらいいですか」
「……辛い時にごめんなさいね。試験は、先生たちの判断にもよりますが、再試験願いを出すことで再試験できるかもしれません。それにはこの用紙を、試験後一週間以内に出してもらわないといけない。今書けるかな?で、事故の証拠書類は後日でいいので出して下さい。再試験の日程は先生から個別に連絡が行きます」
書類を書いて出すと、女性は「困ったことがあったら必ず相談してくださいね」と言った。
困ったこと。今は全く具体的に浮かんでこない。何もかもぼんやりしている。
家についてドアを開けた。まだ早いのに家の中は暗かった。母親が雨の日にだけ使うくつが玄関に揃えられていた。母あてのダイレクトメールが郵便受けに入っていた。胸に何かがつかえたようでずっと息が苦しい。
甘えたくなかったけど、くおんに「いてほしい」と入れると、くおんは自転車ですぐに来てくれた。しかも着替えやらなんやらまで持って。しばらくいてくれると言う。
「いいの?夏休み実家帰んねーの?」
「別に。もともとバイト入れてっし」
悪いな、と思ったけど、それ以上にほっとしてしまった。
警察署で探せと言われた保険の書類は、割とすぐ見つかった。母親の部屋にいかにも書類が入っている感じのケースがあったので見てみると、エンディングノートと保険証券と家の権利書がぎっちり入っていた。銀行の通帳などはまた別なところにまとめられていた。
エンディングノートにはすでにお葬式の互助会に加入していることと、その連絡先があった。何もかもあった。葬式のコースまで決めてあった。書いてある通りにすれば良さそうだ。まるでこんな日が来るのがわかっていたみたいだった。
「何か感じてたのかな」
「いやー、保険会社に勤めてたから……危機管理かな……」
対して、父親に関することは驚くほど出てこなかった。昔の戸籍謄本が出てきたが、エンマの父親の欄は空欄。写真もない。
ただ、思いもよらなかったものが見つかった。夢かと思っていた、アメリカ人(?)に買ってもらった映画のストラップだった。
「なんで母さんが……やっぱり、よその人に買ってもらったものなんてと思ったのかなあ」
「何かの拍子に持ってきちゃっておまえに返しそびれたのかも」
てか、あれはやっぱり本当にあったことだったんだな。母さんはあの男の人と全く話さなかったけど、知り合いだったのかもしれない。もうわからない。確かめることもできない。
何かと思ってかけ直そうとしたとき、また同じ番号からちょうど着信があって、何を考える間もなく電話に出てしまった。
相手は低い男の声で街中の警察官を名乗り、お母様と思われる女性が事故にあったので、街中の救急病院に来て欲しいと淡々と話した。
どういうことだかわからなかった。午後から試験があるんですが、と言うと、男は続けて言った。
「こちらとしては、なるべく早めに来ていただいて身元の確認をしていただきたいんです」
身元の確認?
「心肺停止で搬送となりまして、一応持ち物などから宮内みちるさんと思われるのですが、ご家族の方の確認もしていただきたいんです」
「……すぐ行きます」
向いで学食を食べていたカナエに「母親が事故ったらしい。病院に行く」とだけ言ってとにかく病院に向かった。電車とバスを乗り継いだはずだがそれすら記憶にないまま、受付で母親の名前を言うと、事務員のような女性が事務室から出てきて先導した。とても悪い予感がした。
案内されたのは地下だった。窓がない長い廊下。蛍光灯が煌々と付いている。コツンコツンと女性の靴音が響く。ある部屋の前で女性が足を止めた。ルームサインにはくっきりと「霊安室」と書いてある。女性は「こちらです」と静かに言い、一礼して去って行った。
中に入ると、警察官らしき制服の男が一人と、スーツ姿の男性が一人、そしてストレッチャーに寝かされ布団をかけられた母がいた。肌は蒼白だが、顔に目立った傷はない。
「母さん……」
近寄ると、警察官があまり触らないようにと声をかけてきた。二、三確認したいことがあります。このご遺体は宮内みちるさんで間違いありませんか。
「間違いありません」
この人は誰で何のためにこんなことを聞いてくるのか全くわからないまま、朝の母の様子や最近の体調、エンマとの関係などを聞かれるままに答えた。
「はい。それでは、今日はお引き取りいただいて構いません。明日、署の方へ来てください。調書をあらためて作成します。ご遺体のほうは司法解剖の必要がありますので、お引き渡しが可能になりましたらまたご連絡します」
「は?母は……このままなんですか?」
「このままというか、これから解剖室に移送して、司法解剖を行います。司法解剖は順番待ちになりますので、いつご遺体をお返しできるかわからないんです。ですから」
「帰れってことですか?」
「そのようには申し上げていないつもりですが、ご遺体のお引き渡しまで数日かかると思われますので、連絡をお待ちいただければ」
「……あの……」
「ご質問があればどうぞ」
「母は死んだんですか?どうして死んだんですか?」
霊安室から出て一階に上がると、まるで別天地に来たようだった。夏の午後の自然光が差し込む明るいロビーの椅子に腰掛け、くおんにメッセージを送った。
「母が死んだ。事故にあったみたい。今病院」
自分が送っているメッセージの意味がわからなかった。くおんも明日まで試験だ。こんなのを送って俺はどうして欲しいんだろう。
メッセージには受信も来ていて、見てみるとカナエだった。大丈夫か、とりあえず先生にお前が今日何かあって受けられなくなったことは言っといたから、と入っていた。試験。明日も三科目あった。
カナエにも似たようなメッセージを返した。そしてありがとう、明日も行けないみたい、と。
スマホが手の中で震えた。
「どこの病院?」
くおんだった。
「県庁の近くの」
「駅で待ってる」
駅に着くと、くおんがちゃんといた。ほっとするのと一緒に、とんでもないことが起こったという現実感が一気に覆いかぶさってきて、言葉が出なかった。
「おい。大丈夫か?」
「……」
「とりあえず家に帰んべ。俺んちでもいいし」
「家に……」
「俺も行くから」
いつも歩いている駅から家までの十分の道が、全然知らない道に見えた。足元がふわふわしていた。家の鍵穴に鍵を入れられなかったので、くおんが代わりに開けてくれた。
七月末の日は長くて、家の中にはまだ夕日の残りが差していた。朝のままのリビング。母が洗ってラックに立てかけたお皿。
「……なんか、信じられなくて」
リビングの椅子に座ってテレビをつける。明日の天気。最近のホットスポット。
「てか、くおんはいいの?明日試験でしょ」
くおんは向かいの席に座って、暗くなってきた部屋の中で黙ってテレビ画面を見ている。すごい非現実的。くおんがうちにいる。そして母はいない。
テレビ画面が切り替わる。本日のニュース……中央通り交差点近くで、今日、午前十時ごろ、四十代女性が、バイクに跳ねられ死亡しました。バイクを運転していた二十代の男性も意識不明の重体です。警察では事故の原因について調査中です。
これ?
「これかな」
他人事みたい。というか、事故のニュースなんて今までは全部他人事だったんだな……。
「おまえ、大丈夫か?」
「……ん?」
くおんがリビングの電気を付けてくれた。蛍光灯の明るさに、どんなに暗い中にいたのかやっとわかる。
「なんか食う?食った?」
「あ……昼も食ってないかも」
「なんか買ってくるか?」
「作るわ」
ご飯は炊けていた。母が朝、セットして行ったから。今日はテストだから簡単なのにしようと思って、カレーの材料を揃えてあった。普通の、シンプルなカレー。野菜と肉を軽く炒めて、二十分くらい煮て、ルーを入れるやつ。何も考えないで野菜を切り、肉と炒めて鍋に入れた。水とローリエを入れて蓋をする。あと煮るだけ。
これで明日もカレーだなと。母さんは小食だから、俺が多少多めに食べてもカレールーの箱の四人前の量で作るとぴったり二日食べられる。だから忙しい日が続く時はたいていカレー……。
悲しいとかより、心臓が急にドンと鳴った。もう夕食を作っておいても、自分しか食べる人はいないんだ。これからずっと。
「くおん、明日……試験だろ。勉強しないと……」
「あのな、それはおまえもだろ。俺は明日一個だけだからいいよ。人のこと心配してる場合じゃねーだろ」
「俺明日、大学行けないから。なんか、警察署に行かないといけないんだって。だから勉強しなくていいんだわ」
口に出すとようやく本当のことのような気がしてくる。明日警察署に?何時に?どうやって?何を話す?
「それ早く事務に言ったほうがいい。再試験にしてくれるかも」
「……」
「エンマ」
今それ考えないとダメなんかな?頭に何も入って来ない。
台所で蓋をした鍋を見ていたら、くおんが「ごめんな」と言った。何が。頭が少しも動かない。
二人でカレーを食べた。母がセットした最後のご飯だった。くおんと自分の皿を盛り付けて、テーブルにとんと置いたら、いきなり涙が出てきた。これで。これが最後。くおんはわけがわからなかったと思う。でも何も言わず、ちょいちょいと俺のほおを指で拭って、
「いただきます」
と言って食べ始めた。俺も食べることができた。一人だったら無理だったと思う。結局くおんはそのまま泊まって、朝早くに着替えに自分のアパートに戻って行った。
翌日、警察署にとりあえず行ってみると、交通課に通されて昨日聞かれたことをもう一度聞かれた。
新たに聞かれたこともあった。保険のことや家族のことだ。保険のことは加入しているものを全部調べて来るように言われた。父親のことも何度も聞かれたが、俺は何も答えようが無かった。保険のことがわからなかったので、また後日来なければならない。調書は未完。それでも半日ほどかかった。テストには間に合わない。
どんよりした曇りの日だった。メッセージが来ていたので確認した。くおんとカナエからだった。くおんは試験が二コマ目で終わったので、また家に行くか?とあった。カナエの方は、今日の試験のざっくりした感想と、何か手伝えることがあったら言ってくれということだった。彼は今日の試験の講師陣にも俺が外せない用件で受けられないということを伝えてくれたらしい。さすが中身アメリカン……ぐいぐい行くタイプ……。でもやはり、本人からの申告がないと、ということだったので、必ず先生たちにメールしろ!と結ばれていた。ほんと、お礼しかない。
くおんとカナエの忠告に引っ張られる形で、帰る前に大学の事務室に寄った。初めてだった。ガラスのはまった受付カウンターをノックした。
「あの」
三十代くらいの眼鏡の女性が顔を出して、どうしました?と言った。
「母親が、昨日、事故で死んでしまって……」
死んで、というのを、母親が死んでしまってから初めて口に出したことに気がついた。死んでしまったんだ。
ぐっとのどが詰まった。事務員さんは何かを察したのか、俺が次の言葉をなかなか出せないでいる間に、何枚かの書類を持ってきた。
「昨日の午後からのと……今日の、試験、警察とかに行ってて……受けられなかったんです。どうしたらいいですか」
「……辛い時にごめんなさいね。試験は、先生たちの判断にもよりますが、再試験願いを出すことで再試験できるかもしれません。それにはこの用紙を、試験後一週間以内に出してもらわないといけない。今書けるかな?で、事故の証拠書類は後日でいいので出して下さい。再試験の日程は先生から個別に連絡が行きます」
書類を書いて出すと、女性は「困ったことがあったら必ず相談してくださいね」と言った。
困ったこと。今は全く具体的に浮かんでこない。何もかもぼんやりしている。
家についてドアを開けた。まだ早いのに家の中は暗かった。母親が雨の日にだけ使うくつが玄関に揃えられていた。母あてのダイレクトメールが郵便受けに入っていた。胸に何かがつかえたようでずっと息が苦しい。
甘えたくなかったけど、くおんに「いてほしい」と入れると、くおんは自転車ですぐに来てくれた。しかも着替えやらなんやらまで持って。しばらくいてくれると言う。
「いいの?夏休み実家帰んねーの?」
「別に。もともとバイト入れてっし」
悪いな、と思ったけど、それ以上にほっとしてしまった。
警察署で探せと言われた保険の書類は、割とすぐ見つかった。母親の部屋にいかにも書類が入っている感じのケースがあったので見てみると、エンディングノートと保険証券と家の権利書がぎっちり入っていた。銀行の通帳などはまた別なところにまとめられていた。
エンディングノートにはすでにお葬式の互助会に加入していることと、その連絡先があった。何もかもあった。葬式のコースまで決めてあった。書いてある通りにすれば良さそうだ。まるでこんな日が来るのがわかっていたみたいだった。
「何か感じてたのかな」
「いやー、保険会社に勤めてたから……危機管理かな……」
対して、父親に関することは驚くほど出てこなかった。昔の戸籍謄本が出てきたが、エンマの父親の欄は空欄。写真もない。
ただ、思いもよらなかったものが見つかった。夢かと思っていた、アメリカ人(?)に買ってもらった映画のストラップだった。
「なんで母さんが……やっぱり、よその人に買ってもらったものなんてと思ったのかなあ」
「何かの拍子に持ってきちゃっておまえに返しそびれたのかも」
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