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第一部 復讐編
#01-02.決意
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気づいていないといえば、嘘になる。
けれど。この豊かな生活を壊すのが怖い、という本音が、井口虹子にとっての真実だった。
なんでこんなひとを選んだのだろう。と自分の選択が呪わしく思われることがある。
独身の虹子に熱心にアプローチをかけ続けた勝彦は、いざ結婚という目的が果たされると、虹子を家庭という牢獄に押し込める、暴君と化した。
――よく、なんでそんな男と結婚したの? と疑問を持つ独身者がいるようだが、彼らは、男のからくりを知らない。男は、釣る前の魚に散々餌をやる動物だけれど、いざ手に入れたらあとは知らんぷりを貫く。それどころか、妻に、夫の養育者、家政婦、かつ性的な妖婦と化すことを要求する。
新婚時代が幸せだなんて嘘っぱちだと虹子は思う。あれもこれも違う。洗濯物を毎日干せ。弁当を作れ。ワイシャツにアイロンがかかっていない。替えの下着がない――思い通りに行かないと、夫の勝彦は、激高する。その姿はもう、虹子の目には、暴君に等しかった。
毎日、泣きはらした顔で、会社に行った。会社でも、急に、じわりと涙が浮かび、困ることもあった。
虹子は、テレフォンアポインターを引き受けるアウトソーシング事業を行う会社で働いている。テレフォンアポインターはクレーム対応も行うので過大なストレスがかかる。若いアポインターの子たちの精神的なケアもしながら、虹子はトイレでこっそり泣いてから仕事に従事する――日々が続いた。
勝彦は、毎日、虹子のからだを求めた。まだ二十代なのだから、性欲はあって然るべき――とは思いつつも、こうも、毎日続くと嫌気が差す。
やがて、虹子は演じるようになった。ベッドのうえでも、台所でも。
勝彦の求める姿を演じ切れば、平穏無事に日々を過ごせる。これは、虹子が苦渋の末に、編み出した、家庭という荒波を泳ぎ切るための処世術だった。
結婚して間もなく、虹子は妊娠した。
親元は遠方であり、初めての妊娠を経験する虹子に、勝彦はやさしかった。
夫の両親は近距離である千葉に住んでいるものの、同居する長男夫婦のことにかかりきりで、次男である勝彦の家庭にまで干渉する余裕がないようだった。
そのやさしさは、かつて、恋人時代に感じた勝彦への恋心を虹子に想起させた。
――階段、大丈夫か? 無理すんなよ。
――ご飯なんか弁当でいいんだ。買っておけよ。
それでも、勝彦は仕事で忙しく、平常通りの家事を要求されるのは相変わらずだったが――勝彦は料理のひとつすら作れない――とはいえ、やさしく接する姿に、虹子はありがたみを感じたのだったが。
されど、そのやさしさは、一時的なものであった。
仕事の関係で立ち合い出産を行えぬ勝彦が、虹子の出産を知ったのは職場でだったと思う。後陣痛と赤子の世話に苦しむさなかを、あのひとは、呑気に居酒屋で酒なんか飲んで過ごした。虹子も仕事をしているから、仕事の重要性は認識しているつもりだが、それでも、産後の妻を労わり、最愛の我が子との対面を果たすことよりも、飲み会を選んだ勝彦に対する恨みつらみは、いまだに、虹子のなかに、寄生虫のように宿っている。
赤子は、可愛かった。
でもお世話は、大変だった。
赤ちゃんというものは二十四時間いつでも泣く。ゲームのコントローラーを握る勝彦に、「黙らせろ!」と絶叫され、「あなたが黙りなさいよ!」と言い返したところ、なんと、コントローラーを投げつけられた。幸いにして赤ちゃんには当たらなかったものの、それは、虹子の左肩をかすめた。
憎悪が沸いた。――こんな男、死んでしまえばいいのに……。
以来、大切な赤ちゃんの身を守るため、虹子は、夫に言い返すのを止めた。赤ちゃんの安全第一で行動した。家にいるあいだじゅうはずっと好きなゲームをし、好きなサッカーを見る夫に文句も言わず、赤ちゃんに授乳し、おむつを替え、沐浴をし、ご飯も作り、洗濯物や掃除の処理をこなす――淡々と、義務的に行った。
気晴らしになるものがあってかえってよかったとすら思う。
屈辱的だったのが、産後、すぐに勝彦は虹子を求めた。産後三ヶ月は待って、と伝えたところ、夫は空き部屋にパソコンを持ち込み、引きこもるようになった。ブルーレイまで持ち込んで、いったいなにをしているのか。考えるだけで吐き気をもよおす。
では何故、そんな虹子が、第二子を望んだのか。きょうだいを作ってやりたかったからである。虹子には兄がひとりいるが、その兄は中学から高校にかけて部屋に引きこもっており、兄のせいで一家はばらばらになりかけた。ひきこもりの兄の味方になるどころか、虹子のなかには、兄が、家庭をめちゃめちゃにした加害者――という憎しみが残っている。
虹子の兄は、通信制の学校を卒業し、その後、地元で仕事をしたのちに、家業を継いでいる。当時は村八分にされ、散々な偏見に晒された兄たちであるが、いまは妻子を持ち、平穏無事に暮らしている。そのことを思うと、きょうだいはいたほうがいい、というのが虹子の考えであった。
正直、浮気をしたい、と思ったことはある。
誰のでもいい、子どもが欲しいと。あんな自己中で家庭を顧みない――外での仕事をしていることは評価に値はすれど、さりとて、妻になんの協力もしない理由にはならないはず。断じて。
あんな夫の子どもを妊娠するくらいなら、他の男の子どもが欲しい。
というのが本心ではあれど。どうやら虹子は妊娠しやすいからだのようで、職場復帰一年を経て、タイミング法で無事、第二子を妊娠した。
子どもがひとりいても大変なのに今度はふたりである。思い返すと、虹子は、自分の時間がないに等しかった。忙しすぎて当時のことがよく思いだせない。
常に髪を振り乱し、子どもの世話をし、食材を刻み、料理をし、洗濯をする。掃除をする――。
虹子が家庭という戦場のなかで戦い続ける兵士であり続ける一方、勝彦にとって家庭は安穏の場であったらしい。テレビ画面を見ながら聞こえよがしに大きな独り言をいい、虹子は無視し続けた。
子どもたちは、想像以上に、賢かった。
長女の晴子には、四歳の頃から、自分の分の洗濯物の処理を任せた。
忙しいママのことをよく知る晴子は、文句も言わず、し続けた――のだが。
六歳になったある頃、晴子がふっくらとした頬を膨らませ、ふと呟いた。
「はるちゃんも、ともちゃんも、おせんたくものするのに、どうしてパパはやらないの」
幼子の、ストレートすぎる疑問に、虹子はすぐには答えられなかった。ただ、
「パパは、外でお仕事頑張っているから……」
「でも、ママも、まいにちおしごとしているよ? ママばっかり、たいへん……」
「晴(はる)ちゃん……ありがとう」
子どもたちは、虹子の味方をしてくれた。金銭感覚の麻痺した、高給取りの勝彦に、時々、買収されることはあれど――『パパ、口先だけばっかだね』『お金だけ出して終わりなんだね』と呆れ口調だった。それでも、ちゃっかり好きなものを買って貰う辺りは流石だとは思うが。
念のためにと。周囲から勧められ、虹子は毎日日記をつけた。夫の暴言を事細かに記録した。読み返すと『ああわたしこんなひどいことされたんだ』と驚くことばかりで――。
最近気になっているのは、勝彦がラノベやサッカーグッズを相変わらず買い漁る一方で、遅くなる日が更に増えたということだ。夕食はしっかり家で食べる。そのことが憎らしい。
あるとき、なにげなく虹子は、銀行で夫の口座の通帳を記帳し、その額に腰を抜かすかと思った。――こんな額が、毎月、なにに消えているのか。
郵便物にも無頓着な夫は、自分のぶんの郵便物さえ開封しない。
クレジットカードの明細を見てみた。
カタカナの明細に疑いを感じ、スマホで調べたところ、それが宿泊も出来る休憩施設なのだとあっさり判明し――夫の浮気が露見した。
いまどきLINEもやらない夫。虹子との連絡手段は電話、もしくはショートメールのみである。――なら。
通話履歴が残っているはず。夫のパスワードは誕生日の四桁。
定期的に通話履歴が残る、『なおちん』。痕跡すら消そうとしない夫に、虹子は、呆れた。
メールでのやり取りも残っている。
迷わず、虹子は、スマホのカメラで撮った。これでいつ消されても構わない。
アプリゲームが大好きな夫は、起きている間中、スマホを手放さない。けれど、勝彦は寝起きが悪いので、虹子は、朝は勝彦が起きるより先に置き、証拠を残し続けた。あとは日記。
ちゃくちゃくと決行のタイミングが迫っていた。義理両親宅には、変に愛着が湧いても困るので、極力、子どもたちの習い事や部活を理由に、行かないことにした。
実家の母には相談した。結婚当初から娘の愚痴を聞かされ続けた母には、『にじちゃんのしたいようにしていいんよ』と諭された。
夫が上着のポケットに入れたままのレシートも、財布に入れたポイントカードも、証拠として写真に撮り続けている。もはや、執念だった。自分をこんなにも追い込んだ、井口勝彦という男を絶対に許してはならない――虹子にとって、これは、絶対に負けられない戦いだった。
そうこうしているうちに、下の子の智樹も中学生になった。学校を変わることは避けたい。と思っていたら、外国に駐在中の友人から連絡があった。――いつまで経っても借りたいひとが現れないんだけど、にじちゃん、知り合いに4LDK住みたいひといない?
友人がローンを組んで返済中のそのマンションは、現在虹子が住んでいるマンションから一駅離れた場所にある。分譲マンションだと4LDKは人気だが、いざ貸しに出すとなかなか借り手がつかない。三人家族や四人家族が住むにはふさわしいだろうが、いずれ借主が帰国するまでの期間限定、となると圧倒的に躊躇する人間のほうが多いのである。だったらリスキーな分譲マンションを借りるよりも、最初から賃貸マンションのほうがよい、と考える人間のほうが大多数なのだそうだ。友人の話によると。
思い切ってスカイプで友人と会話をした。家族が寝静まってからの時間である。友人は虹子に同情し、それから、いろいろ頼りになる人間を紹介する、と約束し、事実そうしてくれた。弁護士。引っ越し先。証拠の残し方……離婚歴のある友人は虹子の役に立つであろう、あらゆる情報を提供してくれた。
外堀は埋まった。あとは――。
子どもたちの、気持ち次第。もし、子どもたちが、パパと離れたくない気持ちのほうが強いのであれば、虹子は堪えようと思った。子どもたちはいずれ巣立つ。それまでのあいだ、果たしてあんなパパでもいたほうがいいのか? それともママさえ我慢していまの穏便な生活を継続するほうが子どもたちにとってよいのではないか? 虹子は煩悶した。煩悶し続けた。そして――
ある夜、決断を下す。
*
けれど。この豊かな生活を壊すのが怖い、という本音が、井口虹子にとっての真実だった。
なんでこんなひとを選んだのだろう。と自分の選択が呪わしく思われることがある。
独身の虹子に熱心にアプローチをかけ続けた勝彦は、いざ結婚という目的が果たされると、虹子を家庭という牢獄に押し込める、暴君と化した。
――よく、なんでそんな男と結婚したの? と疑問を持つ独身者がいるようだが、彼らは、男のからくりを知らない。男は、釣る前の魚に散々餌をやる動物だけれど、いざ手に入れたらあとは知らんぷりを貫く。それどころか、妻に、夫の養育者、家政婦、かつ性的な妖婦と化すことを要求する。
新婚時代が幸せだなんて嘘っぱちだと虹子は思う。あれもこれも違う。洗濯物を毎日干せ。弁当を作れ。ワイシャツにアイロンがかかっていない。替えの下着がない――思い通りに行かないと、夫の勝彦は、激高する。その姿はもう、虹子の目には、暴君に等しかった。
毎日、泣きはらした顔で、会社に行った。会社でも、急に、じわりと涙が浮かび、困ることもあった。
虹子は、テレフォンアポインターを引き受けるアウトソーシング事業を行う会社で働いている。テレフォンアポインターはクレーム対応も行うので過大なストレスがかかる。若いアポインターの子たちの精神的なケアもしながら、虹子はトイレでこっそり泣いてから仕事に従事する――日々が続いた。
勝彦は、毎日、虹子のからだを求めた。まだ二十代なのだから、性欲はあって然るべき――とは思いつつも、こうも、毎日続くと嫌気が差す。
やがて、虹子は演じるようになった。ベッドのうえでも、台所でも。
勝彦の求める姿を演じ切れば、平穏無事に日々を過ごせる。これは、虹子が苦渋の末に、編み出した、家庭という荒波を泳ぎ切るための処世術だった。
結婚して間もなく、虹子は妊娠した。
親元は遠方であり、初めての妊娠を経験する虹子に、勝彦はやさしかった。
夫の両親は近距離である千葉に住んでいるものの、同居する長男夫婦のことにかかりきりで、次男である勝彦の家庭にまで干渉する余裕がないようだった。
そのやさしさは、かつて、恋人時代に感じた勝彦への恋心を虹子に想起させた。
――階段、大丈夫か? 無理すんなよ。
――ご飯なんか弁当でいいんだ。買っておけよ。
それでも、勝彦は仕事で忙しく、平常通りの家事を要求されるのは相変わらずだったが――勝彦は料理のひとつすら作れない――とはいえ、やさしく接する姿に、虹子はありがたみを感じたのだったが。
されど、そのやさしさは、一時的なものであった。
仕事の関係で立ち合い出産を行えぬ勝彦が、虹子の出産を知ったのは職場でだったと思う。後陣痛と赤子の世話に苦しむさなかを、あのひとは、呑気に居酒屋で酒なんか飲んで過ごした。虹子も仕事をしているから、仕事の重要性は認識しているつもりだが、それでも、産後の妻を労わり、最愛の我が子との対面を果たすことよりも、飲み会を選んだ勝彦に対する恨みつらみは、いまだに、虹子のなかに、寄生虫のように宿っている。
赤子は、可愛かった。
でもお世話は、大変だった。
赤ちゃんというものは二十四時間いつでも泣く。ゲームのコントローラーを握る勝彦に、「黙らせろ!」と絶叫され、「あなたが黙りなさいよ!」と言い返したところ、なんと、コントローラーを投げつけられた。幸いにして赤ちゃんには当たらなかったものの、それは、虹子の左肩をかすめた。
憎悪が沸いた。――こんな男、死んでしまえばいいのに……。
以来、大切な赤ちゃんの身を守るため、虹子は、夫に言い返すのを止めた。赤ちゃんの安全第一で行動した。家にいるあいだじゅうはずっと好きなゲームをし、好きなサッカーを見る夫に文句も言わず、赤ちゃんに授乳し、おむつを替え、沐浴をし、ご飯も作り、洗濯物や掃除の処理をこなす――淡々と、義務的に行った。
気晴らしになるものがあってかえってよかったとすら思う。
屈辱的だったのが、産後、すぐに勝彦は虹子を求めた。産後三ヶ月は待って、と伝えたところ、夫は空き部屋にパソコンを持ち込み、引きこもるようになった。ブルーレイまで持ち込んで、いったいなにをしているのか。考えるだけで吐き気をもよおす。
では何故、そんな虹子が、第二子を望んだのか。きょうだいを作ってやりたかったからである。虹子には兄がひとりいるが、その兄は中学から高校にかけて部屋に引きこもっており、兄のせいで一家はばらばらになりかけた。ひきこもりの兄の味方になるどころか、虹子のなかには、兄が、家庭をめちゃめちゃにした加害者――という憎しみが残っている。
虹子の兄は、通信制の学校を卒業し、その後、地元で仕事をしたのちに、家業を継いでいる。当時は村八分にされ、散々な偏見に晒された兄たちであるが、いまは妻子を持ち、平穏無事に暮らしている。そのことを思うと、きょうだいはいたほうがいい、というのが虹子の考えであった。
正直、浮気をしたい、と思ったことはある。
誰のでもいい、子どもが欲しいと。あんな自己中で家庭を顧みない――外での仕事をしていることは評価に値はすれど、さりとて、妻になんの協力もしない理由にはならないはず。断じて。
あんな夫の子どもを妊娠するくらいなら、他の男の子どもが欲しい。
というのが本心ではあれど。どうやら虹子は妊娠しやすいからだのようで、職場復帰一年を経て、タイミング法で無事、第二子を妊娠した。
子どもがひとりいても大変なのに今度はふたりである。思い返すと、虹子は、自分の時間がないに等しかった。忙しすぎて当時のことがよく思いだせない。
常に髪を振り乱し、子どもの世話をし、食材を刻み、料理をし、洗濯をする。掃除をする――。
虹子が家庭という戦場のなかで戦い続ける兵士であり続ける一方、勝彦にとって家庭は安穏の場であったらしい。テレビ画面を見ながら聞こえよがしに大きな独り言をいい、虹子は無視し続けた。
子どもたちは、想像以上に、賢かった。
長女の晴子には、四歳の頃から、自分の分の洗濯物の処理を任せた。
忙しいママのことをよく知る晴子は、文句も言わず、し続けた――のだが。
六歳になったある頃、晴子がふっくらとした頬を膨らませ、ふと呟いた。
「はるちゃんも、ともちゃんも、おせんたくものするのに、どうしてパパはやらないの」
幼子の、ストレートすぎる疑問に、虹子はすぐには答えられなかった。ただ、
「パパは、外でお仕事頑張っているから……」
「でも、ママも、まいにちおしごとしているよ? ママばっかり、たいへん……」
「晴(はる)ちゃん……ありがとう」
子どもたちは、虹子の味方をしてくれた。金銭感覚の麻痺した、高給取りの勝彦に、時々、買収されることはあれど――『パパ、口先だけばっかだね』『お金だけ出して終わりなんだね』と呆れ口調だった。それでも、ちゃっかり好きなものを買って貰う辺りは流石だとは思うが。
念のためにと。周囲から勧められ、虹子は毎日日記をつけた。夫の暴言を事細かに記録した。読み返すと『ああわたしこんなひどいことされたんだ』と驚くことばかりで――。
最近気になっているのは、勝彦がラノベやサッカーグッズを相変わらず買い漁る一方で、遅くなる日が更に増えたということだ。夕食はしっかり家で食べる。そのことが憎らしい。
あるとき、なにげなく虹子は、銀行で夫の口座の通帳を記帳し、その額に腰を抜かすかと思った。――こんな額が、毎月、なにに消えているのか。
郵便物にも無頓着な夫は、自分のぶんの郵便物さえ開封しない。
クレジットカードの明細を見てみた。
カタカナの明細に疑いを感じ、スマホで調べたところ、それが宿泊も出来る休憩施設なのだとあっさり判明し――夫の浮気が露見した。
いまどきLINEもやらない夫。虹子との連絡手段は電話、もしくはショートメールのみである。――なら。
通話履歴が残っているはず。夫のパスワードは誕生日の四桁。
定期的に通話履歴が残る、『なおちん』。痕跡すら消そうとしない夫に、虹子は、呆れた。
メールでのやり取りも残っている。
迷わず、虹子は、スマホのカメラで撮った。これでいつ消されても構わない。
アプリゲームが大好きな夫は、起きている間中、スマホを手放さない。けれど、勝彦は寝起きが悪いので、虹子は、朝は勝彦が起きるより先に置き、証拠を残し続けた。あとは日記。
ちゃくちゃくと決行のタイミングが迫っていた。義理両親宅には、変に愛着が湧いても困るので、極力、子どもたちの習い事や部活を理由に、行かないことにした。
実家の母には相談した。結婚当初から娘の愚痴を聞かされ続けた母には、『にじちゃんのしたいようにしていいんよ』と諭された。
夫が上着のポケットに入れたままのレシートも、財布に入れたポイントカードも、証拠として写真に撮り続けている。もはや、執念だった。自分をこんなにも追い込んだ、井口勝彦という男を絶対に許してはならない――虹子にとって、これは、絶対に負けられない戦いだった。
そうこうしているうちに、下の子の智樹も中学生になった。学校を変わることは避けたい。と思っていたら、外国に駐在中の友人から連絡があった。――いつまで経っても借りたいひとが現れないんだけど、にじちゃん、知り合いに4LDK住みたいひといない?
友人がローンを組んで返済中のそのマンションは、現在虹子が住んでいるマンションから一駅離れた場所にある。分譲マンションだと4LDKは人気だが、いざ貸しに出すとなかなか借り手がつかない。三人家族や四人家族が住むにはふさわしいだろうが、いずれ借主が帰国するまでの期間限定、となると圧倒的に躊躇する人間のほうが多いのである。だったらリスキーな分譲マンションを借りるよりも、最初から賃貸マンションのほうがよい、と考える人間のほうが大多数なのだそうだ。友人の話によると。
思い切ってスカイプで友人と会話をした。家族が寝静まってからの時間である。友人は虹子に同情し、それから、いろいろ頼りになる人間を紹介する、と約束し、事実そうしてくれた。弁護士。引っ越し先。証拠の残し方……離婚歴のある友人は虹子の役に立つであろう、あらゆる情報を提供してくれた。
外堀は埋まった。あとは――。
子どもたちの、気持ち次第。もし、子どもたちが、パパと離れたくない気持ちのほうが強いのであれば、虹子は堪えようと思った。子どもたちはいずれ巣立つ。それまでのあいだ、果たしてあんなパパでもいたほうがいいのか? それともママさえ我慢していまの穏便な生活を継続するほうが子どもたちにとってよいのではないか? 虹子は煩悶した。煩悶し続けた。そして――
ある夜、決断を下す。
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