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第二部 恋愛編
#02-07.恍惚
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世界がひっくり返るほどの衝撃を食らってから、丸一日が経過している。
にも関わらず、自分の内面は、混沌としている。
意識したことがないといえば、それは嘘になる。――周囲の彼への評価が如実に変わるほどに、彼女自身の内部での彼の評価が変わるといえば――毎日目にして当たり前だった弟は、実は素晴らしい男で、女性人気も高い――その程度の認識だった。
長年一緒に暮らしているので、彼の悪い部分もいい部分も熟知しているつもりだった。
あのときまでは。
突然キスされるなんてのは、少女漫画ではお約束の展開だ。憧れも抱いていた。けれど、それを、まさか実の弟にされるなんて思いもしなかったのだ。
驚いたことに、あの体験を思い返すと、胸が――高鳴ってしまう。
嘘でしょ相手はあの弟だよ。智ちゃんだよ。と、本能に抗おうとするのに。すればするほど、あの強烈な体験を思い返し、子宮のあたりがぎゅっと熱くなる。
晴子は、オナニーをしたことがない。するという女子の話を聞いたことはあれど、晴子の認識では、あれをするのはごく少数派だ。尤も、女の子は、秘密が大好きだ。友達にも言わず隠れて自分のことを慰めているという可能性は、否定出来ない。例えば、親友の香帆など。――大人びたところのある女の子で、ああいう女の子こそ弟にふさわしいのだと思う。
正直、お腹が空いた。でも、この部屋から出たくない。トイレに行くのは、誰もいないだろうタイミングを見計らってのことだ。
ドアの外から、母が声をかけ、心配しているのは分かる。きっとあの弟も。でも、彼女は、部屋の外に一歩を踏み出す勇気が持てない。自分が、汚い人間だと自覚した以上は。
きっと、弟でなければ、自分は、恋に、落ちていた。そんな自分自身を知ってしまった以上は。いったいどんな顔をして家族の前で振る舞えばいい? 智ちゃんに、キスされた。で、それが気持ちよかった。智ちゃんもわたしのこと好きみたいだから、わたしたち交際を――。
馬鹿な、と常識的なほうの彼女がそれを笑い飛ばす。そんな、馬鹿げたことが。弟とは血が繋がっている。それは、互いの顔を見れば瞭然だ。この手の恋愛ものにお約束の、弟とは父親が違いました、母親が違いました――あの手の展開は、自分たちとは、無縁なのだ。
ならばこの――感情を、いったいどう、説明したらいい?
「晴ちゃん」ドアがノックされる。ベッドに寝そべっていた晴子は、反射的に、からだを起こす。
「……なに」
「食べよう。それから、……話そう」
「分かった。入って」
そういえば、自分は顔も洗っていないし歯も磨いていない。あの魅惑的な弟に相対するには、ふさわしくないコンディションなのだと悟った。
食事の乗ったトレイを手に、弟が部屋に入ってくる。――相変わらず、腹が立つほどに、整った顔立ちをしている。挙句、無表情だというのが。
弟は室内を進み、勉強机のうえに、食事を置いた。
「食べな。晴ちゃん。今夜は、晴ちゃんの大好きな、人参の肉巻きだよ」
その弟の言葉を受けて、晴子の腹が、盛大に鳴った。弟が笑い、晴子も笑った。「……ありがとう」
人参の肉巻きは、物心ついたときから、晴子のお気に入りのメニューだ。
晴子は比較的好き嫌いがないほうで、昔からよく食べたが、弟のほうは、偏食がひどかったらしい。味噌汁とご飯しか食べない時期もあったという。晴子のほうは、自分のことで精いっぱいで、母がそこまで悩んでいたことを記憶していないが。保育園で給食は食べるが、食事が配られると食事を減らしに、毎回席を立つのだという。保育参観に参加した母が、げんなりした顔をして語っていたのを、晴子は記憶している。
「……座るね」
勉強机に食事を置いた弟が、姉に席を譲り、自分はベッドに座る。
椅子を引き、座り、改めて丸一日ぶりの食事に向き合う。久々に見る食事は、きらきらと輝いて見えた。ほうれん草のおひたし。キャベツとお揚げ入りのお味噌汁。つやつやとした白いご飯。それから、人参の肉巻き。
人参の肉巻きを作るには、いろいろとコツがあり、肉を巻く前の人参を三分程度チンすること。人参の固い触感を好まぬ智樹のために、母がアレンジを加えた。それから、醤油は濃口しょうゆを使うこと。でないと味が締まらない。だらしのないことになってしまう。
「……いただきます」
手を合わせ、食事に、ありつく。
知らず、晴子の目からは、涙が流れていた。
「美味しい……うん。美味しい……」
母の手料理の味が晴子の胸に染みた。食べるだけで、いったい、どれだけ、母が、晴子のことを愛しているのか……それが、伝わったからだ。
泣きながら食事をするのは、いったいいつが最後だったろうと思う。思いだせないくらいに、昔だ。――そう、食事の時間は、常に、晴子にとってあたたかかった。あの母の手料理を拒絶すると言うことは、つまり、母の愛を拒絶することに等しいのだと、晴子は、実感した。
自分がどれほど愚かしいことをしているのか、晴子は悟った。
食べながらに、晴子は結論した。自分は――
「食器、下げてくるね」
晴子が食事を終えると、黙ってベッドに座って見守っていたはずの弟が声をかける。
来たときと同じように、トレイに手をかける弟に、晴子は質問する。「……お母さんは、どうしてるの?」
「銭湯で長風呂して、そっから本屋とドラストも寄ってくるって。おれたちが二人きりで気兼ねなく話せるように、母さんなりに気を遣っているんだろうね……」
時間は限られている。
「智ちゃん……わたし」
――それは、抑えきれない衝動だった。
すぐ傍で、トレイに手をかけたままの弟の腕に手をかけ、引き留め、自分は立ち上がると、中腰姿勢をキープしていた彼の頭に手を添え、思い切り――塞ぐ。
それだけでは足らず、塞ぎながら彼の頭を包み、やがて押し倒し、伸し掛かる。
「ちょっと――はるちゃ」
最後まで言わせなかった。
初めて触れる弟のからだは、華奢なのにたくましかった。
自分とはまるで違う質感、シルエットを生成するこのからだと合わさり、ひとつになると、いままでに味わったことのない情愛に満たされる。
智樹に組み敷かれ、晴子は涙した。
「気持ちいい、よう……智ちゃん」
「おれも。晴ちゃん……」
同じ恍惚を共有する共犯者なのだと、晴子は思う。
一度きり、だから。
一度だけ犯す過ちを、果たしてあの温厚な母は、許してくれるだろうか。
静かに泣く晴子の涙を智樹が吸い上げる。
「ねえ晴ちゃん。おれは、晴ちゃんとのことを、悲しい思い出なんかにしたくない。最後なんだから、思い切り、楽しくしようよ……」
「……うん」
「おれが、これから、晴ちゃんのこと――他のなんも考えらんなくなるくらい、気持ちよくしたげるから……」
薄闇のなかでひかる静謐な弟の瞳。
自分の行為が、いままで自分たちを支えてきてくれたあらゆるひとたちの信頼を裏切る行為なのだと知ってはいても、晴子は、引き返すつもりはなかった。
流れる星を見た。きらめく星の世界のなかで、弟は、見たことのない顔をして笑っていた。――ああこの顔が見られただけで充分。思い残すことは、もう、なにもない。
弟の繰り出す官能の海に溺れ、しっかりと弟と指を絡ませながら、一度きりの、――人生一度きりの、最愛のひととひとつになる悦びに、晴子は、身を任せた。
*
にも関わらず、自分の内面は、混沌としている。
意識したことがないといえば、それは嘘になる。――周囲の彼への評価が如実に変わるほどに、彼女自身の内部での彼の評価が変わるといえば――毎日目にして当たり前だった弟は、実は素晴らしい男で、女性人気も高い――その程度の認識だった。
長年一緒に暮らしているので、彼の悪い部分もいい部分も熟知しているつもりだった。
あのときまでは。
突然キスされるなんてのは、少女漫画ではお約束の展開だ。憧れも抱いていた。けれど、それを、まさか実の弟にされるなんて思いもしなかったのだ。
驚いたことに、あの体験を思い返すと、胸が――高鳴ってしまう。
嘘でしょ相手はあの弟だよ。智ちゃんだよ。と、本能に抗おうとするのに。すればするほど、あの強烈な体験を思い返し、子宮のあたりがぎゅっと熱くなる。
晴子は、オナニーをしたことがない。するという女子の話を聞いたことはあれど、晴子の認識では、あれをするのはごく少数派だ。尤も、女の子は、秘密が大好きだ。友達にも言わず隠れて自分のことを慰めているという可能性は、否定出来ない。例えば、親友の香帆など。――大人びたところのある女の子で、ああいう女の子こそ弟にふさわしいのだと思う。
正直、お腹が空いた。でも、この部屋から出たくない。トイレに行くのは、誰もいないだろうタイミングを見計らってのことだ。
ドアの外から、母が声をかけ、心配しているのは分かる。きっとあの弟も。でも、彼女は、部屋の外に一歩を踏み出す勇気が持てない。自分が、汚い人間だと自覚した以上は。
きっと、弟でなければ、自分は、恋に、落ちていた。そんな自分自身を知ってしまった以上は。いったいどんな顔をして家族の前で振る舞えばいい? 智ちゃんに、キスされた。で、それが気持ちよかった。智ちゃんもわたしのこと好きみたいだから、わたしたち交際を――。
馬鹿な、と常識的なほうの彼女がそれを笑い飛ばす。そんな、馬鹿げたことが。弟とは血が繋がっている。それは、互いの顔を見れば瞭然だ。この手の恋愛ものにお約束の、弟とは父親が違いました、母親が違いました――あの手の展開は、自分たちとは、無縁なのだ。
ならばこの――感情を、いったいどう、説明したらいい?
「晴ちゃん」ドアがノックされる。ベッドに寝そべっていた晴子は、反射的に、からだを起こす。
「……なに」
「食べよう。それから、……話そう」
「分かった。入って」
そういえば、自分は顔も洗っていないし歯も磨いていない。あの魅惑的な弟に相対するには、ふさわしくないコンディションなのだと悟った。
食事の乗ったトレイを手に、弟が部屋に入ってくる。――相変わらず、腹が立つほどに、整った顔立ちをしている。挙句、無表情だというのが。
弟は室内を進み、勉強机のうえに、食事を置いた。
「食べな。晴ちゃん。今夜は、晴ちゃんの大好きな、人参の肉巻きだよ」
その弟の言葉を受けて、晴子の腹が、盛大に鳴った。弟が笑い、晴子も笑った。「……ありがとう」
人参の肉巻きは、物心ついたときから、晴子のお気に入りのメニューだ。
晴子は比較的好き嫌いがないほうで、昔からよく食べたが、弟のほうは、偏食がひどかったらしい。味噌汁とご飯しか食べない時期もあったという。晴子のほうは、自分のことで精いっぱいで、母がそこまで悩んでいたことを記憶していないが。保育園で給食は食べるが、食事が配られると食事を減らしに、毎回席を立つのだという。保育参観に参加した母が、げんなりした顔をして語っていたのを、晴子は記憶している。
「……座るね」
勉強机に食事を置いた弟が、姉に席を譲り、自分はベッドに座る。
椅子を引き、座り、改めて丸一日ぶりの食事に向き合う。久々に見る食事は、きらきらと輝いて見えた。ほうれん草のおひたし。キャベツとお揚げ入りのお味噌汁。つやつやとした白いご飯。それから、人参の肉巻き。
人参の肉巻きを作るには、いろいろとコツがあり、肉を巻く前の人参を三分程度チンすること。人参の固い触感を好まぬ智樹のために、母がアレンジを加えた。それから、醤油は濃口しょうゆを使うこと。でないと味が締まらない。だらしのないことになってしまう。
「……いただきます」
手を合わせ、食事に、ありつく。
知らず、晴子の目からは、涙が流れていた。
「美味しい……うん。美味しい……」
母の手料理の味が晴子の胸に染みた。食べるだけで、いったい、どれだけ、母が、晴子のことを愛しているのか……それが、伝わったからだ。
泣きながら食事をするのは、いったいいつが最後だったろうと思う。思いだせないくらいに、昔だ。――そう、食事の時間は、常に、晴子にとってあたたかかった。あの母の手料理を拒絶すると言うことは、つまり、母の愛を拒絶することに等しいのだと、晴子は、実感した。
自分がどれほど愚かしいことをしているのか、晴子は悟った。
食べながらに、晴子は結論した。自分は――
「食器、下げてくるね」
晴子が食事を終えると、黙ってベッドに座って見守っていたはずの弟が声をかける。
来たときと同じように、トレイに手をかける弟に、晴子は質問する。「……お母さんは、どうしてるの?」
「銭湯で長風呂して、そっから本屋とドラストも寄ってくるって。おれたちが二人きりで気兼ねなく話せるように、母さんなりに気を遣っているんだろうね……」
時間は限られている。
「智ちゃん……わたし」
――それは、抑えきれない衝動だった。
すぐ傍で、トレイに手をかけたままの弟の腕に手をかけ、引き留め、自分は立ち上がると、中腰姿勢をキープしていた彼の頭に手を添え、思い切り――塞ぐ。
それだけでは足らず、塞ぎながら彼の頭を包み、やがて押し倒し、伸し掛かる。
「ちょっと――はるちゃ」
最後まで言わせなかった。
初めて触れる弟のからだは、華奢なのにたくましかった。
自分とはまるで違う質感、シルエットを生成するこのからだと合わさり、ひとつになると、いままでに味わったことのない情愛に満たされる。
智樹に組み敷かれ、晴子は涙した。
「気持ちいい、よう……智ちゃん」
「おれも。晴ちゃん……」
同じ恍惚を共有する共犯者なのだと、晴子は思う。
一度きり、だから。
一度だけ犯す過ちを、果たしてあの温厚な母は、許してくれるだろうか。
静かに泣く晴子の涙を智樹が吸い上げる。
「ねえ晴ちゃん。おれは、晴ちゃんとのことを、悲しい思い出なんかにしたくない。最後なんだから、思い切り、楽しくしようよ……」
「……うん」
「おれが、これから、晴ちゃんのこと――他のなんも考えらんなくなるくらい、気持ちよくしたげるから……」
薄闇のなかでひかる静謐な弟の瞳。
自分の行為が、いままで自分たちを支えてきてくれたあらゆるひとたちの信頼を裏切る行為なのだと知ってはいても、晴子は、引き返すつもりはなかった。
流れる星を見た。きらめく星の世界のなかで、弟は、見たことのない顔をして笑っていた。――ああこの顔が見られただけで充分。思い残すことは、もう、なにもない。
弟の繰り出す官能の海に溺れ、しっかりと弟と指を絡ませながら、一度きりの、――人生一度きりの、最愛のひととひとつになる悦びに、晴子は、身を任せた。
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