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No Body Is Alone/*大丈夫*/

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 髪は、また伸ばそうと決めているものの、結局あのロックなNirvana好きの美容師さんのところに三ヶ月にいっぺんは行くと決めているゆえ、肩をちょっと超えた程度。
 化粧は、アットコスメで評価の高いコスメデコルテにハマり、スキンケアに始まり女の子をきゅんきゅんさせるラブリーベイベーな色あいのアイシャドウも買い揃えた。ジル・スチュアートもヤバすぎてささるトゲがチクッと痛い。以上JUDY AND MARY。ちなみに彼女にそばかすは無い。ともあれおかげで白肌を維持できている。一万円もする例のクリームクレンジングは未入手。お金に余裕ができたら、いつかは買いたいと思う。会うときにまで恥ずかしくないように、試合終了後にひたむきにクールダウンのトレーニングを続けるサッカー選手のごとくコンディションを整えるよう、意識している。闘志は静かに燃やすというものだ。松岡修造は嫌いではない。むしろ共感する。
 ヨガに、ピラティスも始めた。――といっても、お手頃なDVDのついた解説本に頼るという、自己流であるが。自己流というよりもドシロウト。といっても三宅裕司が毎回素人を呼ぶあれではない。――可憐にスマートに大自然をバックにポーズを取れる菅野美穂さんやSHIHOさんの美的領域には到底及ばない。からだの固さは自覚しており、惜しげも無くウエストを晒すDVDのべっぴんな先生方のしなやかな動きについていけないところも多々。特にヨガ。いっそWii Fitを買ってみようかと思い立ったがビッグカメラで値を見て驚いた。一式揃えると中華料理のコースが食べられるお値段だ。色気より食い気などと言っているからいつまでも男に縁がないのだが、いやなかったのだが。スクールに通うのも手だが、叶姉妹を意識してコスメ関係もろもろの出費がかさんでしまった状況ゆえ、そこは我慢している。パンストは神田うののもの。美川憲一は強い。和田アキ子ほどではないが。
 本は。東野圭吾や宮部みゆきをはじめとする流行りの作家の文庫本をたまに買って世間のハマる映画の話題についてあたし知ってるのよってクールを気取る程度だったのだが。図書館で旬の時期をちょっと過ぎた、でもきみのこと忘れないよと卒業式で流れるセンシティブなソングのごとく訴える手垢つきの、バッグの型崩れが心配になるくらいの厚みのある本を借り続け、通勤電車の帰りに必ず読むようにしている。――京極夏彦を読み始めると電車で女子高生辺りに『なにあれあのひと辞書読んでるぅー』なんて言われるのが気持ちいいというあの感覚である。
 繰り返すがインテリな自分を演じるのが気持ちいい。林修先生みたくほんとのインテリになれたらもっとここちよいのであろうが。なお、読みきれぬまま返却することも度々。限度いっぱい時間いっぱい焼肉屋さん食べ放題、ガンガン予約を繰り返し返却期限がずれてメタパニることも多々。ガンガン行こうぜというプレイヤーの戦略に対しおどる宝石は身を挺しておどる。欲張りは禁物なんだよ――と。
 英米文学科卒業の彼女であればシェークスピアを選ぶのが定石なのだが、彼女が読むのは『彼』のお勧めする、誰もが必ず一度はその名を聞くあのフロイト。サッカーゴールを子宮に例えボールは言わずもがな。ナイフがあれの象徴とかなんでも性器に結びつけるおっさん――なのではなく。あごひげのやけに長い威厳を感じさせるフロイト先生は著書を読む限りはトントンバリアーと自己を守りぬいた上川隆也のごとく、プロテクト志向が強めのように見受けられるが、あれだけ弟子に去られてしまっては納得。娘さんが遺志を継いでくれてよかった。死ぬまでに三十三回もの手術を受け、言語を絶する痛みに一言の苦情も弱音も吐かずに耐え。どこまでも真摯に献身的に患者そしてこころという領域に向き合い続けた彼の功績はもっと知られるべきである。
 ――どうにも日本では、まさかの復活の狼煙をあげファンを歓喜と涙のうずに飲み込んだあの『Xファイル』が大流行したのといまは亡き河合隼雄先生の甚大なる努力ゆえ、ユング派のほうが優勢に思われるが。B'Zもそのようにシャウトする。ときよ止まれ叫ぶんだと。いや絶対シャウトしていない。星野源の見解とはちょっと違う。彼の場合はときを止めず『動き出』すのである。そんな彼女がよく読むのは『ヒステリー研究』上下巻。こころを病んだことが原因でからだに異変を生じ、トーキングキュアにてその痛みが取り除かれこころも浄化される――『痛み』を知る彼女にとっては真新しい考え方だった。積極的に頭とからだを動かす必要があると感じた。健気な水飲み鳥のごとく。
 毎日、仕事に行くのは変わらず。でも休日は、ひとりの時間を、満喫した。
 部屋を片づけたり掃除をしたり。お水のたっぷり入ったバケツをコントみたいに足で蹴っ飛ばしてしまい台無しにしたり。幸いにして天井から金ダライが落ちてくる展開は皆無。――好きで決めたところではあるのだが、やはり『あの』記憶が残るゆえ、場所はいいものの引っ越しを考えたい。駅そのままでマンションだけ変えるのが理想。高価な掛け布団を買い直したゆえに、それは、銀行の残高がもうちょっと真冬のコンビニに並べられる肉まんのようにほっこりあたたまってからと考えている。
 スーパーに行って一ヶ月一万円生活の真似をして買いだめをし、で出演者並みの力量が不足しているゆえに食材を駄目にする鬱展開に涙したり。いまどきのドラマでさえあんなに泣かせに来ない。視聴率を取るにはラーメンと子どもを出すのがセオリー。平日を楽にするために給食のおねえさんたちのごとく作り置きをしたり。で一人暮らしの量を見分けられず駄目にしてまた泣いたり。おまえはのび太かと。ドラえもんはいない。だって二十一世紀なのだから。
 事態を重く見たリーダーの要請により、トリアージを回避すべく、知人の結婚式のカタログギフトでゲットしたものの御役目を果たせずにいた淋しげな圧力鍋にも出動を依頼した。EVAで戦う碇シンジのごとくその目はきらめいた。いや圧力鍋に目などあってはとんだ貞子なのであるが。あのせいで夜中に見かける黒いテレビが怖い。ともあれ。二口コンロの片方をあの大きなからだがひとつ占めてしまっては正直厄介なのだが。雇い主の期待に応えて煙をしゅんしゅん出して働く姿がなんだかいじらしかった。
 友達は少ないほうだ。でもたまに飲んだ。結婚の話もちらほら。でも彼女は――焦りを、感じない。
 何故なら、自分には、たったひとり。
 ――こんなあたしを待ってくれる、最愛のひとが、いるのだから。
 ふと部屋にひとりでいるとき。『あのとき』の記憶が蘇り、自分を強く抱きしめる。――そのとき。
『大丈夫?』
 必ず、彼の声が聞こえるのだ。そして胸はときめく。きゅん、と震える鼓動に頬を染めて俯く。気分は少女漫画のヒロイン。北島マヤにはどう考えても速水真澄。だが。真澄様にエロ要素は皆無。だって次に再生する台詞は決まっている。
『おっぱい、なにカップなの……?』
 ――ぶ。
 彼女は吹き出してしまう。――背後から彼女を抱きしめたたった一度のあのとき。触れてしまいびっくりしてしまったのだろうか。巨乳というほどではないのだが。
 笑って涙を拭うといつも彼の愛おしい声が流れる。
『きみの、笑った顔が、大好き、だ』
 だから、彼女は顔をあげる。
 どんなに苦しい夜も。寂しくて自分のからだを抱きしめてもどうにもあたたまらないTRFの唄うような寒い夜も。あたしは――彼と一緒だから。
 乗り越えられる。
 彼女は鏡を見て新色のディオールのグロスを引いていたのだが。時計を見た。「――そろそろ、行かなきゃっ」
 約束があるわけではない。しかし、あの手の場所は、早めに行くに限るのだ。十一時を過ぎると子供連れが増えて、ちょっぴり――寂しくなってしまうから。
 幸せそうに手を繋ぐ父母子ども三人を見ると。
 慌てて卑弥呼のハイヒールを履き、かつかつと靴を鳴らして玄関を出て鍵を閉める。すると――
 一呼吸。
 目を閉じ、あの愛おしい彼の励ましを、蘇らせる。
『――忘れないで。
 ぼくは、きみの味方、なんだから――』
 よし。――気合いだぁ!
 とアニマル浜口さんを降臨させて気合いを入れ。肘を抱え込んでいた手を離し、遠い空を見あげ、彼女は笑った。「すっごくいい天気。公園日和だろうなあ……」
 彼もきっとどこかでこれを見ている。
 手をかざし歩き始める。日光が、きらめている。どこかで飛行機が飛んでいる。紫外線ピークの時期を外したものの日射しが厳しい。午前中だからまあ大丈夫だろう。鏡を見てSPF50のANESSAを塗りこみ、バッグに入れておいたから。
『大丈夫?』
(杉崎さん。あたし、大丈夫――)
 意識してすぐ答えられる自分を作り上げている。
 男の暴行を傍観し最後に助けてくれた『彼女たち』には――『あれ以来』会えていない。きっとどこかで元気にしているだろう。
(――さーて)
 すぎ、さき、しんじ……。無意識のうちに歩きながらあの声を再生する自分がいる。そんな幸せに浸りつつ、マンションに面する道を抜け、横断歩道に差し掛かるとちゃんと左右を確かめてから素早く渡る。自分のからだがとっても大事。間違っても怪我とか事故とかに巻き込まれることなどあってはならない。
 駅まで徒歩十三分。就職を控えて引っ越す際、川があるゆえちょっと駅から離れた場所を意識して選んだ。でも川を眺められることは気に入っている。
 やがて、駅に到着。小田急線一本。楽な道筋だ。大学の頃のサークルで知り合った子が言っていた。今日はそれを実行してみようと思う。駅からやや離れているらしいが、徒歩圏内とのこと。スマホで地図が見られるから大丈夫。
(大丈夫。大丈夫……)
 電車の車窓を眺めながら彼女は思う。なんだか――駅と駅の間隔が長い。のぼりに比べて。登戸と向ヶ丘遊園なんてびっくりするくらい近い。歩ける距離だと思う。――下りは、神奈川という都会をイメージする場所の割には緑や田園が多く。彼女はこの景色が大好きだった。好きすぎて、せっかく世田谷区在住だったのに、就職をきっかけに引っ越す際、ひと駅下って和泉多摩川を選んだくらいだ。狛江のほうが就職先のある西新宿により近いのにも関わらず。学生の頃はみな下北沢に住みたがり、特に男の子は安アパートで済ませるのが鉄板。
 町田には美容室に行くためだけに卒業後も定期的に訪れるのだが、過去、学生時代に来たことならちょくちょく。JR横浜線に乗り換えはするが二駅先に彼女の大学のキャンパスがあり。彼女が通うのは渋谷のほうだったが、入学してしばらくはインカレに所属していたゆえ、キャンパスの垣根を超えた交流を重ねた。こちらのキャンパスに通学する子のアパートにも何度か遊びに行った。彼らが出かける先は必ず町田だった。それをきっかけに、ときどき友達のところに行った帰りに買い物をするようになり。一生通い続けようと思える美容室に、たまたま出会えた。町田を拠点とするあの子たちには渋谷キャンパスを羨ましがられたが。町田の、都会とあたたかみとギャルっぽさの混在した独特の空気も、彼女は気に入っている。
 さていつも行く方向――ではなく。南口の改札を出ると左折し左右にお店の入っているファッションウォークと称される通路を進み階段をあがればででんとマツキヨのお出まし。現在右手の広場にひとはまばらだが金曜の夜などは学生たちですごいことになる。ともあれ以降は駅を背にマツキヨの左側の線路沿いを、一度は迂回しつつも基本的にはまっすぐ歩いて行く。来る途中で電車から眺めていた道筋だからなんとなく安心感がある。いつでも――彼に、守られている。
(すぎ、さき、しんじ……)何度も何度も繰り返したあのフレーズが心地よい。
 ここがひと目につくという意味でもひと安心。彼女の左側に位置する線路を、電車が割と頻繁に通り過ぎる。風を感じ髪を押さえる。
(伸びたね、……なんて。言って欲しいなあ……)
 実を言うと、短くしたことも突っ込んで欲しかった。
 だから、会うときまでに長くしようと決めている。しかし、美容室にきっちり行くと伸びが遅い。これがジレンマだ。ロックな美容師さんのトークに癒やされているというのに。
「お姉さん。一人?」
 急に声をかけられ驚いた。見れば男性が一人。別にチャラチャラしたギャル男などではなくシンプルな大学二年生といった感じだ。イヤホンを片方引っこ抜いた男が、それを手にしたまま、こちらを見ていた。
「いいえ。『二人』です」
 柔らかく微笑んで彼女は答えた。「はあぁ?」と男は口を開く。明らかにひとりだ。彼女の周りには誰もいない。
「いますぐは、会えなくっても……」鼻をすすりたくなるのは我慢。「あと321日間で会える彼氏があたしにはいますので、結構、です」
 すると彼女は顔に笑みを貼り付けたまま声色を変える。――アイドルヴィオスユウナレスカ最終形態戸愚呂80%むしろ美しい魔闘家鈴木発動ザッツ・エンターテイメント! ……イヤホンから漏れる盛大な音量からしてヘビメタ。念のためBABYMETALでないことを願おう。ドルオタも言わずもがな。――まあいいや。
 ――Go!
「いいかぁ少年! おっねーさんにちょっかいなんかかけちゃうとぉ……こんなことしちゃうぞおお!」ここで素早く防犯ブザーを取り出す。
 ――にこ。
 ちょっと笑って見せつけておいて両手でブザーを持ちカーヴィーダンスのごとくくねくね腰をくねらせ締めにはピンク・レディーのUFOの振付なんかしちゃったりして。ぅユーフォぉ! ならぬ、
「リア充ビームぅうう!」
 思い切り彼に向けたとき、――泡を食った男(ティーン・エイジャー)の顔を彼女の目は捉えた。
 なにも言わず。見てはいけないものを見てしまった彼は素早くイヤホンを戻し、背を向けて歩き出す。とぼ、とぼ、とぼ。黒く丸まる背中を見送る彼女は、――あー。
 カ、イ、カ、ン。
 ふぅっ、とマシンガンを吹く物真似なんかしてみる。――さて彼にも『リア充』効果があるといいのだが。彼女は自分の魔力にそれほど自信がない。どちらかといえばバーサーカータイプだ。
 彼女を防御してくれたアイテムを颯爽とバッグにしまい、前を向いて彼女は歩き出す。
 ――変わった女だけど変な女なのはあたしだ。
 さておき。
 ちょこちょこ車通りの多い通りのようで。道路を挟んで線路寄りを歩く彼女の反対側に店が連なる。一台車を見送る――と、向こう側に。
 妊婦さんだ。彼女とは逆で駅方向に向かっている様子。
 マキシ丈の黒のワンピ。ザッツニンプ。いかにもにございます。
 ――正直。ちょっと、羨ましい……。
 ちょっぴり、杉崎真司を恨むことがあるとすればあの期限だ。三年後。二十五歳だった彼女は二十七歳になった。それはいいのだけれど、次に会うときは――三十路直前。
 なんかこう、二十代のぴっちぴちのまま再会したかったなあと……。
 いえいえ昨今の女優さんなんて年齢がお幾つでもぴっかぴか。吉永小百合さんなんて美の化身。不老不死の天女みたいだ。――と、いうわけで、彼女は今夜もお手入れをすることが確実。KOSEさんが心血注ぎ込んで作り上げたエマルジョンホワイトに、何としても老化を阻止していただくわけである。ほうれい線なんか見せて幻滅なんかさせられない。老化! ダメ。ゼッタイ。……目指すべき頂上はデヴィ夫人に故・鈴木その子さんのあのテリトリーである。
「――んだよ。おまえおれ、置いていくなよ!」
 ほうれい線のできるかもしれない、いやゼッタイできることを許さない辺りを天海祐希さんを思い描きながらぐにぐにと刺激する彼女の耳に――とんでもない肉声が届く。
 慌てて電柱の影に身を隠す――いまどき電柱で身を隠す人間などいるはずがないのだが、『お見合い結婚』の初回で松たか子が顔を赤くして電柱か壺だかに酔っ払って抱きつく神演技をしていたはず。いや壺は確実にナシだ。いきなり息を吸い込むってあなたどんな魔壺インヘーラーですか。――つくづく、現実はドラマほどうまくいかない。
 恐る恐る影から目を覗かせる。遠目に見る彼は――どう見ても彼、だ。彼女の知る限りでは彼はいつも黒スーツ。町田の裏手に髪さえ染めれば客引きしてそうなとっつきにくい印象だったのが。白Tシャツにジーパン。全体にやや髪が伸びて、かつて山口智子とトレンディドラマに出演した頃の吉田栄作みたいな爽やか系ラフな髪型の挙句それらしい服装に身を包んでいる。目つきも以前ほど鋭くなくむしろ温かいというか。ひたすらに前方を見つめ小走りで進み、道路を挟んで傍観する彼女にはまったく気づかない様子。ところで本日、土曜日。仕事は休んだのか、それとも転職したとか――?
 ひとまず。
 彼女は背を向け。道端でスマホをいじるOLさんを演じてみる。といっても。かたかた手が震える。頑張ってブラウザなんか開いたところで、なんにもちっとも目に入らない……。焦って広告をクリック。いえいえまだまだグラブルデビューは致しませんよ。渋谷をいくらジャックしても早見あかりや菅田将暉を駆使しても、無駄です。FF好きには植松伸夫の音楽、たまりませんけどね! それでも三天結盾(さんてんけっしゅん)! あたしは拒絶します! 何故かといいますとあたしは自分磨きに忙し――
『……強情っ張りめが』
 すると過去の彼の声に現在のそれが重なる。
 ――おーい。待てよ待て。ほら、これ、買ってきたからよお!
 どうやら、彼の呼びかける相手は、あの妊婦さんだ。妊婦の割には歩くのが速いと思っていた。お腹は結構大きい。
 彼女は聴覚を彼らに集中させる。
 ……てなに。うるさいなあ。ほうっておいてよ。
 んだよおまえ。なに怒ってんの? 生理ぃ? なわけねえか。
 馬っ鹿じゃないの。んとにもーあんた。さいてー。ばいばーい。あたし電車で帰るからー。お財布ないから交番とかで借りるー。
 ちょ。まじで! 頼むよ! おれ、……おまえがいねえと生きていけねえんだ。てかこの暑いのになーんも持たないで出て行きやがって。心配するだろが! つかおまえあれいてえよ! キンタマ蹴りあげるとかマジねーだろ! おれ動けねえで探し回ったんだぜ! 携帯でねえし……。ったく。とにかく水、飲め! おっまえになんかあったらおれどーすればいいんだよ!
 ……仕方ないなあ。あたし、まだ、怒ってんだからね?
 ……なにをだよ。
 あたしが寝てるすきにあんなことしやがって。ふざけんな。おっぱい、びんびんじゃねえかよ。
 それは、おまえがエロい顔して寝てたから……。
 何度も言わせんな! 妊婦は疲れんの! おっめー、父親学級でなに学んだんだよぉ! テラ重いリュック身につけてひーふー言ってたんじゃねえのかよお!
 ……勿論だ勿論勿論ももも持田香織。おれ。マミちゃんこの頃辛そうなのずぅーっとずぅーっと気になってたし。最近おれ忙しくてなかなか買い物とかつきあってやれなかったもんな。だーからわざわざくそ忙しい日に仕事フケちまって。こんなところまで車出してマミちゃんの好きなマルキュー連れてこうとしたんだぜ。マミちゃん寝ちゃうから途中で車止めてよう。渋谷よりこっちのほうが空いてるかなあってそれがおれの配慮に基づく恋心よ。なあ、分かってくれよ。
 そこまで言うなら……。ねえ、二度としない?
 あんなエロい顔しないっておまえが約束できるってんならな。それに。おっぱいびんびんにしちまうおまえが悪い。
 それは、だってえ、……大ちゃんが巧すぎるからあ……。
 あーはいはい。分かったよマミちゃん。早く元気な子、産んでな。いっぱい、いっぱい、セックス、しようぜ。
 あーもう大ちゃん最高。したらあれ、やってくれるぅ? ――か! なんで締まんだおまえのおまんこ! 気っ持ちよすぎるぜこのクソアマーってやつ。……あれ。好きなの。
 変な趣味してんよなあおまえ。あれふつーどんびきだぜ。
 なんか、……いい、の。ねえどうしよう。どっか、……入ろっか。
 まー胎教に悪かない程度になー。うん。いくらでもちゅばちゅばしてやんぜー。
 ……うん。あたしも大ちゃんの。はむはむしたい……。
 疲れやすいんだからなー。気をつけろよー。おまえのからだ、おまえひとりのからだじゃないんだぜ。おれと、おまえと、ミチルのもの。
 だからぁ! ア〇ルって言ってるでしょー! アナちゃん! アナちゃんだってば!
 おっまえそれゼッタイいじめられっぞ! なに考えてんだ! 分かるまでおまえのおっぱいびんびんにしまくってやんぞ! おぼえとけこのクソアマがぁ!
 なによ大ちゃんこそこの分からず屋ぁ! 昭和のびんびん巨根野郎! アナ雪から取ったんだもん! すっごく綺麗じゃないよぉ!
 エル〇女王の妹がア〇ル王女っておまえガチでディ〇ニーに訴えられっぞ! ……ほら。行くぞ。手ぇ繋げ。
 ダ、メ……。ゆっくりしか歩けないんだもん。先、イってよ。
 おれがおまえをおいてイったことなんかあるかよ。とにかく飲めよ水。ほれ。
 ……あたし。大ちゃんのしか飲みたくないんだもん。飲みたくてたまらないんだもん……。
 あそう。とにかく。車戻ろう。おまえのからだが心配だ。
 ……心配なんか、しなくっていいのにぃ……。
 惚れた女を失うなんてのは二度とごめんだ。おまえ、おれが好きなんだったら、おれに悲しい思いをさせてくれるなよ。
 大、ちゃん……。分かった。車で、いっぱいいっぱい、シようね……?
 だっからおっまえ! 妊婦がカーセックスってどんな設定だよ! ねーよまじで! 通報されっぞ!
 逮捕しちゃうぞぉ。
 あーそれやめて。まじぐっと来るから。おれ完全伊東美咲派なんだわ。さとう珠緒もやべえ。マミちゃんただでさえかわええのに真似とかほんと勘弁して。つーわけでア〇ル却下な。
 んも。じゃ、五発抜いちゃう……。
 いくらでも抜けよ。ただしおれは自分を曲げない。どんなに責められても屈服しなかった人間を一人、知っているからな。おれはあいつに敬意を表し、勇気をもって却下する。ノーア〇ル。ゼッタイ駄目。
 ノーア〇ル。ノーライフ。
 その手には乗んねーぞ。ノーア〇ル。イエスセックス。
 えーそれどっちだったんだっけ。
 知るか。
 気になってたんだけどさー。大ちゃんがときどき言ってるそのひとってだーれ。マミの知ってるひとぉー?
 桑野誠。
 屈服して報復に走った側じゃん! やーね! 『テロリストのパラソル』くらいあたしだって知ってるわよぉ! んっもーお!
 ……一生忘れらんねえな。あいつの、……勇気と、献身を。
 はーい。分かったからー。ドストエフスキーってことにしとくー。したらいっくよー。マミねぇ! 頑張っちゃうぅー! まずねーえ、特! 大! ア〇ルパールで大ちゃんのことぉー、
 いや割りと無理まじで無理無理ほんとごめん。おれ、掘られんのだけはまじでごめんだ。
 そっおー? ちゃーんと痛くないようにするからー。すぅっごく気っ持ちいいんだよぉー? やり方教えるからぁー、覚えたらちゃーんとマミにもやってよぉ? そんな難しくないからさーぁ。
 や、らんぞ……おれは自分を曲げ
 とにかく行こ行こ! とにかくねー、やっばいんだよー? 特に両方一気にヤられたらビクンビクンのアヒアヒーってなっちゃってー大ちゃんだったらずぇったいハマるってー! ね! ほんとに! 優しくビシバシするからぁー!
 だからおれは……。

 ――
 二人の姿が遠ざかるのを確認して彼女は身を出した。――なんだいまの。
 なんだいまの……。
「ぶ」笑いを噛み殺す。直後、『彼』の声が聞こえたので弾けるように笑い出す。「なにあれ! あはは!」
 ――『きみの、笑った顔が、大好き、だ』。
 お腹を押さえて彼女はさきほどの会話を思い返す。朝っぱらからどんな下ネタオンパレードだ。福山雅治のラジオ並みに危険だ。ビジュアルは福山のほうがよっぽど危険だが。なんなんだ。顔が赤らむのを抑えられない。なんと、破廉恥な……。
 性に対する価値観とはひとそれぞれだ。――大学時代、レイプごっこが好きなの、と出会ったばかりの女の子にこっそり打ち明けられ、衝撃を受けた記憶がある。働く側には大変迷惑な話だが、ラブホテルのあとはカラオケボックスに直行コースで。あたしのことをばんばんいじめまくった彼氏のあれを激しく貪るのが好きなのだと。たまらない、と潤んだ熱っぽい目で語っていた。危険な香りがしたのだがあれを喜ぶ女性も世の中にはいるのだろう。理解できないが。その子は見た感じそんなふうには見えない子である。……よりによって打ち明けられた場所がまさにカラオケボックスだったので。綺麗な空間を提供してくださっているスタッフさんには申し訳ない話だが。空気が澱んで感じられた。――また別の人間の話をすると。
 SMバーに取材した勇敢な――どう考えてもM寄りの男性ルポライターが、そこで働く女性たちに体当たりで挑み、果敢に陥落した記事を読んだ限りでは。SとMとは目的ではなく手段でしかないとのこと。よくあるろうそくとか鞭とかは。どうしてもどうしてもお客さんが欲しくて欲しくてたまらないと哀願する状態にまで然るべき『手段』を用いて導いておいてそしてそして。まさにそのとき。絶対にこのとき、という究極のタイミングで与えるのだそうだ。それで。与えられた側の反応は半端ないとのこと。杉崎との接触を経て愛の行為のなんたるかを知った彼女はその話を振り返ると、複雑な気持ちになった。
 からくりは同じだ。
 本邑(もとむら)大吾(だいご)について、考えたことはある。
 もし彼に、ふさわしい女性が現れるとしたら。あの手のスパンキングを喜ぶよっぽどM寄りの女性か、或いは彼をねじ伏せる圧力と手段を持つ勇敢な女性。――現実は彼女の予想の斜め上を行った。
『両方』と来た。――さて。
 娘さんがどんな名前をつけられるかと彼が穴を開発されるかの行方は気になるところではあるが。
『……一生忘れらんねえな。あいつの、……勇気と、献身を』
 彼女の目に涙が盛りあがる。――許せるかもしれない、と思った。
 たとえあのとき一瞬だけでも。あたしは彼に、愛されていた。
 涙を拭いて、歩き始める。さきほどの仲の睦まじい夫婦は、いつの間にか消えていた。
 はずが。
(――あ)
 この一本道の終わりには駐車場があり、そこから出てくる黒い車が見えた。彼女は確信した。あれは彼の好むいろだ。
 妊婦を気遣ってだろう。かつて、暴虐を見舞った彼にしては、ゆるめの速度で運転している。
 気づかず車は彼女の右側を通りすぎる。男は――ちらと助手席の女に気遣わしげな目線を投げ、片手で唇に触れ、笑っていた。
 彼女は、幸せな彼らを見送った。
(よかったね、大吾……)
 もう、見る必要などなかった。
 こころのなかで過去と彼らに別れを告げ、八月の風を感じつつ、彼女は、彼女の選んだ未来へと、突き進んだ。

 すぐに公園に設置されている親切な地図を見た。公園自体はどうやら、東西に長く。アメーバを横に長くしたみたいな変わったかたちをしていた。
 彼女は、地図が読めない。ひとまず、――進む。
 思ったとおりに。
 自分の、フィーリングを大事にして。
 巨大なモニュメントがあるところや噴水広場は子ども向けな感じがしたので、わざと芝生の多い、目立たなそうなところを選んだ。
 管理者が丹精込めて作り上げたのだろう。黄色と淡い青と白の三色に彩られたきれいな円形の花壇の手前まで来たところだろうか。
 ――やば。
 と思ったときには手遅れだった。
 土に細いヒールがめりこみ、かくん、とからだが崩れてしまった。
 そもそも公園に行くのにハイヒールを履いてくるべきではなかった。なのに彼女は常に履く。彼女は自分の身長を自覚しており。長身のあのひとにすこしでも近づきたいがために、7センチ以上のヒールを履くのをやめられない。――虚しい努力。一言で片付けるならそれだ。
 弱さに負けじと彼女はぶんぶん首を振る。髪はやや短めなゆえヘビメタロック狂いの女には見えないはずだ。
 柔らかな芝生ゆえ痛くはない。痛くはないのに――。
 足首に手をやる。
 ――気を抜くと、崩れてしまいそうな自分自身を感じるのだ。
 突っ張って、頑張って。
 切なくって、それでも彼に会えなくって。
「――ふ」なんだろう。涙が湧いてくる。彼女はもう――我慢しなかった。
 我慢しないと決めたのだ。
 好きであることに。
 誇りに思うことにおいて。
 あの彼があんなにも愛してくれた自分だから。
 彼女は自分を誇りに思う。己を侮蔑する道など、絶対に選ばなかった。
 だから。
 いまだけは大泣きする自分を、許そう。終わったら必ず――笑うから。
 絶対に笑って幸せになって彼と一緒になるんだから。
 こうして弱い自己にときどき負けてしまうことがあっても、必ず、誇りに思える自分を取り戻すこと。
 それが彼への愛でありプライド、なのだから――。
「ひぐっ、うっ、うっ、っ……」それでもここは公園。声をあげて泣くなんて年端もゆかぬ子どもだって我慢しているのに。「杉、崎、さん……杉崎、さぁん……」
『大丈夫?』
「会い、たいよぉお……。あと321日なんて、長過ぎるよぉう。早くぅ、……っ」
 へたりこんだ体勢のまま。急いでハンカチを取り出し顔を覆った。
「嘘つきぃ……っ。あたしの笑った顔が好きだって言ってんのなら、早く会って……。
 笑わせて欲しいよぉ。杉崎さぁん……!」
 嵐のような感情は収まる気配を知らない。時間が早いためか人気のない場所ゆえ、彼女は思い切り感情を吐き出した。
 ――のだが。
 さく。
 さく。
 さく。――と。
 芝生を踏みしめる足音。リズムからして子どものそれではない。女性ならばもっと足音が小さい。
 聴覚が一気に背後に集中する。――彼女は、ときどき、男に声をかけられる。自分という杉崎が愛おしむ存在は絶対に守るべきゆえ、頭を使ってアビリティ『ぼうぎょ』を選択した。さきほどのようにバーサーカーを演じることもしばし。自分を守るためなら狂戦士に思われることも、厭わない。
 彼女はこんなふうに、外で大泣きするのは初めてだった。
 ゆえに――。
 カモだと思われてるかもしれない……!
 恐怖が彼女に襲いかかる。弱い自分が全面的に表出した直後のゆえ、思考がまとまらず、いつものような戦略を組み立てることができない。――バッグは。
 彼女は素早くショルダーバッグを掴んだ。杉崎と別れたときに持っていたもの。いろがスカイブルーゆえ年中使い倒すには相応しくないと思うのだが、やめられない。1月でも真冬のコートに組み合わせている辺り周囲には変な女だと思われているかもしれない。
 震える手でブザーを握りしめ、胸に抱いた。最悪これを鳴らせば、誰か来てくれるはず。あとは、スマホ。
 その二つを胸に強く押しつけ、彼女は足音が去るのを願った――のだが。
 無慈悲にもそれは明らかに彼女のほうへと向かってくる。――どうしよう。怖い。怖い怖い怖い。
(助けて――杉崎さん!)
 小刻みに震え彼女は固く目をつぶり祈った――ところ。
 やや離れた場所で足音が、止まった。瞬間――
 とくん、と彼女の心臓が甘い鼓動を打つ。
 ――なに、これ……。
 この感覚には覚えがある。覚えがあるどころの騒ぎではない。そんな……。
 あまりの衝撃ゆえ自分の携帯とブザーを芝生に落としてしまう。震えながら期待を抑えられない自分の胸を掻き抱く。手塩にかけて育て上げられた、色鮮やかな花壇を見つめていた。
 まっすぐ、その存在は彼女へと迫る。――この、歩き方、は……。
 彼女は、自分の感覚が信じられない。
 男は、彼女の真後ろに立つと、ふぅ、と息を吐いた。
 それを聞いた瞬間、噴き上げる痛いほどの情愛が、彼女の胸を貫いた。
 さく。さく。さく。と足音が右へと回りこみ、彼女は彼の足を見た。淡いいろのジーパン。足がやけに細かった。
 変質者ならば。座り込んで泣いている女を見つければ後ろから襲うなり声をかけたりするもの。
 それに彼の足取りには――落ち着きが感じられる。
 彼は、彼女の正面へと回りこむ。清潔感の感じられる白いスニーカーを履いていた。
 ゆっくりと、彼の手が降りてくる。同時に身を屈める気配。
 すると彼は声を発した。
 ――
「大丈夫?」
 こみあげるものを押さえるつもりなどなかった。
 何千回何万回と頭のなかで再生した彼の、声。
 幻聴なんかじゃない。『本物』を――目の当たりにしているのだ。
(なんで? いったいどういうこと? なんで、こんなところに――)
 すると、彼女の何度も何度も夢見た、彼の甘い声が彼女の脳にここちよく響く。
「きみ、ほんとに大丈夫?」と本物の彼の声。「胸が苦しいの? 救心とか持ってる? ぼくさあ。それか、公園の管理人さんに……」ふうとブレスを挟み、
「……実はぼくも『あれ以来』心臓が弱いもんでねえ。残念ながら医者にはどうにもできない病気なのさ。実際に救心を飲んだことはないけれど、備えあれば憂いなしってやつ。持ってるから良かったらあげるよ」
「いえ、あっ、の……」ハンカチで目元を拭く彼女。必死に記憶を総動員する。「あたしのことならぜ、全然大丈夫です。恥、ずかしながら――」
 ここで彼女は言葉を止めた。
「ふ、ためぼれ、で……」
「あそう?」柔らかな声。優しく笑う気配。「それは、……大変だね。なぁんだ。心配しちゃった。ひょっとしたらきみはぼくと同類? ……といってもきみ。大丈夫って顔色でもないよ。どこか、向こうにあるベンチにでも座ろう? その体勢、辛いでしょう?」
「――いいえ」
 勇気を持って顔を起こす。
 彼は――地面に膝をつく。その座り方は、彼女の知るまさにそれであった。ジーパンが汚れることなど彼は気にしやしない。
 震えが、彼女の心臓を走る――。
 芝生に両手をついて、目線の高さを彼女に合わせ、淡い色の瞳を持つ杉崎真司が、優しく、涙に濡れる可奈の瞳を、覗き込んでいた。
 彼女は込み上げる感情そのままに、言葉を発した。
「あたし。――あなたの傍が、いいんです。もう、……離さないで……」
 引き寄せる大きな腕を感じた。強さを持っていても、優しさを伴う彼の力だった。
 彼の首筋の匂いを直接に嗅ぎ。思い切り吸い込み、背中に回される彼の大きな手のぬくもりを味わい、何年も何年も会いたくて会いたくてたまらなかった最愛の彼に抱きしめられながら、彼女は、自分の真実を伝える。
「好き、……だったんです。言えなかったんですけど、あたし……。
 ずっと、好きで好きで……
 頭がおかしくなっちゃいそうで……」
「うんうん」彼の、彼女の頭を撫でる手つきが優しい。
 抱きしめられるのもいいけれど、愛する彼の顔を見たい。
 彼の固い腹筋に覆われたウエストに触れて自己を支え、顔を――あげてみる。涙は拭かなかった。彼に隠すことなどもうなにも――なかったから。
「す、ぎさきさん……」
 嬉しそうに彼は目を細める。「可奈ちゃん。おかえりー」
「ん……」何故だろう。目を逸らしてしまう。欲したのは自分なのに。
 すると、照れる可奈の両の頬が大きな手でやさしく包まれる。伝わる――あたたかな恋の魔力。皮膚を通して全身に――染み渡るよう。
 どうやら、上向かされる。彼女は、彼の意志に身を任せた。目を合わせれば、
「可奈ちゃん」
 ――きゅうううん!
 と心臓に熱いものが走る。懐かしくて愛おしいこの感覚。頬を固定されているゆえ視線だけをまたも外す。
「髪、……伸びたねえ。伸ばしてる?」
「は、……い」頬が熱くなるのはどうしようもない。この熱さは杉崎の手のぬくもりのせいだけではない。やっぱり視線を下ろしてしまう。「まあ、そのとおりです……」
「可奈ちゃん。こっち向いて……」
 ――嬉しすぎるんだけど。
 嬉しいんだけど。
 あの感覚が訪れるのがちょっと怖いような。――だってあれを食らうと、彼女は、ほかのことが一切、考えられなくなる。
 頭のなかが、杉崎真司で、いっぱいになってしまう、から。
 それでも彼女は目をあげた。すると彼は彼女のその勇気に応え、
「好きだよ。可奈ちゃん……。愛している。
 きみの、答えを、聞かせて。
 きみはぼくのことを、どう、思っている……?」
「好き、です……」彼女は笑みを作ろうと試みるが、唇がぶるぶる震える。「愛して、いるん、です……」
 すると悲しげに彼の瞳が細まる。「辛い、……思い、させちゃって、ごめんね? 約束、……したのにさあ」
「い、え……」
「だからぼくは決めたんだ」
 ――近い。
 近い近い近い、とあの日の彼女なら戸惑っていただろうが。
 くちづける寸前まで接近した杉崎は、
「一生、きみのそばにいて、きみのことを笑わせてあげるって」
「す、ぎさき、さ――」次の言葉は、彼の甘い唇に飲み込まれていた。
 心臓に、愛の嵐が荒れ狂う。――あたしは、これが、欲しかったんだと。
 彼が、欲しかったんだと。全身全霊で、実感する……。
 唇を離すと、優しく彼女の前髪をかき分け、そして横髪を耳にかけ、再び頬を挟みこむと、ちょっと、困ったように、笑ったのだった。
「――真司って呼んでくれると嬉しいな」
 もう、ためらわず彼女は彼のところに飛び込んでいた。唇であふれんばかりの積年の想いを伝える。甘く切なく――応え、彼女を探り当てようとせん彼の、魅惑の意志が可奈のからだじゅうに満ちていく。
 ぐっ、とウエストの後ろに手を回され、上向かされたゆえ、可奈は口を開く格好となる。
 彼の微笑んだ気配。刹那、――
 杉崎の甘いあたたかな舌が、可奈のやわらかなそこに、入り込んでいた。もう――
 声を、押さえる自分は存在しない。
 想いを、押し殺す自分も存在しない。
「――ん。ん。んぅう……」
 唇がついては離れる。また重なる。舌が熱く絡まり、杉崎が可奈のそれをやさしく引き出したうえで甘く、噛む。――それだけで彼女は崩れそうだった。
「ん、はぁっ、あぁっ……」ところどころで可奈は荒く、男をそそる声を漏らした。激しい運動をしているわけでもないのに。彼の繰り出す舌技に酔いしれ。何度も何度も、甘ったるく舌を絡ませられ、いたずらのように追い回され、唾液さえ吸い上げられながら、意識が蕩けていくのを感じていた。
 耳を塞がれ、さらなる深い挿入を彼女は許す。これ以上届くのが不可能なほどにまで深く。――気持ち、いい……。
 彼の愛に応えることで。深く深いところまで彼を受け入れることで、自分という花が開かれるのを感じていた。
(あ――)ずりゅ。と彼の魅惑の舌が出て行く。彼女にはそれが惜しまれた。すると彼は素早く彼女の髪をかけたほうの耳に口を寄せ、ふーっ、と息を吹き込む。しかもあのときとは反対の耳に。一度教えこまれたあの快楽が激しく彼女を貫く。「やっ……あ、ん! だめ! それえ……っ」
 彼女があまりのエクスタシーに導かれたゆえ、笑って彼が彼女の目を覗き込む。「ほんとにだーめ?」
「でもない……」息を整えようと試みつつ彼女は彼の厚い胸板に手を添える。「キス、して、……真司さん……」
「うん」
 短くくちづけ、彼は笑う。胸を押さえるパブロフの犬のごとき可奈を見てのこと。「いまので、十五回目だっけ?」
「違うの……。三万三千回くらいだったと思う、……けれど。もう、数えるのは、いや……。
 これからは、あたしのCPUがオーバーフロー起こすくらい、いっぱい、してください……」
「いいよ」ついばむようなキスを交わす。それだけで彼女の心臓に切なさが走る。「何万回でも何千回でも何億回でも何京回でもそうしよう」潤んだ可奈の下唇を舐めあげ、ふと真顔に戻る。「……さしあたっては。疑問の解消だよねえ先ずは。ぼくがなぜここに現れたってことについて。……何故だと思う?」
 頬の高いところにキスされ、くすぐったさに片目をつぶりつつ彼女は応える。「杉崎さんって、……町田にお住まいなんですか」
「ん、んー」彼の恍惚にぎゅん、と彼女の柔らかなそこが貫かれる。「言わなかったっけえ? ぼく――辛抱強いほうじゃあ、ないって。――可奈ちゃん」
 するう。するぅ……、と。口角までたどり着くとまた戻ってする、するぅ……。
 焦れったい手つきで可奈の潤った下唇を往復する彼の繊細な指の奏でる官能。
 胸をきゅんきゅんさせながら可奈が『感じて』いると、彼の綺麗なかたちの唇が動いた。
「――奇跡」
 え? と彼女は彼に訊いた。「どういう意味ですか」
「ほんとにすごい偶然、なんだよ。ぼくね、……鼻持ちならないセレブだとか思わないでね。成城学園前駅周辺在住。町田の公園は、……たまに来るだけ。場所や雰囲気は大好きなんだけどハッピーな家族連れが多くって切なくてねえ。――ぼくが行くのはみなとみらい。あっちのほうが海、見られるし、なーんか保育園児がきゃっきゃ言って手ぇ繋いで歩いてんの見たことあって癒やされてさあ。ひとりでジョギングしてるひとも多いし中国人もいたりする独特の空気感が気に入っててさあ。そんで。わざわざめんどくさい南武線と東横線乗り換えなんかして行ってみるんだよねえ。東京と全然違うとこ行くほうが、気分転換になりますというか。こと、悩んでくさくさしてるときにさあ」
 優しく頬を撫でられる気持ちよさに蕩ける自己を感じつつ彼女は問う。「じゃあ、どうして……」
「んーなんか今日行きたい気分になったの」至近距離で彼は彼女を覗き込み、「したら――。まさかのまさかだよ。遠目に見ても、髪の色。バッグのいろ。背格好で、すぐに分かった……。
 嬉しすぎて気ぃ失うかと、思った……」
「あたしもです杉崎さん……」まぶたの下を撫であげる気持ちいい動きに身を捩らせる。「あたしも、たまたま、なんか今日急に行きたくなって……。
 先々週は激務をこなす安倍首相のストーキングもとい労う目的で国会議事堂周辺を散策。次の週は新宿のタワレコで『Next One』と『CRAZY EYES』探し求めてました。――違ってたら、あたしたち、会えなかったんですね……」
「うん」彼女の言葉を受け止め彼は笑う。「さっき伏線張っといたんだけど。まだ回収できてないんだね。気づいてる? 『杉崎さん』、って……二回言ったよねえきみ……」
「あ……」彼女は頬を染める。「その。癖で……、なかなか、抜けないんですよね」
「まーこれって役得」うえを向いて彼は笑う。細い顎を引き、「これできみの唇にキスする口実が、できるってわけだ……」
 彼女は首を傾げる。「? 罰かなんかって意味、ですか……?」
 きっぱりと彼は言い切る。「罰じゃない。ご褒美」
 ずいずいと杉崎の顔が迫る。――近い。
「これからきみが杉崎さんって言うたび、……ぼくにきみへの愛を感じさせる、愛の、ご褒美を、ちょうだい……。
 駄目、かな……」
 顔を赤くする彼がキュートで。つい釣られてしまう。「えーと。喜んで」
「へへ。嬉しいな。なんせ……」一旦彼は言葉を切り、「会えるのが785日ぶりなもんで。もんのすごくコーフンしてる」
「……ジュースとか買ってきましょうか」彼女は腰を浮かそうとするのだが、両の肩を押さえられ阻まれる。「だーめ」と。
 ツァラトゥストラならぬ美青年は顔を傾けかく語りき。
「きみが、ぼくを、潤すの。……だめぇ?」
 ――きゅううん!
 とまたあのあれだ。再会してもこの勢いは留まることを知らない。
 くつくつと彼が笑う。「そ。それが、見たかったんだ可奈ちゃん……。
 きみが可愛すぎてぼくのほうがきゅん死にしちゃいそうだよ……」
「相変わらずの口ぶりですね杉崎さん。言っておきますがここ。公園ですよ。そのうち誰か来ますよ? あなた、一社長でかつ女を籠絡する色魔獣(エロティカルモンスター)なんですからそういうこと……ん、んん――!」
 愛に満ちた接吻の最中、髪を丁寧に梳かれ、彼女は蕩けそうになる。
 そしてブレス。
 しかしながら気を張り、強い目線を注ぐ彼女に対し、
「んなこと言う可愛い唇は、塞いじまえ」
「ん――はっ」寸時離されただけでこれだ。首筋をべろべろと杉崎の舌が責める。耳に届きそうな勢いを感じ、たまらず彼女は杉崎にしがみついた。「や――あ。もう! あたし! 感じやすいんです本当に淫乱なんです! だから声……」
 彼の顔が離れていく。彼女は赤くなって俯き、
「我、慢できないん、です……」
「そしたら――どうしよう。会えなかった785日ぶんのキスを、いつ交わそう?」唄うような彼の調子。
 引き寄せられる自身を感じつつ、
「い、ま……」
 はっ、と顔を起こした。
 あとで、と言ったつもりだった。これがフロイト先生の言うところの『言い間違い』。式なんてかったるいって思っている教頭先生辺りが開会式の冒頭で「いまから『閉会』しまーす」って盛大に宣言しちゃうアレだ。『言い間違い』には必ず欲求・深層心理が絡むのである。酔っ払ったときは話が別。ドラマに出てくるやたら滑舌のいい俳優陣も勿論別。
 彼女のなかの反応を楽しむかのように、穏やかな眼差しで彼が彼女を見守っている。口の端を緩めて。――彼は、吟遊詩人だ。女の本音を引き出す恐ろしい魔法の持ち主。バーサーカーの彼女はすぐ手腕に酔いしれてしまう。正直、いくらでも踊らされてもいいくらいだけれど……。
 ああ、と彼女は下を向く。またしてもやられたわけだ。「ノンノン」と顎先を摘まれ、うえを向かされる。準備完了の体勢。杉崎はそんな彼女の唇に甘い息を吹きかけ、
「気持ちよくなる――きみのことを、もっと見せて。
 きみのことを、もっと、教えて。
 きみのことをぼくでいっぱいにしたいんだけど――だぁめ?」
 眉を下げて困ったように笑う。
 周囲の気配、ナッシング。
 目の前には愛する彼。愛おしい彼。785日ぶりに再会する、最愛で最上の色魔獣(エロティカルモンスター)。
 世界中を駆けずり回って怪盗がかき集めた宝石よりも、大切な宝物を彼女は手にしている。――奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。
 以上を総合的に検討した結果。
 どうしようもできないほどの、例えるなら百本以上の薔薇の花に似た想いを、いや、それ以上の、ひょっとしたら人間がなかなか手に入れられない宝物のような気持ちを、動きと言葉で――
「キスして、……真司」
 手を伸ばし、初めて触れる絹糸のような髪を持つ彼の小さな頭を掻き抱き、自ら顔を傾け、精一杯の愛情とともに、表現をした。
 待ち望んでいた愛の交歓は、彼女が目を閉じた瞬間、訪れた。

 ―完―
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