碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第六章 嘘がつけないひとだね

(2)

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 走る。
 ひた走る。
 さっきの百メートル走より全速力でこの中距離を。段に足をかける度に、あとでがくがくするだろうなって意識は働いたけれど私。
 このときを逃したくなかった。
 廊下の暗い奥へ突進して右に折れた段駆けのぼりオレンジの扉を力任せに叩く。
 そこに。
「い、……たっ……」
 息があがるからだが跳び箱されるように折れ曲がる膝を支える手だっていまだ震えている。
 けど。
 目に、線の鮮やかさは残っている。
 それと、詰襟の制服。
 飛行機を追いかけて一瞬、見えた気がした。
 赤い線を、この屋上に。
 肺を押さえ身を起こす。息が、……ままならない。激しい開閉音にも突然の来訪者の荒い呼吸にも黒い背中は動じない。
 風になされるがまま。
 赤い線が空を泳ぐ。舞に纏わるよりも自然なリズムで。
 降りかけて私、気づいた。
 靴下だった。
 内履きを履く間も惜しかった。
 ……私は。
 気になってしまうなんておかしいのかもしれない。
 近づこうとする気持ちが変なのかもしれない。
 でも。
 以前とは違い煙草は吸わない彼の横に、以前と同じように近づいて、みる。
 勇気を伴う。
 付け髭は外されてる。
 ――眼鏡も。
 素顔を晒すその端正な横顔は、
「……何しに来た」
 声色も内容も突き放すものだった。「あの。お詫びと。……お礼を。言いに」
 私ノートのこととかなんにもお礼、言ってない。
 彼はいつも椅子の音が消えきらないうちに教室を後にする。教室だと近寄るなオーラを漂わす。いじれるのって桜井和貴だけな感じだ。
「礼など言われる筋合いがない」
「この前……酷いこと、言ったと思って」
「俺の足のことでも聞いたのか?」嘲る種の息を吐く。「同情されんのは嫌いなんだろ。だったら、」
「誰も。何にも言ってないっ」
「だったら」金網から手を離し初めて向き直る。
「んな顔すんじゃねえ」
 責められてるようで。
 眼光が鋭い。
 私は。
 まともに目を合わせられず。
 学ランの正面素通りして自分の手元を頼る。「……足。気にしてたから。夏に学校で会ったとき、庇ってる感じがして……段上がるときこう、引きずってたし」
 なんでこんなしどろもどろなのだろう。
「みんな、一言も言わないわけじゃなかったけど、言いかけたひとを止めたりしてた」あの小澤さんですらも二回。「触れちゃいけないって空気は感じた。だから、こっそり誰かに聞き直したりもしたくなかった」
 言い訳じみてる。
 弱々しい。
 自己嫌悪を味わう、が。
「よく、……見てんだな」
 感心したトーン。
 それだけで私のなかに、嬉しい、って気持ちが沸いた。
 息を吸う、肺のなかにその空気が満ちる気がした。緑の、におい。下からだ。さっきまで彼が眺めていただろう眼下の景色。群集する瓦屋根、真下の小体育館、右にからだ捻れば体育祭に湧くグラウンド。……このなかのどれを選んでいたのだろう。
「こんな風に。見てるのが私、好きだったの」
「……あ?」
 まぶたを下ろせばすぐにも再生できる。
「マックの二階からいつも眺めてたの」人の流れとか動きを私は。「ガラス窓で百八十度くらいは見えて。正面のジーンズ屋さんに銀行が二つもある大通りを、色んなひとが行き交ってて。同じ高校生でも制服の着方、ギャルやオタクみたく露骨じゃなくっても、趣味嗜好に絡んで違いが出るし。合コン行く直前の大学生は口紅が濃いし、食材買い足しに走るコックさん。あのお店のひと結構な比率で見かけるなあとか。いつも同じ時間にATM寄るスーツのおじさん、不倫しててお札入れ切る前に銀行出てきょろきょろしてるの、周りの視線がよっぽど気になるんだなあ、って思ったり。そういうのずっと眺めてて……こんな人生歩んでるのかなってのを想像した」
 彼の手が金網に触れ、かしゃん、と動いた。
「色んなひとが動いて。働いてて。みんな、懸命に生きてるって気づける……私だけじゃないって思えるから。なんとなく好きだったんだよね」
 蟻みたいな人混みの傍観。
 この町で叶わないことだけれど。
 自嘲的な意味合いを込めて視線を横に流した、つもりが。

 笑っていた。

 彼が、私を見て。
 ほのかに口の端があがる程度。
 かすかに息を吐く程度が。
 それが。
 苦しい鼓動が心臓を叩く。
 さっきの和太鼓よりもよっぽど。
 やばい。
 やばい。
 風穴でも開いたのだろうかそれとも心臓病か?
「夏会った日、学校に退部届を出しに来ていた」胸を押さえる挙動不審な女から顔を戻し、笑みを口許に仕舞うと、
「サッカー部のだ」
 彼は、彼を語る。
 他人を語るにも自分のことであっても彼、表情が変わらない。
「六月の総体で怪我して選手としては使い物にならない。同じ所を何度もやっているからな」
 淡々と事実を述べる。
 その口調がかえって、私には悲しみを助長して聞こえた。
 ふっと下をみやると、「障害物。女子が始まってる。おまえ次、出番だろ?」
「やっば」
 小澤さんの怒る姿が容易に想像できる。すっかり忘れてた。
「私行くね」
「ああ」
 走りだす。
 けど。
 引っかかるものがあって。
 胸の奥に小さな小さなしこり。
 彼、手を軽く振る、またもとの姿勢に戻る。
 独り離れて違うものを眺めるだけの。
 自由でもあり孤独な後ろ姿。

『やってみ?』

 ちょっと前までの自分と重なって見えた。
 ……でも。
 彼、選んでるのだし。
 でも。私。
 気にかかってしまうのだし。
 頭のなかで、放っておけ、と叫ぶ共感性と、なにか声かけてあげたら、と諭す優等生が喧嘩をする。悩んでる時間も惜しいほど時間がない、すぐ行かなきゃ間に合わないのに。
 結論、前者が負けた。
 ドアノブを掴んだところで思い切って叫んだ。
「こんなとこに引きこもってないで下でみんなと見なよっ」
「誰が、引きこもりだ」
 睨まれてる思いっきし。青い冷徹なオーラが見える気がする。
 と顔引きつらせる私に対して、彼は思いのほか、真顔で、
「他に聞きたいことがあれば、和貴に聞け。
 …………
 それから競技」
 以降の言葉はドアを閉めて駆け出した私に聞き取れなかった。


「ほんっとやる気ないんねあんたはっ遅れてきてしかもすぐ取られるってどーゆーつもりやがっ」
「もーあんた落ち着きぃや。都倉さんやて頑張っとってんから」
「あんたやて悔しゅうないんか、都倉担いで走っとったがやろっ」
「んーでもまあ……」
 おにぎりを食べる。
 私も。
 具は豚の角煮。
 空気全般に砂が混じってる感じがする。口のなかがちょっとじゃり、という。
 そんなことよりもちょっと気まずい。
 惨敗だった。
 出場ギリギリに入退場口に着いた私。走り寄ってぜーはー待機列の前方に回り、「遅いわっ!」と一喝されつつ騎馬戦突入。
 秒殺だった。
 息整わないうちに三年生に背後とハチマキ取られた。たぶん最初の敗者だった。「あっち、あっち」と方向音痴な私が闇雲な指示を出しただけで終了。
 足となるひとは状況が分からない、女子担ぐの大変なのに。頑張ってた小澤さんが怒るのも無理はない。というわけでやはり気まずいランチタイムとなった。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
 みんな食べ終わってないけど私一個だけ食べてビニールシートを離れる。
「……便所、小体育館の裏あっからな」
 唐揚げばくつきながら小澤さん。
「うん」
 なんだかんだで彼女親切だ。

 冷たい蛇口。太陽の影にある小さい方の体育館。あんま使わないよって茶髪くんが言ってた。頑張ってうえ向くと屋上がぎりぎり視界に入る。
 お昼前になって姿を現した。
 保健室で寝てた、て単語だけ聞こえた。……田中先生テントの下で日傘差してますけど。
 こんな。
 違うこと考えてて競技に集中せずみんなに迷惑かけてる。
 蛇口を上向きにして口をゆすぐ。思ったより冷たい。下に向けて顔を強く洗う。叩くくらい、水が跳ねるくらい。
 集中しろ。
 しばらくそれしてるとこころのなかもすこし洗い流せた気がした。ポケットからハンカチ出し、洗面台に背をつけて水滴を拭う。

「どったの?」

 目を開く。
 すんごいどアップ。
 近すぎてピントが合わない。
 グレムリンみたいな、
「ふごわっ」
 鼻から息吐いてハンカチ浮いた。
 くはっ、と目の前のひとは笑う。
 驚かしといて愉しむ反応。水平にしてた顔の向きを戻すと、お腹くつくつと押さえて彼、「普段落ち着いてんのにね、なんで変な擬声語ばっか出すんだろうね」
「近いのよ」しっしと払う。
「そのうち病みつきになるよ」
 顔に自信を持つひとならではの発言。
 濡れた小さな水たまりを気にして後ずさりながら、
「暗い顔してるけどなんか、あった?」
 笑顔のまま核心をついてきた。
 浮かぶ、たった一人。
 この後ろのはるか屋上に、残してきた。
 気になるって気持ちを。
 解消された。
 疑問を。
 聞いてしまった。
 聞いてしまったけど……よかったのだろうか。
『和貴に聞け』
 あのひとの声がリフレインする。
 ……私は。
「もっしもーし?」手が。揺れてる。すごく近くに。「どこ見てんのかなー真咲さーん」
 所在を確かめるべく振られる手だった。「まーたどっかトリップしとったよ」
 私はまた行っていたらしい。
 考えごとのできる迷いの森へ。
 後ろ手に触れていた縁から離れ、泥で濡れた場所から離れてみる。
「なんか。悩んでるんなら相談してよ。僕、こう見えても広いよキャパ」
 学園を囲う鬱蒼とした木々。
 後ろから子リスさんの甘い誘惑。
 翠緑の立てる影が、蒼穹の作る光が、そんな妄想を駆り立てる。
 手をかざし葉の間から漏れる太陽を頼ろうと答えは、見えてこない。
「紗優が来たとき元気そうにしとったんに。お昼ごはんにでも当たった?」
「別に」豚の角煮は勿論火が通ってた。
「じゃーなんに。誰に当たったのかなあ?」
 彼。私と木々の間に入ると思索にふける探偵みたく、うろうろと往復する。
「紗優。小澤さん。と取り巻きちゃん。……でもなかったらみやもっちゃん?」
 私の交友関係はなんと狭いのだ。
「じゃあ。マキかなあ?」
 いきなり。
 ずばり言われた。
 肩がびくっと震えてしまった。
 当たりだね? とその瞳が口が微笑む。なんて分かりやすいひとなんだろう自分。
「その。彼から。怪我して、サッカー部辞めたって聞いたの」
 あなたに学校のこと案内して貰った日。退部届出しに来てたって……。
 ため息混じりで正直にこぼした。
「え。聞いたってそれ。マキから? 直接!?」
 透き通る丸い瞳をさらに大きく見開かせてるけど、……そんなに驚くことなのだろうか。退部届のタイミングは別として怪我のことなら私以外の全員が知ってる。
「……ふぅーん」と腕組みをしてちょっときつい目をすると。
「んーマキのことだから片言で全然分かんなかったでしょう。僕が知ってる範囲でよければ。いくらでも彼のこと」

 教えたげるよ。

 笑いかけられたときに私は。
 隠し持つ密かなものを看破された気がした。
 無邪気な笑みを放つ彼が紡ぎ出す、仏頂面の彼の物語。
 私は浮かび上がる動揺を押し抱くようにして、固唾を飲んで言葉を待った。
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