碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第二十章 ある一点において徹底的に

(1)

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「おい」
 呼ばれて顔を起こした。
 声の主はこちらが答える前にかばんを置いていた。私の隣の席に、
「ここ、空いてるか」
「うん」私はすこし寄って声を潜めた。「……珍しいね。マキが図書館来るなんて」
 あっちは埋まっててな、と彼は声量を落とさずに椅子を引く。椅子を引く音量だけには周囲への気遣いが見て取れた。「いつもは長谷川が俺のぶんも取っとくんだが生憎不在でな……あいつがいねえと席が確保できん」
 おいおい。
 早く来て席くらい自力で確保しなよ。
 呆れ目をよこすも、素知らぬ顔してかばんから勉強道具を取り出す。汗をかいた自身を片手で器用に仰ぎながら。マキに不似合いな真っ赤な団扇、ゴールドのスリーセブンが入っているのは……パチンコ屋さんの広告だ。まさか彼が行くとは思えないが。
 パチスロしようとすると親の知り合いに顔が割れてて難しいんだそうだ、彼以外の男子から聞いた。補導されるのは東工に入りたてのイキがってる一年男子くらいのもの。それを恐れて我慢するのも含め、田舎ならではのお悩みだろう。
 私はノートに戻る。
 ……も、口許がほころんでしまう。

 用意しておいて、良かった。

 土曜日だったし。
 念の為とは思った、学校に寄る予定はなかったし、
 なのに、訪れた奇遇。
 弾む気分を抑え、私は長文読解にかかった。

 * * *

「帰るぞ。まだやってくか」
「ううん。私も帰る」

 朝とは異なる空の表情が建物の外に待っていた。ダンガリーシャツの色合いから淡いインディゴに滲む空の色。真夏ならではの分厚い雲、流れないのは風が無いからか。風が吹けばもっと気持ちいいだろうに、この町は絶えずねっとりとした湿気に包まれている。室内の冷房に冷やされ、港町独特の湿度を纏う腕を擦った。寒いのか暑いのか、自律神経がやや狂わされる感じがする。
「こんなに明るいのに、もう七時過ぎてんだね」
 腕時計の文字盤がやや霞がかって見えた。視力がやっぱり落ちている。
「……随分集中してたな。こないだの模試サボった割には」
「サボってなんかないって。あれは、……」
「どうした」
 まともに直視されるとどうしたらいいか、分からなくなる。
 切れ長の、鋭利な眼差しに刺されるようで。
「あのね。これを、……渡そうと思っていて……」
 クラスも違う、勉強場所も違う。
 会える機会が無いから、渡しそびれていた。
 そのためにわざわざ学校に行くのも、負担かけるだけだと思ったし。

 私の想いは、負担を与えるものなのだ。

「なんだ。お守りか?」
 受け取ったそれを天にかざす。かざしてこちらを窺う彼に、私は頷くことで返した。
「……近頃貰うのは合格祈願のものばかりだな」
「だと思って、健康祈願をするものを選んだの」
「開けて構わないか」
 尋ねておいて待たずに取り出す。
 自分が貰ったのだから訊かなくてもいいのに。
 せっかちなくせにどこか繊細な一面を持つ、図体の大きな彼が取り出したのは。
 黄色い、巾着のかたちをしたお守りだった。風水鑑定士が金運アップにいいですよと太鼓判を押しそうないろの。
 マキは私に視線を流し、
「……サンキュ」
 紐を指に絡ませ、胸ポケットに仕舞う。
 そのポロシャツの背中に、私は伝えた。

「お誕生日、おめでとう。マキ」

 八月八日――奇しくも私のちょうど一ヶ月後が彼の誕生日だった。

 聞こえなかったのだろうか。
 信号でもないのに、チャリでよたつくおじいさんが来るのでもなしに。
 銀行の角で停止した、彼は。

「何故、知っている」
「……和貴に聞いたの」

 彼の前で彼の名を出すことが憚られる。
 射すくめるような、生来強い彼の眼差しから、私は逃げるように俯いた。

 どうしてこんなにも後ろめたい。

「……そうか」

 前に戻るマキは、もう私のことを見やしなかった。

「お祝いっぽいこと、なにもできなくてごめんね」
 追いついて言うと、「いや」と彼は顔を振る。
「稜子さんに電話するの?」
「ああ、そうだな」
 同じクラスのブラバンの子からの情報と、以前にマキから聞いた話とで総合すると、彼女は東京の音大を目指している。フルート奏者になるのが夢なんだとか。……一度会っただけの彼女にそこそこ詳しくなってしまった。
 さっきお昼を食べたときに遠距離卒業だね、と笑いかけたところ、ああそうだな、と淡々と頷くばかりだった。
 喜びも交えず。

 うまく、行っていないのだろうか。

 こんな考えが浮かぶのは、別れて欲しいというまさに自分の願望を直視するようで嫌気が差す。
 だから、なるべく考えないように務める。
 代わりに、二人が幸せであって欲しいと思うよう努力する。

 抑制する対象を正視できない、……柏木慎一郎の講義の教訓がなかなか生かせない。
 ときに我慢をし、ときにおもむくままに。後者の割合が減ることが社会的に成熟するということかもしれないし、自制的な大人になるということなのだろう。

「じゃあな」

 足早で、言葉少なだった。
 久々に会った彼は。
 私と距離を置きたがっていると思える、そっけなさだった。

 マキを見ていても、稜子さんの話を振ってみようとも、――以前ほど苦しくはならない。身を焦がす切なさが軽減されている。
 これは、私に耐性ができたせいなのだろうか。
 それとも……

 薄暗さに色彩を落としていく世界を切り裂き、ひかりが走る。三両電車の窓際に、彼の姿を認めた。頬杖をついて参考書を読む、その胸中は彼にしか計り知れない。
 乗客は彼のみだった。
 電車が去り、持て余すような感情と、ひかりの残像に草いきれの薫り。――盛夏の訪れを間近に控えた茫漠が、取り残された。

 * * *

 一九九八年という年は、次々と新しいOSが発売された、パソコンを扱う者にとって激動の一年だった。Windows98がリリースされて間もない本日、米国本国ではiMacが売り出されるんだとか。
 居間の電話が鳴り響き台所から真咲出てくれんかーと祖母が叫ぶ。
 まさに、私の家族も激動の一日を過ごしている。……昔でいえば一家総出で家業に従事してもおかしくはない。川島くんだったら手伝いしてるんだろう、きっといまも。私は勉強に集中できる環境を与えられ、恵まれている。私をあの領域に立ち入らせないのは、自宅外で自分の世界を構築せよという、祖父なりの意志表示なのかもしれない。
 さてのんびりとした思考をよしにし、昔ながらの黒電話の受話器を取る。目覚まし時計の音にそういえば似ている。「都倉です」

 一瞬、の間があく。
 すうと息を呑む、かすかな呼吸が聞き取れた。

「……真咲さん、だね」

 私を真咲さんと呼ぶのは、この世でただ一人。

「か、ずき……元気にしてる……?」

 胸が詰まる。うまく声が出せなかった。

「元気だよー僕居なさに寂しくって毎晩枕濡らしてない?」
「無い。無いよもう……」

 ちょっと甲高いけども確かに男の子だと分かる声。軽口を叩く彼の個性。

 ――電話するよ、真咲さんち。

 あのときの彼の優しい響きが、私のなかに蘇る。

「まだ畑中、に居るんだよね」首を捻り、壁掛けカレンダーの日付を確かめた。ちょうど二週間経ったところだった。「どんな感じなの、ボランティアって。上手く行ってる?」
「いい経験させて貰っとるよ」
 雑音の混ざらない、混じりけのない声が伝わる。随分と静かだ――電話ボックスからかけているのだろうか、或いはアパートの室内からか。
 うちの雑音は聞こえていることと思う。
 受話器に手を添え、私は口許を押さえた。「いつ、戻ってくるの」
「二十日」
 しあさってだ。「あれ、ちょっと伸びた?」
「もすこしこっちで修行しようと思ってさ」

 ちょっとの疲労が感じられるけれども。
 弾んだその声は、充実感に満ちている。

 明るい、太陽のような笑みが目に浮かぶ。
「寂しい思いさせてごめんね。お祭りにはちゃんと間に合うから安心して?」
「……また、お神輿を担ぐの」
「あったりまえじゃん」あれなくしたら緑川に夏は来ないよっ、と声を張り、「とーぜん真咲さんもだかんね」
「でも」

 去年は靴が脱げた。神輿の回転についていけずきゃああと絶叫した。

 和貴が吹き出した。私なにも言ってないのに。
「なによ」
「……なんでもないよ」
「嘘。笑うの我慢してるでしょ。それともオランウータンのほう?」
「ちょ。ま、さきさんそれ以上は」
 本格的に笑い始めた。彼は、

 ――僕が、責任を取る。

 ……とまで言ったのだ。発言がいちいちドストライクで困ってしまった。あれから幾多もの月日が経過している。
 感慨に耽るのは私だけではなかったらしく。

「なっつかしいよねえ。真咲さん、最初の頃さあ相当警戒してたっしょ」
「……だっけ」
 そうだ、うちを訪れた和貴をまったく信用していなかった。
「まさに、借りてきた猫だったよ」紗優も昔の和貴に対して同じ比喩を用いていたと思う。「なーんかそれがかえって構いたくさせるっつうか……」
 いやに、上機嫌だと思う、今夜の和貴は。
 笑いが絶えない。

「記憶にないな……自分がどんなかだったなんて」照れ隠しで私はこうとぼけた。「いまはどんな風に見える?」
「馴染んで隙だらけだね」
 おいおい。
「……駄目じゃん」
「そんなことないよ」また笑う、彼のブレスが受話器越しに伝わる。「知らないうちにいつの間にかすうっと入り込んでくる、それが真咲さんだから」
「……和貴もいつの間にかサイコロジストっぽくなったよね」
「言ってなかったっけ? 僕も真咲さんに影響されてちょっとずつ心理学の本読んでんの」
「え。誰の?」
「ちっちゃい子どもに性欲がありますよーっつうフロイトせんせーの説にはまじでびっくりした。あのおじさんすごいこと言うね」
「幼児のそれは大人のとは違うよ」私は否定した。「異性への関心じゃなくて自分だけ満たされたいという自己完結的な、……ある意味でナルシストな欲求だね。考えてみれば、思春期になって唐突に目覚めるっていうのもおかしな話じゃない? 食欲や睡眠欲は生まれた時からあるのにね。かたちが違うものであれ、潜在的に持っているって考えるほうが私にはしっくりくるよ」
「……キミの意見こそなかなか刺激的だ。うん。詳しく聞かせてくれるかな」

 おかしなほど和貴は関心を示す。
 どうってことのない私の話に。

 不思議なほどに関心が湧く。
 なんだか楽しげに相槌を打ちながらも、自分を語ってくれる和貴に。

「……うわ。ごめん」
 楽しい時間の経過は恐ろしく早い。三十分程度と思っていたのが、「……二時間も邪魔しちゃって。しかも電話代、」
「いいんだそんなのは」早口で遮られる。「僕がずっと、真咲さんの声を聞いていたかっただけなんだから」

 さらっと言うけど。

 首の筋から熱があがる。

 不自然に沈黙が流れる。

 きっと、和貴は頭を掻いている。

「あの。じゃあまた……お祭りのときにね。おやすみなさい」こちらから別れを切り出した。
「おやすみなさい、真咲さん。風邪引かないようにね」
 こんな真夏の盛りなのに。「和貴こそね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ、なさい……」

 電話を切る瞬間が惜しまれる。

 繋がりが絶たれるようで。

 そっと、置く気配が伝わった。

 外ではなく、室内からかけているのが分かった。

 受話器越しにまだ彼の所在が確かめられるようで。

「あんったまーだ電話しとったんかいや」

 居間に戻ってきた祖母に呆れられるまでを。
 私は長電話で熱くなった受話器よりも心臓の辺りから熱が高まるのを感じながら、その余韻を噛み締めていた。
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