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第三十二章 バイバイ、和貴
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紺碧のはるか上空を青白い月が飾り付ける。
どこからともなく薫る、花の匂いに春の気配を感じる。
春眠暁を覚えず。
眠らなくても平気な体質だが、徐々に睡眠が深くなっている。
目前には泣いている紗優が立っていた。
「どうしたの」
「……真咲はほんとに馬鹿や。なして、和貴に言わんかったん」
「やだ、盗み聞きしてたのっ」
大声が出てしまい見回すも、マキとタスクの姿が見当たらなかった。「あれっ、二人は……」
「そっち」
「わっ」
言いながら歩き進み外壁で曲がろうとしたところで、出会い頭にぶつかりかけた。
もはや学習しろ、と彼は諭さず、
「……行くぞ」
と口にしたのが実質、一同への号令だった。
人目をはばからず号泣する紗優に、タスクがハンカチを差し出した。――こんなところまでジェントルマンだ。マキも実は言動が紳士的だが、違うかたちでの表し方をする。
彼の足が、宮沢家へと進んでいた。場所を知っているのが少々意外だったが、以前に和貴の家を訪れたというのなら、それで知っているのかもしれない。
歩いて一分足らず。
行き来するには便利な距離だが、気持ちの整理をつけるには不十分な距離と時間だった。
涙で前髪も横っかみも濡らした紗優は、月夜の淡いひかりを浴び、かぐや姫のように儚げだった。
「マキ、タスク、……元気でな。真咲も、からだに、気ぃつけて……」
姫君は言葉を出すのもやっと、という感じで、私たちがなにか返す間もなくふらふらとした足取りでじゃあな、……と宅の玄関ドアに向かった。
「宮沢さん……!」
呼び止めたのがタスクだった。
「貴女にバレンタインのお返しをしていませんでしたね。受け取ってくれますか」
無言で振り返り、顔に貼りついた髪を分けつつ、紗優がタスクに歩み寄る。「これ、なぁに」
「Elton Johnの『Your Song』です。坂田くんが貴女の誕生日に歌った曲です」
「ありがと。あげたもんに対して高すぎる気ぃするげけど……」
背後でどうしてだかマキが大げさにため息をついた。
「それから、都倉さん」
真摯で、深刻ななにかを思わせるその眼差しに、からだが震えた。
「貴女にも差し上げなければならないものがあります」
タスクが学生かばんに手をかけ、なにかを取り出す。
「……紙?」
小さな紙切れだ。四つ折りに折り畳まれていて、授業で友達と回しあうよりも質素な、……わら半紙、いや、羊皮紙っぽいもの。
まさか、紙をプレゼントされるなんて思わなかった。
戸惑う私の反応を、タスクが薄く笑う。
「なかを、ご覧頂けますか」
その紙切れを開いてみた。
そこには、
「これって……!」
――いろいろな真実がここで結合する。
あの日あのときああだった理由が、この胸に雪崩込んだ。
「これを探すのに苦労しました」
「遅れてきたのって、……学校に寄ってきたんだね。だから制服なの」
タスクが無言で首を傾げるのが回答だった。「……さて」
首を鳴らし、部長らしく超然と、
タスクらしく優雅に、
私に問いかける。
「素知らぬ振りをするも良し。当人に確かめるのもまた一興。さて――どうなさいますか」
「決まってる」
私は顔を起こした。
離すことなどできない紙を胸に当て、
「直接、確かめる……!」
涙があふれるのも構わず。
「そうおっしゃられると思っていました」ふうと息を吐き、とある誰かに似た仕草で片手をポッケに突っ込んだ。「ですが、そんな泣き顔を晒すのは僕ではなく、どうか彼の前だけにしてください」
「なあな、取り込んどるとこすまん。さっきからなんの話しとんの」
割って入った紗優が、私が胸から離す紙を覗き、「わ!」と叫んだ。
今度は低い位置から私に笑いかけ、
「やったやったダンスしてい?」と訊いてくる。
「……どうかな」私も笑って応じ、目許を拭う。
タスクが左に視線を投げた。もう一人の存在――遠巻きに立つ彼のことを視野に捉える。
私は、彼に、接近した。
「……マキ。私、」
「分かってる。行け」
背中で応じる彼が、きらめく彼の言葉の音波が、私の背を後押しする。
「ごめん、……マキ」
これを言うのは酷だと思った、でも言わずにおれなかった。
どんなかたちでも、私を支えてくれた。
最後の彼がどんな顔をしているのか、焼きつけたかったけれど、それは、子どもじみた自分の願望で、あやふやなそんなものに、決着をつけなくてはならない。
甘えきっていた自分にも決別する。
マキも、同じなのか。
ゆっくりと、歩き出す。
「あたし真咲のおばーちゃんとこ電話しとこっか。うち泊まってくって」
「いや」紗優の言葉にマキが答えた。「俺の旅館に、……おまえと学校のやつらで泊まったことにしておけ。宮沢の親と都倉の親は親しくしてんだろ。俺の親ならバレる心配はねえ。宮沢がちゃんと嘘つけんなら、……都倉が家に帰らねえならな」
遠ざかるのに彼の声が近かった。
最後まで思いやりを捨てなかった。その言葉がふさわしいのは、彼だった。
「マキ、……ありがとう」
白い手が闇をひらひらと揺れる。
挨拶なんかしない、ときに無視する彼の、最後の流儀を見た気がした。
私が、彼の想いに応えるなら、
選ばなくてはならない。
同情や哀れみなんかじゃなく、――
私は見守るタスクに礼を言い、紗優にはあとで電話する、と伝えた。
「電話なんかいーって」
「都倉さん! 頑張ってください!」
後ろから後押しする声に加速され、たったひとつの気持ちを胸に、
だから私は走った。
本当のこころの求める先へと。
どこからともなく薫る、花の匂いに春の気配を感じる。
春眠暁を覚えず。
眠らなくても平気な体質だが、徐々に睡眠が深くなっている。
目前には泣いている紗優が立っていた。
「どうしたの」
「……真咲はほんとに馬鹿や。なして、和貴に言わんかったん」
「やだ、盗み聞きしてたのっ」
大声が出てしまい見回すも、マキとタスクの姿が見当たらなかった。「あれっ、二人は……」
「そっち」
「わっ」
言いながら歩き進み外壁で曲がろうとしたところで、出会い頭にぶつかりかけた。
もはや学習しろ、と彼は諭さず、
「……行くぞ」
と口にしたのが実質、一同への号令だった。
人目をはばからず号泣する紗優に、タスクがハンカチを差し出した。――こんなところまでジェントルマンだ。マキも実は言動が紳士的だが、違うかたちでの表し方をする。
彼の足が、宮沢家へと進んでいた。場所を知っているのが少々意外だったが、以前に和貴の家を訪れたというのなら、それで知っているのかもしれない。
歩いて一分足らず。
行き来するには便利な距離だが、気持ちの整理をつけるには不十分な距離と時間だった。
涙で前髪も横っかみも濡らした紗優は、月夜の淡いひかりを浴び、かぐや姫のように儚げだった。
「マキ、タスク、……元気でな。真咲も、からだに、気ぃつけて……」
姫君は言葉を出すのもやっと、という感じで、私たちがなにか返す間もなくふらふらとした足取りでじゃあな、……と宅の玄関ドアに向かった。
「宮沢さん……!」
呼び止めたのがタスクだった。
「貴女にバレンタインのお返しをしていませんでしたね。受け取ってくれますか」
無言で振り返り、顔に貼りついた髪を分けつつ、紗優がタスクに歩み寄る。「これ、なぁに」
「Elton Johnの『Your Song』です。坂田くんが貴女の誕生日に歌った曲です」
「ありがと。あげたもんに対して高すぎる気ぃするげけど……」
背後でどうしてだかマキが大げさにため息をついた。
「それから、都倉さん」
真摯で、深刻ななにかを思わせるその眼差しに、からだが震えた。
「貴女にも差し上げなければならないものがあります」
タスクが学生かばんに手をかけ、なにかを取り出す。
「……紙?」
小さな紙切れだ。四つ折りに折り畳まれていて、授業で友達と回しあうよりも質素な、……わら半紙、いや、羊皮紙っぽいもの。
まさか、紙をプレゼントされるなんて思わなかった。
戸惑う私の反応を、タスクが薄く笑う。
「なかを、ご覧頂けますか」
その紙切れを開いてみた。
そこには、
「これって……!」
――いろいろな真実がここで結合する。
あの日あのときああだった理由が、この胸に雪崩込んだ。
「これを探すのに苦労しました」
「遅れてきたのって、……学校に寄ってきたんだね。だから制服なの」
タスクが無言で首を傾げるのが回答だった。「……さて」
首を鳴らし、部長らしく超然と、
タスクらしく優雅に、
私に問いかける。
「素知らぬ振りをするも良し。当人に確かめるのもまた一興。さて――どうなさいますか」
「決まってる」
私は顔を起こした。
離すことなどできない紙を胸に当て、
「直接、確かめる……!」
涙があふれるのも構わず。
「そうおっしゃられると思っていました」ふうと息を吐き、とある誰かに似た仕草で片手をポッケに突っ込んだ。「ですが、そんな泣き顔を晒すのは僕ではなく、どうか彼の前だけにしてください」
「なあな、取り込んどるとこすまん。さっきからなんの話しとんの」
割って入った紗優が、私が胸から離す紙を覗き、「わ!」と叫んだ。
今度は低い位置から私に笑いかけ、
「やったやったダンスしてい?」と訊いてくる。
「……どうかな」私も笑って応じ、目許を拭う。
タスクが左に視線を投げた。もう一人の存在――遠巻きに立つ彼のことを視野に捉える。
私は、彼に、接近した。
「……マキ。私、」
「分かってる。行け」
背中で応じる彼が、きらめく彼の言葉の音波が、私の背を後押しする。
「ごめん、……マキ」
これを言うのは酷だと思った、でも言わずにおれなかった。
どんなかたちでも、私を支えてくれた。
最後の彼がどんな顔をしているのか、焼きつけたかったけれど、それは、子どもじみた自分の願望で、あやふやなそんなものに、決着をつけなくてはならない。
甘えきっていた自分にも決別する。
マキも、同じなのか。
ゆっくりと、歩き出す。
「あたし真咲のおばーちゃんとこ電話しとこっか。うち泊まってくって」
「いや」紗優の言葉にマキが答えた。「俺の旅館に、……おまえと学校のやつらで泊まったことにしておけ。宮沢の親と都倉の親は親しくしてんだろ。俺の親ならバレる心配はねえ。宮沢がちゃんと嘘つけんなら、……都倉が家に帰らねえならな」
遠ざかるのに彼の声が近かった。
最後まで思いやりを捨てなかった。その言葉がふさわしいのは、彼だった。
「マキ、……ありがとう」
白い手が闇をひらひらと揺れる。
挨拶なんかしない、ときに無視する彼の、最後の流儀を見た気がした。
私が、彼の想いに応えるなら、
選ばなくてはならない。
同情や哀れみなんかじゃなく、――
私は見守るタスクに礼を言い、紗優にはあとで電話する、と伝えた。
「電話なんかいーって」
「都倉さん! 頑張ってください!」
後ろから後押しする声に加速され、たったひとつの気持ちを胸に、
だから私は走った。
本当のこころの求める先へと。
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