碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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最終章 イヤリング。

(3)

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「お誕生日、おめでとう、和貴」
 真顔で受け止めたかに見えた和貴が、ぐにゃり、顔を歪め、――
 腹筋を震わせる。
「なんで笑ってるのよ」
「だって真咲さんさぁ、ずぅっと時計ちらっちら見てるからさあ」
「……十二時びったしに言いたかったんだもん」
 拗ねてそっぽを向く。
「こら。こっち、おいで」
 肩をとんとんノックされる。
 振り向けばぷに、と頬に指を食い込ませるのが、かつての、常だったが、

「来なきゃあこっちから行っちゃう」

「う、わ」
 私は顔を覆った。
 掛け布団を捲り、ベッドを立ち上がり、私の左側に、回りこんでくる。
 いくらなんでも、和貴は裸だ。
 ういしょ、と彼は布団に入り、「なんで目ぇ覆ってんの」
「だ、だって」
「恥ずかしい? 真咲さんのからだなら全身くまなく見たってのに」
 引き寄せられ、彼の腕のなか。
 私は両手を外した。
 一旦、お風呂に入ってからだを洗い流した。勿論別々に入ったけれど、それが無意味なほどに、互いを、抱きしめあっている。いまさらながらに、彼の骨格とか、からだのパーツを素肌で感じ、……
 俯こうとした顎先を摘まれた。

「恥ずかしがってる顔、もっと僕に見せて」

 赤面しつつ顔を起こす。
 私の反応を待つ、彼の真顔に、生まれて初めて、自分からキスをした。

 湯気が立つほど顔を赤くしたのは、和貴だった。
 口許を押さえ、俯こうとする彼の顔を下から覗き込む。
 笑って彼の胸板に顔を埋めた。
 あたたかくって広くって私のことを受け入れてくれる。女の子に生まれてよかったと、こころの底から思う。
 愛しい気持ちが止まらず、気がつけば首筋や鎖骨にキスをしていた。
「どうして――真咲は僕を焚きつけるかなあ」
「……そんなつもりは」
「ナチュラルに刺激するくせはやめてもらいたいよ」
 愛おしくて私は額を擦りつけていた。
 その肩を和貴は掴み、――
「だっからそういうのがさあ」
「えっ」
 乾いた笑いで逃れようとしても逃れられるはずがなく。また和貴に触れる心地よさを知った私は、日付が変わっても結局、和貴の肌を貪り続けた。

 ――だるい。
 なにこの倦怠感。重い。腕が、添えられている。
 寝ぼけてどかしてしまった。
 重いまぶたをあげ、時計の位置を探す。……壁掛け時計。あもう荷物に積み込んじゃった。置き時計を見る。
 九と十二のところに針がある。……うちにこんな時計あったっけ。
 素早く顔を起こし、自分の一糸纏わずの状況を確かめ、
 自分の状況を認識した。
 こんな眠りこけたの生まれて初めて。ってほど初めてじゃないけど。で私が緑川を出るのは十時。
 ――現在の時刻は朝の九時!
 慌ててベッドから飛び出た。
 隣で眠る和貴は、起きる気配が無い。安らかな子どもみたいに、寝息を立てている。
 脱ぎ散らかした衣服を纏い、その彼に近づいた。
 その愛しい頬に触れた。彼が私にしてくれたように、滑らかな頬を包み込んだ。
 私を好きだと言ってくれて、
 全身全霊で愛してくれて、

「ありがとう」

 眼球が眠る動きをしている。一晩じゅうずっと起きていて、疲れたのだろう。
 琥珀色の髪を撫で、薔薇色の唇に唇をそっと重ねた。

「バイバイ、和貴」

 せっかくの誕生日の日なのに、一緒に居られない未来を選んで、ごめんね。
 あなたの傍に居られなくって、ごめんね。

 音を立てず彼の部屋を出、玄関先に転がっていた自分のかばんを掴み、正真正銘。最後の桜井家を出た。
 いまならば、柏木慎一郎の元を去った母の気持ちが理解できた。
 好きだからこそ、愛しているからこそ、自分から離れなければならないときがある。
 立ち去るときは静かに、とこころに決めていた。

 ――愛し愛された余韻に浸る、ドラマティックな時間もゆとりもなく。
 帰ったら祖母がおかんむりだった。
「何時やと思っておるん。わたし、車も持っておらんで送っていかれんのさけ、タクシーでも呼ばなと思って、心配したわ。はよ荷物取ってこんかい」
「……はい」
 生まれて初めて祖母が怒るのを目撃した。

 ――こんな広かったけな、この部屋。
 ほとんどの荷物を残さずがらんどうだった。
 来た当初は荷物に埋もれていた。汚かった。自分なりの城にしようと画策し、そうなった。たった一年半のあいだだけれど、私を育て、生活を見守ってくれた、思い出の場所だった。
 たった一個の家具である、勉強机。そこにはもう花瓶は残っていない。母が、ドライフラワーにしようと屋根裏に干してくれた。しおりにでもしたら送ったるわ、と言った。
 ――障子窓を見れば、柏木慎一郎が訪ねた朝を思い出す。
 母は、柏木慎一郎の奥さんと電話で話した。常識的に考えれば、母は許されないことをしでかした、憎むべき相手かもしれないのに、

『明石の御方みたいな人ってほんとにおるんやね』

 ――柏木の子を産んでくださり、ありがとうございます。

 涙ながらに母に礼を言ったそうだ。
 
 ひととしての格が違う。とそう母は漏らした。

 明石の中宮におのれを重ねるのは図々しい気がするから、柏木と女三の宮の子である薫大将にでも自分を重ねようか。性別も美のステータス値も違うけれど、奇遇にも父の名は『柏木』さんだし。
 すると木島の父はさしずめ黒髭の中将といったところか。
 醜男で髭が濃いし。
「真咲、はよせんかっ」
 要らぬ妄想をしていると階下から叫ばれた。――そう、時間がなかったのになにをのんびりしているのか。急いで部屋を出ようとしたが、一旦立ち止まり、
 扉を閉める前に、礼をした。

「一年半のあいだ、ありがとうございました」

「バスんなかで食べたら酔うてしまうかもしらんな。ほんでも空きっ腹で乗るよりかましやろ。おにぎり。食べておきなさい。駅着いたらでも構わんさけ。水筒やと荷物重たなるしペットボトル、買っておいたわ。あとな、酔い止め。忘れんと、飲んでおきなさい。ほれ」
 早口で言う祖母から受け取り、口に含む。
 ミネラルウォーターを返すと、私は肩をすくめた。「なんだか子どもみたいだね」
「子どもっちゅうかうちの大切な孫やわ……」
 祖母の目に涙が浮かんでいることに、私は気づいた。
 しわだらけの手が、私の髪を撫でる。「……ちっさい赤ん坊やと思うとったがに、いつのまにこんな大きなってんろうねえ」
「背が学年で一番低いし、全然伸びる気配ないよ」
「あんったは、もう……」
 抱き寄せられ、私は目を閉じた。「私ね、……この家に来たとき、お母さんを恨んだ。向こうでの生活が恵まれてたのに、なんでこんな田舎に連れてきたのか。だいっきらいだと思った。幼い頃数回訪ねただけの、おじいちゃんおばあちゃんとも住むの、抵抗、あって。……でも」
 顔を起こし祖母の細腕に触れた。
「この手でいつも支えてくれた。こころを開けばみんな、……腕を広げて待ってくれていたのにね。ずっと、気づかなくって、ごめん。
 ……おばあちゃん。離れていても家族であることには変わらないから。短いあいだだったけれど、ありがとう。お世話になりました」
「嫁にでも行くんかいや」祖母が泣き笑いをする。ぼろぼろの泣き方に思わず笑いながら、ペットボトルとおにぎりをボストンバッグに入れ、そのボストンバッグを手に取り、さっきまで下げていたかばんを肩にかける。
「駅まで送ってくわ」祖母が急いだ様子でつっかけを履く。私は笑って振り返り、
「駅まで一人で歩きたい気分なの。おばあちゃんは留守をよろしくね」
 ――まったくこの子はもう。
 呆れ声を聞きつつ、立てつけの悪い扉を開いた。
 そのまま閉じれば簡単に終わるストーリーだった、のだが。

「真咲。――蒔田くんちやのうて泊まったん、桜井さんちやってんろ」

 扉の隙間から顔を覗かせた祖母に反応したのがいけなかった。
 どうしてそれをっ、なんてワイドオープンさせれば誰にでも嘘がバレる。
「やぁっぱりそうながね。……じいさんたちには内緒にしておくわ」
 うっしっし、と笑う祖母にちょっと呆れた。「流石、……長生きするよおばあちゃん。クロレラと養命酒と青汁とローヤルゼリーを愛飲してるだけのことはあるね」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 扉を私は自分で閉めた。内側から鍵のかかる音をちゃんと聞いた。
 同時に、自分の、和貴への想いに鍵をかけた。

 ――さあ、行こう。

 新しい未来へと私は歩き出した。
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